光と遺影②
鬼塚警部が亡くなった知らせを受け、
旅館は一気に緊張と騒ぎに包まれた。
警視総監の黒河原、そして椎名警視長ーー
二人は鬼塚警部と十数年を共にした同期だ。
その表情には、抑えきれない怒りと憎悪が滲んでいた。
警察による現場検証が終わるまで、
僕を含む警察関係者以外の人間は、
「各自の部屋で待機するように」
そう厳しく告げられた。
部屋へ戻ると、玲がいた。
「玲……どこにいたんだよ。
風呂に入るって言ったきり帰ってこないし、
会場にもいないし……心配したんだ。」
言葉が溢れるように出た。
「鬼塚警部が亡くなってたから……
もしかしたら玲も襲われたんじゃないかって……
本当に気が気じゃなかったんだ。」
しかし、玲は僕の言葉を受けても、
どこか遠くを見るような、
感情の読めない表情のまま
「……そう。」
それだけを短く返し、
それ以上の説明も、安心もくれなかった。
その沈黙が、むしろ胸に重くのしかかった。
葵が集合時間に現れない不安が頂点に達したころ、
スマホが震えた。
ーー表示された名前は、葵。
胸が一瞬にして締めつけられる。
「……もしもし、東野です」
だが、受話口から聞こえてきた声は
葵でも、警察でもなかった。
くぐもった声
『君のことは知っているから名乗る必要はない。
君から預かってる人間が二人いるんだ。
ーー女一人と、小さな男の子一人』
葵。
そしてーー弟。
「どこにいる!」
『落ち着け。今は無事だよ。
時間内に見つけられれば ……の話だけどね』
雑踏の喧騒が遠のき、耳鳴りだけが残る。
「目的は何だ」
数秒の沈黙ののち、
ねっとりとした笑いが落ちてくる。
『君たちが壊した“あの組織”。覚えてるだろ、東野輝』
スッと背筋が冷えた。
またーー玲の影。
『玲はもういない。
だから、お前だ』
通話は一方的に切れた。
僕はスマホを握る手に力を込めた。
ーーもう二度と失いたくない。
玲の最期の面影が、背中を押すように揺れた。
僕は深呼吸をひとつ挟み、
震える指で連絡先の中からひとつの番号を選んだ。
ーー霧島憲義。
現・警視総監。
そして、僕と玲の親友だった男霧島悠馬の父。
呼び出し音が一度鳴っただけで、通話がつながった。
「……東野くんか」
低く、疲れをまとった声。
名前を呼ばれただけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「お久しぶりです、霧島総監。
実は……大至急、相談したいことがあって」
「玲さんの件か?」
息が止まった。
「それとも、誰かがまた、君の大切な人を狙ったか?」
鋭い。
隠しごとを許さない声音だった。
僕は迷いを断ち切るように言った。
「……僕の依頼人が誘拐されました。
彼女の弟さんも一緒です。
そして犯人を名乗る人物から電話があり……
“あの組織の幹部”を名乗りました」
通話の向こうで、空気が変わった。
さきほどまでの疲れた声ではない、鋼の気配が混じる声。
深く静まり、長年封じていた傷口が開いたような沈黙。
そしてーー
「息子を奪った連中の残党が……まだ動いているのか」
その声は怒りではなく、痛みに近かった。
「東野くん。今どこだ」
「渋谷の駅前です」
「すぐ動く。
今回の事件ーー残党を処理しきれなかった私にも責任がある」
短い言葉に、彼自身の過去が凝縮されていた。
「必ず君と協力する。
もう誰も……息子のような思いはさせない」
通話が切れたあと、僕はゆっくりとスマホを下ろした。
冬の夜に消えた玲の影。
罪を背負わされた悠馬。
そして、いま消えようとしている葵。
ーーすべてが、一本の線でつながっていく。
僕は強く息を吸い込んだ。
「……必ず助ける」
決意だけが、雑踏の中で揺るぎなく残った。
十分後、サイレンを切ったパトカーが路肩に止まった。
人混みが自然と割れる。
後部座席のドアが開き、ひとりの男が降りてきた。
霧島憲義ーー現・警視総監。
肩には疲労がにじみ、目の奥には眠っていない色が残っている。
「……久しぶりだな、輝くん」
形式ばった声だった。
だが、僕を見る視線には、友人の父としての焦りが隠せていなかった。
「無事か」
「はい。ですが……時間がありません」
僕はすぐ本題に入った。
「犯人から直接電話がありました。
自分は、あの組織の幹部だったと名乗っています」
霧島総監の眉が、わずかに動く。
「目的は、復讐だと。
僕たちのせいで全てを失った、その報いだと」
一瞬、彼の視線が地面に落ちた。
悠馬の名を口にしなくても、過去は十分すぎるほどそこにあった。
「被害者は二人。
依頼人の女性と、その弟です」
僕の言葉が終わる前に、霧島総監は無線に手を伸ばしていた。
「……わかった。」
そう言って顔を上げた霧島憲義は
警察の頂点に立つ男の目をしていた。
だがそこには、子を亡くした者として消えない影も残っていた。
鬼塚警部の死亡が確認されてから、
二日目の朝。
旅館内での捜査は続いていたが、
状況は何ひとつ進展していなかった。
そのときだった。
「……椎名警視長が見当たりません」
捜査員の一人の声が、
廊下に落ちた。
会議の予定時刻になっても姿を現さず、
部屋にもいないという。
嫌な予感が、
背骨をなぞるように走った。
ほどなくして、
旅館の別棟ーー
人の出入りが少ない、古い客室の前に人だかりができた。
引き戸は、わずかに開いていた。
中にいた誰かが、
低く息を呑む音が聞こえた。
畳の上に、
椎名警視長は横たわっていた。
乱れはない。
外傷も見当たらない。
ただ、
顔色が不自然なほど白く、
すでに息はなかった。
ーー二人目。
その事実は、
誰かの言葉になる前に、
そこにいる全員の胸へ、静かに沈んだ。
机の上には、
小さな紙片が一枚、置かれていた。
「……文字が、書いてあります」
誰かが読み上げる。
『因果は、巡る
自身の行いは必ず自分に返ってくる』
その言葉を聞いた瞬間、
背後で、畳が軋む音がした。
振り返ると、
玲がそこに立っていた。
彼女はその紙片を見つめ、
ほんの一瞬だけ、
目を伏せた。
そして、小さくーー
「……ようやくだ」
誰にも聞こえないほどの声で、
そう呟いた。
その言葉の意味を、
僕はまだ理解できていなかった。
けれどーー
この事件は、
ずっと昔から、
誰かが“その瞬間”を待ち続け計画してきたものだ。
そして気づいてしまった。
玲は、この事件について
「知らない側」ではない。
その推測が、
嫌な形をとって、
僕の中で、輪郭を持ち始めていた。
「……東野くん。東野くん」
呼びかけられて、はっと顔を上げた。
「すみません……少し、考え事を......」
「そうか」
霧島警視総監は、それ以上追及しなかった。
だが、視線だけは外さない。
きっとーー
僕が過去に沈んでいることを察している。
雪の旅館。
畳の軋む音。
そして、玲の声。
「……ようやくだ」
その言葉が、まだ耳に残っていた。
そのときだった。
ーーブブッ。
ポケットの中で、
スマホが短く震えた。
画面に表示されたのは、
非通知。
胸の奥が、嫌な音を立てて軋む。
「……来たか」
霧島警視総監が、低く言った。
犯人からの、二度目の電話だった。
『やあ探偵さん。捜査は順調かい?
まあ、それはどうでもいい。
ヒントをあげるよ』
『ここは、まだ“地図に完成した姿が載っていない”』
霧島警視総監が、わずかに眉を動かす。
『毎日、少しずつ姿を変える場所だ。
昨日と今日で、景色が違う』
『下では多くの人が写真を撮ってる。
でも、上に登れるのは――
選ばれた人間だけ』
一拍、間。
『空に近いのに、
まだ“街の一部”でいられる場所』
『冬はな……
風の音で、人の声がかき消される』
低い笑い声。
『完成したら、君たちと
こういうことはできない。
だから今なんだ』
『それに君は、昔も高い場所で
“大切なものを失った”よね』
ーーツー、ツー。
通話が切れた瞬間、
冷たい風が頬を撫でた。
見上げると、
朝の澄んだ空から、
ひとつ、またひとつと雪が降り始めていた。
ーーなぜ今なんだ。
理由のない偶然ほど、
嫌なものはない。
白い粒が街を覆い、
視界から、少しずつ現実が削られていく。
そのとき、不意に思い出した。
旅館の部屋。
低い天井。
古い机。
ーー棚を見るように、と。
理由も告げず、
ただそれだけを残した彼女の声。
何度も読んだ。
読むたびに、
違う絶望が胸に沈んだ。
胸の奥が、ひどく痛む。
「……行こう」
誰に向けたわけでもない。
それは、自分自身を前へ進ませるための言葉だった。




