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水の客

作者: 天坂 透真
掲載日:2025/08/27

本作《水の客》は、場末のスナックを舞台にした都市ホラーです。


水商売の街、グラスの水、そして堀割から漂う“見えない客”。

「水」という日常的な存在が、やがて背筋を冷たくする怪異へと変わっていきます。


今回はハッピーエンドにはならない、少し後味の残るお話。

夏の夜に、ひとしずくの涼しさをどうぞ。


ここは場末のスナック。

水商売の街だ。

俺は客として来ているはずなのに、なぜか目の前にホステスが列を作っている。

逆だろ――客は俺のほうだ。


「そりゃあ、あんたが言い当てちまったからだよ」


カウンターの中でママが言う。

喉の奥で乾いた咳を一つ。氷の音がグラスで鈍く鳴った。


俺は普段から、人のオーラってやつが見える。

テレビの霊能力者みたいな大仰なものじゃない。ただ、光の濁りと影の流れが、なんとなく分かる。

いつもは黙っている。けど今日は、酒が回って、ぽろっと口にした。


「ママ。あんたの母さん、あの世ってやつから覗いてる。肺、心配してるぞ。右の上に濁り――父方の線は薄いが、下からは母方の色が強い」


ママは目を丸くした。

「なんで知ってるんだい? 肺がしんどいのは、まだ誰にも言ってないよ」


俺は頭を掻いた。やっちまった、と思いながら、いつもの説明を続ける。


「濁って見えるところが悪いところ。右上は父方、下は母方。あんたの上には三から五つ、守ってる影も揺れてる。俺から見て左側――そこはあんたが徳を積んだ時と、やっちゃいけねぇことをした時の映像が、薄く流れる」


そこまで言ったところで、カウンターの奥で水がぽたりと落ちた。

天井のシミから、ちょうど一滴。梅雨の湿気のせいかもしれない。

けれど、俺には別の匂いがした。

――川の匂いだ。濁り水の、土のにおい。


「次、私みて」「私も」


ホステスたちが並ぶ。

俺は順番に見た。指先で空をなぞるみたいにして、影の流れを見る。


二人目。髪に微かな潮の匂い。肩に、見知らぬ男の腕の形。

「その男、声が溺れてる。川で別れた相手、いないか」

女は震える指で煙草に火をつけ、「三年前にひとり…」とだけ言った。

火は、湿った紙のように頼りなく燃えた。


三人目。耳の後ろで、水滴の音。

四人目。足元に濡れた靴跡。

五人目。背中に藻。


見れば見るほど、水が増えた。

グラスの水割りはやけに汗をかき、氷は早く溶ける。ネオンはじいじい唸り、雨でもないのに店先のテントから滴りが落ちた。


「もうやめたほうがいい」と俺は言った。「付く。見るたびに。俺は祓えない。吸っちまうんだ。悪い水は、こっちに流れてくる」


ママは首を振った。

「いい。あたしだけ、もう少し。母さん、なんて言ってる?」


カウンターの彼女の左側――映像が滲む。

若いママが、母親の手を握り損ねる場面。

病室の窓の外、雨。

薄い酸素マスク。胸の奥で、水がちゃぷと鳴る音。

間に合わなかった後悔が、胸を満たしている。


「送りをしてほしいんだ」俺は言った。「川に近い神社があるだろ。町の堀割のほとり。今夜は水が上がる。潮の道で、帰りたい人がいる」


ママは咳を噛み殺し、氷を一つ噛み砕いた。

「行こう」



外は、降り出しの前。

舗装の継ぎ目がじわりと濡れ、電線が低く鳴る。

この街は水でできている。堀割、用水、暗渠、そして水商売。

吐き出すたび、口の中まで湿っていく。


堀の縁に、灯のない祠がある。

古い賽銭箱、濡れた鈴縄。

俺はポケットからライターを出し、火をつけようとして、風に何度か邪魔された。

やっと火が移ると、白い煙が細く立った。

それが合図みたいに、堀の面がざわと震えた。


「いるな」


言うと、ママが小さく頷いた。

堀の向こうから、水の足音が近づく。

見えないものたちが列を作り、こちらへ渡ってくる。

さっき店で見えた影――溺れ声の男、濡れた靴跡、藻の匂い、全部が水面を歩いてくる。


「ちょっと待て」俺は一歩出た。「順番は――」


そこで、肺がきしんだ。

冷たく、重い。胸郭の内側に、水の手が入ってくるみたいに。

俺は知っている。この感じは、吸っているときの感覚だ。

向こうの水が、俺の中に入る。


ママが肩を掴んだ。「大丈夫かい」

俺は笑ってみせた。

「だいじょうぶ。俺は、こういう器なんだ。出すことはできないが、受けることはできる」


堀の面がもう一度震え、女が立った。

髪から水を垂らし、細い指でママの頬を撫でる仕草。

ママは泣き笑いの顔をした。

「母さん」


女は口を開いた。声はない。けれど、確かに言った。

――冷やせ。

――休め。

――水を、怖がるな。

肺の奥で、ちゃぷ、と音がした。


俺は深く息を吸い、持ち上げた。

女の形を、俺の胸の中に。

冷たい水が気管を撫で、目の裏に白い火花が散る。

長く潜ったときの、あの冷たい甘さ。

よくない水だ。けど、今は通す。


堀の列がいっせいにざわめいた。

次、次、次。

俺は次々と受けた。

胸が重くなる。耳が詰まる。足が痺れる。

遠くで救急車の音がした気がしたが、どうでもよかった。

俺は器で、水の客だ。

客は席に座り、静かに呑む。

呑み切るまで、席を立たない。


最後に、ぬるい風が吹いた。

列は薄れ、堀は静まった。

ママの咳は、止まっている。

彼女の胸の影は、さほど黒くない。

代わりに、俺の視界の端で、水が波打った。


「……帰ろうか」

ママが言った。

その声は軽く、遠い。


「先に戻ってくれ」

俺は堀を見た。「まだ少し、呑み残しがある」


ママは首を振りかけて、やめた。

「……ありがとう」


彼女が去る背に、送り潮の匂いがした。



店に戻ると、カウンターの上に水滴が並んでいた。

天井のシミは広がり、氷はやけに早く溶ける。

俺は席に座り、何も言わず、グラスを持った。


「お代わりは?」

ママが訊いた。


「水で」


「水?」


「水割りじゃなくて、そのままで」


ママは笑って、コップに水を満たした。

指で縁を弾く。澄んだ音がして、店内の影がかすかに揺れた。

コップを口に運ぶと、堀の匂いがした。

土、藻、遠い雨。

俺はそれを飲み下し、喉の奥に小さな波を作った。


「……あんた、無茶したね」

ママが呟く。

俺は肩をすくめた。

「いつものことさ。俺は祓えない。だから溜まる。そのうち溢れるだろう。そういう器だ」


ママはカウンターを布で拭いた。

「じゃあ、溢れないように、毎日少しずつ減らしていこう。水はね、回せば腐らない」


その言葉に、母親の声が重なった気がした。

――水を、怖がるな。

俺は頷いた。

でも、胸の奥の水位は、もうカウンターの高さまで来ていた。



夜半、雨が来た。

テントの上で音が立ち、路地の舗装に水の筋が走る。

電柱の根元が黒く滲み、遠くで堀が満ちていく音がする。

俺は席を立ち、扉を開けた。

雨は思ったより暖かく、顎の下から胸へ、まっすぐ染み込んでいく。


「どこ行くのさ」

ママが背中で言った。


「ちょっと、散歩」


堀の欄干に手を置くと、骨に涼しさが入った。

水面は街灯を砕き、逆さのネオンが揺れている。

そこに、椅子が一脚、沈んでいた。

見覚えのある椅子。

スナックの、俺の席だ。


「――席、空いてるぜ」


誰の声だか、もう分からない。

俺は欄干を越え、足を水へ降ろした。

膝まで、腰まで、水が上がる。

胸まで来たとき、肺がゆっくりと開いた。

息が要らなくなる。

水の音は、遠くから来て、すぐそばで止まる。


最後に、指の間を何かが撫でた。

やさしい手だった。

――ありがとう。

そう言った人がいた。

俺は頷いた。

客は、静かに席に着く。



雨の夜、ママはカウンターに一つ余分な水を置くようになった。

閉店間際になると、その水は汗をかき、グラスの足元に小さな輪を作る。

常連はそれを避け、誰も座らない。

ときどき、グラスの縁が鳴る。

澄んだ音。

それだけが、そこに客がいる証だった。


ある時、若いホステスが初めてそれに気づき、「この水、誰の?」と訊いた。

ママは笑った。

「水の客のだよ」


若い子は首を傾げ、やがて覚えた。

雨の日には、一番にその席を拭くようになった。

水は回る。

腐らないように、少しずつ。


ママの咳は、季節ごとに少なくなった。

それでも、堀が満ちる夜は、カウンターの向こうを見て小さく頷く。

「……ありがとう」

連れのいない客に、そう言う癖がついた。


路地は濡れ、ネオンは滲む。

水商売の街は、今日も水で持っている。

誰かが席に座り、静かに呑んで、静かに帰る。

――俺はそこにいる。

氷の解ける速さと、水の匂いで、今もここが分かる。



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


《水の客》は、

「言ってはいけないことを口にする怖さ」

「水に宿る気配」

「人の心と街の記憶」

――それらを重ね合わせて描いた作品です。


最後まで残る“空いた一つの席”を、

読者の皆さんがどう感じてくださるか、とても楽しみです。


感想・レビューでのご意見をいただけると励みになります。

また次作でお会いしましょう。

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