1話 不思議な夢の世界
風呂場の脱衣所を出て、ダイニングを通って、リビングの扉を開く。
リビングに入る前から、中では妹の瑠香が大興奮しているのが伝わってくる。
何を騒いでいるのだろうか。
風呂あがりに、バスタオルで頭を拭きながら、リビングへ入っていくと瑠香が
ソファに座って、脚をジタバタさせて大興奮している。
何を見ているのだろうとテレビを覗けば、今大人気の他校の女子アイドルグループ『スピーカーJacks』がテレビの中でダンスを踊って歌っている。
ソファの上がグチャグチャだ。それだとソファがいたんでしまうぞ。
ああ……クッションも抱き枕状態で、もみくちゃになってるよ。
「キャーー亜美ちゃん、素敵ーー」
瑠香はクッションを抱いて、ピョンピョンとソファの上で飛び跳ねている。
妹の瑠香は『スピーカーJacks』の大ファンだ。
今も満面の笑みを浮かべて、テレビに釘付けになっている。
「キャーー里緒菜ちゃん、格好いいーー」
妹よ……そんなに騒いでも、テレビの向こうのアイドルには、お前の声は届いてないぞ。
確かにテレビの中に映る亜美と里緒菜は美少女だ。
アイドルに全く興味はないが、2人の名前だけは憶えてしまったじゃないか。
別に『スピーカーJacks』のファンになるつもりはないんだが……
それでも、ごひいきの子ができちゃうよな。
やっぱり……
「玲兄ちゃんは亜美ちゃんがいい? それとも里緒菜ちゃん?」
急にそんなことを聞かれても返答に困る。
2人共、芸能界でアイドルをしている美少女。
アイドルだぞ。巷にいる女子とはレベルが違う。
「どちらかと言えば素直そうな亜美が好みかも……」
「へえー。玲兄ちゃんは亜美ちゃんが好みなんだ」
瑠香は憧れる目で『スピーカーJacks』のメンバーを見つめている。
そしてクッションを胸に抱えて、身体をクネクネと動かす。
こういう妹の姿は、あまり見たくないというか……恥ずかしい。
「あ……私もアイドルになりたいな。玲兄ちゃん……私もイケてるよね?」
そんな答えにくいことを聞くな。
妹よ……確かに近所ではお前は美少女と思われている。
しかし兄からみれば、ただのアイドルオタクでしかないのだよ。
しかし本当のことをいう訳にはいかない。
「そうだな……お前がもっと小顔で、身長が高くて、モデルスタイルなら、アイドルになれたかもな」
「それって私のこと全否定じゃん。玲兄ちゃんなんて嫌い。明日のお弁当は抜きだよ」
困った……柔らかく言ったつもりだったが、ストレート過ぎたか。
なるべく遠くから言ったつもりだったのに……失敗した。
瑠香は口を尖らせて、不満を表情に出す。
このままでは兄妹関係にヒビが入る。
それはマズイ。
「あ……瑠香もまだ高校1年生の成長途中だし……すっかり成長すれば良い線にいけるんじゃ
ないか。化粧もできるしさ……これから、これから」
そう言いながらリビングから早々に退散する。
これ以上、瑠香のアイドル話に付き合っていると、いつ火の粉が飛んでくるかわからない。
部屋に戻って静かに勉強することにしよう。
『スピーカーJacks』を見ている妹には近寄ってはいけない。
2階の自室へ入り、スウェットの上下に着替える。
そして、いつものように大学進学のために、受験勉強を始めた。
最近は調子が良く、予備校の模試でも、A判定をもらったばかりだ。
このままの調子を維持できれば、目標まであと少し。
隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえた。
0時を過ぎたので妹の瑠香が部屋へ戻ったのだろう。
リビングへ行き、コーヒーを淹れ、もうひと踏ん張り。
しかし段々と目の前がクラクラする。
眠気が急に襲ってきた。
自然とまぶたは閉まり、寝落ちしてしまう。
眠い……
◇
薄暗い洞窟の中で、上下スウェットを着て立っている。
洞窟の中は静まりかえっていて、物音一つしない。
洞窟の外からは、獣が咆哮する声が聞こえる。
また、いつもの夢か。
最近は毎晩、見る夢だな。
見たことのない発光する苔や水晶が暗い洞窟の中を照らす。
壁面には誰かが石灰岩で文字を書いている。
日本語だ……日本人だ。
日本語で本当によかった。
『外に出たら危ないよ。魔獣に食べられちゃう。洞窟の中は安全だよ』
確かに、この洞窟の中で魔獣に襲われたことがない。
……そもそも魔獣って何だ? この夢はファンタジーなのか。
しかし、危険を冒してまで、洞窟の外へ出たいとは思わない。
『私は18歳の他校の女子です。眠るとこの洞窟に来ているの。誰か同じような人いませんか?』
書き込みは3日前のモノ。
そして3日前に石灰岩で返事を返してある。
『はーい。同じ18歳の高校3年生の男子です。名前は小浜玲と言います。君と同じで、眠るとこの洞窟にいるんだ? どういうことだろう?』
誰でもいい。洞窟の中で1人でいるのは退屈で仕方がない。
誰だかわからないが、同級生の女子とお知り合いになるチャンスだ。
2日前の文通
『それが私にもわからないの。私の名前は早乙女亜美。同じような人がいて嬉しいよ。本当に嬉しい』
女の子が両手をあげて、喜んでいる姿が書かれている。
しかし、すごく絵が下手な子だな。
少し絵を可愛く書き直しておこう。
『最近は、受験勉強が忙しくて、寝落ちする時が多いんだ。そのせいで変な夢を見るのかなと思ってる』
最近は自分でも不思議なくらい、勉強していて寝落ちすることが多い。
疲れが溜まっているせいかも……。
最近、遊んでいないからな。
今日の文通
『私も高校の勉強と、大学進学の勉強……それとバイトで疲れ切ってる。少しは休みがほしいよ』
石灰岩を洞窟の床から取って、壁に石灰岩で文字を書く。
『それは休んだほうがいいよ……体壊しちゃうよ。ゆっくりと休んだほうがいい。やっぱり疲れているから、こういう夢を見るんじゃないのかな?』
初めての女子との会話は、とにかく優しく。
これ基本中の基本だよね。
会ったことはないが他校の女子に嫌われたくない。
とにかく、この洞窟の夢はいつまで続くのだろう。
朝になっても夢のことを鮮明に覚えていることが不思議だ。
洞窟の中で仮眠しているだけなのに、朝になれば現実に戻って、疲れが取れていることも不思議。
やはり夢の世界だからだろう。
一体、どんな女の子なんだろうな……亜美ちゃんか……
1人だけだと寂しいけれど、同級生の女子との文通は、それなりに楽しく、ワクワクする。
『スピーカーJacks』の亜美ちゃんみたいな美少女だったら嬉しいな。
しかし、美少女は希少だ。
そんな期待をしてはいけない。
今は他校の女子と文通できるだけ良しとしておこう。
洞窟の壁にもたれかかって、玲は目をつむった。
すぐに心地よい眠りが訪れ、玲は心地良くゴロンと床に横たわる。
洞窟の中でうずくまって玲は意識を落とした。
この時、玲は淡い期待も何も持っていない。
純粋に亜美と文通できることが嬉しかった。
これが玲と亜美の文通の始まりだった。