光と遺影③
最初に気づいたのは、
音がないことだった。
目を開けても、何も見えない。
室内ではない、何かに上から覆われている感じ。
布――いや、袋だ。
息はできる。
でも、空気が冷たい。
「……っ」
声を出そうとして、喉が引きつった。
すぐ隣で、小さく身じろぎする気配。
「……おねえ、ちゃん……?」
弟の声だった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「大丈夫。いるよ。ここにいる」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
怖がらせちゃいけない。
それだけが、頭の中を占めていた。
最後の記憶を、必死にたどる。
探偵事務所を出たあと。
外は、とても暗かった。
夜中の空気は冷たくて、吐く息が白くて――
「少し、お話いいですか」
後ろから声をかけられた。
低くて、丁寧で、
だけどどこか不気味な声。
それが、最後。
「……ここ、どこ?」
弟が、震える声で聞いてくる。
「わからない。でも……」
耳を澄ます。
遠くで、風の音。
金属がきしむような、低い音。
「……高いところ、かもしれない」
根拠はない。
でも、なぜかそう思った。
そのとき。
足音。
ゆっくり、一定のリズム。
姿は見えない、だけど気配が近づく。
「安心しなさい」
男の声だった。
「君たちは、まだ“必要な人質”だ」
弟が、息を止めるのがわかった。
「約束の時間までは、何もしない」
約束。
時間。
その言葉だけで、
これは偶然じゃないと理解した。
「……東野さんを、知ってるんですか」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからない。
でも、聞かずにはいられなかった。
一瞬の沈黙。
それから――
小さく、笑う気配。
「知ってるとも。
彼は、壊す側だったからね」
胸が、冷たくなった。
「……彼は、正しいことをしてきたはずです」
そう言うと、男は即座には否定しなかった。
「正しさ、か」
その言葉が、やけに重かった。
「正しいことはね、
立つ場所が変われば、簡単に――間違いになる」
足音が、遠ざかる。
また、静寂。
弟の手が、探るように伸びてくる。
私はそれを、強く握り返した。
「大丈夫」
誰に言ったのか、わからない。
弟か。
それとも、自分か。
でも、ひとつだけ確信していた。
東野さんは、必ず来てくれる。
理由なんてない。
ただ、そう信じるしかなかった。
電話で伝えられた犯人からのヒント。
その一つひとつが、頭の中で静かに形を変えていく。
『ここは、まだ地図に完成した姿が載っていない』
まず、これだ。
東京では毎日のように建物が建設され、どこかが解体されている。
だが――地図に“完成した姿が載っていない”となれば、解体中の建物は除外される。
つまり、
建設途中の巨大建造物に限られる。
さらに。
『下では多くの人が写真を撮ってる。
でも、上に登れるのは選ばれた人間だけ』
下は観光客。
上は立入禁止。
しかし、ただの工事現場をわざわざ写真に撮るだろうか?
――いや、撮らない。
となればその建物は、
観光地としての価値を持つ“特別な存在”だ。
雪が落ちてくる。
地面に触れる前に溶け、白い霞となって消えた。
(……この条件に当てはまる場所、この東京にいくつある?)
東京で今、
・地図に最終形態が載っていない
・観光地として注目されている
・建設中の超高層建築
となれば――片手で数えるほどしかない。
しかしそこで、思考が止まった。
――決定打が足りない。
視界が白く沈む。
その一角で、ふと記憶の奥が揺れた。
玲の声が、かすかに響く。
『……まだ考えてるの? 輝。
あなたなら、もっと早く答えに辿り着くと思ってた。あの日私を追い詰めたあなたなら。』
冷たい。
けれど、その奥にわずかな温度がある。
「……わかってるよ。ちゃんと考えてる」
『ええ、あなたが頑張ってるのは知ってる。
でも……迷ってるときのあなたは、いつも遠回りをする』
突き放すようで、しかしそっと支えてくれる声だった。
「じゃあ、どうすればいい?」
その瞬間――ひとつの記憶が蘇る。
まだ僕たちが探偵になってすぐの頃。
薄暗い灯りの下、玲が背を壁に預け、資料をめくっていた姿。
そして、ふいに漏らした言葉。
『行き詰まったときはね、輝。
一度ぜんぶの情報を思い出すの。
それで、答えに繋がらないものを切り捨てる。
ーーそうすれば、自然と見えてくる』
息を呑む。
そうだ。
まず全部を思い出す。
犯人のヒント。
『ここは、まだ地図に完成した姿が載っていない
毎日、少しずつ姿を変える場所だ。
昨日と今日で、景色が違う
下では多くの人が写真を撮ってる。
でも、上に登れるのは――選ばれた人間だけ
空に近いのに、まだ“街の一部”でいられる場所
冬はな……風の音で、人の声がかき消される
完成したら、君たちとこういうことはできない。
だから今なんだ』
全部重要に思える。
だが、いくつかは“他と重複している”。
たとえば――
『完成したら、君たちとこういうことはできない。
だから今なんだ』
これは“まだ完成していない”という情報の補強にすぎない。
ならば切り捨てていい。
残るのは
『空に近いのに、まだ“街の一部”でいられる場所』
これは、その建物が高いことを表しているだけだと思っていた。
しかし違う。その建物が“中途半端な高さではない”ことを、つまり街一番高さ今後東京の象徴となる高さだということを表している。
さらに、
『冬はな……風の音で、人の声がかき消される』
外気が吹き抜ける鉄骨階。
安全用の仮設通路。
まだ“皮膚”を持たない、骨格だけつまり建設され始めならではの構造。
その瞬間、
記憶の中の玲がこちらを見て、小さく微笑んだ気がした。
冷たく、でも確かに僕を肯定する笑みで。
『ね、輝。
ほら……ひとつだけ。“今しか成立しない場所”があるでしょ』
胸が熱くなる。
彼女はもういないはずなのに、
いまもこうして背中を押してくれる。
僕は深く息を吸い、答えをつかんだ。
「――“まだ完成していない東京の頂点になる建物”。
……あそこしかない」
雪の降りしきる中、僕は一歩踏み出した。
椎名警視長が亡くなった日の午後ーー
黒河原警視総監の様子は、誰が見ても「限界」だった。
同期の鬼塚、椎名。
二人が“殺された”。
普段は人前で感情を見せない男が、
廊下の薄暗がりで拳を握りしめ、
唇を噛む姿を、僕たちはただ黙って見ていた。
怒りでも恐怖でもない。
もっと深い、苦しさに近い何か。
それでも彼は仕事を止めなかった。
足取りは重いのに、歩みだけは止まらない。
「……まだ終わっちゃいない。
この手で、必ず……」
その呟きは誰にも届かないほど小さかったが、
自分を奮い立たせるような、
それでもどこか折れそうな声だった。
しかしーー
その日の捜査は、
結局なにも成果をあげられないまま終わった。
黒河原の背中は、
夕暮れの光に溶けるように小さく見えた。
あれが“最後の姿”になるとは、
誰も思っていなかった。
そして、翌朝。
「東野さん、玲さん……大変です!」
警察官の一人が、顔を青ざめ震えながら部屋に飛び込んできた。
その異常さだけで、胸の奥が冷たくなる。
「……浴場に……し、死体が……!」
足が一瞬止まる。
だが、すぐに走り出した。
浴場の引き戸は、半分だけ開いていた。
湯気はなく、冷たい朝の空気が湿った床を流れている。
その奥にーー
黒河原警視総監が、
脱衣場と浴場の境目に倒れていた。
外傷はない。
苦悶の色もない。
ただ、
まるで眠るように目を閉じていた。
ーー三人目。
膝がわずかに震える。
床には一枚の紙片が置かれていた。
椎名のときと同じ筆跡。
『因果は巡る。
自身の行いはいつか自分に返ってくる』
僕はその紙を拾い、かすれた声で読み上げた。
「黒河原警視総監まで……
こんな短期間に……」
旅館全体が沈黙に包まれる。
空気は鉛のように重い。
ーーこれで警察幹部は全員“殺された”。
誰が、どうやって、なぜ。
そんな問いはもう形を失い、ただ恐怖だけが残る。
そのとき。
扉の影で静かに立つ玲が、ふと視界に入った。
冷静に見える。
だが、目元にごく小さな“笑み”が浮かんでいた。
普通なら気づかない程度のわずかな変化。
けれどーー僕にはわかる。
あれは、喜びのようにも見え
安堵のようにも見える
しかし
もっと違う、
もっと深くて、底の見えない笑み。
その笑みが、
誰よりも恐ろしかった。
そしてその微笑みを見た瞬間ーー
胸の奥で、小さな違和感がひっかかった。
「……玲?」
呼びかけそうになって、
咄嗟に言葉を飲み込む。
彼女は相変わらず冷静で、
目の前に横たわるのが“人の死”ではなく、
ただの道端に転がっている石のように見ている。
(……いつからだ?
僕が、玲の表情に“怖さ”を感じるようになったのは)
ゆっくりと、心の底に沈んでいた違和感が浮かぶ。
ーー鬼塚警部が殺された日。
彼女は祝賀会に来なかった。
それどころか、祝賀会の二時間前に風呂に行くと言ったきり、
誰も彼女の居場所を知らなかった。
つまりーー
鬼塚のとき、彼女にはアリバイがない。
それだけじゃない。
他の二人が殺されたのも真夜中。
同じく、玲のアリバイは誰にも証明できない。
ーー椎名警視長が倒れていたあの客室。
あの紙を見たときの、ほんの一瞬の沈黙。
そして、かすかに漏れた言葉。
『……ようやくだ』
犯人がわかった時の言葉ではなかったはず
もっと……底の方で渦巻く、別の感情。
そしてーー今。
黒河原警視総監の死体を見つけた後に浮かんだ、
あの“微笑み”。
なぜ、このタイミングで。
胸の奥がざわつく。
冷たい空気が肺を裂くみたいに入り込む。
(玲……君は、何を知ってる?
どうして……そんな顔をするんだ)
そう考えた瞬間、
絶対に認めたくない可能性が浮かび上がる。
ーー玲が関わっているのではないか。
否定したい。
必死で否定したい。
だけど、アリバイはない。
証人もいない。
防犯カメラもない。
どれだけ否定しようとしても、根拠が一つも掴めない。
玲はただ、静かに立っている。
その横顔が冷たい。
なのに、どこか……満足しているように見えた。
その一瞬の微笑みが、
何よりも恐ろしかった。
指先がかすかに震える。
「…………玲」
名前は喉の奥で凍りつき、
一文字も形にならない。
ーー疑ってはいけない。
そんなはずはない。
あれほど信じてきたのに。
そう訴える自分と、
ーー見てはいけないものを見てしまった。
そんな直感が、静かに警鐘を鳴らす。
胸の中で、二つの思いが軋み合っていた。




