図書館
自由な時間が一日中あるという絶好の機会に、私という人間が足を運んだのは、なじみの図書館だった。どうぞ笑っていただきたい、今、最も行うべきと思い至ったのがこの行為なのである。図書館と言っても、どちらかと言えば城のようなたたずまいをしたその建物は、同じ建物内に音楽ホールと屋内庭園を隣接したような建物で、おそらくは、本をあまり読まない人間がこさえた建物だというわけだった。もしも、真に本を読む人ならば、かんしゃくを起こした子供のような、管楽器の音色が聞こえるような建物の中で本を読もうなどとは思わないだろう。また、庭園には人口の小川までがあって、その湿気が本を傷めるという発想に至らないのが、その設計者の限界だった。
そのような場所でも私にとっては思い出の場所であり、青春の一ページを彩った場所であることには違いなかった。中学生の時分には、夏休み中はここに入り浸って、棚の本を左から右にすべて舐めまわすように読むというようなことを本気でやっていた。図書館にある本というものは全て読み漁ったと言える。ここまでくると、いぶかしんだ視線を受けることもあったのだが、今は、そのような視線を投げてくる人もいないことをいいことに、図書館で一番上等なひじ掛けが両方ついたソファーに、ドカリと腰かけて、新刊コーナーの書物を端から舐めるように読むことができた。大人になると忙しく、本を読む暇もなくなっていたが、その間もずっと本は出続けていた。
この高等な書物というものは、実に素晴らしく甘い時間を溶かしていく。私の本好きというのは底知れぬもので、本さえ読んでいれば、ご飯を食べないのはもちろんのこと、トイレにすら行かなくて良い、というまでの物であった。(もちろん限界が来れば行くのだが。)
特に新刊のにおいというのがいい。図書館の本はみんな一様に、汚れを防止するために透明のカバーがヒートプレスされており、独特の有機溶剤のような香りがあった。整理整頓された活字の文字列が、あるいは私を大海の中のイワシに変え、あるいは密室殺人の当事者とした。この本のにおいと、古くなっていく本の埃のような香りが好きだった。
他に飲み物も食べ物もいらない環境で、何よりも他に人がいないというのが最高だった。音と言えば、空調の緩やかな風が窓のブラインドをゆするわずかな音が響くばかりである。道路を走るトラックのぶしつけな音もない。このような心落ち着く空間が他にあるだろうか。少なくとも私には何重にも並び立った本棚が、数十万冊もの書籍をたたえるさまは、真に、金銀財宝が棚に積まれているかのように感じられてやまないのだ。
そしてなによりも、閉館時間がないのである。タイマーでセットされているらしい、あの忌々しい軽やかなチャイムを無視し続けて読むことができるのは、まさに、読書家の夢であるところと言っていいだろう。
ふと気づいたことには、本屋の新刊本でも自由に読めるということなのであるが、さすがにそれはまずいという自分と、自分以外にとがめる人もいないと言う自分とがせめぎあっていて、ここに開き直るのもなんではあるが、私は何時間と本を読んでいたために、焦点の定まらない目で、ゆらゆらと本屋を目指したのである。
見る人から見れば、夏の会談話にあるような化け物の姿であったと思えて、誰も話しかけてくることはなかった。ああ、そうだ、人はもう私を除いて誰一人もいないのだ。そう思うと肩の荷が下りる気持ちだった。誰からの評価も受けることもなく、テストの点数に一喜一憂することもなく、人の顔色を窺わなくてもいい世界にあってこそ、真に得られる自由というものがあった。恥ずかしいことなのだが、私は、ズボンを勢いよく脱ぎ捨てて、ガキの時分の様に走り出すというようなことをやってのけたが、恥ずかしくなり、そそくさと履き直すなどする、ちゃんとした大人なのだった。