水の客
本作《水の客》は、場末のスナックを舞台にした都市ホラーです。
水商売の街、グラスの水、そして堀割から漂う“見えない客”。
「水」という日常的な存在が、やがて背筋を冷たくする怪異へと変わっていきます。
今回はハッピーエンドにはならない、少し後味の残るお話。
夏の夜に、ひとしずくの涼しさをどうぞ。
ここは場末のスナック。
水商売の街だ。
俺は客として来ているはずなのに、なぜか目の前にホステスが列を作っている。
逆だろ――客は俺のほうだ。
「そりゃあ、あんたが言い当てちまったからだよ」
カウンターの中でママが言う。
喉の奥で乾いた咳を一つ。氷の音がグラスで鈍く鳴った。
俺は普段から、人のオーラってやつが見える。
テレビの霊能力者みたいな大仰なものじゃない。ただ、光の濁りと影の流れが、なんとなく分かる。
いつもは黙っている。けど今日は、酒が回って、ぽろっと口にした。
「ママ。あんたの母さん、あの世ってやつから覗いてる。肺、心配してるぞ。右の上に濁り――父方の線は薄いが、下からは母方の色が強い」
ママは目を丸くした。
「なんで知ってるんだい? 肺がしんどいのは、まだ誰にも言ってないよ」
俺は頭を掻いた。やっちまった、と思いながら、いつもの説明を続ける。
「濁って見えるところが悪いところ。右上は父方、下は母方。あんたの上には三から五つ、守ってる影も揺れてる。俺から見て左側――そこはあんたが徳を積んだ時と、やっちゃいけねぇことをした時の映像が、薄く流れる」
そこまで言ったところで、カウンターの奥で水がぽたりと落ちた。
天井のシミから、ちょうど一滴。梅雨の湿気のせいかもしれない。
けれど、俺には別の匂いがした。
――川の匂いだ。濁り水の、土のにおい。
「次、私みて」「私も」
ホステスたちが並ぶ。
俺は順番に見た。指先で空をなぞるみたいにして、影の流れを見る。
二人目。髪に微かな潮の匂い。肩に、見知らぬ男の腕の形。
「その男、声が溺れてる。川で別れた相手、いないか」
女は震える指で煙草に火をつけ、「三年前にひとり…」とだけ言った。
火は、湿った紙のように頼りなく燃えた。
三人目。耳の後ろで、水滴の音。
四人目。足元に濡れた靴跡。
五人目。背中に藻。
見れば見るほど、水が増えた。
グラスの水割りはやけに汗をかき、氷は早く溶ける。ネオンはじいじい唸り、雨でもないのに店先のテントから滴りが落ちた。
「もうやめたほうがいい」と俺は言った。「付く。見るたびに。俺は祓えない。吸っちまうんだ。悪い水は、こっちに流れてくる」
ママは首を振った。
「いい。あたしだけ、もう少し。母さん、なんて言ってる?」
カウンターの彼女の左側――映像が滲む。
若いママが、母親の手を握り損ねる場面。
病室の窓の外、雨。
薄い酸素マスク。胸の奥で、水がちゃぷと鳴る音。
間に合わなかった後悔が、胸を満たしている。
「送りをしてほしいんだ」俺は言った。「川に近い神社があるだろ。町の堀割のほとり。今夜は水が上がる。潮の道で、帰りたい人がいる」
ママは咳を噛み殺し、氷を一つ噛み砕いた。
「行こう」
◇
外は、降り出しの前。
舗装の継ぎ目がじわりと濡れ、電線が低く鳴る。
この街は水でできている。堀割、用水、暗渠、そして水商売。
吐き出すたび、口の中まで湿っていく。
堀の縁に、灯のない祠がある。
古い賽銭箱、濡れた鈴縄。
俺はポケットからライターを出し、火をつけようとして、風に何度か邪魔された。
やっと火が移ると、白い煙が細く立った。
それが合図みたいに、堀の面がざわと震えた。
「いるな」
言うと、ママが小さく頷いた。
堀の向こうから、水の足音が近づく。
見えないものたちが列を作り、こちらへ渡ってくる。
さっき店で見えた影――溺れ声の男、濡れた靴跡、藻の匂い、全部が水面を歩いてくる。
「ちょっと待て」俺は一歩出た。「順番は――」
そこで、肺がきしんだ。
冷たく、重い。胸郭の内側に、水の手が入ってくるみたいに。
俺は知っている。この感じは、吸っているときの感覚だ。
向こうの水が、俺の中に入る。
ママが肩を掴んだ。「大丈夫かい」
俺は笑ってみせた。
「だいじょうぶ。俺は、こういう器なんだ。出すことはできないが、受けることはできる」
堀の面がもう一度震え、女が立った。
髪から水を垂らし、細い指でママの頬を撫でる仕草。
ママは泣き笑いの顔をした。
「母さん」
女は口を開いた。声はない。けれど、確かに言った。
――冷やせ。
――休め。
――水を、怖がるな。
肺の奥で、ちゃぷ、と音がした。
俺は深く息を吸い、持ち上げた。
女の形を、俺の胸の中に。
冷たい水が気管を撫で、目の裏に白い火花が散る。
長く潜ったときの、あの冷たい甘さ。
よくない水だ。けど、今は通す。
堀の列がいっせいにざわめいた。
次、次、次。
俺は次々と受けた。
胸が重くなる。耳が詰まる。足が痺れる。
遠くで救急車の音がした気がしたが、どうでもよかった。
俺は器で、水の客だ。
客は席に座り、静かに呑む。
呑み切るまで、席を立たない。
最後に、ぬるい風が吹いた。
列は薄れ、堀は静まった。
ママの咳は、止まっている。
彼女の胸の影は、さほど黒くない。
代わりに、俺の視界の端で、水が波打った。
「……帰ろうか」
ママが言った。
その声は軽く、遠い。
「先に戻ってくれ」
俺は堀を見た。「まだ少し、呑み残しがある」
ママは首を振りかけて、やめた。
「……ありがとう」
彼女が去る背に、送り潮の匂いがした。
◇
店に戻ると、カウンターの上に水滴が並んでいた。
天井のシミは広がり、氷はやけに早く溶ける。
俺は席に座り、何も言わず、グラスを持った。
「お代わりは?」
ママが訊いた。
「水で」
「水?」
「水割りじゃなくて、そのままで」
ママは笑って、コップに水を満たした。
指で縁を弾く。澄んだ音がして、店内の影がかすかに揺れた。
コップを口に運ぶと、堀の匂いがした。
土、藻、遠い雨。
俺はそれを飲み下し、喉の奥に小さな波を作った。
「……あんた、無茶したね」
ママが呟く。
俺は肩をすくめた。
「いつものことさ。俺は祓えない。だから溜まる。そのうち溢れるだろう。そういう器だ」
ママはカウンターを布で拭いた。
「じゃあ、溢れないように、毎日少しずつ減らしていこう。水はね、回せば腐らない」
その言葉に、母親の声が重なった気がした。
――水を、怖がるな。
俺は頷いた。
でも、胸の奥の水位は、もうカウンターの高さまで来ていた。
◇
夜半、雨が来た。
テントの上で音が立ち、路地の舗装に水の筋が走る。
電柱の根元が黒く滲み、遠くで堀が満ちていく音がする。
俺は席を立ち、扉を開けた。
雨は思ったより暖かく、顎の下から胸へ、まっすぐ染み込んでいく。
「どこ行くのさ」
ママが背中で言った。
「ちょっと、散歩」
堀の欄干に手を置くと、骨に涼しさが入った。
水面は街灯を砕き、逆さのネオンが揺れている。
そこに、椅子が一脚、沈んでいた。
見覚えのある椅子。
スナックの、俺の席だ。
「――席、空いてるぜ」
誰の声だか、もう分からない。
俺は欄干を越え、足を水へ降ろした。
膝まで、腰まで、水が上がる。
胸まで来たとき、肺がゆっくりと開いた。
息が要らなくなる。
水の音は、遠くから来て、すぐそばで止まる。
最後に、指の間を何かが撫でた。
やさしい手だった。
――ありがとう。
そう言った人がいた。
俺は頷いた。
客は、静かに席に着く。
◇
雨の夜、ママはカウンターに一つ余分な水を置くようになった。
閉店間際になると、その水は汗をかき、グラスの足元に小さな輪を作る。
常連はそれを避け、誰も座らない。
ときどき、グラスの縁が鳴る。
澄んだ音。
それだけが、そこに客がいる証だった。
ある時、若いホステスが初めてそれに気づき、「この水、誰の?」と訊いた。
ママは笑った。
「水の客のだよ」
若い子は首を傾げ、やがて覚えた。
雨の日には、一番にその席を拭くようになった。
水は回る。
腐らないように、少しずつ。
ママの咳は、季節ごとに少なくなった。
それでも、堀が満ちる夜は、カウンターの向こうを見て小さく頷く。
「……ありがとう」
連れのいない客に、そう言う癖がついた。
路地は濡れ、ネオンは滲む。
水商売の街は、今日も水で持っている。
誰かが席に座り、静かに呑んで、静かに帰る。
――俺はそこにいる。
氷の解ける速さと、水の匂いで、今もここが分かる。
終
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
《水の客》は、
「言ってはいけないことを口にする怖さ」
「水に宿る気配」
「人の心と街の記憶」
――それらを重ね合わせて描いた作品です。
最後まで残る“空いた一つの席”を、
読者の皆さんがどう感じてくださるか、とても楽しみです。
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また次作でお会いしましょう。




