教育機関の問題点 塾的思考と画一的教育思考の違いについて
タイトルの通り教育には二種類があり、その違いを述べ、私が教育現場というものはどうあるべきなのか、 教育機関の役割とは何なのか。
それについて体験して感じ考えたことを素直に、そのままに書き記したものです。
皆様学校教育のあるべき姿についてどうお考えになりますか?
はい、どうも皆様。
はわさびねぎ魔と申します。
今回は知人から学校教育のレベルの格差やそのチャンスを生かせるかどうかについての疑問などをぶつけられたのでそれについて考えてみたのでこれをまとめて投稿してみました。
まず友人から問いかけられたこれに対して教育機関というのがどういった構造で何を目的にしているのか?これについての問題点や、倫理的に問題視される・或いは論理的に間違っている点などを挙げて行こうと思います。
まず物事を論理的に単純化して考えてみます。
教育期間というものがどういう構造になっているかについてまずはお話しします。
国民から徴収された税金から教職員の給与や設備の維持、運営する教育委員会の運営資金などを 政府が出しているというものです。
さらに税金による用意された施設や人材を活用し教育を受けるにはお金は払わなければならない。
そして与えられる教育環境を十全にに活かせるかどうかは個人の技能次第というのが現状です。
これについて友人が問題視している点については以下の通りです。
上のレベルの子と下のレベルの子がいる学校教育の場に於いて下のレベルの子に合わせることで上の子のチャンスを奪ってはならないのではないか?
家庭環境や設備的問題などで教育に不平等が生じることはあってはならないのか?
簡単にまとめるとこのようになります。
この問題視されているという点を簡潔に論理的に表しますと、
お金を払っているんだからチャンスを潰されてはたまらないという感情、
下のレベルの子に合わせることで上の子が十分な教育を受けられないことは何よりも社会の損失で、 平等に与えられた幅広いチャンスを生かせるかどうかは個人の能力次第、つまり個人主義かつ能力主義的な思想ということになります。
そして次に学校教育の場に求められる役割についてですが、私としては以下のように考えています。
全ての試験に合格し、一定の水準に達していることが認められた入学者に対して画一的な教育を施す場所であり、試験に合格した全ての人間に対応した教育を施すことが役割。
それに対して友人が述べている学校教育のあるべき姿については、個人の能力を磨き上げると言う 塾的思考そのものなのです。
なので私としては個人的な感情として 学校教育の場において個人個人にぴったりとはまったレベルの教育を施すことが求めることがそもそも間違っていて、塾に通うなどして自身が行うべき自己投資の範疇である。
チャンスというのはそれに対して自己投資した者のみが拾えるものであり、そもそも資金がなくともそういったチャンスを拾えるだけの学力があればピックアップされると言う施策は整っている。
そのチャンスを生かせなかった、にも拘わらずにチャンスどうのこうのと言っている場合ではない。
つまり私としては、学校教育という機関に求める役割は画一的教育によって一定レベルの能力を入試時点で手に獲得していた学徒に対して全体のレベルを押し上げるための画一的な教育を施すことこそが役割であると考える。
それに対して友人の考える教育ローンというのは個人の能力を限界まで磨き上げる塾的思考にある。
そして何故学校教育・教育機関がそういった役割であるのかということについては、私はそれが国民の税金により運営されているものだからだと、そう考えます。
私の考えでは全国民に課せられた税金という負担により受けられるサービスの一環でそれによる利益というのは安定していて、画一的で全ての人間が活かせるものでなくてはならない。
そうでなくて国民感情から入ってそういった教育現場に対して不満を持つ人間が多少なりとも現れるからであり、そういった感情に対して政府や教育機関関係者というのは税金を使用しているという観点から反論することができないというのが現状だ。
だから全ての学徒に対して最低限の教育レベルの保証を行うことによって、学校の役割というものを限定して枠組みを作る。
これによって学校とはそういう場所だと決めて、それに対して文句を言うことが間違っているという状況にしたい。これが政府の考えだ。
一部の人間を優遇するようなことがあればそれに対して反論することはできない。
全ての人間に対し与えられる恩恵が画一的であるならばそうあるほどに文句というのは付きにくい。
そしてこういった政府の事情決定をつく形での、隙間産業的な教育というのが塾であるわけだ。
これは、政府により最低限に近しい形ではあるが用意されている優秀な人間をピックアップする為の施策というものに引っかからなかった人間が、最後に縋り付くチャンスなのだ。
以上の点から私は、現代社会においてチャンスは十分に用意されていて、それに引っかからなかった人間に対するアフターケアとして塾さえも存在している。
確かに倫理的な女や感情的な面でいえば友人の理屈は正しいのであろうが、社会がそういった仕組みなのだからそこは仕方がないのだろう。
そこに抗うことなど一個人でできる筈も無し。
大人しく塾などに自己投資を頑張りましょう。
これが大体の私の考えである。
つまるところ友人と私との考え方の違いは大まかな所では、
一つ、個人主義勝つ能力主義であるか?或いは、
全体主義的平均の押し上げ理論か。
二つ、 学費払っているのだからチャンスを出来るだけ与えられなければならない等の考えであるか、 国民全体の税金により運営されている施設機関なのであるから全ての人間に与えられる利益が 全く同一に近しいものでなくてはならないのか?
大まかに分けて考え方の違いというのは、此処に行き着くと思われます。
つまり争点としては、
教育機関は、全ての生徒に平等な機会とチャンスを与えるという名目の下に、平等な利益を分配しなければならないのか。
個人により高レベルの教育を受ける機会を与えなくてはならないのか。
学習・家庭環境の優劣を理由に教育の機会を奪う事は有ってはならないのか。
私の結論は、税金で運営され平等な入学金を払う以上は平等な利益が分配されるべきである。
教育機関というものは、画一的な教育を施す場所であり個人の能力を磨く場所ではない。
それは塾に通う等の自己投資の範疇に収まるものである。教育機関にそれを求めるのは間違いだ。
平等な利益の分配という観念に於いて学習・家庭環境の優劣によって利益を損なう事は有ってはならない。
学習家庭環境の優劣によって利益を凝視できない事は有ってはならない。
以上が私の考えの総まとめです。
皆さん如何お考えでしょうか?
私はまだまだ話し足りないことがあります。
ので、これからいくつかのパートに分けて投稿していきたいと思います。
具体的に言うなら、
一つ、優先するべきは社会全体の利益?
それとも個人の利益?
二つ、社会全体の利益というものは全体の平均的な工場が特出した拳の登場どちらの方が有益か?
三つ、そもそもが、私の考えというものは論理的に単純化したものであって複雑な要素の一切を無視している。
故に複雑で曖昧な感情という表現はついて考えるのならば、知人の意見のが客観的に見て正しいのではないか?
私という者は考えすぎな人間です。
おそらく物事を深く考えようとしすぎている面があり、更に私はそういったことについての考え過ぎている状態にらなければ気付けない程のの大馬鹿者なのです。
故に私は、皆さんの多様な意見をお聞きしたく、 このような形で皆さんの意見を吸収したく私の考えというものをまとめて公開してみました。
教育というモノはどうあるべきなんでしょうか?
いかがでしたでしょうか?
教育というものは大変難しいと私は思います。
お世話になった先生方には頭が下がる思いです。
少しでも今回の内容について、
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では、また次回。




