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9 エッセンシャルワーカー(2)

僕は鞄からチラシを取り出した。朝に大学の最寄り駅を降りたとき、突然声をかけられた。


なにごとかと思う隙もなくすかさずチラシを渡されたのだった。


駅前では拡声器越しに大音量の声が飛び交っており、選挙の立候補者が演説をしていた。

もっとも、演説は聴講者がいてこそ成り立つ。駅前の人々は皆先を急いでおり、誰一人声を聞いてはいなかった。


日常的に考えていないような事柄について、突然大声で訴えられても意味がわからない。

誰も受け取っていないチラシを申し訳程度に受け取ったのだった。そのまま捨てるのもはばかられるので、とりあえずパソコンのキーボードの上に置いた。


洗面所で顔を洗ったらしい真吾が研究室に入ってくるなり、そのチラシを手に取った。


自分の興味のあることにしか頭を働かせない真吾のその行動が意外だった。


僕は真吾に言った。


「駅前で選挙活動していた。そのチラシ」


真吾は「これ、読んだ?」と言うので、僕はまだだと答えた。


僕の答えを待つ間もなく、真吾はチラシをゴミ箱に突っ込んだ。


「おいおい、まだ読んでないんだけど」


と僕が言うと、


「どうせ読まないだろう」


と真吾が返してきた。


「読まないし、読まなくていい」


真吾はそう言って、昨日の続きに取り組むべくパソコンの前に座った。


「一応選挙だし、少しは興味持った方がいいだろ」


と僕は言った。


「駅前にいた人で、どのぐらいの人が真剣に聞いてた?」


「まあ、そう言われると、誰もいなかったけど」


「朝の忙しい時に話しかける方がどうかしている。立候補者もはじめから聞いてもらいたいなんて思っちゃいないだろ。単純接触効果を狙って、票を稼ごうとしてるんだよ」


真吾はカタカタとキーボードを打ちながら続ける。


「それならいっそのこと『みなさん聞かなくて良いから、一票下さい』とでも言っていればいい。正直な方が聞いていて気持ちいい。朝だし。いやむしろ『一票入れてくれるなら朝の演説は止めます』と言った方が票を入れてくれるかもな」


と強烈な批判を入れていた。


「そういうものかなあ。選挙の投票率が低いって聞くし、少しでも興味もってもらいたいんじゃないの?」


「誰が何を目的として投票率が問題だって言っているかによるだろう。お前は投票に行くのか?」


そうやっていざ言われると、誰が良いかも分からないし、面倒な気がしてくる。


生活の不満がこれといってあるわけでもない。海外に目を向けると大変そうな国ばかりで、むしろ日本は今のままならなんでもいいと比較してしまう。


「いや、結局行かないか。ウェブで投票が出来るようになれば投票するだろうけど」


「お前は随分脳天気だな。それなら与党はいつまでもウェブ投票にさせないだろ。今の政治は国民のバカなりの社会を反映した鏡だ」


「なら真吾、お前は選挙に行かないのか?そうやって言うならそれこそ投票した方がいいだろう」


「行かない」


「時間の無駄とか言うのか?」


真吾はキーボードを打つ手を一瞬止めて「おれは日本を出るから」と言った。


「それはいつの話だよ。誰もが日本を出てどこかの国に住めるわけじゃないんだから。どんなに国の状況が悪くなっても残らないといけない人もいるんだよ。お前が前に言っていたエッセンシャルワーカーの人は大抵がそうだろ。そういう人に対して不誠実じゃないか?」


「それは、そいつらが悪い。実力がないからそういう仕事に就いてるのだから。おれはどこでも仕事が出来る。状況をみて、上手く立ち回らなきゃいけないんだよ」


そういわれて、それは正論だけれど間違っていると指摘したかった。


でも上手く言い返せなかった。


言い返すのは看護師になりたいという高良さんの気持ちを代弁したいからだろうか。


一度落ち着くために椅子に座ろうとすると、なにかを踏んだ感触があった。

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