クジラに関する錯誤
Rが鏡の前に立つと、鏡に映し出されたのはFであったが、Rはそんなことおかまいなしに鏡のシミを見つけた。シミはクジラの上に漂う気球のようなものだった。Rはそのシミを落とそうと袖で拭いてはみたが、いっこうに落ちそうになかった。気球はくすぐったいのか、もぞもぞと身震いした。
そうして、Rはようやく鏡の中のFに気がついた。別段驚くでもなく、Rは言った。
「久しぶりらしいな」
「そうらしいな」
「そこに存在し始めてどれくらいだ」
「長いさ。ミドリムシが見上げたバオバブくらいかな」
「そうか」
「そうだな」
「そろそろ出たいか」
「そうでもないな。慣れてしまったからね。君が鏡の前に立たなければ、僕は不存在でいいのだしね」
そう言いながら、Fは内側からシミをこすった。シミは落ちなかった。
「……出してやるよ」
そう言い放ちながら、Rは鏡に拳を思いっきり当てた。鏡は割れた。
鏡の割れ目から、たいそう大きなクジラが海水とともに飛び出した。Rはずぶ濡れになった。