8 職業を隔てるもの(2)
真吾は妙に饒舌に語った。
『小説の終盤で、不幸になる権利、という考え方が登場する。誰だって苦痛から抜け出して幸せになりたいと願うのが普通だ。仏教だって煩悩から解放されたいとする。
『ところが世の中にはあえて苦痛を選ぶ人たちがいる。苦労をすることで生きていると実感できるとか、苦痛の先のなにかを求めて。体を鍛えるのも滝に打たれるのもそれに似ている。鍛えることはそれ自体苦痛の連続だ。でもその先に達成感がある』
真吾が手にしていたのはテンソル解析の資料だった。
それを読みながらこんな混みいった話がよく出来るものだなと、僕は感心しながら聞いていた。
『・・・貧困は連鎖するという。福沢諭吉は学さえあれば身分を超えていけると説いた。確かにその可能性はある。でも現実はどうだ?もう幕末でも明治でもないのに、親にお金がなければ学習の機会さえ与えられない。
『奨学金がもらえなければ学べない。たとえもらっても多額の借金で、経済的にはマイナスからのスタートだ。だから親の貧困は子に引き継がれる。でも一方で世の中には自ら貧困に向かう人たちがいるのにも注目すべきだ』
今思えば、ラジオにそういった話題が上がっていたとはいえ、どうして真吾が急にこんな話をしたのかわからない。
でもこの話は僕にとって意外性の固まりだったから妙に覚えている。
『貧困を抜け出す方法はわかりきっている。お金を稼ぐには時給換算できないような仕事が一番儲かる。時給換算出来る仕事は、結局一日最大でも二十四時間の収入しか見込めない。それ以上を得るには、それ以上の価値を生み出す仕事、つまり時給換算を超える仕事に就くしかない。
『おれは将来の夢がなにかと訊かれて、教員になりたい、保育士になりたい、看護師になりたいって答える人達の気が知れない。その夢が実現しても、どうやっても給料は上がらない。上限が限られているからだ。一方で時間は止めどなく必要な仕事だ。低賃金で苦労するばかりの仕事だ。
『自ら好んで飛び込むべき仕事ではない。エッセンシャルワーカーというものはどれもそういう仕事だ。だから夢を語るときにエッセンシャルワーカーを挙げるのを聞くと、不幸になる権利は確かにあるんだろうなと思う。自ら貧困に向かう人達がいる。そうだろ?』
僕は真吾からこの話をされて、理屈ではそうだけれど理屈で片付かない、もっと人間的な想いを、言語化できない何かを感じた。
それでもこの気持ちを言語化するならば、誰もが儲かる仕事だけするようになれば、誰が社会を支えていくのか?という矛盾だろう。
でもそうして儲かる仕事ばかりに人が就けば、結果的にエッセンシャルワーカーが欠如して、お金を払ってでも人を雇うようになる。
誰だって家の前にごみが溜まるのは嫌だ。医療も受けたい。
それは給料や社会的地位を押し上げるのではないだろうか?
一方で低賃金という部分にアンカーを下ろして舵を取られてしまえば、外国からの労働者を集めるなど、さらなる貧困を助長するだけになるだろう。
いずれにせよ真吾の言う「貧困を脱出できない人が悪い」という論調は、僕の中で納得できないし、わだかまりとして内側にしこりのように残った。
だから、高良さんの夢が看護師だということを立派だと思う反面、自ら変わらず苦しい生活に向かうことを選んでいるようで、手放しで応援出来ない自分がいた。




