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Looks of Me

作者: 伊阪証
掲載日:2025/10/28

「スマートグラス」の恩恵を享受し、生活することは、この社会における義務だった。

結城透は、公営企業〈FACE STATE〉が管理するこの技術を、深く愛し、信頼していた。なぜなら、グラスを通して見る世界は、差別や優遇を防ぐために完全に均一化され、顔の醜い/美しいによる人間の本能的な判断が根絶された、公正で平和な世界だったからだ。

透は大学の講義室、最前列でヘッドアップディスプレイに表示される講師の言葉に視線を送っていた。彼の前に座る学生たちの顔は、皆、AIによって生成された最適な「補正顔」に置き換えられて表示されている。個性の無い、しかし完璧なその顔は、どれもが等しく美しい。

「人間は見た目に影響される。それは脳の構造上の問題であり、意思の力では変えられない」

講師が淡々と語る。透は心の中で同意した。スマートグラスがなければ、人間は必ず差別を始める。それは歴史が証明している事実であり、グラスは、その汚れた歴史に終止符を打った、人類最高の英断だった。

休憩時間、透はグラスの側面を軽くタップした。視界の隅に、現在の補正パラメーターと、グラスのバッテリー残量が表示される。彼のグラスは常に完璧な状態を保っている。透は補正AI技師を目指す学生として、このシステムの完璧さに誇りを感じていた。

だが、その完璧な日常は、ほんのわずかな不調によって崩れ始める。

透が立ち上がり席を立つ時、背後から来た学生と肩がぶつかった。ただそれだけのこと。

「ごめん!」

ぶつかった学生は軽い謝罪と共に去っていく。その瞬間、透のグラスの視界が一瞬だけ砂嵐を打った。そしてすぐに修復されたものの、何かが違った。

透は気にも留めず、講義室を出てロビーを歩く。その時、前から歩いてきた老教授の顔が、ほんの0.3秒だけ、別の何かに置き換わった気がした。それは、透が見たこともない、補正されていない「素の」老人の顔だった。肌の弛み、深く刻まれた皺、そして何よりも、疲弊と諦念の色が濃く滲んだ、生々しく醜い表情。

透は思わず立ち止まった。心臓がドクンと嫌な音を立てた。

「今の・・・何だ?」

目を擦り、改めて教授の顔を見る。そこにはAI補正によって生成された、穏やかで優しげな教授の顔が、いつも通り完璧に表示されていた。

錯覚だろうか。いや、違う。あの、人間の本性が剥き出しになったような顔は、確かに今の透の視界に映ったのだ。

透は不安を感じながらも、ポケットに手を入れてグラスを再起動させる。何事もなかったかのように、周囲の世界は公正で、平等で、そして偽りの完璧さに満ちていた。しかし、彼の内側に、何かが引っかかっていた。

(このグラスは、本当に完全なのか?)

透は、人類の平等を保つ最後の砦であるスマートグラスの、システムのほころびを、確かに垣間見てしまった。

「今の・・・何だ?」

結城透は、ロビーのベンチに座り込み、焦燥感に駆られてスマートグラスを外した。フレームの端にあるリセットボタンを長押しし、再起動を試みる。

再起動後、視界に表示されたシステム診断は、「異常なし」を示した。彼のグラスは物理的に損傷を受けておらず、内部の補正AIも完璧に機能していると診断された。

「気のせいか・・・」

そう自分に言い聞かせ、グラスをかけ直す。世界は再び、均一化された補正顔で満たされた。安心感と共に、背筋に冷たいものが走る。もし、このグラスが故障していたら、彼はこの公正な社会で生きていけない。なぜなら、差別や優遇を防ぐ唯一の盾を失うことになるからだ。

講義を終え、透は親しい友人のタケシと合流した。タケシの補正顔は、明朗で知的な印象を与えるAI生成の顔だ。

「今日の講義、難しかったな。透は相変わらず完璧だったけど」

タケシが笑った瞬間、まただ。

タケシの補正顔が、一瞬だけ歪んで、崩れた。そこには、普段の快活な印象とは似ても似つかない、狡猾で猜疑心の強い素の表情が浮かび上がった。その顔は、透が昨日見た老教授の素顔と同じ種類の、本性が滲み出た醜さを持っていた。

透は思わず一歩後ずさった。タケシは不審に思って首を傾げる。

「どうした、透?」

「いや、なんでもない。ちょっと疲れた」

透はすぐに視線を逸らした。タケシは、本当にこんな顔で、自分に優しさを向けていたのか?

その日から、素顔を垣間見る現象は頻繁になった。食堂の店員、駅のホームのサラリーマン、そして自分の隣を歩く知らない女性まで。補正顔の下に隠された、人間の欲望、憎悪、諦めといった本性の断片が、透の視界にフラッシュバックのように現れる。

この社会は、スマートグラスのおかげで差別なき平等を築き上げたはずだ。しかし、グラスが不調をきたした今、透に見えるのは、醜い素顔が持つ剥き出しの人間性であり、それこそが、グラスが必死に隠そうとしてきた差別の根源だった。

彼は気づき始めていた。このグラスの向こう側は、憎しみや嫉妬が渦巻く、醜い世界なのだと。そして、その醜い素顔を見てしまった自分自身が、もはやこの公正な社会の異物になりつつあることを。

彼は、美しい補正顔の群衆の中で、完全に孤立していた。誰一人として、彼が何を見ているのか知らない。

(誰か、誰でもいい。あの醜い顔じゃない、完璧に美しい顔を見せてくれ・・・)

それは、公正な社会を否定し、優遇や差別を求める本能的な願望だった。透は、自身がスマートグラスの最大の敵である「差別意識」に侵され始めていることに、まだ気づかなかった。

結城透は、友人タケシを避けるようになった。タケシの補正顔は相変わらず穏やかで、親切な態度も変わらない。しかし、透の視界に時折フラッシュバックする、あの狡猾で猜疑心の強い素顔が、タケシの言葉の全てを裏切りのように響かせた。

(グラスは皆を平等にした。だが、AIが補正しない人間の心は、こんなにも醜いのか)

透は講義を休みがちになり、大学構内の、人目の少ない隅にある中庭で時間を潰すようになった。グラスを外すと、周囲の建物や自然の色彩が不鮮明になり、不安が増す。だが、グラスをかけると、素顔の恐怖がいつ襲ってくるかわからない。

彼は、偽りの完璧な世界と、生々しく醜い現実の狭間で、精神的に追い詰められていた。

そんな孤立のさなか、大学の掲示板の隅に貼られた、古びた紙の落書きに目が留まった。それは、スマートグラス社会では珍しい、手書きの、ほとんど消えかかった文字だった。

「奇跡の顔。補正不要。美の異端。」

その下には、たった一つの名前が記されていた。

――霧ヶ丘ルミナ

透の心臓が、あのグラスの不調以来初めて、恐怖ではない、強い期待に打たれた。

「素顔でも完璧に美しい女性」の噂は、このスマートグラス社会において、都市伝説のように囁かれるものだった。この社会では、誰もが補正顔であるべきだ。美醜は、差別や優遇の原因となる悪として排除された。

だからこそ、素顔で完璧な美しさを持つ女性は、この公正なシステムにとって、最大の異物であり、ルールを破壊する存在となる。彼女の美しさは、それだけで他者に優越的な感情(羨望、嫉妬、または崇拝)を抱かせ、社会の平等性を根底から揺るがしてしまうからだ。

透は、その名前が、今、彼が求める唯一の救いだと直感した。

醜い素顔への幻滅が深まるほど、透の中で、「真実の美しさ」を求める差別的な本能が肥大していた。彼はもはや、「平等」や「公正」といった社会の原則よりも、ルミナという個人の絶対的な美しさを渇望していた。

(彼女さえ見つけられれば。あの醜い世界を、一瞬でも忘れさせてくれるなら)

透は立ち上がった。彼のグラスは、まだ「異常なし」を示している。だが、彼自身が、この社会の公正さを否定し、美による優遇を求める、最も危険な反逆者になりつつあった。

彼の視線は、誰にも補正されない、たった一人の「完璧な顔」を求めて、この均質な都市を彷徨い始めた。

「霧ヶ丘ルミナ」の名前は、補正顔が溢れるこの均質な情報空間では、簡単に辿り着ける情報ではなかった。

透は、スマートグラスの情報検索に「霧ヶ丘ルミナ」「素顔 美」「補正 不要」といったキーワードを打ち込んだが、AIは直ちにそれらを「社会の公正性を乱す、不適切な差別情報」としてフィルタリングした。グラスを通して見る検索結果は、すべて無難な、ルミナとは無関係のデータに置き換えられていた。

(AIに頼れないなら、自力で探すしかない)

透はアナログな方法に頼ることにした。手書きの落書きがあった掲示板の周囲を張り込み、ルミナを知っているかもしれない人間を探す。

しかし、周囲の補正顔は、皆が皆、透の行動を無関心で通り過ぎるか、あるいは微かな嫌悪を滲ませる表情をチラつかせるだけだった。

透が通りすがりの学生に声をかける。

「ねぇ、霧ヶ丘ルミナって、知ってる?」

学生の補正顔は、困惑と親切心を示す完璧な笑顔だった。だが、グラスの視界が激しく点滅した瞬間、彼の素顔が一瞬露呈した。それは、「面倒事に巻き込まれたくない」という、純粋な保身と、透への軽蔑に満ちた、凍えるような醜い表情だった。

「知らないですね。補正AIに聞いた方が早いんじゃないですか?」

学生はそう言って去っていった。その親切な言葉の裏にある醜い本性に、透は吐き気を覚えた。ルミナを探す行為は、同時にこの社会の醜さを何度も強制的に見せつけられる行為でもあった。

透のグラスの不安定さは、日を追うごとに悪化した。醜い素顔のフラッシュバックは、もはや一日のうち数十回に及び、透の精神は休まる暇がない。

一方、公営企業〈FACE STATE〉の中央サーバーでは、透が着用するスマートグラスのログデータが、異常値として自動的にマークされていた。

「対象ユーザー:ユウキ・トオル。グラス補正AIの再起動回数、過去一週間で平均値の450%増。検索キーワードに『素顔』『美の異端』が複数回検出」

システムは透のグラスの不調ではなく、透自身の内面的な異常を検知していた。

「補正AIの公正性を疑い、差別や優遇の原因となる「美」を執拗に探求している。これは、社会の平等性を脅かす異端行動であると断定します」

AIは無感情に結論を出した。そして、「対象ユーザー:ユウキ・トオルに対する、監視レベルの引き上げ」が、密かに実行された。

透は、誰にも言えない秘密と、醜い現実に追われながら、唯一の救いであるルミナの情報を、血眼になって探し続けていた。その行動が、すでに巨大なシステムとの静かな対決を始めていたことを、まだ知らなかった。

ルミナに関する情報は、都市のメインネットワークではなく、古い時代の紙の掲示板や、暗号化されたローカル通信の中にわずかに存在していた。透は三日三晩、ほとんど眠らずにそれらの情報をかき集めた。

そしてついに、決定的な手がかりを得た。霧ヶ丘ルミナは、公営企業〈FACE STATE〉のデータに、「存在しない人間」として記録されていた。彼女は、公正を保つ補正AIの監視ネットワークが届かない、都市から遠く離れた地域、具体的には旧・第三世代通信エリアの廃村に近い田舎に姿を消した、というのだ。

透の脳裏に、まるで啓示のようにその言葉が響いた。この都市の公正と平等のシステムから離脱すること。それが、醜い素顔への恐怖から逃れ、ルミナという真実の美を見つける唯一の道なのだ。

ルミナが都市にいないと知った瞬間、透は安堵した。彼女はすでに、この偽りの世界を否定して去ったのだ。

しかし、その安堵も束の間だった。

透が情報を得た古いネットカフェから出た瞬間、彼のスマートグラスが、けたたましい警告音と共に、視界を真っ赤なエラーメッセージで満たした。

「警告:グラス補正AIの公正性維持不能。システム緊急停止を実行します」

その警告と共に、AIによる完璧な補正が、完全に消滅した。

視界からエラー表示が消えると、そこには、この街で生きる人々の真の素顔が、何のフィルターも無しに映し出された。通りすがりのビジネスマンの、疲労と底意地の悪さが滲んだ顔。補正されていた時は優しげに見えた老女の、病的な嫉妬に歪んだ顔。カフェで笑い合う恋人たちの、相手を支配しようとする傲慢さが宿った顔。

すべての醜い人間性が、鮮明なカラーで、常時透の視界を侵食し始めた。

透はあまりの悍ましさに、思わず地面に膝をついた。まるで、今まで全身に浴びていた保護膜が剥がされ、汚泥の中に放り込まれたようだった。

「ひ、ぐ・・・」

周囲の人間たちは、彼のその様子を、素の、無関心で冷酷な眼差しで見ていた。彼らは透が何を見ているのか知らない。彼らは、自分の素顔が醜いことを、グラスが隠してくれている限り、永遠に知り得ない。

透は分かった。もはや、この都市で生きることはできない。この醜い現実から救われるには、ルミナという真実の美に到達するしかない。そのためには、社会そのものから排除されることを選ぶしかない。

透は震える手で立ち上がり、ルミナが去ったであろう、都市の最果て、「田舎」を目指して、歩き出した。

(ここから、離れろ)

彼の後ろ姿を、遠くの街灯に埋め込まれた〈FACE STATE〉の監視カメラが、静かに捉えていた。

ルミナに関する情報は、都市のメインネットワークではなく、古い時代の紙の掲示板や、暗号化されたローカル通信の中にわずかに存在していた。透は三日三晩、ほとんど眠らずにそれらの情報をかき集めた。

そしてついに、決定的な手がかりを得た。霧ヶ丘ルミナは、公営企業〈FACE STATE〉のデータに、「存在しない人間」として記録されていた。彼女は、公正を保つ補正AIの監視ネットワークが届かない、この都市から遠く離れた地域へと姿を消した、というのだ。

「このシステムに、存在しない場所へ・・・」

透の脳裏に、この都市の公正と平等のシステムが、いかに狭い範囲でしか成立していないかという事実が突き刺さった。ルミナは、すでにこの偽りの世界を否定して去ったのだ。

しかし、その安堵も束の間だった。

透が情報を得た古いネットカフェから出た瞬間、彼のスマートグラスが、けたたましい警告音と共に、視界を真っ赤なエラーメッセージで満たした。

「警告:グラス補正AIの公正性維持不能。システム緊急停止を実行します」

その警告と共に、AIによる完璧な補正が、完全に消滅した。

視界からエラー表示が消えると、そこには、この街で生きる人々の真の素顔が、何のフィルターも無しに映し出された。

通りを歩く全ての人間が、欲望と諦念、醜い自己愛を剥き出しにした素顔を晒していた。それは、透が今まで垣間見てきた、どの断片よりも生々しく、持続的な醜さだった。透はあまりの悍ましさに、思わず地面に膝をついた。まるで、今まで全身に浴びていた保護膜が剥がされ、汚泥の中に放り込まれたようだった。

「ひ・・・う・・・」

周囲の人間たちは、彼のその様子を、素の、無関心で冷酷な眼差しで見ていた。彼らは透が何を見ているのか知らない。彼らは、自分の素顔が醜いことを、グラスが隠してくれている限り、永遠に知り得ない。

透は分かった。もはや、この都市で生きることはできない。この醜い現実から救われるには、ルミナという真実の美に到達するしかない。そのためには、この都市そのものから逃亡することを選ぶしかない。

透は震える手で立ち上がり、ルミナが向かったであろう、都市の最果て、ネットワークの届かない場所を目指して、歩き出した。

(この醜い世界から、逃げろ)

彼の後ろ姿を、遠くの街灯に埋め込まれた〈FACE STATE〉の監視カメラが、静かに捉えていた。

結城透は、補正AIによる偽りの美と公正が支配する都市を、ただひたすらに歩いた。彼のグラスは沈黙し、視界に映るのは、人類の平等という大義名分の下、スマートグラスが隠蔽し続けてきた醜悪な素顔の奔流だった。

疲労困憊したサラリーマンの虚ろな目。無意識に人を値踏みする若い女性の薄っぺらな笑い。一つとして、透の心を休ませるものはなかった。ルミナという真実の美を求める渇望だけが、彼をこの地獄のような現実から引き離し、前進させた。

都市の境界線に近づくにつれ、人通りはまばらになり、代わりに空を低く飛ぶ、白い監視ドローンの数が増えていく。それらはすべて、公営企業〈FACE STATE〉のロゴを刻んでいた。

境界線に立つ、最後のチェックポイント。無機質なゲートの前で、透はついに物理的な抵抗に遭遇した。

「ユウキ・トオル。スマートグラスの認証が確認できません。直ちに中央管理システムに接続し、補正機能を再起動しなさい」

ゲートに設置されたAI音声が冷たく命じる。同時に、ゲートの脇から、FACE STATEの制服を着た二人の警備職員が現れた。彼らの補正顔は、無感情で絶対的な公正を体現しているかのように完璧だったが、その下の素顔は、透の視界に義務感と、異物を排除することへの微かな優越感を滲ませてチラついた。

透は立ち止まり、震える声で叫んだ。

「この先へ行かせろ!」

「命令に逆らうことは、社会の公正を乱す行為です。あなたは異端者と見なされます」

警備職員が一歩、踏み出した。透は知っていた。このシステムにとって、差別を求める心を持った自分は、排除されるべき癌細胞なのだと。

彼は踵を返し、人目につかない都市の壁沿いを、無理やり走り抜けた。AIの追跡を逃れるため、細い裏道や廃墟を縫うように進む。彼の身体は疲れ果てていたが、もう後戻りはできなかった。

数時間の逃走の末、ついに都市の厳重なフェンスを越えた。そこは、ネットワークの信号が弱まり、FACE STATEの監視ドローンが飛び交う頻度が格段に落ちる、都市と外界の「狭間」だった。

その狭間に、透は驚くべき光景を見た。

錆びついたコンテナや廃材を組み合わせて作られた、小さな集落。そこにいる人々は、誰もスマートグラスを着用していない。彼らの顔は、補正されていない素顔だった。しかし、都市で見た、醜い本性が滲み出た顔とは少し違っていた。そこには、疲弊と、社会から見放された諦めはあるものの、どこか開き直ったような、生の力があった。

彼らは、スマートグラス社会から追放された排除者たちだった。

透が警戒しながら集落に足を踏み入れると、一人の老人が、何かの図面を壁に貼り付けながら、彼に声をかけてきた。老人の素顔は、皺深く、醜くはないが、孤独を宿していた。

「おい、坊主。そんなに慌てて、何を追いかけてる?」

透は、ルミナという希望と、醜い現実からの逃避を同時に求める自分が、この集落の住人たちと同じ穴のムジナであることを悟った。彼は、この集落の誰かが、ルミナという異端の美について、何か知っているかもしれないという予感に駆られていた。

透に声をかけた老人は、彼をコンテナで組まれた集落の奥へと招き入れた。簡素な造りだが、生活の匂いがする場所だった。

「何を追いかけてるか、答えてないぜ、坊主」

老人は、顔に深く刻まれた皺を動かし、透に水筒を差し出した。透は渇いた喉を潤し、意を決して、最も知りたい名前を口にした。

「霧ヶ丘ルミナ、という女性を知りませんか?」

老人の素顔が、一瞬、硬直した。その素顔には、都市で見たような邪悪な本性はなかったが、強い警戒心が露わになった。

「ルミナ?ああ、あの『完璧な顔』の女か。とっくにここから消えたよ」

「消えた?」

「あんな顔、どこにいても目立つだろう。ここには、システムから追放された者しかいない。だが、俺たちは差別を嫌ってここにいる。あの女の顔は、それだけで優遇を生み出しちまう。だから、誰もあいつと関わりたがらなかった」

透は混乱した。彼が求めたのは、醜い現実から救ってくれる「美」だった。しかし、システムから追放されたこの集落でさえ、ルミナの美しさは差別を生む毒として忌み嫌われていた。この社会では、グラスを持たない世界でさえ、「美」は平和を乱す悪なのだ。

透の視界には、集落の住人たちの補正されていない素顔が映っている。彼らは疲労し、貧しいが、その顔には、彼らが嫌悪する「差別」の感情はほとんどなかった。彼らはただ、システムから自由であることを選んだ人々の、生の顔だった。しかし、ルミナへの執着で目が眩んでいる透には、彼らのその「美醜を超えた現実」は見えていなかった。彼らの素顔は、ただの「醜い現実」の一部として、彼の心を締め付けるだけだった。

「彼女は、どこへ行ったんですか?」透は前のめりになった。

老人は一瞬ためらい、持っていた図面――それは、この地域の旧式の地形図と、ネットワークの信号遮断エリアを示していた――を指差した。

「ここよりさらに奥だ。昔の集落の廃墟がある。通信網は完全に死んでる。あんな美しさを持つ人間が、この社会で生き残るには、二度と見つからない場所へ行くしかなかったんだろう」

老人の言葉は、ルミナが単なる伝説ではなく、実在の異端者であることを確信させた。同時に、透は、自分が向かうべき目的地が、この社会の監視と公正が完全に及ばない、最も遠い場所であることを知った。それは、この都市にいる限り、彼がグラスを失ってからずっと抱いてきた恐怖と、ルミナへの渇望の両方を満たす、唯一の場所だった。

「ありがとう」

透は感謝を告げ、老人が示した方向へ向かう準備を始めた。彼は、集落の片隅で、ルミナを追う旅に必要な、わずかな食料と、旧式の地図だけを手に入れた。

(彼女に会えれば、この醜い世界から、解放される)

透は、ルミナへの強い執着と、醜い素顔への恐怖だけを燃料に、補正AIの公正から完全に外れた、真の暗部へと足を踏み入れた。

集落を後にした結城透は、老人が示した旧式の地図だけを頼りに、荒涼とした大地をひたすら南東へ進んだ。この地域は、補正AIによる公正な監視から切り離された、世界の盲点だった。

身体的な疲労は想像を絶するものだった。食料は乏しく、通信手段もない。だが、何よりも透を苛んだのは、精神的な消耗だった。

彼のグラスは完全に沈黙している。時々、近くを通り過ぎる、同じように都市を追放された旅人や、僅かに残る集落の住人の素顔は、差別を恐れる都市の人間よりも生々しく、真実味があった。しかし、そのすべてが、透にとっては「醜い現実」に分類された。

透の心の防衛線は、すでにルミナのイメージだけで保たれていた。疲労の極限に達すると、彼の瞼の裏には、「素顔でも完璧な美しさ」を持つルミナの、架空の顔が焼き付いては離れなかった。

(あの顔だけが、僕を救ってくれる。あの美しさだけが、この醜い世界を許せる理由になる)

それは、美による優遇という、この社会が最も排斥したはずの感情だった。透は、ルミナという差別を誘発する毒を、自ら進んで求めているのだ。

三日目の夜明け、透が廃墟となったガソリンスタンドの残骸で身を休めていると、遠くの地平線から、異質な光が近づいてくるのを察知した。それは、都市の監視ドローンよりも大きく、高速な、FACE STATEの小型追跡機だった。

透のグラスから得られたログと、集落周辺の監視データから、彼の逃亡ルートが特定されたのだ。

「ユウキ・トオル。あなたのグラスは機能していません。直ちに戻り、システムに再接続しなさい」

追跡機から発せられた、スピーカー越しの音声は、AIの冷徹な命令だった。追跡機と共に、武装した一人のFACE STATEの職員が、地上を走って近づいてくる。職員の補正顔は、職務への献身を完璧に示していた。しかし、その素顔がチラついた瞬間、透の視界には、社会のルールを維持する者としての、傲慢な優越感が映った。

透は持っていた、集落で手に入れた錆びた鉄パイプを握りしめた。

「行かせろ!」

ルミナへの渇望が、恐怖を凌駕した。職員は透を捕縛しようと飛びかかったが、透は素早く鉄パイプを振り抜き、職員の頭部、補正AIのグラスを叩き割った。

ガラスが砕け散る音と共に、職員の補正顔が消え、そこには血と、驚愕と、絶望に歪んだ、素の、醜い本性が剥き出しになった。

透は一瞬怯んだが、職員の醜い素顔から目を逸らし、追跡機が着陸する前に、再び走り出した。

(僕には、美しいルミナが必要なんだ)

彼は、社会の公正を維持しようとする追跡者を排除し、完全にシステムからの逃亡者となった。彼の旅は、差別という毒を求める、孤独な闘争へと変わった。

FACE STATEの職員を排除した後、結城透は逃げるように荒野を進んだ。背中には、グラスが砕け散った時の乾いた音と、職員の素顔に浮かんだ絶望と醜さが焼き付いていた。彼は、公正を保つ者に対して暴力を振るい、システムを破壊した。

(僕は、悪だ)

スマートグラス社会のルールから見れば、グラスの公正を否定し、美による優遇を求める自分は、紛れもない異端者であり、社会の敵だ。だが、彼の視界に映る醜い素顔の連続は、その罪悪感を上回る嫌悪感を掻き立てた。

彼は、醜い現実を見続けることの精神的な負荷から逃れるために、ルミナのイメージにさらに深く沈み込むようになった。

(あの美しさだけが、僕の罪を、この醜さを無効化してくれる)

ルミナの美しさは、もはや差別を誘発する毒などではなかった。それは透にとって、この世界に残された、唯一の絶対的な「正義」へと歪んで定義されていた。

旅路の風景は、都市の均質な美しさから、徐々に離れていった。道の両側には、AIによって管理されていない、手つかずの自然が広がり、植物や地表の不揃いなテクスチャが剥き出しになっていた。この世界には、補正も、差別も、公正もない。ただ「あるがまま」の現実だけが広がっていた。

その荒野の道を進むうちに、透は、路肩に打ち捨てられた旧型の情報端末の残骸を見つけた。そして、その端末の傍に、不自然に置かれた、小さな石の積み重ねを発見した。

透はそれを注意深く調べた。積み重ねられた石の下から、手書きの、小さなメッセージカードを見つけ出した。

そこには、簡潔な地図と共に、数日前に書かれたと思われる日付が記されていた。そして、「東へ」という短い文字。

その筆跡は、透が見たこともないものだった。だが、この通信圏外の地で、あえてこのようなアナログな痕跡を残した人物は、ルミナ以外に考えられなかった。

「彼女は・・・生きている」

ルミナが自分と同じようにこの醜い都市を逃れ、この荒野を歩き、そして確実に東へ向かっている。その事実は、透の消耗しきった心に、強烈な生気を吹き込んだ。

ルミナは、単なる希望の幻影ではない。彼女は、追跡できる、具体的な「現実」なのだ。

透は、醜い素顔の世界と、FACE STATEの追跡から、真実の美へ到達するための道筋を、ついに手に入れた。彼は、その石のサインが、自分に向けて残されたものだと信じて疑わなかった。ルミナが、彼を待っているのだと。

彼はカードを握りしめ、東の空に昇る太陽を目指して、再び歩き出した。

結城透は、ルミナが残したメッセージカードを何度も見つめた。そこには「東へ」としか書かれていないが、石の積み重ね方、そしてその下に隠された場所。それらが、彼女の強い警戒心と、誰かに託したいという微かな願望を物語っていた。

(彼女は、AIの監視が届かない、このアナログな方法でしか、メッセージを残せなかったんだ)

スマートグラス社会では、情報の公正性を保つため、あらゆるデジタル通信が監視されている。ルミナが残した、この原始的な痕跡は、彼女がシステムの網の目を完全に掻い潜って生きていることの証明だった。

透は、その小さなカードから、ルミナの過酷な旅の孤独を感じ取った。彼女の「素顔でも完璧な美しさ」は、都市の差別を嫌う人々からだけでなく、システムを追放された排除者たちからも忌避される絶対的な異物なのだ。彼女は、誰にも頼らず、ただ一人でこの荒野を逃げてきた。

その瞬間、透の中に生まれた感情は、これまでの「醜い現実を上書きしたい」という自己中心的な渇望とは、少し違っていた。

(彼女を、孤独にさせてはいけない)

彼の動機は、ルミナの美による救いを求める欲望から、孤独な彼女を追うという献身的な「愛」へと、微かに変質し始めていた。この荒野を歩く彼女の孤独は、醜い素顔に囲まれ、システムから排除された透自身の孤独と、完全に重なり合っていた。

荒涼とした風景は、もはや透にとって恐怖の対象ではなくなっていた。補正AIが描く均質な人工美ではなく、風に晒され、歪み、不揃いな形をした素の自然のありのままの姿。透はそれを、美醜ではなく現実として受け止め始めていた。

彼は、自分がルミナを追いかけることで、社会の公正という名の偽りの美から、個人の真実の生へと向かっているのだと薄々気づいていた。この旅は、醜い素顔から逃れるためだけでなく、ルミナという真実の人間性を、この世界に繋ぎ止めるためのものになりつつあった。

透は地図を確認し、ルミナが向かったであろう、さらに奥深い東の方向へ、再び足を踏み出した。彼とルミナを繋ぐものは、わずかな手書きのメッセージと、システムから逃亡した者同士の、共鳴する孤独だけだった。彼の追跡は、もはや逃亡ではなく、救出へとその色を変え始めていた。

東へ進むにつれて、ルミナの残した痕跡は、より頻繁に、そしてより明確になった。石のサインは、数時間前に置かれたばかりのように新鮮で、焚き火の跡にはまだ微かな灰の温もりが残っていた。

(もうすぐだ。僕と彼女の距離は、数時間を切った)

ルミナとの物理的な距離の接近は、透の消耗しきった心に、強烈な興奮をもたらした。しかし、その興奮は、愛と献身という美しい感情だけではなかった。

透の心の奥底で、最初に彼を突き動かした、醜い素顔への恐怖と、美による絶対的な救済を求める、差別的な渇望が、再び頭をもたげた。

(彼女の美しさだけが欲しい。その完璧さだけが、僕が見た全ての醜さを無かったことにしてくれる)

ルミナを救うという愛の衝動と、ルミナの美を独占したいというエゴイスティックな欲望が、透の心の中で激しく衝突した。彼は知っていた。この欲望こそが、スマートグラス社会が「差別」として排除しようとした、人間の最も汚れた本能なのだと。

「僕は、ルミナを救いたいのか、それとも、ただ彼女の美しさで自己を救いたいだけなのか?」

透は、醜い素顔が映る自分の視界から逃れるように、目を瞑った。

その頃、FACE STATEの中央監視システムは、都市のネットワーク圏外で発生する不規則な電力使用の痕跡と、透のグラスの最終ログから得た推測ルートを照合していた。

「分析結果:異端者ユウキ・トオルと、追跡対象キリガオカ・ルミナの接触可能性、極めて高。ルミナの生存を確認」

AIは無感情に結論を下し、ルミナの捕獲を最終目標とする、より大規模で組織的な追跡部隊の派遣を決定した。彼らにとって、ルミナの「素顔の美しさ」は、差別を誘発する最大の汚染源であり、直ちに排除する必要があった。

透が、ルミナの痕跡に導かれるまま、木々がわずかに生い茂る斜面を登り切った時、目の前の小さな谷間に、人の手によって掘られた、簡素な隠れ家を見つけた。

焚き火の煙はもう上がっていないが、隠れ家の入り口には、まだ乾ききっていない水滴が残されていた。

ルミナは、すぐそこにいる。

透の心臓は、恐怖と期待、そして醜い欲望で早鐘を打った。彼は、自分が本当に求める「真実」に、今、触れようとしていた。彼の逃亡の旅は、間もなく終わりを迎える。

結城透は、緊張と興奮で脈打つ心臓を抑えながら、簡素な隠れ家の入り口をそっとくぐった。

中は薄暗く、わずかに土と草の匂いがした。その奥、地面に敷かれた毛布の上に、一人の女性が座っていた。

霧ヶ丘ルミナ。

透の視界には、彼女の顔が、何の補正もなく、ありのままの姿で映った。

息を呑んだ。

彼女の顔は、透が今まで見てきた、醜い本性を露呈した全ての素顔とは、完全に異なっていた。AI補正による均質な美しさでも、偽りの優しさでもない。彼女の素顔には、一点の曇りもなく、完璧なまでの美しさが宿っていた。肌の質感、鼻筋の通った造形、そして、警戒の色を湛えながらも澄んだ瞳。それは、優遇や差別といった概念を超越し、ただそこに存在する、圧倒的な真実だった。

透の脳裏に焼き付いていた、醜い素顔の残像が、一瞬にして消え去った。彼の心の中で肥大していた、ルミナの美による救済を求める差別的な欲望は、その絶対的な光によって満たされ、静かに鎮まった。

「ああ・・・」

透は言葉を失い、その場に立ち尽くした。彼が求めていたのは、この美しさだった。醜い現実から逃れるための、絶対的な盾だった。

ルミナは、透の異常なまでの反応を冷静に見つめた。彼女は透の手に握られた旧式の地図と、顔に浮かぶ極度の疲弊と精神的な消耗を読み取った。

「あなたは・・・グラスが機能していないのね?」

ルミナの声は静かだった。その一言で、透がこの都市を逃れ、醜い現実に晒されてきた逃亡者であることを、ルミナはすぐに理解した。

透はゆっくりと頷いた。彼の視界は、ルミナの完璧な美しさだけを捉えていた。

「僕は、あなたのことを、ずっと・・・」

「知ってるわ。私の『顔』を、探していた」

ルミナは冷徹な言葉で、透の動機の核心を突いた。彼女は自分の美しさが、どれほど多くの人間の欲望と嫉妬を掻き立て、システムから排除される原因になってきたかを知っていた。

だが、透の瞳の中に、醜い欲望だけでなく、深い孤独と、真実を求める切実さが混ざっているのを、ルミナは感じ取った。

「私は霧ヶ丘ルミナ。あなたは、結城透。追われているのね」

透は、ルミナの完璧な美しさが、公正な社会のルールを、いかに無力化するかを悟った。彼女は、技術が人間を"守りすぎた"世界で、唯一の人間性の真実を体現していた。

「僕を、ここに置いてください。僕も、この醜い世界から逃げたんだ」

ルミナは微かに目を閉じ、そして開いた。彼女の瞳には、拒絶ではなく、同じ異端者として、微かな共感が浮かんでいた。

「あなたは、この私の『美しさ』が、差別を生む毒だと知っても、逃げられないのね」

ルミナの問いに、透はただ、首を横に振った。この瞬間、彼の逃亡は終わり、美という真実の選択が始まった。

ルミナの隠れ家での生活は、簡素だったが、透のこれまでの逃亡生活とは比べ物にならないほど満たされていた。ルミナは、水を探し、わずかな食料を分け合い、この荒野で生き抜くための生の力を持っていた。

そして、その全てを包み込むのが、ルミナの完璧な素顔だった。透の視界には、もはや醜い素顔の残像はフラッシュバックしない。ルミナの美しさが、彼の脳内の醜い現実を、まるでノイズキャンセルするように消し去ってくれたのだ。

ある夜、小さな焚き火の傍で、ルミナは静かに自分の過去の断片を語り始めた。

「私の顔は、AIによる補正を必要としなかった。それが、この社会の最大のバグだったの」

ルミナの美しさは、彼女が意図したものではないが、補正AIによる平等な公正を、無力化した。人々はグラスを通して補正された顔を見ているはずなのに、ルミナの素の存在は、彼女に対する優遇や、異様な嫉妬を生み出した。

「私は、差別と優遇という、この社会が最も恐れる感情を、ただ存在しているだけで呼び起こした。だから、排除されるしかなかった」

ルミナは、その完璧な美しさゆえに、この公正な社会から追放された最大の異端者だった。

透は、ルミナの静かな告白を聞きながら、自らのグラスが破損した理由、そして、ルミナに会うために抱いてきた醜い動機を、打ち明ける決心をした。

「僕が、あなたを探してここに来たのは・・・僕のグラスが壊れて、皆の醜い素顔が見えるようになったからです」

透は震える声で続けた。

「僕は、その醜さに耐えられなかった。だから、あなたの完璧な美しさで、あの醜さを上書きしたかった。僕は、あなたの美しさで、自分を救おうとした。僕は、差別を嫌うこの社会で、美による差別を求めて逃げてきた、最低の人間です」

ルミナは、目を閉じもせず、透の顔をまっすぐに見つめた。彼女の完璧な瞳には、批判も、軽蔑もなかった。

「そう。あなたは、この社会が恐れた人間の本能を、剥き出しにしたのね」

そして、ルミナは微かに笑った。それは、この荒野で初めて見せる、安堵と理解の笑みだった。

「私たちは、鏡合わせだわ。私は、美しさという存在で、社会の公正を乱した。あなたは、美しさを求める欲望で、社会の公正を乱した」

互いの最も深い秘密と、醜い動機を共有したことで、二人の間に強い連帯感が生まれた。透のルミナへの感情は、もはや醜い欲望ではない。それは、このシステムに否定された真実の人間性を共有する者同士の、確かな愛と、献身へと変わった。

この隠れ家は、公正な社会の外側に存在する、異端者たちの小さな世界となった。そして、透は、ルミナの美しさだけではなく、彼女自身の孤独な「生」を守り抜くことを、心に誓った。

隠れ家での日々は、結城透にとって、スマートグラス社会から逃亡して以来、初めての安息だった。

ルミナの完璧な素顔は、彼がグラスの破損以来晒され続けてきた、街の人間たちの醜い素顔の記憶を、まるで上質のヴェールのように覆い隠してくれた。ルミナの美は、彼にとっての絶対的な公正であり、この荒野の生活のすべてを、真実の美しさで満たした。

二人はほとんど会話をしなかったが、その視線は常に通じ合っていた。透が焚き火を起こし、ルミナが水を汲む。その単純な行為一つ一つが、システムに管理された偽りの生活を否定する、剥き出しの「生」の営みだった。

しかし、ルミナは透ほど、この平和に安堵していなかった。

「FACE STATEは、差別の原因を、決して許さない。彼らにとって、私は、システムを破壊する最大の異物だから」

ルミナは時折、そう呟き、遠くの地平線を鋭く見つめた。彼女の完璧な顔に浮かぶ、微かな緊張が、透にこの平和が偽りであることを思い知らせた。この安息は、FACE STATEの監視が届かない、たまたまの盲点でしか成り立っていないのだ。

数日後、透は食料を探すために、隠れ家から少し離れた、旧道へと足を運んだ。

荒れたアスファルトの表面。透が、その地面を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。

そこには、この地域では見慣れない、大型の移動車両の新しいタイヤ痕が残されていた。轍は深く、確実にこの隠れ家に近づいてきている方向を示していた。さらに、その痕跡の近く、草むらの中には、FACE STATEのロゴが微かに見える、小型監視ドローンの残骸が、粉々に砕けて散乱していた。

(僕たちが、見つかった)

それは、AIによる冷徹な追跡の証拠であり、公正という名の暴力が再び迫っていることを意味していた。FACE STATEは、ルミナの存在そのものを消し去るために、組織的な追跡部隊を投入し始めたのだ。

透の心は恐怖に震えたが、すぐにルミナの完璧な素顔を思い浮かべた。その顔を、再び公正という名の醜いシステムに汚させてはならない。

「彼女を、守り抜く」

彼がルミナの美を求めて逃げてきた、最初の欲望は、もはや消えていた。今、彼を動かすのは、ルミナという真実の人間性を、社会の暴力から守り抜くという、献身的な愛だけだった。

透は急いで隠れ家へと引き返し、ルミナにこの危機を知らせ、再び逃亡の旅に出る準備を始める必要があった。彼らの最後の平和は、崩れ去った。

結城透は、息を切らし、隠れ家へ飛び込んだ。

「ルミナ!見つかった!FACE STATEの追跡部隊が来てる。ドローンの残骸と、車両の痕跡を見た!」

透のパニックに対し、ルミナは驚くほど冷静だった。彼女は焚き火の炎を見つめながら、静かに頷いた。

「わかっていたわ。この美しさを持った私が、システムから目を離されることなんてない。彼らにとって私は、差別という名の病原体。必ず根絶しに来る」

ルミナは立ち上がり、隠れ家の奥に隠していた、さらに古い地図を取り出した。彼女の完璧な素顔には、恐怖の色はなく、ただ生き抜くための意志が宿っていた。

「ここよりさらに遠くへ行く。旧・第三世代通信エリアのその奥、都市の記憶から完全に消えた、山奥の廃集落がある。そこなら、AIの監視も、ドローンの稼働時間も、限界になる」

ルミナは、すでに次の逃亡先を決めていたのだ。彼女は透に地図を示し、最も追跡されにくい、自然の障害物を利用したルートを冷静に指示した。

透は、ルミナの冷静な判断力に圧倒されながらも、彼女の存在そのものが、公正という名のシステムに対する、最も強力な武器であることを再認識した。

「行こう。僕が、あなたを、そこまで連れて行く」

透はルミナの手を握った。彼の頭の中は、もはや醜い素顔への恐怖や、ルミナの美を独占したいという自己中心的な欲望ではなかった。今、透を動かすのは、ルミナという真実の人間性を、偽りの公正から守り抜くという、純粋な献身の愛だった。

「ねぇ、透」ルミナが静かに透を見つめた。「あなたが求めたのは、私の『美しさ』だった。でも、あなたは今、その美しさではなく、私という存在を守ろうとしている。それが、愛なのね」

ルミナの言葉に、透の心の中で、醜い動機は完全に浄化された。

「ああ。僕にとって、あなたの美しさは、もう差別を上書きする道具じゃない。あなた自身が、僕の真実のすべてだ」

二人は、言葉にならない愛の確認を終えると、すぐに動き出した。ルミナは火を消し、透は痕跡を残さないように周囲を整理する。

追跡部隊が、この隠れ家に到達するまで、時間は残されていない。二人は、システムに否定された真実の愛を胸に、さらに過酷な、最後の逃亡へと、夜の荒野へ足を踏み出した。

夜の荒野を、結城透と霧ヶ丘ルミナはほとんど声を発さずに移動した。彼らの行く先は、ルミナの地図が示す、都市の記憶から消えた山奥の廃集落だ。

透は常に五感を研ぎ澄ませていた。風に乗って運ばれてくる、遠い車両のエンジン音や、空の低い位置を通過する監視ドローンの微かな光。それは、公正な社会の暴力が、絶え間なく彼らに迫っている証拠だった。

移動中、ルミナは透に寄り添いながら、静かに、そして重い過去を語り始めた。

「私が都市から逃げたのは、人々の嫉妬や優遇だけが理由じゃない」

ルミナは一息ついた。

「FACE STATEは、私の顔を『完璧な素顔のデータベース』として利用しようとした。私の顔をAIに学習させ、全人類が納得する『究極の補正顔』を作るために」

透は息を呑んだ。ルミナの美しさは、差別を防ぐ公正という大義名分の下、システムそのものを完成させるための道具にされそうになっていたのだ。

「私の存在は、人間の本能的な美の概念が、AIの技術に完全に支配されるための、最後の鍵だった。だから私は、美しさゆえに自由を奪われることを嫌い、逃げた」

ルミナは、ただ存在しているだけで、公正な社会の矛盾を体現していた。彼女の逃亡は、個人の真実の生を、技術による全体主義的な公正から守るための、戦いだったのだ。

透は、その過去の重みに、ルミナの孤高の精神を感じた。彼は、疲弊し始めたルミナの身体をそっと支え、彼女の重さを全て受け止めた。彼の心には、一欠けらの醜い欲望も残っていなかった。ただ、この真実の人間性を守りたいという、強い愛と献身だけがあった。

ルートの途中、二人は山道の脇に隠されていた、旧式のセンサーを発見した。それは、何十年も前に設置されたFACE STATEの初期型監視システムの一部で、熱を感知して自動的に警報を発するものだった。

「これに引っかかると、最新のAIがすぐに私たちの存在を捕捉するわ」ルミナが冷静に言った。

透は、すぐに近くにあった泥と枯れ草を使い、センサーを覆い隠した。彼はもはや、ただ逃げるだけの学生ではない。ルミナを守るという強い意志が、彼にサバイバルに必要な知恵と行動力を与えていた。

センサーを無力化し、再び逃亡を続ける二人。追跡部隊の光は、すぐ後ろまで迫っている。

ルミナは、そっと透の手に触れた。

「透。私の『美しさ』は、あなたに醜い現実を見せた。それでもあなたは、私自身を選んでくれた」

透は、その言葉を力に変え、ルミナを抱きかかえるようにして、最後の目的地へと向かう険しい山道を、一歩一歩、力強く登っていった。

山道を登り続ける透とルミナの耳に、夜明け前の薄闇を切り裂くような、高性能ドローンの駆動音が、急速に近づいてくるのが聞こえた。

「もうすぐだわ、透。あの峠を越えれば、廃集落の入り口よ!」ルミナが切迫した声で言った。

しかし、その声が途切れるよりも早く、頭上の暗闇に複数のサーチライトが向けられた。FACE STATEの追跡部隊は、ついに二人の位置を完全に捕捉したのだ。

「止まりなさい!キリガオカ・ルミナ、ユウキ・トオル。直ちに応答しなければ、社会の公正を維持するために武力行使を行います!」

冷徹なAI音声が、山間に響き渡る。ドローンから降りてくる、重武装した数人の追跡職員の補正顔が、サーチライトに照らされて透の視界に映った。透のグラスは機能していないため、その素顔の醜さ―—システムに絶対服従する人間の冷酷さ——が、彼に迫る。

逃げられない。廃集落は目前だが、彼らが逃げ込めるまでの時間はなかった。

ルミナは立ち止まり、透を押しとどめた。彼女の完璧な素顔には、悲壮な決意が浮かんでいた。

「透。私が行く。私の美しさが、彼らの唯一の目的よ。私を囮にする」

ルミナはそう言って、自らサーチライトの当たる場所へ足を踏み出そうとした。彼女の美しさが、再び差別(この場合は捕獲)の原因となることを、ルミナは受け入れようとしていた。

「だめだ!」

透はルミナの手を掴み、強く抱き寄せた。彼の愛は、ルミナの美を鑑賞するためではなく、彼女の存在そのものを守るためにあった。

「君は先に行け!僕は、彼らの視線を、君から引き剥がす!」

透はルミナを突き放し、持っていた旧式の地図と、集落で手に入れたわずかな物資をルミナに押し付けた。

「あの廃集落で、僕を待ってくれ。必ず、そこで合流する!」

透はそう叫ぶと、ルミナとは逆の方向へ、全力で走り出した。彼は、自らが囮となり、追跡部隊の注意をルミナの完璧な美しさから引き離そうとしたのだ。

「ターゲットを分離!ユウキ・トオルを確保しろ!キリガオカ・ルミナの追跡は、後続部隊に任せる!」

AIの判断は、ルミナの捕獲を優先し、透を先に排除することを選んだ。

ルミナは一瞬立ち尽くしたが、透の命懸けの献身を無駄にしないため、涙を堪えて、透とは逆の、廃集落へと続く峠を駆け上がった。

透は、背後からの追跡ドローンの駆動音と、職員の怒声に晒されながら、醜い現実の中をただひたすらに走った。彼の愛は、この瞬間、自己犠牲という形で、真実を証明していた。

(必ず、ルミナのいる真実の場所へ戻る!)

彼は、偽りの公正を維持しようとする社会の暴力に、たった一人で立ち向かっていた。

結城透の逃亡は、もはや意志の力だけで行われていた。彼の身体は限界を超え、呼吸は悲鳴を上げ、脚は鉛のように重い。

背後からは、FACE STATEの追跡者たちが容赦なく迫ってくる。彼らの補正AIに守られた完璧な顔の下にある、義務感と無関心に満ちた醜い素顔が、走る透の視界に絶えずフラッシュバックした。

醜い、醜い、醜い――

世界のすべてが、彼を追う人々の醜さ、彼を裏切った社会の醜さ、そして彼自身の差別を求めた醜さに満ちていた。彼の視界は、醜悪な素顔の万華鏡となり、精神を破壊しようと襲いかかった。

その精神的な極限状態の中、透の脳裏に、霧ヶ丘ルミナの完璧な素顔が、鮮明に浮かび上がった。それは、ルミナを独占したいという欲望が生んだ幻影ではなかった。それは、彼女の孤独を守り抜こうとした、自己犠牲の愛が創り上げた、絶対的な真実の光だった。

ルミナの美しさは、醜い素顔の奔流を、静かに押し戻した。彼女の瞳は、優遇や差別ではなく、透の献身と愛だけを映していた。

(僕が、ルミナを救う。彼女の美しさは、僕を救うための道具じゃない。僕が、彼女の盾になる)

この瞬間、透のルミナへの愛は、醜い欲望という原罪を完全に克服し、真実の献身という名の救済へと昇華した。

透は、最後の力を振り絞り、荒野に広がる複雑な岩場と茂みを利用して、追跡部隊の目を欺いた。彼の巧妙な動きは、追跡AIの予測アルゴリズムを混乱させ、やがて、背後の追跡音は遠くで散漫な捜索へと変わっていった。

彼は、追跡を振り切った。

しかし、安堵はすぐには訪れなかった。透の意識は混濁し、足元が定まらない。彼は、ルミナのいる場所という、ただ一つの目的だけを信じて、よろめきながら山奥へと進んだ。

そして、夜明けの光が差し込む中、ついに透は、旧式の集落の廃墟にたどり着いた。

「透!」

廃墟の奥から、ルミナの声が響いた。彼女は、透の無事を信じて、ずっと待ち続けていたのだ。

ルミナの完璧な素顔が、透の視界いっぱいに広がった。それは、傷つき、泥まみれになった透を、優しく、深く愛する表情だった。

透は力尽き、その場に倒れ込んだ。ルミナはすぐに駆け寄り、彼を抱き上げた。

「大丈夫よ。あなたは、来てくれた。もう、誰も追いつけない」

ルミナの腕の中で、透の意識は遠のいた。しかし、彼の視界には、醜い素顔はもうなかった。ルミナの美しさと、彼女の愛が、彼を醜い現実から完全に救い出したのだ。

(ルミナ・・・君は、僕の真実だ)

彼の逃亡の旅は終わった。彼は、愛によって救われ、公正な社会の規範から完全に離脱した、真実の人間性の場所へ到達したのだ。

結城透が目を覚ますと、視界に映ったのは、煤けた天井の梁と、その手前に座る霧ヶ丘ルミナの完璧な素顔だった。

彼女は、透の頭の下に柔らかい布を敷き、彼の手を握っていた。廃集落の古い小屋の中で、わずかな陽の光が差し込み、ルミナの顔を照らしていた。

(醜い、現実・・・)

透は、反射的に周囲の人々の醜い素顔を探したが、視界に映るのはルミナだけだった。ルミナの美しさは、彼の脳内に焼き付いた醜悪な素顔の残像を、完全に浄化していた。彼女の存在そのものが、透の心の安寧となっていた。

「目が覚めたのね、透」

ルミナの声は優しかった。透は、彼女の献身的な看護のおかげで、肉体的、精神的な疲弊から急速に回復しているのを感じた。

「ここは・・・」

「この廃集落よ。都市の記憶から消された、ネットワークの届かない場所」

透はゆっくりと身体を起こし、ルミナの手を握り返した。彼らは、公正な社会のルールから完全に外れた、真実の生の場所にいた。電気も水道も、AIによる補正も、差別を防ぐための公正も、ここには何もない。あるのは、ルミナという真実と、透の献身的な愛だけだった。

彼らは、廃墟を修復し、近くの沢から水を汲み、荒れた土地からわずかな食料を探した。自給自足の、最も原始的な生活。それは、スマートグラス社会では異端とされた、人間の「素の生」だった。

「私たちは、もう、戻れない」

ある日、透が焚き火に薪をくべながら言った。

「ええ。私たちは、あのシステムにとって、差別を呼び起こす癌細胞だもの。排除されるか、ここで生きるか、二つに一つよ」ルミナが答えた。

透は、ルミナの完璧な素顔を見つめた。彼女の美しさが、彼を偽りの公正から救い、真実の愛へと導いた。

「この場所が、僕たちの現実だ。僕の視界には、もう、醜い素顔は映らない。あなたの美しさが、僕の全てを支配している」

彼の言葉は、もはや醜い欲望ではない。それは、ルミナの存在を肯定する、純粋な愛の告白だった。

二人は、社会という巨大なシステムから、個人の真実を選び取った。彼らの新たな生活は、愛と真実に満たされた、小さなユートピアとなった。しかし、この平和は、システムが彼らの存在そのものを許さない限り、長くは続かないだろう。

二人の選択は、静かに、社会との最後の対決の時を待っていた。

廃集落での静かな日々。透はルミナと共に、公正という名の監視も、醜い素顔の恐怖もない、穏やかな時間を過ごしていた。ルミナの完璧な美しさは、彼にとって、もはや視覚的な癒やしを超え、自己の存在を肯定する根拠となっていた。

しかし、透は知っていた。この平和が、ルミナの美しさという、社会にとっての「差別を誘発する毒」の上に成り立っていることを。

「あなたの顔は、この世界で最も危険だ」

透が薪を割る手を止めて呟いた。ルミナは、近くの沢から汲んできた水を分けながら、静かに透を見つめた。

「そうね。私の美しさは、公正な社会の成立を、存在そのもので否定してしまう」

ルミナの美は、透には救済だったが、FACE STATEのシステムにとっては、絶対に根絶すべきバグなのだ。彼らがこの場所で生きることは、社会の根幹に対する、静かなる反逆だった。

ある日の夕暮れ。食料を探しに集落の裏手の丘に登った透の視界に、遠く、地平線の彼方に微かな光の帯が映った。それは、都市の光だった。

都市の光は、公正と平等に守られた偽りの完璧さの象徴だ。その光は、遠く離れたこの場所まで、社会の影を投げかけているようだった。

さらに、廃集落の入り口付近には、追跡部隊が撤退する際に、最後の痕跡として設置したと思われる、旧式の小型センサーの残骸が、土の中に埋もれているのを透は発見した。それは、彼らの存在が、まだ完全に忘れ去られてはいないことの証拠だった。

その夜、二人は焚き火を囲みながら、迫りくる社会との対決について話し合った。

「彼らが、ここを見つけたら・・・」透が口を開いた。

「私たちは、戦うしかないわ。彼らが私たちに求めるのは、社会への復帰、つまり私の捕獲よ。そしてあなたには、この美しさを諦め、醜い現実を再受容することを強いるでしょう」ルミナが言った。

透は、ルミナの手を強く握りしめた。

「僕は、もうあの世界には戻らない。醜い素顔が支配する世界に、あなたの美しさはない。僕の愛は、あなたの存在を守るためにある」

二人は、偽りの公正の中で生きるという「選択肢」を、完全に排除した。彼らが選ぶのは、愛という名の真実の現実を守り抜くこと、そして、そのために社会との対決を受け入れることだけだった。

「私たちが選んだのは、この小さな世界よ。それを守り抜きましょう」

ルミナの完璧な素顔が、焚き火の光に照らされて輝いていた。透にとって、彼女の顔は、彼の人生における唯一の絶対的な真実だった。彼らは、静かに、迫りくる最後の戦いに備えていた。

廃集落の平和は、突然、破られた。

夜明け前、静寂を破って、廃集落の遥か上空を低く、ゆっくりと飛行する無人機の音が響いた。都市の監視ドローンとは比べ物にならないほど大型で、静音性の高い最新型だ。

「来たわね」

ルミナは静かに言った。彼女の完璧な素顔には、動揺の欠片も見えなかった。

無人機は、物理的な攻撃は仕掛けてこなかった。代わりに、廃集落全体を覆うように、超指向性のスピーカーから、冷徹なAI音声が響き渡った。

「キリガオカ・ルミナ、ユウキ・トオル。社会の公正を乱す行為は、直ちに中止しなさい」

それは、FACE STATEからの心理的な攻撃の始まりだった。

「ルミナ。君の美しさは、多くの人間の嫉妬と不幸を生み出した。あなたの優遇は、公正な社会の根幹を揺るがしている。自らシステムに戻り、醜い現実に晒される人々のために、協力しなさい」

音声は、ルミナの美しさが「差別を生む毒」であることを執拗に強調した。そして、透に向けられたメッセージも続いた。

「ユウキ・トオル。あなたは、醜い現実に耐えられず、美による救済という自己中心的な欲望で逃亡した。ルミナの美しさは、あなたの醜い本能を増幅させるだけだ。システムに戻り、平等という名の真実を受け入れなさい」

透は怒りに震えた。彼らの愛が、自己中心的な欲望だと断定されている。

「あれは、偽りの公正の欺瞞よ、透」ルミナが透の手を握った。「彼らは、あなたの愛を『差別願望』として定義し直すことで、私たちを精神的に追い詰めようとしている。彼らにとって、愛という予測不能な感情こそが、最も危険なバグなのよ」

ルミナの美は、透には真実だったが、システムには愛という名の予測不能な要素を持つ汚染源と見なされていた。

無人機は、さらに視覚的な攻撃を仕掛けた。廃墟の壁に、ホログラムで都市の補正された完璧な人々の顔を映し出したのだ。その顔は、無個性だが平和で、二人のいる場所が、いかに醜く、荒廃した異端の場所であるかを強調していた。

「私たちには、もう逃げ場はないわ」ルミナが言った。「ここが、逃亡の最終地点よ。これ以上の奥地はない。ここで、彼らが守ろうとする公正と、私たちが選んだ愛という真実との、最後の対決をするのよ」

透はルミナの瞳をまっすぐに見つめた。彼の心にあったのは、恐怖でも、醜い欲望でもない。ただ、ルミナという真実を、偽りのシステムから守り抜くという、確固たる決意だけだった。

「わかっている。僕たちが選んだのは、社会じゃない。僕たちは、ここで、愛という名の現実を守り抜く」

二人は、迫りくるシステムとの最終的な対決に向けて、小さな隠れ家の中で、静かに武器(愛と意志)を構え始めた。

夜が明ける前の、最も暗い時間帯。

廃集落の周囲から、微かな土の振動と、慎重な足音が聞こえ始めた。FACE STATEの追跡部隊が、心理的な攻撃から一転し、物理的な包囲網を敷き始めたのだ。

透は、ルミナと共に、集落の最も古い建物の瓦礫の陰に身を潜めていた。グラスのない透の視界には、遠くの木々の間に、武装した職員の補正顔が、スポットライトのように浮かび上がるのが見えた。補正顔は完璧な無表情だが、その下に隠された素顔は、任務遂行への冷徹な意志と、異端者への軽蔑を滲ませている。

「彼らは、もう私たちを逃がすつもりはないわ」ルミナが耳元で囁いた。

透は、瓦礫の破片や、古びた鉄筋を使い、集落の主要な通路に原始的な罠を仕掛けた。電気もAIもないこの場所では、彼らのサバイバルスキルと機知が唯一の武器だった。ルミナは、この地の地形と、追跡部隊の動きを冷静に予測し、透に指示を出した。

「ここが、私たちの最後の砦よ。この場所を守り抜くことが、私たちが選んだ現実を守ることになる」

すべての準備を終え、二人は瓦礫に身を寄せ合った。緊張感が張り詰める中、ルミナは静かに透の手に触れた。

「透。あなたは、醜い現実から逃れるために私を求めた。でも、あなたは、私が逃げたかった醜いシステムから、私を何度も守ってくれた」

ルミナは、透の顔を見つめた。彼女の完璧な素顔が、月明かりの下で、真の愛に満たされていた。

「私の美しさは、差別を生む毒でしかなかった。でも、あなたの愛は、その毒を献身と真実に変えた。ありがとう。あなたが、私という存在を選んでくれて」

ルミナの告白は、透の心の中で、醜い欲望の痕跡を完全に消し去った。彼が求めたのは、ルミナの美しさだけではない。醜い現実を恐れず、真実の生を生きようとする、彼女の魂そのものだった。

「僕たちの愛は、彼らが守ろうとする偽りの公正を、完全に否定する。僕たちは、人間性の真実を選んだんだ」

透はルミナを抱きしめた。二人の愛は、社会のシステムが最も恐れる、予測不能で、絶対的な、個人の真実として確立された。

やがて、遠い東の空が、微かに白み始めた。

夜明けだ。それは、システムと愛の、最後の対決の始まりを告げる光だった。二人の選んだ真実の現実が、今、偽りの公正によって試されようとしていた。

夜明けの光が、廃集落の瓦礫の間に、長い影を落とし始めた。

その静寂を破って、FACE STATEからの攻撃命令が、超指向性スピーカーを通して響き渡った。

「ターゲット:キリガオカ・ルミナの捕獲、および異端者ユウキ・トオルの確保。社会の公正を維持せよ」

命令と共に、周囲の木々や瓦礫の陰から、重武装した数名の職員が、一斉に集落へとなだれ込んできた。高性能ドローンが、上空から集落全体を監視し、職員たちに透とルミナの位置を指示する。

最初の一団が集落の入り口を突破した瞬間、透が仕掛けておいた原始的な罠が作動した。足元に隠されたワイヤーが張ったことで、二名の職員が体勢を崩し、連鎖的に倒れた。

「くそっ、原始的な抵抗だ!」

職員たちの補正顔が、一瞬、苛立ちに歪むのが、グラスのない透の視界にはっきり映った。透の機知が、AIに頼り切ったシステム側の思考を一時的に出し抜いたのだ。

しかし、追跡部隊はすぐに体勢を立て直す。職員の一人が、透とルミナが身を潜める瓦礫の山に近づいてきた。

透はルミナを庇うように立ち上がり、職員の前に姿を現した。彼の手に握られているのは、錆びついた鉄筋だ。

職員は透を確保しようと一歩踏み出し、その時、瓦礫の陰から、ルミナの完璧な素顔が、朝の光を浴びて現れた。

職員は、透への攻撃態勢を一瞬だけ停止した。

グラスの補正AIを通して訓練された職員たちにとって、ルミナの素顔の美しさは、規格外だった。それは、AIによる公正な均一性が、完全に否定された絶対的な真実だった。職員の補正顔は変わらないが、透の視界に映るその下の素顔には、驚愕と、そして微かな、本能的な崇拝の感情が浮かび上がった。

ルミナの美は、差別や優遇という概念を超越し、システムそのものの判断を鈍らせた。

「行かせるか!」

透は、職員のその一瞬の隙を見逃さなかった。彼はルミナを守るために、鉄筋を振り上げ、職員に襲いかかった。透の愛は、もはや醜い現実からの逃避ではない。それは、愛する真実の存在を、偽りの公正から守り抜くための、暴力的な決意へと変わっていた。

瓦礫の山に、激しい衝突音が響き渡る。システムと個人の愛との、本格的な対決が始まった。透の心には、ルミナの美だけが光となり、彼を突き動かしていた。

結城透が振り抜いた鉄筋は、職員の肩をかすめたが、決定打にはならなかった。訓練されたFACE STATEの職員は、すぐに体勢を立て直し、透の動きを封じ込めるべく、冷静かつ容赦なく襲いかかってきた。

透の抵抗は、所詮素人の焦燥だ。彼の身体は、すぐに職員の腕と特殊な拘束具によって抑え込まれた。職員の補正顔は依然として無表情だが、透の視界には、その下の素顔に浮かぶ冷たい勝利の笑みがはっきりと映った。

「ユウキ・トオル。あなたの抵抗は、社会の公正を乱す犯罪行為です。直ちに捕縛し、補正システムに接続します」

職員の持つ拘束具が、透の手首に冷たく食い込んだ。透は必死にもがきながらも、ルミナの完璧な素顔を見つめた。彼を突き動かすのは、もはや醜い現実から逃れたい欲望ではない。ルミナを守り抜くという、献身的な愛だけだった。

その時、ルミナが動いた。

彼女は瓦礫の山から、職員たちの注意を引くように、あえてゆっくりと姿を現した。彼女の完璧な素顔が、朝日に照らされて職員たちに向けられた。

「やめなさい。あなたたちが求めているのは、私の顔よ」

ルミナの言葉と共に、彼女は事前に用意していた、小さな反射板を、ドローンからの光が集中する位置に投げつけた。反射板が光を乱反射させ、上空のドローンのセンサーを一時的に麻痺させた。

「システムが、混乱している!」

職員の一人が叫んだ。彼らの動きは、ドローンの追跡AIからの指示に強く依存していた。ルミナは、アナログな知恵で、彼らの公正なシステムの最大の弱点を突いたのだ。

その一瞬の混乱。ルミナはすぐに透に駆け寄り、瓦礫の破片を使い、職員が透を拘束している拘束具の接合部に、鋭く正確な一撃を加えた。

カチン、という小さな金属音と共に、拘束具が外れた。

透は自由になると、ルミナを抱きかかえるようにして、集落の奥、追跡AIの予測が及ばない、最も複雑な地形へと身を隠した。

職員たちは、ルミナの美と機知によって完全に虚を突かれ、一時的に集落の入り口で足止めを食らった。

「彼らを、許すな!我々の行動こそが、社会の公正だ!」職員の一人が叫び、再び二人の追跡を開始した。

透は、ルミナの腕の中で荒い息をついた。彼らは、個人の愛と真実が、システムの公正という名の暴力に打ち勝った、束の間の優位を確保した。

「ありがとう、ルミナ。あなたは、僕を救ってくれた」

「私たちは、一人じゃないわ、透。私たちの愛は、彼らの偽りの公正より、ずっと強い」

しかし、追跡部隊はすぐそこまで迫っている。彼らの選んだ真実の現実を守り抜くためには、この最後の戦いを、避けられない運命として受け入れるしかなかった。

「これより、武力による制圧を開始する。ターゲットの確保を最優先とする」

AIの冷徹な命令が響き渡ると同時に、廃集落全体が轟音に包まれた。FACE STATEの追跡部隊が、警告を打ち切り、一斉に総攻撃を仕掛けてきたのだ。

高性能ドローンが、瓦礫の山に向けて閃光弾を投下し、武装職員たちが、廃墟の隙間を縫うように、一斉になだれ込んできた。

透とルミナは、すぐに動き出した。彼らは、瓦礫の陰から、追跡部隊の侵入経路に向けて、石や木片を投げつけた。これは、職員のグラスに搭載されたAIの照準システムを一時的に乱すための、原始的な攪乱戦術だった。

職員の一団が、透が仕掛けた落とし穴のような罠に引っかかり、足止めを食らった。透は、その隙に、別の方向から接近する職員の背後に回り込み、錆びた鉄パイプで、彼らの持つ通信機器を叩き壊した。

「右側!ドローンの監視が甘い!」ルミナが、正確な指示を透に送る。

ルミナは、完璧な美しさを保ったまま、瓦礫の配置や光の具合を瞬時に判断し、透の逃走と攻撃のルートを示した。彼女の冷静な知性が、透の命懸けの勇気を、最大限に引き出した。

激しい戦闘の中、透は一瞬、ルミナの完璧な素顔を見た。泥と汗にまみれた醜い現実の中で、その顔は、あまりにも非現実的で、美しい光を放っていた。

(あなたの美しさは、幻想じゃない)

それは、醜い素顔に怯え、逃避のために求めた美ではない。偽りの公正という暴力から、二人の真実の愛を守り抜くための、絶対的な力となっていた。ルミナの美が、透の抵抗の意志を、一瞬たりとも挫くことはなかった。

しかし、FACE STATEの物量と組織力は圧倒的だった。追跡職員たちは、瓦礫を蹴散らし、抵抗する透の身体に非情な打撃を与えながら、確実に二人の隠れ家へと迫ってくる。

透は顔を庇いながら、ルミナの隠れ家の入り口を、自らの身体で塞いだ。彼の心は、愛するルミナを守るという、最後の決意で満たされていた。

「もうすぐだわ、透。ここで、私たちの選択が試される」

ルミナの声が、瓦礫の向こうから聞こえた。二人の選んだ真実の愛と、社会の偽りの公正との、最後の瞬間が、目前に迫っていた。

透の最後の抵抗も、多勢に無勢だった。彼は、瓦礫の山に押し倒され、訓練された職員たちの特殊な拘束具によって、四肢を完全に固定された。彼のグラスの無い視界には、自分を制圧した職員たちの、冷酷で無関心な素顔が、醜く歪んで見えた。

「ユウキ・トオル、確保完了。キリガオカ・ルミナを捕縛せよ」

職員たちは、透を顧みず、ルミナが身を潜めていた隠れ家へと向かう。ルミナは抵抗しなかった。彼女の完璧な美しさは、諦めではなく、運命を受け入れる静かな強さを湛えていた。

職員のリーダーらしき人物が、拘束された透の前に立った。彼の補正顔は、システムへの絶対的な忠誠を物語っている。

「ユウキ・トオル。あなたの逃亡劇は終わりだ。あなた方が選んだ『愛という名の現実』は、社会の公正という大義の前で、無力だった」

リーダーは、ルミナが捕縛されるのを確認してから、透に向かって語り始めた。

「キリガオカ・ルミナの美しさは、あなたの言う通り真実だろう。しかし、その真実は、不平等を呼ぶ毒だ。彼女の美をシステムに戻し、全人類の補正システムを完成させることこそが、差別なき公正な社会を維持する唯一の道だ」

彼の言葉は、社会の正論として、透の愛を、差別を求める自己中心的な欲望として断罪した。

「あなたは、醜い現実に耐えられなかった。だが、その醜さこそが人間性の真実だ。その真実を受け入れ、美による優遇を否定することこそが、真の人間性だ」

透は、その偽りの公正の言葉に、全身の力を振り絞って抵抗した。彼の視界には、リーダーの素顔に浮かぶ、微かな偽善と優越感が映っていた。

「黙れ!あなたたちが守っているのは、真実の人間性じゃない!醜い本性を隠蔽する、偽りの平和だ!あなたの顔の下にある冷酷な素顔こそが、公正という名の暴力を証明している!」

透の叫びは、虚しく響いた。リーダーは顔色一つ変えず、冷たく透を見下ろした。

「我々があなたに与える最後の機会だ。ルミナの美しさを諦め、醜い現実を受容するならば、あなたは生きられる。愛を貫き、この真実を選び続けるならば、あなたは永遠に排除される」

ルミナは、職員に拘束されながらも、透を見つめていた。その完璧な素顔が、透の心に、最後の選択を迫っていた。

愛という名の真実か、社会という名の偽りの公正か。

透は、人生を懸けた究極の選択の瀬戸際に立たされていた。

拘束され、地面に押さえつけられたままの結城透は、職員に両腕を拘束された霧ヶ丘ルミナを、必死に探した。ルミナもまた、透を見つめていた。

二人の間には、職員のリーダーの冷徹な最終警告が響き渡っていたが、透とルミナの視線は、その音を遮断していた。

ルミナの完璧な素顔。透は、その瞳の中に、「あなたの選ぶ道を行く」という、静かで揺るぎない愛の決意を読み取った。ルミナは、透が偽りの公正を選ぶことはないということを、信じ切っていた。

透は、全身の力を振り絞り、リーダーに向けて叫んだ。

「僕が選ぶのは、偽りの平和じゃない!あなたが言う『醜い現実の受容』は、愛という名の真実を殺すことだ!」

透は、リーダーの補正顔の向こうにある、冷酷な素顔を直視した。

「あなたは、差別を防ぐためだと言いながら、真実の愛を『醜い欲望』と断罪し、暴力を振るっている!あなたたちこそが、公正という名の、最も醜い暴力だ!」

透の言葉は、ルミナの美の定義を、決定的に変えた。ルミナの美は、彼を醜い現実から逃避させる麻薬ではなく、偽善と暴力に満ちた社会の欺瞞を暴く、真実の光となっていた。

「ルミナの美しさは、毒じゃない!あなたたちが守る偽りの平和を、打ち破る真実だ!僕は、この真実を選び、あなたたちの社会を、永遠に拒絶する!」

透の揺るぎない愛の宣言は、廃集落の静寂を切り裂いた。

職員のリーダーの補正顔は、依然として無表情だった。しかし、透の視界に映る、その下の素顔が、ほんの一瞬だけ、凍りついたように動揺した。

彼が守ってきた公正の論理が、透の絶対的な愛と真実の前で、一瞬だけ綻びを見せたのだ。システムが予測不能とした「愛」の力が、システム絶対の人間の心を、微かに揺さぶった瞬間だった。

「わかった。あなたの選択は、排除だ」

リーダーはすぐに表情を引き締め、冷徹な声で宣告した。

「キリガオカ・ルミナを連行せよ。ユウキ・トオルは、直ちに社会のネットワークから、存在を抹消する」

二人の愛は、社会の偽りの公正によって、存在そのものを否定された。しかし、透の心は、愛という名の真実を選んだことで、完全な勝利を収めていた。

「連行を開始しろ。異端者ユウキ・トオルは、この場所でネットワークから完全に抹消する」

職員のリーダーの命令は、感情を持たない機械のようだった。

ルミナは、職員に両脇を固められ、透から引き離され始めた。彼女の完璧な素顔は、透に向けて、最後の、強い微笑みを向けた。その美しさは、偽りの公正による暴力の中でも、一点の曇りもない真実の光を放っていた。

「透。あなたは、私という真実を選んでくれた。私の美しさは、あなたの愛の中で、永遠に醜い現実を上書きし続けるわ」

ルミナの言葉は、永遠の約束だった。

「ルミナ!君は、僕の全てだ!僕の愛は、君の存在と共に、永遠にここで生き続ける!」

透は、拘束具に身を食い込ませながら叫んだ。彼の愛は、もはや社会のシステムも、存在の抹消も、超越し始めていた。

職員たちは、ルミナを車両に乗せ、廃集落から都市へと連行していった。ルミナの完璧な素顔が、遠ざかる車両の窓越しに、真実の愛の象徴として、透の視界から徐々に遠のいていった。

そして、職員のリーダーが、透の前に立ち、特殊なデバイスを起動した。

「ユウキ・トオル。あなたの存在は、今この瞬間をもって、スマートグラス社会のネットワークから完全に抹消される。あなたの記録、ID、生体データ、全てが消去される。あなたは、永遠の、社会的な死を迎える」

それは、肉体的な死ではない。社会から存在を否定され、誰にも認識されない、永遠の孤独という罰だった。

デバイスから放たれた微かなパルスが、透の全身を駆け抜けた。透の身体に装着されていた、すべての生体センサーと、過去のログデータが、一瞬にしてネットワークから切り離され、消去された。

リーダーは、デバイスを懐にしまうと、冷徹に言い放った。

「あなたは、もう誰も見ない存在だ。ここで、孤独な生の真実を噛み締めなさい」

職員たちは、透の拘束具を外し、彼を廃集落の瓦礫の中に、一人残して去っていった。

透は、解放された身体で、瓦礫の上に座り込んだ。彼の視界には、もはや追跡職員の醜い素顔も、ルミナの美しい素顔もなかった。あるのは、荒廃した、手つかずの現実だけだ。

彼は、社会的な存在を失った、永遠の孤独の中に立たされていた。しかし、透の心には、ルミナという真実の愛を選び抜いた、完全な勝利の証が、深く刻まれていた。

(僕の愛は、消えない。ルミナという真実は、僕の存在そのものだ)

透の選択と対決は終わった。彼は、システムに否定された、真実の生を選んだのだ。

拘束具から解放された結城透は、廃集落の瓦礫の中で、永遠の孤独を噛み締めていた。

彼は、社会的な存在を抹消された人間だった。彼のIDも、生体データも、過去のすべての記録が、スマートグラス社会のネットワークから消去された。彼は、誰にも認識されない。

透は、意を決して集落の外へ出て、かつて自分が通ってきた荒野の道を歩いてみた。遠く、食料を探すために都市の境界線付近から来た、数人の旅人が通り過ぎる。透は彼らの前を歩いたが、彼らは透の存在に一瞬たりとも気づかなかった。

「誰か・・・」

透が声をかけても、旅人たちは空気の振動としてしか感じていないかのように、無関心に通り過ぎる。彼の声も、彼の身体も、この社会のネットワークにおいては、存在しないノイズでしかなかった。

(僕は、いない人間だ)

それは、醜い素顔を見る恐怖とは比べ物にならない、魂を凍てつかせるSF的な孤独だった。彼は、偽りの公正な世界から、完全に排除されたのだ。

孤独の極限に達した透は、瓦礫の山に戻り、ルミナの完璧な素顔を脳裏に深く刻みつけた。もはや、彼の視界にルミナの姿はない。しかし、彼女の美しさは、視覚的な記憶としてではなく、透の存在を支える、精神的な核として、彼の心臓に焼き付いていた。

(ルミナの美は、僕の愛の勝利だ。それは、偽りの公正の暴力よりも、ずっと強い現実だ)

透は、システムに否定された孤独の中で、逆説的な真実の確信に満たされていた。自分は、愛と真実を貫いた。醜い本性を隠蔽する偽りの平和の中で生きる人々よりも、自分こそが真の「生」を選んだのだと。

彼は、ルミナとの愛を選び、社会的な死を受け入れた。そして、このネットワークの届かない場所こそが、彼が永遠の生を生きる、唯一の現実なのだと悟った。

(ここが、僕の選んだ現実だ。僕の愛は、この場所で、永遠にルミナを待ち続ける)

透は、廃集落の最も静かな一角に座り込み、永遠に続く孤独な生を、静かに受け入れた。彼の選択と対決は、愛による勝利という形で、ついに決着した。

結城透は、廃集落の瓦礫の中で、誰にも認識されない孤独な生を生きていた。彼の身体は、この荒野の不揃いな現実に慣れ始めていた。

彼は、自分がルミナを選び、社会的な死を受け入れた行為こそが、FACE STATEのシステムが最も恐れた「恋という最大の優遇」を、最後まで貫き通したことだと悟った。

(優遇は、差別を生む。だが、ルミナへの愛は、偽りの公正という差別を生むシステムからの離脱を生んだ)

透は、ルミナという美を選び、醜い現実に満ちた社会から優遇された愛を選び取った。その結果が、この永遠の孤独であり、そして愛という真実の勝利だった。

FACE STATEは、ルミナの完璧な素顔を連れ去り、透の社会的な存在を抹消した。彼らは、醜い現実を受容する公正を維持したつもりだろう。しかし、彼らは透の心の中のルミナへの愛、そして、その愛が選んだ「真実の現実」を、抹消することはできなかった。

透の視界には、もう、偽りの公正な都市の光は届かない。あるのは、ルミナという愛がくれた真実の孤独だけだ。

彼は立ち上がり、廃集落を見渡した。この場所こそ、彼が愛を貫いた結果として得た、唯一の現実だ。

(僕は、現実を選んだ。愛という名の現実を)

透は、その愛の選択を、結論として、静かに心に刻んだ。

それは、システムが強いる偽りの公正から離脱し、恋という優遇を貫いた透が、真実の人間性を回復するための、最初の、そして唯一のステップだった。

透の物語は、この真実の現実の中で、静かに幕を閉じた。

FACE STATEの追跡車両が去ってから、数週間が経過していた。

廃集落には、静寂だけが残された。結城透は、その静寂の中で、孤独な生を生き続けていた。彼の身体は、瓦礫の修繕や食料の調達といった原始的な労働に順応し始めていたが、社会的な死という現実は、彼の魂に重くのしかかっていた。

彼は集落の外へ出て、都市の光が見えない遥か彼方まで歩いてみた。誰も彼を認識しない。すれ違う旅人や、僅かに残る集落の住人にとって、透は光を屈折させない、空気のような存在だった。この社会的な孤独こそが、彼が愛を貫いた代償だった。

孤独の極限。透は、ルミナが連行される直前に見た、完璧な素顔を脳裏に呼び起こそうとした。しかし、その視覚的な鮮明さは、徐々に曖昧になっていった。

(美しさを、忘れていくのか?)

焦燥感が透を襲った。だが、その代わりに、彼の心の中に残っていたのは、ルミナを守り抜いた時の献身の記憶、そして愛を誓い合った瞬間の感情の熱だった。

ルミナの美しさは、目で見る対象から、魂で感じる、愛という名の確信へと昇華していた。

そして、最も大きな変化があった。

透は、以前、彼を極度の恐怖に陥れた、他者の醜い素顔の幻影が、完全に消滅していることに気づいた。彼のグラスが破損して以来、彼の視界を侵食し続けてきた、人間の欲望や憎悪の断片は、もはや存在しなかった。

それは、ルミナの愛と、彼女を守り抜いた自己犠牲が、醜い現実を恐れる透の心を、完全に癒やしたことの証明だった。彼は、もはや醜い素顔に怯える必要はなかった。

透は、廃集落の不揃いな瓦礫、荒れた大地、そして生命力溢れる雑草を、恐怖や醜さとして見ることはなかった。それらは、偽りの公正を捨て、真実の愛を貫いた結果として彼が得た、新しい世界だった。

(ここが、僕の人間性の回復の場所だ)

彼は、この孤独な生の中で、愛という真実を核に、新しい現実と向き合い始めていた。彼の逃亡は、愛という名の勝利をもって、真の生へと変わっていた。

結城透の孤独な生は、もはや罰ではなかった。それは、愛を貫いた者だけが得る、静かなる領地となっていた。

彼は、廃集落の朽ちた壁に、指先でルミナの素顔を描いた。それは、技巧を凝らしたものではなく、ただ、彼女の完璧な輪郭と、澄んだ瞳を辿った、シンプルな線画だった。

(あなたの美しさは、僕の心の中にある)

透は、ルミナの完璧な美しさを、視覚的な記憶から精神的な概念へと完全に昇華させていた。この描かれた顔は、彼が愛を保ち続けるための、内面の世界の具現化だった。彼は、もはや美醜という二元論から解放されていた。目の前の荒廃した現実も、ルミナの完璧な美しさも、彼にとっては等しく真実の「生」だった。

これこそが、「技術が人間を”守りすぎた”世界で、もう一度人間らしさを取り戻す」というシリーズテーマの第一歩だった。透は、美醜による差別という人間の本能を克服し、ありのままの「生」を受け入れたのだ。

ある日の午後、透が隠れ家として使っていた小屋の、崩れた床板を修理している時だった。床下に隠されていた、小さな紙片を見つけた。

それは、ルミナが連行される直前に、職員の目を盗んで、この床下に隠したものだった。紙片には、ルミナの完璧な筆跡で、短いメッセージが記されていた。

「私は、美を奪われない。私の真実は、透、あなたの愛の中にある。そして、あなたの選んだ孤独こそが、私たちの未来への、唯一のチャンスよ」

そして、そのメッセージの端に、小さな星のマークが描かれていた。それは、透とルミナが、逃亡中に再会を誓い合ったサインだった。

透の心に、衝撃が走った。ルミナは、連行されてもなお、透の愛の選択を信じ、そして未来への可能性を残してくれていたのだ。

孤独な生の中に、希望の光が差し込んだ。ルミナとの愛は、永遠の孤独という代償を払ったが、その孤独の中に、再会という名の未来を、静かに灯していた。

透は、その紙片を胸に強く抱きしめた。彼は、この廃集落で、永遠の愛を生きるという、静かで、しかし揺るぎない決意を固めた。彼の孤独な生は、もはやルミナを待つ希望の場所へと変わっていた。

結城透は、ルミナが残したメッセージを握りしめ、廃集落の周辺を徹底的に調べ始めた。彼の目的は一つ。FACE STATEが残した、全ての最後の痕跡を、この場所から完全に消し去ることだった。

彼は、土の中に埋もれていた、追跡部隊の旧式のセンサーの残骸や、ドローンの小さな破片を掘り起こし、火にくべて燃やした。それは、彼らの愛と孤独に対する、システムによる最後の監視だった。

すべての痕跡を消し終えた時、透は真の解放感を得た。彼の愛と、彼の孤独な生は、もはや社会のシステムに、追跡も、監視もされない。

透は、美醜という概念から、完全に自由になっていた。彼を極度の恐怖に陥れた醜い素顔への幻影も、彼を依存させたルミナの完璧な美しさへの渇望も、今はもうない。彼の視界に映るのは、風に揺れる荒れた草木や、太陽に照らされた不揃いな瓦礫だけだ。

(美しさも、醜さも、すべて真実の「生」だ。僕は、もうどちらにも依存しない)

彼は、ルミナの愛によって、醜い現実への恐怖を乗り越えた。そして、ルミナの献身的な別れによって、美しさへの盲目的な依存からも解放された。彼の人間性の回復は、ここにきて、完全な形となった。

透の心には、ルミナという真実の愛が、生きるための絶対的な力として存在していた。孤独ではあるが、その孤独は、ルミナとの再会という希望に満ちていた。

彼は、この廃集落を、愛を貫き通した「真実の場所」として心に刻んだ。そして、ルミナのメッセージに描かれた星のマークを見つめた。それは、ルミナがどこかで、透の愛と献身を信じ、生き続けていることの証明だった。

透は、小屋の壁に描いたルミナの線画を、静かに見つめた。

(僕は、行くよ、ルミナ。あなたの愛がくれた真実の生を、僕は、孤独ではないものにする)

彼は、わずかな食料と、ルミナが残した地図の断片を、簡素なリュックに詰め始めた。愛という名の現実を選び、社会的な死を受け入れた透の、孤独ではない、新しい旅立ちが、静かに始まろうとしていた。

夜明け前の静寂の中、結城透は廃集落の小屋を出た。彼の手に握られているのは、ルミナが残した地図の断片と、彼女への愛の誓いだけだ。

孤独な愛は、もはや彼を内側で腐らせる病ではない。それは、彼を動かす強靭なエネルギーへと変わっていた。彼の身体は、醜い現実に怯えて逃げた過去の学生のものではない。愛という真実を選び、社会的な死を受け入れた真の人間のものだった。

透は、出発の前に、瓦礫に描いたルミナの線画に、そっと指で触れた。

「待っていてくれ、ルミナ。僕は、僕たちの真実を、必ず取り戻す」

彼は、後ろを振り返らなかった。後ろにあるのは、偽りの公正からの離脱であり、愛を貫いた結果として得た孤独な勝利の場所だ。

透が歩み始めた道のりは、第一部の結論「田舎いけ(離れろ)」という静かなる反逆を、具体的な行動として体現していた。

それは、単に都市から離れた場所を選ぶという意味だけではなかった。それは、システムに管理され、守られすぎた世界を否定し、自らの足で歩き、自らの五感で真実を探すという、人間性の回復の希望の行為だった。

荒野の不揃いな大地に、透の足跡が刻まれていく。彼の心の中には、ルミナの完璧な美しさが、偽りの公正によって奪われることのない、永遠の真実として生き続けていた。彼の旅は、孤独ではあるが、決して絶望ではなかった。

(僕たちは、もう守られる必要はない。僕たちは、自ら探し、生き抜く)

彼の眼差しは、遠い地平線の、誰も知らない未来に向けられていた。彼の孤独な「歩み」は、存在を確かめるための旅へと変わる。

結城透は、愛という名の現実を選び、システムが否定した人間性の真実を回復させた、希望の第一歩を踏み出した。

彼の旅は、続く。


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