メランコリック6000円
授業終わりのいつも通りの二人きりの生徒会室。夕暮れ時、西館三階の窓から覗ける、煤けた茶のグラウンドに沈んでいく茜色の夕陽は、青春の終わりを知らせるみたいで、なんだか憂鬱になる。
もう秋かぁ、なんて日が落ちる時間が毎日少しずつ早くなる毎に、ほのかな哀愁を感じる。
センチメンタルに浸る美少女生徒会長――あぁ、めっちゃ絵になることない?
綾乃もそう思わない? と、そんな気持ちで彼女の方に目をちらとやる。
彼女は僕の視線に気付いたようで、読んでいた文庫本をぱたりと閉じて、本を読むときのどこか真剣な表情のまま、繊細な文章を読み解いていく雰囲気を醸し出しつつ口を開く。
「あの先輩、出し抜けに失礼な話なんですが、お尻触らせてもらってもいいですか?」
「なんでいいと思ったの?」
ほんとに失礼だよ。礼節をわきまえてくれ。
あとなんでちょっと申し訳無さそうなんだよ。罪悪を抱えつつ為そうとするな。イエス・キリストでもその罪は背負わない。
「うまく言えないんですけど、なんていうか、先輩の扇情的なヒップに欲情してしまって」
これ以上ないくらいストレートに言いたいことは伝わった。この場から消失して欲しい。僕のさっきまでの愁いを帯びたメランコリック風景描写を返してくれ。
綾乃はセーラー服の襟元を緩めて、仕事帰りのサラリーマンの如く一杯引っ掛ける感じにぐへへと笑う。胸はすとんとしてるので特にエッチではないのはやむを得ない。
腰をくねらせて誘惑するのは別に勝手だけど、それって触らせる側がやるものでは?
「自分の触れば?」
「はぁ? それのなにが楽しいんですか? ちょっとは考えてから物申してください」
なに一つ考えてなさそうな奴に言われた。無駄に悔しい。
そんなおりにチャイムの鐘が鳴った。旭陽高校の授業は公立高校には珍しい65分制を導入していて、5時50分を知らせるベルは、多くの部活動の終了時間を告げてくれる。
図書室も教室の自習も、もちろん生徒会室も、この帰宅チャイムが響き渡れば施錠しなくちゃならないのだ。
キーンコーンカーンコーンと、クとケの抜けたカ行を何度か繰り返す。
もちろんその間に喋ってもよく聞こえないから会話は中断を余儀なくされる。
といっても、それまでの作業を止めて帰りの支度に移らないといけないから、自然と会話も切り替わるものだ。この唐突な性欲カミングアウトも、時の流れに忘れられていくのだ。
しばらくの静寂、チャイムが止んだ。
「で、いくらならいいですか?」
「金で解決するのか……」
彼女は割と時間にルーズらしい。帰宅時間には逆らっても、欲求には逆らわない。
わかってたけどさ。もうちょっとでいいから躊躇いを見せて欲しい。
だって、ものすごい純粋な瞳で見つめてくるんだもん。デス○ートの所有権放棄した後みたいな瞳の輝きだよ。自らのしでかした過ちを知らぬ存ぜず認めてないってこれ。
綾乃は膝上丈までの黒のニーハイに足を組んで、制服のスカートとの僅かな隙間に覗ける絶対領域をちらりと見せつけてくる。
すらっとした足のシルエット、運動してないからちょっぴり丸っこくだらしない太もも。
膝上のスカートは校則違反。それも他の生徒の模範となるべき生徒会役員が、そんな。
……こほん。まぁいいや。うちの高校、校則緩いし、減るもんじゃないべ。
「いいですか。女は金と時間がかかりますし、時は金なり。つまりは金の二乗は女……金を沢山かければ、いずれ先輩という女は私の女になるという論理的数論に至るわけですよ」
「その等式に愛はないねぇ」
なんとか言い返せたけど、正直あんまりちゃんと話聞けてない。
やっぱり女の性というのは人を狂わせてしまうのだろう。金は諸悪の根源とも言う。やっぱり悪じゃないか。禁欲に勤しみ勉学に励まなくては、真面目が公約の生徒会長的に。
「5分100円でどうですか?」
時給換算で……1200円。割がいい……? いや、体売るんならそうでもないか……
……なに真面目に計算してんだろ。いやでも、真面目がモットーだし。
仕方ないのだ、うん、仕方ない。僕は真面目で、だから5分100円を真剣に考察したとしても、どこもおかしなところはないね。うん。よかったよかった。
だが実際に触らせるとなると話は別だ。エッチなのは、よくないと思います。
「お尻の価値なんてそんなもんですよ、しょせんは肉ですからね。ほら、ほら」
「っていうか綾乃、5分間も触り続けるつもりなの」
「なに言ってるんですか、5時間分は買いますよ」
不毛な金の使い方だなぁ。
「というわけで、現在6時ということなので、11時までよろしくお願いしますね」
「ちょっと待てよ」
なにがというわけでなのかは知らないが、しばし待たれい。
勝手に話が進行しているが、5分100円? それを5時間?
計算するとえーっと……6000円かぁ。
けれど、けれども!
あいにくと僕、黒川湊は自己評価があまり高くない美少女である。
一瞬脳内を駆け巡った思考に、僕はもはやどうしようもなく囚われてしまう。
籠の中の小鳥、アルカトラズに収容された冤罪死刑囚、過保護な両親に抑圧される箱入り娘。
共通点は最終的には解放されるであろうことだが、僕らは空の狭さを知っている。
僕らにできることは、できるだけ広い檻を求めて外に出ようとするくらいなのだ。
「なんですか、まだ心残りが?」
というわけで、僕はちょっぴり思った。
僕のお尻の値段、ちょっと高すぎない? と。
そりゃ確かに僕は乙女ゲーの主人公並の可愛さを誇ってるし、二学期に入るまではクラスの人気者で支持率も95%を超えてた、自他ともに認める高嶺の花、この現実という荒野に咲く一輪の白薔薇といっても過言ではないけれども。
でも、それでも流石に6000円というのは、僕の自己評価に釣り合わない。
とりわけ今学期に入る頃にはクラスで話せる人物はいなくなり、後期役員選挙の支持率が3%しかなくなり、あまつさえ女なのに僕なんて意味不明な一人称を使ってる人間に、5時間6000円の価値なんてあるのだろうか。
いや、ない。
綾乃はそんな僕に付き合ってくれる、優しく人を見る目がない駄目な奴だから、僕を不当に高く見積もっているに違いない。
「そ、そんなに長い時間……ムリだよ。僕にそんな価値、ないと思うな」
僕が譲歩を口にすると、なぜか彼女は胸を昂ぶらせて、テンションをさらに上げる。
「だ、大丈夫ですよ。先輩なら、きっと大丈夫。私が保証します。や、優しくしますから、そんなに不安がることないですって」
「でも……」
「たとえ他の誰もが先輩のことを嫌いでも、いえ、事実そうなんですけど。私だけは、先輩のことを嫌いになりませんから。全然、絶対に。私だけ見ててください、他の誰でもなくて、私が先輩に付ける値段だけ気にしてください。先輩には、5時間6000円の価値があるんですよ」
綾乃はにっこり微笑んで、僕のお尻にそっと手を伸ばそうとする。
僕はペチンと彼女の手をはたき落として、だいぶ情緒不安定に涙を浮かべ、俯いたままぼそりと呟く。
「……じゃあせめて、ナイトプランだから深夜パック料金にならない?」
こういうのはネカフェでもホテルでもなんでも、纏まった時間分安くなるのだ。
「安くなるなら願ったり叶ったりですが……い、いいんですか?」
「なにが?」
「ですから、お、お尻を触るなんて、エッチだと思わないんですか」
「綾乃が言い出したことでしょ?」
「そうですけど……しょ、正直受け入れられると億が一にも想定しなかったもので。せ、先輩はお尻なんて触らせちゃいけないんですよ! 断ってください!」
「やっぱり、僕に6000円の価値があるなんて思ってなかったんだ。本当に6000円払うつもりなんてこれっぽっちもなくて、嘘っぱちの希望に踊らされる僕を見て笑ってたんだ。うぅ……うぐぅ、ぐす……ぐふっ……うぅう……」
僕は泣いた。惨めったらしくぼろぼろと涙をこぼす。鼻水もこぼれる。うぅう……
綾乃は完璧に困惑していた。オロオロという擬音が聞こえそうなくらい大粒の汗をかいてた。
そして、その汗には焦りと同じくらい「どうすりゃいいんだ」との諦観が混じっていた。
ごめんよ綾乃。僕は君にお尻を触られるのを拒むくせに、その拒絶と同じくらい、君にお尻を触られることを望んでいるんだ。自分がよくわからなくて泣くしかないんだ。
こ、こんなことをしてたら、綾乃だって僕のことを見放すだろうに。
でも。
彼女は、そんな泣きはらす僕のお尻をそっと触り、もみもみと揉みしだく。
悲しみにそっと寄り添うような、嘆きに溶け込んで癒やすような、そんな慈愛の笑みで。
「……先輩。元気出してください。お金なんてもらわなくても、私は先輩のケツ、いくらでも揉みますから」
「ぐすん……タダ同然だってこと?」
「違いますよ。私はただ、先輩のお尻、すげぇエロいなって、思っただけです」
「綾乃……綾乃ぉ!!」
僕が彼女に抱きつき、腰まで強くしがみつく。もう離さないように。
そんな僕の手を、彼女はゆっくりと自分のヒップまで下ろしていく。
「お互い触り合いましょう。先輩に揉まれるなら、むしろご褒美です」
――そのとき、生徒会室の扉がガラッと開く。
もう一度補足しておくけれど、5時50分のチャイムが鳴ると下校時間だ。図書室も放送室もどの教室も、そして生徒会室も例外なく、職員室まで鍵を返しに行かないといけない。
当然のことながら、あんまり鍵の返却が遅いと顧問の先生が催促にやって来る。
…………やって来るのだ。
「おーい、なにやってんだ。もうとっくに下校時間過ぎてるぞ。早く帰……」
顧問の梅沢先生が目撃した光景といえば、まぁ、ぼろぼろと涙をこぼしながら後輩の女子のお尻を揉みしだく生徒会長と、その生徒会長を柔らかな微笑で慰めつつ興奮しながらお尻をさする後輩って感じの、まぁ、なんていうか、異様な異世界である。
その後どうなったかは……もう、語らなくていいよね。
とりあえず、秋の夕映えを眺めるよりセンチメンタルな、涙の出る気分になったことだけは、語っておく。実際、泣いた。