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光と遺影①

――あの冬のことを、いまでも雪を見るたび思い出す。

凍えた風の匂いも、玲の最後の横顔も。

そして、彼が何をしようとしていたのかも。


あの夜、僕は死にかけて、

玲は――帰ってこなかった。


「……すみません。東野探偵事務所で合ってますか?」


ふいにドアベルが鳴り、僕は現実に引き戻された。

入り口には不安そうに手を握りしめた女性が立っていた。


「昨日からいなくなった猫を探してほしくて……」


依頼は簡単だった。

聞いた話から、その猫が好む“狭くて暗い場所”を絞り込み、

都内の似たような古い建物を回った。

三軒目のアパートの隙間で、猫は丸くなって眠っていた。


女性は涙ぐみながら礼を言い、猫を抱えて帰っていった。


僕は静かになった事務所で深く息をつく。

仕事はうまくいった。

手順も、推理も、間違っていない。


……それでも。


――玲なら、もっと速く、もっと正確に見つけていただろう。

胸の奥に、またあの冷たい影が広がる。

どれだけ結果を出しても消えない、“あの冬”の影が。


事務所の時計が、静かに午後8時を告げた。

今日の仕事はもう終わった。

あとは書類をまとめ、コーヒーでも淹れて—―

そう思った、そのとき。


カラン、と軽い音を立ててドアが開いた。


「あの……東野探偵さん、ですよね?」


振り返ると、そこには制服姿の少女が立っていた。

年は十六、いや十七くらいだろうか。

真っ暗なあたりとは違い真っ直ぐな目だけが場違いなくらい強い光を宿している。


「なにか依頼かい?」


できるだけ柔らかい声で尋ねる。

少女は一度深く息を吸い、そしてまっすぐ僕を見た。


「――助手にしてください。

 わたし、東野さんに憧れて、探偵を志しました。」


一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

探偵に憧れて? 僕に?

少女は鞄から数冊の古い資料ファイルを取り出した。

表紙には、見覚えのある事件名が並んでいる。

僕が過去に扱ったものだ。


「全部読みました。

 推理も、判断も。

 東野さんは……その、すごいです!」


まっすぐすぎて、眩しい。

僕は思わず視線をそらす。


「……いや、僕はそんなに――」


「玲さんとは違うけど、東野さんには東野さんの強さがあります」


“玲”という名前を聞いた瞬間、胸がひりついた。

どうして彼女がその名を?


「どうして……玲を知ってるんだ」


「資料の中に、少しだけ……。

 東野さんと一緒に事件を追っていた人だって。でもとある事件で亡くなったて。だけどとてもすごい人だったて書いてありました。

 ……だから、いつか追いつきたいって思ったんです。

 玲さんにも、東野さんにも」


葵の瞳は澄んでいて、濁りがない。

あの冬の後、僕が失ったものをすべて持っているように見えた。

そんな彼女が、

“僕自身を肯定する言葉” を、ためらいなく口にした。


心の奥で、ずっと重く凍りついていた何かが

ひとつ、微かに音を立てて割れた――気がした。


「……名前を教えてくれる?」


ようやく、声を返せた。

少女は少し照れたように笑った。


「光城 葵です。

 どうか、よろしくお願いします!」


その笑顔を見た瞬間、

あの冬に失った僕の運命がまた静かに動きだしたことを、僕は感じていた。

そして――突然、胸の奥で

ひどく懐かしい声がよみがえった。




『だいぶ私たちの名前も売れてきたんじゃない、輝?

 きっと、あいつもあの世で喜んでるよ』


あの夜の空気の冷たさまで思い出せる。

街灯もない川沿いの道。

玲の黒髪が月光を受けて、静かに揺れていた。

振り返ったときの横顔は、

冗談めかして笑っているのに――

どこか、もう遠くへ行ってしまう人のようだった。

その“違和感”に気づけなかった自分を、

僕は今でも赦せないでいる。


あの日、僕らは二年間追い続けてきた犯罪組織のリーダーを逮捕し、警察主催の祝賀会に招かれていた。


会場は、当時の警視総監・黒河原朔弥の知人が代々受け継いできた築百年の老舗旅館。

趣はあるが、防犯設備は最低限。

――今思えば、あの夜の悲劇を許した理由はそこにあったのかもしれない。



旅館に到着すると、今回の捜査責任者であり警部の鬼塚皇征が声をかけてきた。


「祝賀会は二時間後だ。それまで部屋でゆっくりしておけ」


そう言われて鍵を受け取り、部屋に荷物を置いた瞬間、

玲がふっと立ち上がった。


「祝賀会が始まる前に温泉、入ってくる」


軽く笑って部屋を出ていったが――

今、思い返すと、あの時の横顔はどこか寂しげだった。

僕はその意味を知らないまま、

あの夜へと足を踏み入れてしまったのだ。



祝賀会が始まるまでの二時間、

玲は部屋に戻ってこなかった。


当時の僕は深く考えもしなかった。

警察幹部やマスコミと話しているのだろう――

そう思い込み、危機感すら抱かなかった。


だからこそ、僕は“探しに行かなかった”。


この判断が、あの夜の全てを決めてしまったのだ。




祝賀会の会場に足を踏み入れた瞬間、

胸の奥で何かがわずかに軋んだ。

玲の姿がない。


「玲を見ませんでしたか?」


警察関係者や記者に片っ端から声をかけても、

返ってくるのは決まって同じ言葉だった。


「いや……知らないな」


その瞬間、

はじめて嫌な予感が走った。

胸が痛むほど鼓動が速くなる。

汗ばむ掌。

喉が乾く。

――見つけなきゃ。

二時間遅れの焦りが、

今さらになって胃の奥を掴んだ。

僕は祝賀会の喧騒を背に、旅館内を駆け回った。

廊下の奥へ、さらに奥へ。

古びた木材がわずかに軋む音まで、やけに大きく聞こえた。

そして――


旅館の最も暗く、人気のない場所。

掃除用具が積み上げられた小さな物置の前で、

僕は息を呑んだ。

扉が、ほんのわずかに開いている。


「……玲?」


返事はない。


ゆっくりと扉を押し開けた瞬間、

世界が凍りついた。


そこには――


背中にナイフを突き立てられ、

うつ伏せに倒れた鬼塚皇征がいた。

生臭い鉄の匂いが、

古い旅館の空気に重く沈んでいた。




葵に“玲”の名前を出された瞬間、

胸の奥に沈めていた記憶が、音を立てて浮かび上がった。

何度も忘れようとした。

消そうとした。

けれど―—どうしても消えなかったもの。

そんな僕を見た葵は、戸惑いを隠せない顔で訊いた。


「東野さん……顔色、悪いです。大丈夫ですか?」


「……ああ、ごめん。ちょっとね。

 心配してくれてありがとう。大丈夫だよ」


声に力が入らない。

自分でもわかるほど、無理をしていた。


「さっきの話だけど……助手に、だっけ?」


僕は小さく息を吐き、言葉を続けた。


「ごめん。今は、誰かを助手としては取っていないんだ」


あの日以来、

誰かと肩を並べることが怖くなった。

もう二度と、大切な人を失いたくなかった。

けれど葵は、すぐに気丈に笑おうとした。

その瞳には、諦めと……別の色が混ざっていた。


「そう……ですか。

 助手にしてもらえないのは残念ですが、実は本命はもう一つの依頼なんです」


「依頼?」


葵は鞄の紐を握りしめ、言葉を絞り出すように続けた。


「一週間前から……弟が帰ってこないんです。

 警察には捜索願も出しました。でも、全然進展がなくて……」


助手を断られた悲しみと、弟を案じる切迫が同じ瞳に宿っていた。

その目を見た瞬間、僕はため息とともに頷いた。


「……わかった。

 それなら、手伝えるよ」


葵の表情が、わずかに緩んだ。

“玲の影”に押しつぶされていた僕の時間が、

ほんの少しだけ、動いた気がした。




翌朝、僕はハチ公前に立っていた。

通勤客の波が絶えず流れ、駅前は朝のざわめきに満ちている。

葵とは昨夜のうちに、


「明日の朝、ここでーー」


そう約束していた。

しかし、集合時間をとうに過ぎても彼女は現れなかった。


ーー30分。

ーー45分。

ーー1時間。


スマホの画面を何度見返しても、

新しい通知はひとつもない。

胸の奥がざわつき、

落ち着かない汗が背中を伝った。

嫌な予感ーーいや、“悪い記憶”が蘇る。

玲も、そうだった。


あの夜。

集合時間になっても姿を見せず、


「あとで会場に来るだろう」


そう軽く考えた結果が、どれほど致命的だったか。

葵が遅れている、ただそれだけなのに、

冬の夜に戻されたように心臓が痛くなった。

僕は人混みの中で立ち尽くし、

時間だけが重く落ちていくのを感じていた。


初投稿ですアドバイスなどがあればぜひお願いします

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