おれは約束は守る人間だ。
8話です。
とりあえずよっこらしょっと膝をつき、頭を下げる。
「失礼いたしました。無知な平民の無礼、プリュネステル様には平にご容赦を願います。クランベリーでしたら、館の者におっしゃれば調理されたものをお召し上がりになれるかと」
なるほど、姫か。
確かに我らがノーディスト、ルフォン領はおろかシェルシェント大領地の姫だ。
「いいよ、私も名乗らなかったもの」
プリュネステル様は頬に添えていた手で、絹のように細い髪を弄る。まるでそのまま光が滲むような艶の、クロエが羨ましがりそうな長髪だ。
「えーと、イルールト?あなたはベリーをどう食べるの?」
「イリーベルトでございますが、お好きにお呼びください。ジャムやソースにしたり、そのままでも食べます」
プリュネステル様は髪を弄っていた手を、華奢な胸の前でぽんと合わせた。
顔には、さも良いことを思い付いたと言わんばかりの喜色が浮かんでいる。
「じゃあ、イル!イルね!そのまま食べられるなら、ここにはイルしかいないもの。イルが秘密にしてくれるなら、食べてもいいよね。言わないでいてくれる?」
「もちろんでございます」
拒否する選択肢は多分ないが、特に言いふらす訳もないので肯く。
おれは約束は守る人間だ。
生で食べさせる方が問題な気もするが、こればっかりは信条である。
お嬢様はいたずらをする猫のように、恐る恐るベリーに手を伸ばす。
しかし、
「……よろしければ、特に甘そうなものを、お取りしましょうか?」
しゃがもうとすると、ドレスの裾を持たなければならない。すると、手が塞がる。
じゃあドレスの裾は持たずにしゃがめるかとなると、農園の土に白いドレスが触れるだろう。
内緒にしろと言うならば、もしこの白いドレスが汚れたら、機密のつまみ食いがバレるのは必然。
それは約束に反するので、手を差し伸べる。
「イル、甘いのが分かるの?」
手早く目星をつけ、生っている実を例に見せた。
「特に丸々として、赤から黒になっているものほど育っています。触ってみて、少し柔らかければ熟してより甘くなってるでしょう」
言いつつ、ぷちりと一粒摘みとる。
自分用にももう一つ摘み、そのまま食べる。毒味が必要かは不明だが、とりあえず見せてみる。
少し皮の張りが強かったが、中は柔らかく、ちゃんと甘酸っぱい。
プリュネステル様はまるで初めて人を見る猫のように、その様子をじぃっと眺めていた。
「蔓の部分を持って、そのままどうぞ」
もう一粒の方を差し出す。
清冽な可憐さと肌の白さから、体も冷たいのかと想像していた。
指先が触れた瞬間、存外熱い体温が伝わり、現実感がふわふわと揺れる。
受け取るプリュネステル様の手のあまりの小ささ白さに、紅いクランベリーが宝石にすら見えた。
手に乗せたベリーをくるくると興味深そうに回す。
やがてプリュネステル様は観察し終えたのか、そっと口元にベリーを運んだ。
小さな実を両手で運ぶ様は、愛らしい小動物を思わせた。
ほんの一口齧り、口に含んで咀嚼する。
するとプリュネステル様はパッと目を輝かせて、見て分かるほどの喜悦の色を浮かばせた。
お喜びになられているようで何よりだが、食わせてよかったのかこれとおれも笑みを浮かべる。
プリュネステル様は嚥下すると、相好を崩しても端正な顔を詰め寄らせてきた。
ふわりと、プリュネステル様から清涼な花のような香りが届く。
「美味しいわ!イル、甘い!」
「お口に合ったようで安心致しました」
ニコニコと笑う様は、年相応の少女のそれだ。
後からお腹でも崩して文句を言われたらと心配ごとは尽きない。だが、素直に喜ぶプリュネステル様に、クロエを思い出して少し安心した自分もいた。
プリュネステル様は空になった自分の手元を見詰めると、おれに寂しげな視線を向けてくる。
「……よければ、もういくつか見繕いましょうか?」
「……ちょっとだけ、お願いしようかな」
「かしこまりました」
三つほど選び、また渡す。
ベリーを摘むだけの動作ですら、気に入ったのだろうか。
プリュネステル様は一瞬たりとも見逃すまいと、じっとおれの方を見ていた。
三粒とも食べ終わる頃には、恐る恐る運んでいた手にも惑いはなくなっていた。
正直早く帰りたかったが、切り上げ時が分からない。
貴族様に餌付けをしているようで、何とも複雑な思いだ。
「庭の視察は如何でしたか?」
内心を隠してニッコリと笑顔を貼り付けてみる。
無理やり離脱してみよう。
「視察?そう、視察ね!お庭の勉強になったわ。イルは物知りだね」
「左様でございますか。屋敷の者ならば庭や中ももっと詳しく案内できるでしょうが、おれはこの程度しかお役に立てません。料理長に聞けば、このベリーのもっと美味しく甘い食べ方も存じていると思います。門番に聞けば、外のこともよくお分かりになるかと」
「そうね……外はまだ許可を取っていないから、もっとお屋敷の視察もしてみようかしら」
しめた。
「屋敷の者も、プリュネステル様に声がけいただければ喜ぶでしょう」
「確かに、まずはここで過ごすんだもの。お屋敷の視察ももっとしなくちゃ。ありがとう、イル。とっても楽しかった」
「お役に立てたのならば、何よりです」
「お屋敷の皆にも色々お話してみるわ。イル、またね」
おれは深く頭を下げ、プリュネステル様が軽やかな足取りで去るのを見送る。
まったく、久しくこんなに緊張することなんかなかった。
滅多にあってほしくない、心臓に悪い経験だ。
そして、プリュネステル様が去ってから、去ったことで気付いた。
プリュネステル様がいた時と、いない今と、世界の重苦しさが変わらない。
プリュネステル様からは、息苦しさを感じなかったということだ。
緊張に誤魔化されていたのだろうか。
思い出すと、おれが誰かの近付いて来る気配に気付かないなんて、初めてだった。
なぜ、と疑問符が上がる。
しかし頭に浮かぶのは、あの朝焼けの紫の瞳の美しさ。
そして花の蕾を綻ばすような笑顔でベリーを食む、愛らしい姿だけだった。
謎が生まれた帰り際、アーロンに貴族様がうろついてるならもっとちゃんと教えとけ、と悪態を吐く。
「お目にかかったのか、どうだった?」
プリュネステル様は、おれと同い歳らしい。
どうにも同い歳というとクロエや、一つ上だがニックの印象が強い。まだまだ中も外も子どもばかりだ。
貴族様は大人びて見えるのだなと思う反面、中身は食べ盛りの少女だったことを思い出してギャップに少し可笑しさがこみ上げる。
「どうもこうも。無礼のないように必死だっただけ。綺麗だなとは思うけど、貴族様だしな」
「けっ、マセガキは冷めてやがんなぁ。ニックみたいにわかりやすけりゃ揶揄い甲斐もあんのによ」
「この村の、大人が子どもをおもちゃにする風潮なんなんだよ」
だが必死だったなりに布石は打っている。
あの好奇心の強い食いしん坊なお姫様が門番を訪れるのは、想像に難くない。
アーロンはしばらくは門番の筈だ。
同じ緊張を味わうといい。
アーロンの正門に回されない程度の言葉遣いに期待だな。
アーロンとはもう少しだけ談笑してから、マッケンに跨って帰った。
気疲れか、帰りにふとクロエの顔が見たくなったのでウンディーネの里にも寄った。
クランベリーをもらうのを忘れたことに気付いたのは、プリュネステル様の話を聞いて頬を膨らすクロエの小動物じみた顔を見てからだった。
別にクロエのふわふわな癖毛の金髪も、充分綺麗なんだがな。
それはそれ、長く綺麗な髪が羨ましいらしい。
警備隊には敬語が使える人種と使えない人種がいる。
執政に叱られて真面目に育ったやつと、逃げて外で剣振ってたやつ。
アーロンは後者。