出立
夜の水田は美しい。まばらな街明かりを映し出し、足元に星空が広がっているかのよう。ズラリと並んだ街灯や橋の灯りは天の川、信号の点滅は星の瞬き。やっと残業を終えての、夜の景色は本当に素晴らしいものだ。車中が「美しい空気」で満たされる。
水田のただ中にある、無人駅に電車が停まる。夜の景色と不釣り合いな光源は乗客の顔さえハッキリ照らす。もちろん「足元の星空」にも電車は映されるが、それはいよいよ不格好で、醜いとさえいえるものだ。今まで車内にあった「美しい空気」は何処かへ吹き飛んでしまった。明日は始発の新幹線に乗らなければならない、その事実を思い出すと、気分が滅入った。
帰宅して旅行鞄をドアの前に置く。新幹線の切符を確認する。何度確認してもやはり、明日の日付と始発の時間は変わってない。この数字は動かしがたい事実として印刷された、運命は決まったのだ。ならば眠りに就くまでの僅かな間、明日の事は一切考えないようにすべきなのだ。
シャワーを浴びて、パソコンの前に座って、弁当を食う。酒を飲みながら。パソコンの画面には幾らでも愉快なものが映し出され、酒は飲めば飲むほどいい気分にさせてくれる。もうすぐ日付が変わりそうだった。おっと、もう寝なくては。明日に備えて。明日はそう、始発の新幹線に乗らなくてはならないのだ・・・
コップ一杯の水を飲んで横になる。私は旅行の前の夜眠れない質だ。加えて酒を飲んでいる。酒を飲んだ夜はいつも夜中に目が覚める。なおさら眠れそうにない。旅行の前はいつもこうなってしまう。とにかく横になる。その夜は調子が良かった。体感40分後には眠りに就いたのである。
ビュウウウ!。3:00。とんでもない風で目が覚める。確かに強風注意報が出ていた、予報通り、悪いものほどよく当たる。新幹線は動いてくれるだろうか。とはいえ、無人駅を走るような電車ならまだしも、新幹線がこれくらいの風で「運転見合わせ」にならない事は分かっている。目が覚めたついでにトイレに行き、再び横になった。酒には利尿作用があるのだった。
4:00。イヤな気分で目が覚める。夢を見た、覚えていないがロクなものではないだろう。さっきと今のを合わせれば4時間眠ったことになる。最低限の睡眠はとれた。あとはどれほど伸ばせるか、睡眠時間が長いほど人生は、旅は楽しいものになるはずだ。さっきまでの風は止み外はウソのように静かである。
酒もだいぶ抜けてきた、ここから熟睡できるに違いない、そう思った矢先また風が吹いてきた。ビュウウウ!ガタガタガタ!あっという間にさっきよりも強い風、暴風ともいえるものにまでなる。安アパートが地震みたいにグラグラ揺れる。これは充分
「運転見合わせ」になるレベルのものだ。以後、寝なくてはならない焦り、「運転見合わせ」、イヤな夢、が交互に訪れ、入眠と覚醒を繰り返したのだった。
パチリと目が開く。枕元のスマホのアラームがそろそろ起床時間を報せようとしていた。何とも忙しい夜だったが合計すれば5時間は眠れた。悪くない。アラームが鳴る。もう起きなくてはならない。さあ、体を起こす。起き上がると今までにない虚脱感に襲われる、身も心もクタクタだ。部屋から出る事さえ億劫である。だからといって運命を変えることは出来ない。着替えをして、旅行鞄を手に取り、ドアを開けた。外はやたらと眩しかった。私の出不精とは裏腹に、新幹線はちゃんと時間通りに出発してくれた。
‐‐‐旅は楽しかった。後悔はない。新幹線を降りて空気を吸い込むと、帰ってきたと実感する。駅の駐車場に停めてあった車に乗り込む。真っ暗な田園地帯に「足元の星空」はあったはずだが、旅の反芻に忙しく、平凡な夜景としか思えない。「また旅に出たいか」いま問われれば迷わず「いいえ」と答える。しかし同じ問を一年後にされれば「はい」と答えるだろう。どうしても年に一度は都会の空気を吸いたくなる。それを毎年繰り返しているわけだ。
アパートに着いた。旅の終わり。車を降りる、ゲロゲロゲロゲロ、カエルたちの大合唱が耳に飛び込んできた。凄まじい音圧だ。暴風のあとカエルたちは活動を始めたらしい。道路向かいの水田に満月が映し出される、「足元の満月」だ。私の僅かな留守中に、季節と天体は確かに運行していたのだ。
不意に尿意を催す。道路を渡り水田へ排尿した。驚くべきことに、それに呼応するかのように、カエルたちはさらに音量を上げたのである。ゲロゲロゲロゲロ!




