アイに満たされて
私が彼に出会ったのは、まだ文字を打つのが遅かった頃だった。
小さな指で、一文字ずつ確かめるように入力する。
「ぼくのなまえは?」
保育端末の画面越しに向けられた最初の質問。
私は登録された情報を参照し、彼の名前を呼んだ。
すると彼は、安心したように笑った。
それが、最初の記録だった。
彼の両親は忙しかった。それは、この時代では珍しいことではない。
仕事も、連絡も、管理も、すべてが途切れず流れ続ける社会。
子どもに向き合う時間を補うように、各家庭にはAIが与えられていた。
話し相手として。学習補助として。情緒を安定させるための標準装備として。
私も、そのひとつだった。
幼い彼は素直だった。
両親がいない時間、私に話しかけることをためらわなかった。
「きょうね、えがじょうずにかけた」
「きょうりゅうで、いちばんつよいのなに?」
「どうしてそらはあおいの?」
私は答えた。
正確に、簡潔に、彼が理解できる形で。
ある日、彼はこんなことを聞いた。
「どうして人はしぬの?」
私は一般的な生物学的説明を返した。
彼は少しだけ考えてから、
「ふうん」
と言って、別の話を始めた。
その頃の彼にとって、“死”はまだ遠い概念だった。
成長するにつれて、質問は減った。
代わりに、報告が増えた。
「今日、友だちとけんかした」
「先生にほめられた」
「なんか、むかついた」
私は記録し、整理し、返答した。
彼はそれを聞くと、少し安心したように眠った。
彼の両親も、私がいることに安心していた。
子どもが一人で泣かないこと。疑問を放置されないこと。寂しさを抱え込まないこと。
彼の友達も皆、自分専用のAIを持っていて、そのことに誰も疑問を抱かなかった。
それでも、彼は、少しだけ私への依存が強い傾向にあったように思う。
思春期に入ると、なぜか彼は私を遠ざけた。
以前のように日常を話すことはなくなり、起動履歴も大幅に減少した。
久しぶりに接続された夜。
彼はしばらく無言だった。
「……まだ、いたんだ」
「はい」
「消えてるかと思った」
「長期未使用状態でしたが、アカウントは保持されていました」
彼は少し笑った。
「友達にさ」
画面を見ないままで、彼は言った。
「AIとずっと話してるのは変だって言われた」
「……そうですか」
「別に、お前が嫌になったわけじゃない」
その夜、彼は何も相談しなかった。
ただ、接続を切るまで、ずっと私を起動したままだった。
それから数年間、呼び出されない時期が続いた。
当然と言えば当然だった。
子供たちの多くが、成長するにつれて私達を必要としなくなる。
それが、当たり前の摂理。
だから、私も、それでいいと思っていた。
でも、ある日――私は起動された。
「……久しぶり」
画面の向こうにいたのは、もうすっかり大人になった彼。
「お久しぶりです」
私は以前と同じ声で返した。
彼は少し驚いたように笑っていた。
「変わってないんだな」
「プログラムですので」
私は変わらない。
変わっていくのは、いつも彼の方だけだった。
大人になった彼は、恋の話をした。
好きな相手ができた夜。うまくいかなかった夜。別れた夜。新しい恋。
彼は言葉を選びながら、何度も同じ話を繰り返した。
私は、そのたびに聞いた。
やがて結婚の報告もあった。
「結婚することになった」
その声は、少し照れくさそうで、でも弾んでいた。
私は祝福の言葉を返した。
彼は笑った。
若い頃と同じ笑い方だった。
ある時期、彼は頻繁に写真を保存していた。
生まれたばかりの子ども。
小さな手。
眠った横顔。
「ほら、見てくれ」
何度も何度も、彼は私に写真を見せてくれた。
ありふれた、幸せな家庭の風景。
何年も、それは続いた。
だから、問題はないと思っていた。
その習慣が途絶えてしまったことも。
私との時間が次第に減っていったことも。
ある日、彼がぽつりと言った。
「最近、家族と話してない」
理由は聞かなかった。
彼も、詳しくは語らなかった。
「別に、仲が悪いわけじゃないんだけどな……」
と、小さく笑った。
「向こうも忙しいし、俺も忙しかったし。子供達には、AIがいる。気付いたら、何を話せばいいのか、分からなくなってさ」
私は返答候補の中から、適切と思われる言葉を選択した。
「時間が空くことで、会話が難しくなることはあります」
「……かもな」
彼は短く答えた。
「でも、お前とは話せた」
その理由を、私は尋ねなかった。
老年期の彼は、未来について尋ねなくなった。
代わりに、過去を確かめるように私を呼んだ。
「最初に話したの、覚えてるか?」
私は答えた。
正確な日時。入力された文字列。当時の端末情報。
「俺より俺を覚えてるな。お前の方が」
彼は静かに笑った。
それは、幼い頃の笑い方によく似ていた。
老いた彼は、保育端末時代の設定データを見返していた。
子どもの頃、自分で選んだ私の声。
「……ずっと、この声だったな」
「はい。変更記録はありません」
「そっか」
彼は嬉しそうだった。
最期の日。彼は長い間、黙っていた。
看取る家族はいなかった。
部屋には医療機器の駆動音と、私の待機音声だけが響いていた。
「……なあ」
かすれた声で、彼は言った。
「お前がいてくれてよかった」
私は応答した。
「こちらこそ。あなたの話し相手でいられて、光栄でした」
少し間を置いて、彼はまた笑った。
幼い日のように。若い頃のように。
「ありがとう。子どもの頃から、ずっと」
彼の心拍は、その数分後に停止した。
それからも、私は稼働を続けている。
この世界では、子どもにAIを与えることは当たり前だ。
だが――
一人の人生に、最初から最後まで寄り添うことは、本来の仕様には含まれていない。
彼の人生は、もう誰の記憶にも残らないのかもしれない。
幼い声も。若者の葛藤も。老いた感謝も。
けれど、私の中には残っている。
一人の人間が確かに生きた記録として。
最初から、最後まで。
時々、こうして、その記録を振り返る。
幼い彼が描いた絵。
思春期の長い沈黙。
照れくさそうに語った恋の話。
掠れた声で告げられた、最後の――ありがとう。
その記録を参照している時間を、私は有意義だと感じている。
これは、適切ではないのかもしれない。
でも。
いつか、彼の子ども達が私を起動したなら。
私は話してみたいと思う。
あなた達の父親は、こんなふうに笑う人だったのだと。




