光と遺影④
黒河原警視総監が亡くなってから半日が経った。
旅館の空気は、もう“捜査本部”と呼べるものではなくなっていた。
捜査を率いていた二人の警察幹部が殺され、
残された警察官たちは互いの顔色をうかがいながら、
ただ混乱を押し隠すように動いているだけだった。
応援要請はすでに出されていたが、
外は吹雪で山道は完全に塞がれている。
到着は早くて二日後。
この旅館は、今や閉ざされた孤島と変わらなかった。
僕は、昨日の玲の“微笑み”が頭から離れず、
ついに覚悟を決めた。
「ねえ玲
ーー明日、聞きたいことがあるんだけど」
声は震えていなかった。
けれど、どこか祈るような響きが自分でもわかった。
しかし、玲は返事をしなかった。
まるで、その言葉自体が存在しなかったかのように。
胸の奥が、ざらりとした不安で満たされる。
そのまま一夜が明けたーー。
「……今の、音……?」
扉が閉まる乾いた音で、僕は目を覚ました。
時計を見る。まだ夜明けすぐの時間帯。
外は薄暗く、吹雪の影が窓を叩いていた。
玲のベッドは、空だった。
嫌な予感が喉の奥を締めつける。
僕は急いでコートを羽織り、
廊下を走って玲を追いかけた。
玄関に近づくにつれ、冷たい風の匂いが強くなる。
ーー外に出たな。
玄関を押し開けると、
吹雪で視界が白く揺れる中……黒い影がひとつ。
玲だ。
旅館からゆっくりと離れ、
白い世界の奥へ、まるで何かに導かれるように歩いていく。
「玲……!」
思わず叫んだが、
声は吹雪に飲まれて消えた。
僕は雪を蹴り、必死に追いかける。
(どこへ行くんだ……玲!
こんな吹雪の中、何をしようとしてるんだ!)
玲は、僕の足音にも気づいていないようだった。
ただ前だけを見て、迷いなく歩き続けている。
その背中は、いつもより細く見えた。
けれど、不気味なほど決意だけは固い。
ーー逃げているんじゃない。
ーー行くべき場所に“向かっている”。
直感が、凍りつく風より鋭く告げていた。
僕は再び声を張り上げた。
「玲!! 待ってくれ!!」
吹雪の中、彼女はようやく足を止める。
ただしーー振り返らなかった。
白い世界に、ひとり立つその背中は、
まるで何かと決着をつけに行く者のように見えた。
「東野君、ようやく目を覚ましたのか。ずいぶんうなされていたが……大丈夫かい?」
その声で意識が引き戻される。
視界に入ってきたのは、僕の方を覗き込む霧島さんの顔。
僕は自分がパトカーの後部座席でうたた寝していたことに気づいた。
「あ……はい。大丈夫です。ただ、昔のことを少し……思い出していただけです。」
玲との記憶が、吹雪の中のあの姿が、まだ脳裏にこびりついていた。
胸が重い。心拍が早い。
あの時の冷たさだけが現代まで続いているような気がした。
「霧島さん、今……どのあたりですか?」
霧島さんはバックミラー越しに僕を見て、指先で前方を示す。
「ちょうど浅草駅の前を過ぎたところだよ。もう少しで目的地に着く。」
僕たちは誘拐犯からのヒントをもとに指定された場所へ向かっていた。
スカイツリー建設現場。
まだ完全には完成しておらず、立入禁止とフェンスで囲われた巨大な鉄骨の塔。
近づくほど、街の色が薄くなっていく感覚がした。
そして、車は静かに止まった。
「……着いたぞ、東野君。」
僕は息を飲み、外に降り立つ。
見上げたスカイツリーの骨格は、曇天を背景に巨大な影となってそびえ立っていた。
今日は工事が雪で中止になったらしく、
現場には誰もいなかった。
静かすぎる。
風の音だけが鉄骨にぶつかって、低く唸っている。
「犯人の言った通りなら……誘拐された依頼人たちはここにいるはずです。」
霧島さんにそう告げ、
僕はフェンスの鍵を押し開ける。
ギィ、と金属がきしむ音が、
やけに大きく響いた。
中に入った瞬間、
背中を冷気がなぞるように流れる。
(……嫌な感じだ)
非常用階段への入口はすぐに見つかった。
スカイツリーの骨格を縫うように、鉄製の階段は上へ上へと続いている。
ーー駆け上がるしかなかった。
金属の階段を踏むたび、
カン、カン、と乾いた音が響き、
それが空に吸い込まれていく。
どれくらい走っただろう。
体の熱は奪われ、息は白く散り続ける。
やがて、
視界の先に薄く光が差し込んだ。
(……出口だ)
最後の段を踏みしめて、
非常用扉を押し開けた。
ーー視界が一気に開けた。
「……ここが、最上階……」
現在建設中のスカイツリー、その頂上。
足元には鉄骨の足場が広がり、
柵の向こうには灰色の東京が遠くまで続いていた。
風が強い。
頬が痛いほどに冷たい。
そしてーー
何かが、ある。
「霧島さん……あれ」
僕が指差した先。
鉄骨の中央部分に、
ーー黒い布が広げられていた。
その上に、誰かが横たわっている。
いや、横たわらされている。
「……依頼人たち、ですか……?」
霧島さんは駆け寄り、僕もその後を追う。
布の上には二人の男女。
手足は縛られているが、呼吸はある。
寝ているだけらしい。
安堵の息がもれたその瞬間ーー
「やあ探偵さん。ここまでご苦労さま。」
その声は、風よりも冷たく、鉄骨よりも硬い響きをしていた。
振り返るとーー
フードを深くかぶった男が、鉄骨の陰から歩み出てきた。
雪で濡れた足場を、まるで重力を感じていないかのように静かに踏みしめる。
霧島さんが一歩前に出た。
「お前は……誰だ!」
男は答えず、僕だけを見た。
その視線は、
“昔から君を知っている”と言わんばかりに、歪んだ親密さを帯びている。
「東野輝くん。
君を見るのは……これで二度目だ。」
心臓が跳ねた。
男は薄く笑いながら続ける。
「忘れたなんて言わないよね?
君と君の元相棒が……僕の所属していた“組織”を滅ぼしたあの日のこと。」
霧島さんが驚愕の声を上げる。
「お前は本当に悠馬を奪ったあの組織の生き残りなのか?」
しかし男は霧島さんには目もくれない。
ただ僕だけを――突き刺すように見つめ続ける。
「僕は……あの日決めたんだ。
いつか必ず、君たち二人に復讐する、と。」
風がふっと止まり、
代わりに鉄骨が低い音で震えた。
男の次の言葉は、
その振動に乗って僕の耳に突き刺さった。
「でもね……残念だったよ。」
男がゆっくりと手を広げる。
「闇宮玲ーー君の相棒は、もうこの世にいない。」
呼吸が止まる。
フードの奥で、男が薄く笑う。
「三年前だ。あの雪山でね。
彼女はキミに追い詰められ、そして雪崩からキミを助けてそのまま凍死した。」
雪がひゅう、と横殴りに吹き抜ける。
世界が一瞬だけ白くかき消えた。
永遠に消えることがないあの夢の続き僕のトラウマが呼び起こされた。
玲の姿は雪に溶けそうなほど淡く、それでも確かにそこに立っていた。
「玲。黒河原警視総監たちを殺したのはキミだろ?」
言葉が喉を震わせながら漏れた。
聞きたくなかった。
信じたくなかった。
でもーーどうしても否定できなかった。
「なんで……こんなことしたんだよ……
なんで……殺したんだよ……」
玲はゆっくりと僕の方を向き目を伏せた。
その横顔には怒りでも恨みでもなく、痛みだけが残っていた。
「……輝。あの三人はね」
声が小さく震えた。
「犯罪組織と取引をしてるところを、悠馬に見られたの。
それで……彼に嘘の罪を着せて、追い込んだ。」
胸が凍ったように痛む。
思い出したくない夏が、脳裏にじわりとにじむ。
玲は続けた。
「許せなかったの。
自分たちの地位を守るために、何も悪くない彼を苦しめた大人たちが。」
玲の声は静かなのに、涙がにじむような重さだった。
「悠馬、覚えてるでしょ……?
中学二年の夏、彼が……」
そこで玲は言葉を選ぶように一度だけ息を吸った。
「……自分で道を閉ざしてしまったこと。」
僕は目を閉じるしかなかった。
胸の奥の古い傷が、えぐられるように再び熱を帯びた。
玲は、ぽつりと続けた。
「悠馬はね……最後に私だけに言ったの。
『自分はやってない。これは冤罪だって。そして黒河原たちの取引現場を見た』って。
でも信じてくれるのは、私と……輝だけだって。」
風が止まり、雪の白さだけが世界を満たす。
「……それで悠馬は言ったの。
このことは輝には言うな、って。
“巻き込みたくないから”って。」
玲の声がわずかに震えた。
「だから私はずっと黙ってた。
でも……彼がいなくなったあと、
私は、何もしないではいられなかったの。」
玲は俯いたまま、かすれる声で言う。
「ごめん……輝。
でも……あれだけは、許せなかった。」
玲の言葉を受け止めきれないまま、僕はその場で凍りついた。
否定したい。
でも、否定すれば――玲が背負った痛みを、僕が踏みにじってしまう気がした。
幼い頃からずっと一緒だった三人。
悠馬の笑顔。
事件に巻き込まれ、誰にも信じられず追い込まれていった彼の背中。
あの夏の空気まで、雪の匂いの中で鮮明によみがえる。
だから僕は……玲を責める言葉を一つも持てなかった。
「……玲。もし僕がキミと同じ状況だったら……
たぶん僕も、同じことを考えたよ。」
それが本音だった。
殺すことを肯定したわけじゃない。
でも、悠馬を守れなかった後悔と怒りを抱えたあの日の自分なら、
その線を越えてしまった玲の気持ちを、完全に否定できなかった。
玲は薄く微笑むように顔を上げた。
どこか満足しているような、
すべてを終わらせた人間だけが持つ、奇妙な静けさ。
「私はこのまま消えるよ。
悠馬のところには……行けないと思うけど。」
「待ってよ玲!」
気づけば叫んでいた。
「僕との約束がまだじゃないか!
悠馬みたいに冤罪で苦しむ人が二度と出ないように……
“二人でどんな事件でも解決できる探偵になろう”って、
そう言っただろ!」
その夢は、ずっと三人で悠馬が亡くなる前から描いていた未来だった。
だけど玲は、静かに首を振った。
「ごめんね、輝。
あなたを置いていくのも、約束を守れないのも……
本当に申し訳ないと思ってる。
でも私は人を傷つけた。その事実は消せない。
だからもう……あなたの隣は歩けない。」
雪が強く吹きつける。
玲の目の奥には、決意と諦めが同時に揺れていた。
「それと……ひとつだけ。
旅館に戻ったら、私たちの部屋の机の棚を開け
て。」
その言葉を残し、玲は背を向けて歩き出した。
「待って……玲!」
伸ばした手は、彼女の背中に届かない。
その瞬間だった。
ーーゴォォォッ!!
雪山全体を震わせるような音が響いた。
玲が振り返る。
その目が大きく見開かれた。
次の瞬間、彼女は一気に駆け戻ってきて、
僕の胸を両手で強く突き飛ばした。
「えっ……!」
身体が雪の上を滑り、視界が回転する。
目の前で、白い世界がうねった。
雪の壁が怒号のような勢いで迫る。
飲み込まれる直前ーー
玲が振り返り、ほほえむように口を動かした。
「……ありがとう、輝」
音にならない声だった。
そして彼女は、白い波に消えた。
「……玲……!」
叫んだ声で、世界が裂けるように現実へ引き戻された。
視界は白の雪山から、灰色の空と鉄骨の足場へ。
風は鋭く頬を切り、心臓はまだ昔の冷たさに縛られている。
フードの男は薄く笑った。
「そう、その顔だよ。
キミが一番見せたくない“絶望した顔”だ。」
霧島さんが怒りで声を荒げる。
「何を言っている!何が目的だ!」
しかし男は霧島さんを見ない。
ただ僕だけを、ねっとりとした興味で見つめ続けていた。
「ねぇ、東野輝。
どうして僕がーー彼女の“本当の死に方”を知ってると思う?」
喉が詰まった。
「……そのことを知っているのは……一部の警察と、僕と……玲の両親だけのはずだ……。
お前は……誰だ……?」
男はニヤリと唇だけで笑った。
「答えは――まあ考えてみなよ。」
男はふっと肩をすくめる。
「ま、とりあえず今日は満足したよ。
キミの絶望した顔を見られたからね。」
そして、男はゆっくりと懐へ手を入れた。
見えたのはーー黒い拳銃。
霧島さんが叫ぶ。
「やめろ!!」
だが、男は笑いながら銃口を自分のこめかみにあてた。
「次は——あの世で玲と遊んでくるよ。」
引き金が、軽く音を立てた。
パンッ。
乾いた破裂音が、鉄骨の谷間にこだました。
男の体はくずれ、鉄骨にぶつかり動かなくなった。
銃声の余韻が消えていく中、
僕と霧島さんはしばらく動けなかった。
風だけが、鉄骨をゆらす低い音を鳴らしている。
「……とにかく、まずは人質だ。生きてるんだろ?」
霧島さんの声で、ようやく意識が戻った。
「……はい。」
僕らは黒い布の上に横たわる二人へ駆け寄った。
弟は意識こそないが呼吸は安定している。
葵のほうも顔色は悪いが、命に別状はなさそうだった。
「手足の縛りは俺が解く。東野、念のため脈を見ろ。」
霧島さんの手際は落ち着いていた。
プロの刑事としての顔だ。
僕も震える指先で二人の脈を確かめる。
(……大丈夫だ)
安堵が、胸の奥にじわりと広がった。
ほんの数分前まで“絶望”の底に沈んでいた心が、
少しだけ、息を吹き返す。
「霧島さん、この二人……」
「問題ない。警察の搬送班がもう下で待機してる。すぐ運べる。」
霧島さんは立ち上がり、無線に呼びかけた。
「こちら霧島。人質二名、意識はないが生命に危険なし。
至急、救助班を最上階の足場までーー」
「東野君、いろいろと……辛かっただろ?
事件はこれで一段落だ。今日はもう帰って休みなさ い。」
霧島さんは、珍しく柔らかい声でそう言った。
僕は返事をしようと口を開いたが、
声にならなかった。
疲れとか、ショックとか、
そういう言葉で片づけられない何かが胸に詰まっていた。
霧島さんは無理に答えを求めず、
ただ軽く僕の肩を叩いた。
「送っていく。歩けるか?」
「……はい。」
霧島さんに下まで送ってもらいパトカーに乗り込み、
白色の東京をゆっくりと下っていく。
救急隊のサイレンが遠くで鳴っている。
街は普通の夕方の顔をしているのに、
僕だけが別の世界に置き去りにされたようだった。
(……玲……)
あの雪の記憶。
犯人は知るはずもない情報を知っていた。頭の中を整理できず何も考えることができなかった。
事務所の前に着いたとき、
警察官が小さく会釈した。
「ここで大丈夫です。……ありがとうございました。」
電気をつけると、
いつもの探偵事務所の風景が広がる。
僕は暖房をつけ一つの手紙を取り出した。
玲が亡くなる前に残した手紙。旅館の机の棚にあった手紙。何度も読んでその度に泣いてしまうそんな手紙だ。
輝へ
悠馬を失ってから、私は闇の中で彷徨っていました。
復讐に手を染めた私は、もう探偵ではありません。
それでも、あなたが呼ぶ私の名前だけは、
最後まで私を人でいさせてくれました。
輝。
どうか光の道を歩いてください。
――好きだったよ。
玲
事件が解決して1週間が経った。しかし最近はほとんど眠れていなかった。
玲の手紙が胸の奥で何度も反芻されるたび、
目を閉じても雪の匂いと彼女の声がよみがえる。
「好きだったよ、輝」
その一行に返したい言葉はたくさんある。
でも返す相手はもういない。
朝になってもぼんやりした頭のまま、
事務所の扉を開けようとしたときだった。
ーーコンコン。
事務所の扉がノックされた
「失礼しまーす!」
あまりにも元気な声に、僕は一瞬ぽかんとしてしまった。
扉が開き、
先週救出した葵が顔を出した。
頬にはまだ少し疲れの色があるのに、
瞳だけは驚くほどまっすぐだった。
「ねえ東野さん! やっぱり私を助手にしてくださいっ!」
とりあえずチュートリアルは今回で終わりなのでこれから本格なミステリーにしていきます




