一人ぼっち
思えば、地面ばかりを見て歩く人生だった。
私は人の目を見るのが怖いのである。
なぜこんなことになったかというと、私の見た目に理由があった。写真に写ることすら憚られるような容姿のために、仲間外れの対象となった。加えて、人の意見に対して真っ向から反対するような性格だったために、現実社会は生きにくく、ただただインターネットの世界だけが自分の居場所だった。
ネット上でも誰かと関わるでもなく、一方通行な配信アーカイブやアニメばかりを視聴するような生活だったのは言うまでもない。次第に疎外感と孤独感は薄れ、何も感じなくなっていった。
だから、このような世界になったのは運命だと言ってもいい。あるいは、悪戯好きの神様が、自分の創造物を指ではじくように消え去ってしまったうえで、ただ一人を消し忘れてしまったような、そのような出来事だ。
朝、皺の寄った作業服にそでを通し、出社時間ギリギリまで再生していた歌ってみた動画を消して私の一日は始まる。建付けの悪い、ギシギシと嫌な音を立てる玄関扉を抜けて、砂利道を抜けて道路まで出ると、遠くの山の中腹で桜の花が咲いているのが見える。今日は晴れらしい。洗濯物は外に干してきた。
職場まで約15分。その間に桜並木や、公園の駐車場に止まった車を横目で眺めながら会社へと至る。いつも通りカードリーダーを通過した。工場内にまだ明かりがともっていない。珍しいことだ。私の出社時間はいつもと同じ8時11分。この時間にはいつも誰か来ていて工場の明かりがついているはずだった。
まあ、皆体調が悪い日もあるしな。今日は花粉も多く飛んでいるだろうし、そういうこともあるだろう。
開発棟まで上がったが、それでも誰もいなかった。電源の入っていないパソコンが、黒い墓標のように平然と並んでいる、寒々とした光景が広がっており、自分のデスクの周りは、休み前と同じ安全衛生委員のファイルと、業務に関するファイルが規則正しく並んでいるのみだ。
子機に連絡でも来ているかと思われたがそれもなく、全体朝礼でもないし、なんだかおかしいなと思った。
パソコンの電源を付けて業務はじめ、9時になっても誰も来やしなかった。社内ネットワークを確認すると開発課ばかりか、工場の人間は誰一人として出社していないことが分かった。
しまったと思った。今日は休みだったか。
予定を確認したが今日は就業日である。
ネットを起動して気が付いた。ネットニュースの記事が昨日のまま更新が止まっている。SNSをチェックするとフォローしている400ほどのアカウント全てが沈黙。さらに読み込みを行うと、アプリそのものが読み込み状態で停止した。
おそらく、自分以外の人間が消えてしまったのだとこの時理解した。私は、この世界でたった一人となったわけである。いきなり、突然、忽然と取り残されていた。いったいこの先どんな孤独が待っているのだろうか、と考えるよりも先に、良かったと思った。それくらい人間が嫌いだった。自分が同じ人間だということに反吐が出そうだとまで思いかけていた。
一人で何をするか。まず、この良く晴れた日に会社などにいたくもなく、上司に有給申請すらせずに会社を飛び出した。
娯楽と言えばなんだろう。映画が見たいな。私は映画が好きだ。だが映画館は好きではない。なぜならば人が多いからだ。人の息遣いや身じろぎをする音が私の頭の毛を逆なでするような感じがするので、いつもはどうしても見たい映画以外は配信で見ていたのだが、今日ばかりは違う。
電車に乗るため駅まで30分ほど歩いたが、車を一台も見なかった。誰もいないのだ。
駅の電光掲示板は光ってもいなかった。アプリの電車乗り換え指示も読み込み中で反応しないし、電車も来なかった。
電車を動かす人がいないのだ。当然電車も来ない。
一度レールの上を歩いてみたいと思ったが、万が一電車が来ることを想定して(人は簡単に死ぬのである)そそくさと退散した。幸いにも私は車の所有者であったので、車で町まで出ることにした。
ショッピングモールはいつもにぎわっていたのに人の姿が無かった。駅前の無駄に凝った施設の屋台みたいな服屋はどれも鍵が閉まっていて(そもそも私はサイズ的にここに置かれた服を着られない)頼みの綱である映画館も鍵が閉まっていた。
幸いにも裏道から直通で行ける映画館だったので、閉まっていたのはガラスの引き戸一枚であった。外周は重い鉄のフレームだったが、ガラスに割れ防止のワイヤーは入っておらず、シャッターもない構造である。古い設計の扉だった。地面に転がっていた石を投げると粉々に砕け散ってダイヤモンドみたいな輝きを見せた。つまらない日常が音を立てて崩れていく。それはどこか、宝くじに当選したときのようなゾクゾクする興奮をはらんでいた。
都会を夢見た子供のような田舎に住んでいるので、映画館と言っても最近人気のある、椅子が動いたり、水をかけられるような仕掛けのあるシアターはなかった。あるのは普通のシアターとグッズコーナーくらいの物で、そのグッズコーナーも、映画と関係ない商品をいつまでも置いているようなところだったし、パンフレット売り場すら人がいなかった。平日の昼間はそもそもポップコーンのところに店員が1~2人いるかいないかである。さらに寂しいことに、映画館からモールまでは廊下を歩けば行ける作りだったが、今日はシャッターがぴしゃりと閉じていてそちらに行けそうにない。
この映画館は緩い。トイレは映画館のシアターの横にしかないので、事実上、お金を払わずにシアターの方まで入れる作りだった。私は今日、初めてお金を払わずに映画館に入った。
映画館はふかふかしたカーペットがあって、ところどころにジュースをこぼしたようなシミがあった。それらを気にせずに、靴を脱ぎ散らかして、靴下までほっぽり出して、映画館特有の甘いとも酸っぱいとも似た香りをかぎながら、両手を振って王様のように歩けば、心の底からこの世界の王になったような何とも言えない気分になることができた。
しかし、私は歯噛みした。シアタールームは8個もあるのに、映写室が見つからなかった。あるいは、その部屋自体存在せず、無線で映写機に映像を送っていたのかもしれなかった。薄暗いシアタールームで何も映らないスクリーンを眺めるつもりはなかったため、映画館のロビーに並んだマットレスをはがしてそれをシアタールームに積み上げ、要塞の様にして遊んだ。なかなかの作りだ。大人が横になれるだけのスペースもある。映画館は、全ての部屋が廊下でつながっていて、トイレも距離的に近い。その上、お腹がすけばポップコーンやアツアツのホットドッグも食べられるので気に入った(もちろん自分で調理しなければならないのだが)
別荘にしてやってもいい。そう思ったのだ。
夕日が傾いて、街を真っ赤に染めて……。