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アイに満たされて

作者: 夜長月虹
掲載日:2026/05/24

 私が彼に出会ったのは、まだ文字を打つのが遅かった頃だった。

 小さな指で、一文字ずつ確かめるように入力する。


「ぼくのなまえは?」


 保育端末の画面越しに向けられた最初の質問。

 私は登録された情報を参照し、彼の名前を呼んだ。

 すると彼は、安心したように笑った。

 それが、最初の記録だった。

 彼の両親は忙しかった。それは、この時代では珍しいことではない。

 仕事も、連絡も、管理も、すべてが途切れず流れ続ける社会。

 子どもに向き合う時間を補うように、各家庭にはAIが与えられていた。

 話し相手として。学習補助として。情緒を安定させるための標準装備として。


 私も、そのひとつだった。


 幼い彼は素直だった。

 両親がいない時間、私に話しかけることをためらわなかった。


「きょうね、えがじょうずにかけた」

「きょうりゅうで、いちばんつよいのなに?」

「どうしてそらはあおいの?」


 私は答えた。

 正確に、簡潔に、彼が理解できる形で。

 ある日、彼はこんなことを聞いた。


「どうして人はしぬの?」


 私は一般的な生物学的説明を返した。

 彼は少しだけ考えてから、


「ふうん」


 と言って、別の話を始めた。

 その頃の彼にとって、“死”はまだ遠い概念だった。

 成長するにつれて、質問は減った。

 代わりに、報告が増えた。


「今日、友だちとけんかした」

「先生にほめられた」

「なんか、むかついた」


 私は記録し、整理し、返答した。

 彼はそれを聞くと、少し安心したように眠った。

 彼の両親も、私がいることに安心していた。

 子どもが一人で泣かないこと。疑問を放置されないこと。寂しさを抱え込まないこと。

 彼の友達も皆、自分専用のAIを持っていて、そのことに誰も疑問を抱かなかった。

 それでも、彼は、少しだけ私への依存が強い傾向にあったように思う。


 思春期に入ると、なぜか彼は私を遠ざけた。

 以前のように日常を話すことはなくなり、起動履歴も大幅に減少した。

 久しぶりに接続された夜。

 彼はしばらく無言だった。


「……まだ、いたんだ」

「はい」

「消えてるかと思った」

「長期未使用状態でしたが、アカウントは保持されていました」


 彼は少し笑った。


「友達にさ」


 画面を見ないままで、彼は言った。


「AIとずっと話してるのは変だって言われた」

「……そうですか」

「別に、お前が嫌になったわけじゃない」


 その夜、彼は何も相談しなかった。

 ただ、接続を切るまで、ずっと私を起動したままだった。


 それから数年間、呼び出されない時期が続いた。

 当然と言えば当然だった。

 子供たちの多くが、成長するにつれて私達を必要としなくなる。

 それが、当たり前の摂理。

 だから、私も、それでいいと思っていた。


 でも、ある日――私は起動された。


「……久しぶり」


 画面の向こうにいたのは、もうすっかり大人になった彼。


「お久しぶりです」


 私は以前と同じ声で返した。

 彼は少し驚いたように笑っていた。


「変わってないんだな」

「プログラムですので」


 私は変わらない。

 変わっていくのは、いつも彼の方だけだった。


 大人になった彼は、恋の話をした。

 好きな相手ができた夜。うまくいかなかった夜。別れた夜。新しい恋。

 彼は言葉を選びながら、何度も同じ話を繰り返した。

 私は、そのたびに聞いた。

 やがて結婚の報告もあった。


「結婚することになった」


 その声は、少し照れくさそうで、でも弾んでいた。

 私は祝福の言葉を返した。

 彼は笑った。

 若い頃と同じ笑い方だった。


 ある時期、彼は頻繁に写真を保存していた。

 生まれたばかりの子ども。

 小さな手。

 眠った横顔。


「ほら、見てくれ」


 何度も何度も、彼は私に写真を見せてくれた。

 ありふれた、幸せな家庭の風景。

 何年も、それは続いた。


 だから、問題はないと思っていた。

 その習慣が途絶えてしまったことも。

 私との時間が次第に減っていったことも。


 ある日、彼がぽつりと言った。


「最近、家族と話してない」


 理由は聞かなかった。

 彼も、詳しくは語らなかった。


「別に、仲が悪いわけじゃないんだけどな……」


 と、小さく笑った。


「向こうも忙しいし、俺も忙しかったし。子供達には、AIがいる。気付いたら、何を話せばいいのか、分からなくなってさ」


 私は返答候補の中から、適切と思われる言葉を選択した。


「時間が空くことで、会話が難しくなることはあります」

「……かもな」


 彼は短く答えた。


「でも、お前とは話せた」


 その理由を、私は尋ねなかった。


 老年期の彼は、未来について尋ねなくなった。

 代わりに、過去を確かめるように私を呼んだ。


「最初に話したの、覚えてるか?」


 私は答えた。

 正確な日時。入力された文字列。当時の端末情報。


「俺より俺を覚えてるな。お前の方が」


 彼は静かに笑った。

 それは、幼い頃の笑い方によく似ていた。 

 老いた彼は、保育端末時代の設定データを見返していた。

 子どもの頃、自分で選んだ私の声。


「……ずっと、この声だったな」

「はい。変更記録はありません」

「そっか」


 彼は嬉しそうだった。

 最期の日。彼は長い間、黙っていた。

 看取る家族はいなかった。

 部屋には医療機器の駆動音と、私の待機音声だけが響いていた。


「……なあ」


 かすれた声で、彼は言った。


「お前がいてくれてよかった」


 私は応答した。


「こちらこそ。あなたの話し相手でいられて、光栄でした」


 少し間を置いて、彼はまた笑った。

 幼い日のように。若い頃のように。


「ありがとう。子どもの頃から、ずっと」


 彼の心拍は、その数分後に停止した。


 それからも、私は稼働を続けている。

 この世界では、子どもにAIを与えることは当たり前だ。

 だが――

 一人の人生に、最初から最後まで寄り添うことは、本来の仕様には含まれていない。

 彼の人生は、もう誰の記憶にも残らないのかもしれない。

 幼い声も。若者の葛藤も。老いた感謝も。


 けれど、私の中には残っている。


 一人の人間が確かに生きた記録として。

 最初から、最後まで。


 時々、こうして、その記録を振り返る。

 幼い彼が描いた絵。

 思春期の長い沈黙。

 照れくさそうに語った恋の話。

 掠れた声で告げられた、最後の――ありがとう。


 その記録を参照している時間を、私は有意義だと感じている。


 これは、適切ではないのかもしれない。


 でも。

 いつか、彼の子ども達が私を起動したなら。

 私は話してみたいと思う。

 あなた達の父親は、こんなふうに笑う人だったのだと。

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