変わらないいつも
リビングでコーヒーを飲みながら、栗木葉子はテレビを見ていた。見ているのは、夫・栗木洋一の、つまり上昇気流のレギュラー番組だ。夫は常々、自分たちみたいに苦労して下積みしている若手たちが大勢いる、そいつらを日の当たるところに出して成功のきっかけをつかませてやりたいと言っていた。この番組は様々な芸人達を呼び、ネタを披露させ、上昇気流含む現在活躍している芸人たちがアドバイスをするという内容だ。したがって、この番組は夫の想いが現実化したものなのだ。そのせいか、番組内の夫はいつにもまして活き活きとして見える。
『はい!お時間がきてしまいました~!』
『芸人発見伝、また来週お会いしましょ~!』
番組が終わり、葉子はテレビを切った。
いつからだろう、と葉子は最近思うようになった。葉子と栗木が出会ったのは、栗木のコンビ、上昇気流が売れ始めたころだった。栗木が葉子の働いていた喫茶店の常連となり、親しくなり、四年の交際を経て結婚したのだ。結婚したての頃は、毎日が新鮮だった。夫が出演する番組は全部チェックしたし、番組内で夫が妻である自分の話題をするたび、気恥ずかしいようなくすぐったいような、それでいて嬉しいような甘酸っぱい気持ちになったものだ。家にテレビでよく見た有名人が訪ねてくることもあって、夫の凄さが誇らしくもあった。それが最近になって、なんとも思わなくなってきたのだ。一般の人からすれば刺激的な毎日も、二児をもうけ、子供たちが大きくなるころには当たり前の日常になっていた。こういうのをマンネリ化っていうのかしら、と考えたこともあるほどだ。もちろんこれはマンネリ化などではなく、ただ単に慣れてしまっただけなのだろうが。上の子は今反抗期なのか、仕事でなかなか家族の時間をつくれないでいる夫に反発ばかりしている。もっぱら、それが葉子にとっての日常の刺激になっていた。
ところが、最近の夫はますます家にいることが少なくなった。いつもより仕事から帰ってくる時間が遅くなり、せっかくの休みの日も出かけることが多くなったのだ。別に仕事から帰ってくるのが遅くなるのは構わないのだが、休みの日まで出かけてばかりだと、もっと家のことをやってほしいだとか、もっと子供たちとの時間をつくってほしいだとかいった不満がつのった。急に忙しくなった理由を夫がはっきり言ってくれないのも不満の理由になった。
「…………。」
もしかして、と葉子は思った。
(考えたくはないけど……まさか、浮気……?)
ふとした疑惑は、急速に葉子の心を占めていった。別に夫が女好きなどではないことは葉子自身よく分かっていた。しかし、人間生きていれば心の迷いなどいくらでもある。確かめたい気持ちと、事実を知ることへの恐怖が葉子を襲った。
「ただいま~。」
玄関から、夫の声が聞こえてきた。今日は珍しく帰ってくるのが早い。きっと表情に出てしまっているであろう疑いの心をなんとか落ち着け、葉子は玄関へと向かった。
「おかえりなさい、あなた。……あら、南野さん!」
「どうも、奥さん。おじゃまします。」
「急で悪いなぁ……飯、もう一人前追加できるか?」
「えぇ、すぐ用意しますわね。」
「そんな、お構いなく……。」
「あがれや、ナンノ。……あぁ、飯は俺の部屋でとるから、そこまで持ってきてくれるか?」
「え……えぇ、分かったわ。」
「おいおいグリ、そりゃ奥さんに悪いで……!ええです、俺取りに行きますんで。」
「いいんですよ、お気になさらないでください。南野さんはお客様ですから、ゆっくりしてってください。……そうだわ、あなたが取りに来てくださいよ。あなたのお客様でしょう?」
「そやな……間とって、俺が行くわ。ナンノ、俺の部屋で待っとれや。」
「お、おう……なんか悪いなぁ。」
南野は夫の部屋へ、葉子はキッチンへと向かった。夫は葉子の後ろについてくる。葉子が夕食の支度をしている間、夫はコップだのお茶だのを用意していた。
「ねぇ、あなた。」
包丁の音で脈打つ心臓の鼓動を誤魔化しながら、葉子は己の抱く疑問をぶつけてみることにした。しかし相手は、トークを一種の武器とするベテランの域に入る芸人。そう簡単に話してくれるとは葉子自身思っていなかった。
「なんや?」
「あなた、最近帰りが遅いけど……お仕事忙しいの?」
「……まぁな。ほんでも、忙しいいうんは俺らの実力が認められてるーいうことやで、芸人である俺らにとっちゃ嬉しいことやねんけどな。そん代わり、あんま家におられへんくてすまんなぁ……。」
「いいわよ、多少遅くなったところで変わらないもの。でも、お休みの日まで出かけるじゃない?今までそんなこと一度もなかったのに……。」
そう言った瞬間、夫の動きが一瞬止まったのを葉子は見逃さなかった。しかし、夫は何事もなかったかのように葉子を手伝っていた。
「それは……あれや、ナンノとネタ合わせしたりとかしてんねん。最近忙しなって、いろいろナンノと打ち合わせしたりすることも増えたんや。なんや、どうしてそんな気になるん?」
「いやね……最近あなたが出かけてばかりいるものだから、浮気でもしてるんじゃないかって思って。」
葉子はわざと冗談めかしてそう言った。夫は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑い出した。
「な、何言い出す思たら……!う、浮気かいな!」
「何よ、笑い事じゃないわよ!夫婦なら一度は疑うことじゃないの!」
「そ……そう怒るなって。う、浮気ね……あー、笑った。心配せんでええ、浮気なんかせーへんよ。葉子かて、俺がそんな女ひっかけまくる男やとは思てへんやろ?」
「さぁ……どうかしらね。」
「なんやそれ。」
疑いが完全に晴れたわけではないが、葉子はひとまず安心した。夫がなにやら隠し事をしているのは確かだが、女の影はとくに見当たらない。変に疑うのはやめよう、と葉子は思った。
(そういう微妙な空気、子供たちは敏感に感じ取るっていうし……。)
「ん、悪かったな、急に二人前作ってもらって。あんがとさん。」
「お吸い物は、あとで持っていくわね。温かい方がいいでしょう?」
「おう。」
夫は夕飯をふたり分持ち、二階の自分の部屋へと戻っていった。
お吸い物をお盆に乗せ、葉子は二階へと上がっていった。見れば、夫の部屋の戸が少しだけ開き、光が漏れていた。小さな話し声も聞こえてくる。葉子は思わずしのび足で近づき、聞き耳をたてた。
「それにしてもな……今時、ひどい親もいたもんや。」
「そやなぁ……あんな小さい子公園に置き去りにするとか、正気の沙汰やないで。」
「どうしようか、ほんまに……。いつまでも俺らふたりだけでどうこうできるわけやないし、なんとかせなな。ヒトリの、気持ちも考えたりたいし。」
(ヒトリ……?誰なの、ヒトリって……。)
葉子の思いもよそに、ふたりの会話は淡々と進んだ。
「せやけどグリ……なんか手ぇ考えてるん?」
「……なんも、思いつかん。そういうナンノは?」
「……俺も思いつかへんわ。そう簡単に最善策が出るような問題とちゃうし、しゃあないとは思うんやけどなぁ…。周囲の奴らにバレんのも、時間の問題やろしな。」
「せやかて、”周りにバレたらあかんでお別れしようや”なんてヒトリに言えるかぁ?」
「分かっとるっちゅうに、そないなこと……。そんなこと言えへんもんで、今悩んどるんやないか。……いっそ、そんなん言えるくらい冷酷やったらよかったんにな……。」
葉子は、意を決して部屋の戸を開けた。
「あなた……。」
「!おう、葉子か。わざわざすまんな。」
「すいません、奥さん。」
「いえ……あの、あなた……。」
「ん?」
夫の面と向かって視線を投げかけられ、葉子は言葉に詰まった。聞くべきか否か迷ったのだ。ふたりの会話から深刻な様子が感じ取られただけに、安易には踏み込めないものを感じたのだ。
「……いえ、いいの。なんでもないわ。」
「?なんや、おかしなやっちゃなぁ。」
「ストレス溜まったときのお前の珍行動に比べたら全っ然マシやで?」
「なんやとコラ。」
「サルは野生に帰れやーーー。」
「棒読みで何言ってんねんお前!シバいたろか!?」
「ごめんごめん、訂正するわ。サルやのうてゴジ…おぶぅっ!」
「次ふざけたことぬかしよったら、今度は腹殴るだけで済まされへんで……?」
「……お前めっちゃマジやん。目ぇ笑てないもん。怖いわ~、ごっつ怖いわ~。」
「……ナンノ、歯ぁ食いしばれ。」
「ちょっとあなた、やめなさいよ……!すいません、南野さん。」
「ええですよ、こいつのMVには慣れてるんで……。」
「殺す。」
「あ~やめて~襲われる~!」
「ええ加減その軽い口閉じろや!ホンマに殺すぞ!?」
「やめなさいってば……!!」
結局、なんやかんやでこの話はうやむやになってしまった。詳しく聞くチャンスを逃してしまった葉子は、しばらくこの問題には手を触れずにおこうと決めた。