僕と後輩
序章はショートストーリーです。
本編は一章から。
梶原綾乃は僕の後輩だ。
ライ麦を間違えて焦がしたみたいなすすけた金髪ショートを携えて、偽物の笑顔にぴったりの涙僕ろを左目尻に引っさげて、餌が欲しい野良猫の目つきで僕を睨みつける。
「……先輩から女の匂いがする」
彼女は僕の髪に鼻先を思いっきり近づけて、犬がやるみたいに嗅ぐ。
僕はそんな綾乃の顔をグイぃと引き剥がして、ポイッとパイプ椅子に投げ込んだ。
「ええぃ、いちいち嗅ぎに来るな」
「でもでも、湊先輩のことは全て把握しておかないと。生徒会長の動向を随時チェックしメモしておくのは、生徒会役員の責務ですからね」
「……そういえば樹多村と安達は?」
「いつもどおりですよ。サボりです」
やれやれと面倒うるさい後輩にため息をついて、窓の外の風景に目をやる。
もう十月、されど十月――夏は終わったけれど秋が始まった気はしない中途半端な気候。
西館三階の生徒会室から覗けるグラウンドでは、陸上部やサッカー部の人たちがヤンヤワンヤと走り回り、まだ緑色の紅葉を踏みつけて頑張っている。
そんな頑張りとは無縁・無視・無関係の三拍子揃った生徒会室では、僕と、後輩で書記の梶原綾乃が、ダラダラと頑張らないでいる。
旭陽高校には他の高校と同様に生徒会が存在し、他の高校と同様に権限が存在しない。
部の予算を決めるのは殆ど先生だし、風紀を取り締まるのも先生だ。
やることといえば、月に一度の定例会のプリント作成と、学外活動の申請書にハンコを押すくらい。学内新聞も作るけど、既に三ヶ月サボっているが、誰も気付いていない。
そういうわけで、僕ら二人は毎日、やる気のない会話で毎日の茶を濁す。
どこを目指すでもなく、適当に、ダラダラと、貴重な高校生活を棒に振っているのだ。
綾乃はパイプ椅子に逆向きに座り込んで、ぎぃぎぃとブランコを漕ぐ。
僕が構わず週刊誌を読んでいると、綾乃は漕ぐのに飽きたのか口を開く。
「そう言えば、湊先輩。ヤンデレってあるじゃないですか」
僕は雑誌から目を離すことなく適当に生返事を返す。
「ないよー」
「現実とフィクションの違いは聞いてないですよ。あれって、どう思います?」
どう思うって聞かれても……
彼女はちょっぴりだけスゥと椅子を近づけて、僕の返答と顔をじーっと見つめる。
「どうって、痛いのは嫌だよ。怖いのも」
「でもほら、私って属性がヤンデレじゃないですか。先輩のこと好きだし、先輩が他の人間と話してるの見るとイライラするし、自在に目のハイライトも消せますよ」
そう言って綾乃は目のハイライトを消してみせた。すげぇ、死んだ目してる。
だが、彼女の属性がヤンデレ? 他の人間と話すとイライラ? ハイライトが消せる?
「わかってないなぁ。ヤンデレは愛による愛のための愛だけの狂気がいいんだよ」
別に、特段ヤンデレに深いこだわりがあるわけじゃないけれど、彼女はなにもわかっていない。いや、ほんとにヤンデレなんてどうでもいいんだけどね。軽々しく使われるのはちょっと違うって言うか、そういう適当な定義を認めるから衰退した面もあるから。
僕が彼女の大いなる過ちを指摘すると、彼女はさらに椅子を近づけて隣にやって来る。
そうして肩を並べて、可哀想な子犬に手を差し伸べるように。
それでいてワガママのすぎる子供をあやしつけることにうんざりしたように。
要はムカつく表情で笑いかけてきた。
「先輩みたいな人と一緒にいてあげられるのは私くらいなものですよ。こんな罰ゲームを笑って受け入れられるのは、もはや狂気と呼べるのでは?」
――――カッチーン。
はい、頭にきました。カンカンです。もはや黙っていることはできません。
「……ヤンデレはね、過程なんだよ」
「はぃ?」
「条件付きの恋じゃない、真実の愛なんだ。重く苦しい愛を引きずって、辛く厳しい現実とのギャップに屈しながら、それでも愛を貫こうとする美しさ。儚さ。歪なのは世界か自分か。そこに行き着くまでの過程にこそ、ヤンデレの真髄、本質、意味があるんだから。包丁持ったり監禁したりなんてのは、しょせんは副次的な物に過ぎないわけよ。相手が受け入れれば純愛で終わる? ぶっ飛んだことをしないとヤンデレじゃない? 違う。全然、違う。ヤンデレっていうのはね、過程なの。本物の愛って過程に付けられた名前が、ヤンデレなの。そんな軽いノリで聞くようでは、綾乃もヤンデレを表面的にしか理解してないね」
「やっぱり先輩ヤンデレ好きですよね? 詳しすぎますよ」
「……いや、一般常識では?」
人類は普遍的にヤンデレの本質を理解しているはずでは?
綾乃は「地雷踏んじまったぜ」とでも言いたげに難しい顔つきで言葉を選んでいたけれど、やがてなにかに気付いたようにんまり笑う。
「ではでは、ヤンデレである私のことも、好きなのでは?」
そんな感じの質問。
――唐突だけれども、僕は会話が苦手だ。
会話には時間制限がある。ボールを投げられたら数瞬以内に返さないといけない。
会話のキャッチボールなんて表現よく聞くけど、あれは嘘だ。
会話にボールを握り直す時間なんてありはしない。考えてる時間なんてなくて、少し手間取ると、ボールは途端に爆弾となって場の空気を破壊してしまう。会話とは、爆弾渡しだ。
場の空気を壊すことが嫌なわけじゃない。後から思い返すと、爆弾を壊さない方法がいくらでも思いつくのが嫌いだ。
それと、爆弾渡しに自分の感情が入り込む余地がないのも嫌になる。
なにか思うわけじゃない。むしろ逆で、なにも思ってないどうでもいいことにも、ちゃんとリアクションを取って、返事を返してあげないといけないのが、鬱陶しくて仕方ない。
どうでもいいことに「いいね」と笑って、とても大切なことに待つ時間は与えられない。
誰かと話すたびに、自分の感情が他人にとっては酷くどうでもいいことを思い知らされる。
思っていることを伝えられないことに諦めがつくと、会話は僕と無関係になる。
僕でなくても言えることを、爆弾を破裂させないために僕が言うだけの単純作業。
そんなくだらないことに、僕の大切な想いを入れ込みたくないと思うのは、きっと、当たり前のことだった。
「好きだよ。嫌いじゃなければ」
だから僕は、どうでもいいことは明瞭に、大切なことは曖昧に濁す。
僕にとっての会話とは、どれだけ僕を取り除けるかの除去作業に他ならない。
「……いや、なにも言ってないのと同じですよね。なにキメ顔してるんですか」
「だって真面目に返すとうるさいし」
「私がうるさいのなんていつものことじゃないですか!!」
「ほんとだ。飴食べる?」
「湊先輩からいただけるなら飴でも鞭でも風邪でも、残らずもらいますよ!」
「一個だけね」
レモン味ののど飴を一つ手渡すと、綾乃は口に放り込みもごもごする。
そしてなんだか幸せそうに顔をほころばせてトランプをいじり始める。
綾乃と話すのは嫌じゃない。全然、嫌いじゃなかった。
思ったことは上手く言えないけれど、適当な返事でもなんでも。一緒だと心地いい。
他の人間との爆弾なら、どれだけ爆発させても気にしないのに、彼女とだけは、気にしてしまう。多分彼女はそんなこと気にしないだろうけれど、だからこそなんだろう。
「湊せんぱーい」
綾乃は口をもごもごし終えると、てへへと苦笑いで椅子に座り直す。
「今度はなに?」
「いえ。もう一つ飴いただけませんか? 先輩の隣にいると興奮して喉乾いちゃって」
「席移れや」
そう言いながらもう一つレモン飴をあげる。
綾乃を無理やり立たせてパイプ椅子をテーブル向かいの一番遠いところまで持っていく。
これで静かになる。読書の秋なのだ、ぼんやり本くらい読ませて欲しい。
しかし、だが、なぜか。
綾乃は脇を持ち上げられ立たされたまま、その場でふっふっふと高笑いを始める。
「ふっふっふ。かかりましたね」
また、面倒くさいことを思いついたらしい。
「なにが?」
「いま、先輩は私に飴ばかり与えましたね。二個も! 飴を!」
「あげたけど……」
「でしょう! 飴ばかりでは人間、よい方向に成長できないのですよ。私は叱られて伸びるタイプです。わかりますか、先輩はいまや、私に鞭を打たねばならないのです!」
助けてください、後輩の頭が悪いんです。
唐突な成育願望にこっちは困惑だよ。そういうのはタケノコに任せて欲しい。
というか、叱られて伸びるんならそれは鞭ではなく飴なのでは?
という疑問を覚えないでもないが、確かに僕は旭陽高校の生徒会長であり、彼女は僕の部下である。上司的な立場を考えれば、伸び伸びとやらせるべきか……?
やっぱり面倒くさかったので、僕はなにも考えず流れに身を任せることにする。
「で、どうすればいいの」
「私を思いっきり殴ってください」
「正気か!?」
呆れ顔でマゾヒストが近寄らないよう下履きでしっしと追い払う。
と、彼女はなぜかひどくご満悦にやれやれと肩をすくめて、ならばと呟く。
「無理なら仕方ありません。ほんと、ほんとは殴られたいんですけど、代わりにディープキスしてくれればいいですから。あー仕方ないなぁ、ほら、ほら!」
なぜその作戦で成功すると一ミリでも思ったんだ。
「押し売り営業マンかお主は」
「な、なぜ断れるんですか? おとり効果による二択に人は抗えないはずなのに!」
「心底不思議そうに驚くな!」
大きな声でツッコミきると、綾乃は本当に接吻の成就を疑っていなかったのか、おろおろと困惑した面持ちであたふたとする。
そして考えを巡らせじっとして、しょんぼりと落ち込み始めた。
「なら……私は、なにをお返しすればいいんでしょうか」
忙しい奴だ、見てて飽きない。
のど飴二つの対価なんて、たかが知れてる。綾乃になにかしたつもりにさせればいい。
少しだけ考えて、僕は、ん、と手を差し出して言う。
「じゃあ……リップクリーム貸して。唇乾燥しちゃって」
「……リップクリーム。リップクリームって、もしかして、あのリップクリームですか!?」
「多分そのリップクリームの認識で合ってると思う」
「だ、だだだ、駄目です!」
「なんで」
「飴よりもっと甘ったるくなってしまいます! 私の全てを捧げても対価に釣り合いません! 却下、とにかく却下です」
「でも唇乾いてるし」
「うぅ~」
綾乃は顔を真っ赤に俯けて机に突っ伏す。
勝手にカバンからリップを取ろうと手を伸ばすと、バッグを抱えて顔を埋める。
……なに恥ずかしがってんだろ。マゾ願望さらけ出してディープキス要求した女と同一人物とはとても思えない。
と、そこで気付く。
あぁ、間接キスになるのか。というか、さっきのは全然本気じゃなかったわけだ。
綾乃がマゾヒストでもキス魔でもないことに少し安堵しながら、現状の打破を考える。
そして、一つの答えが浮かんだ。
「…………わかった、いい案浮かんだ。耳貸して」
「千切るんですか!?」
「顔寄せろって意味だよ」
彼女はちょっぴり恥ずかしそうに顔を上げて、恐る恐る距離を詰める。
ほらほらと手を動かして急かし、綾乃は慎重に罠ではないかと歩みを進める。
そうやってようやく、彼女は席をずらし座った僕の正面に、少し屈んで顔を寄せる。
多分自分で染めたのだろう綺麗じゃない金髪のショートボブ。猫みたいにクリっとした、黒目がちの大きな猫目。すぐ下にちょこんと主張する涙ぼくろ。小柄な顔に整った鼻立ち、すらっとした首筋に、コーラルピンクの落ち着いた、でも透明感のある唇。
――――いい案だ。ほんとに、ナイスアイディア。
僕の口に耳を傾けようとする彼女の髪元に手をやり、そっと後ろまで手を回す。
そしてグィっと手繰り寄せて、呆気にとられている彼女の唇を強引に奪う。
つまりは、キスをした。
彼女はなにが起こったのか分からないでずっと目を開けたままだ。
しばらくの間続けて、手に込めた力を緩めて、そっと唇を遠ざける。
「これで潤ったでしょ」
「…………………………」
「顔真っ赤だけど、飴いる?」
「…………キョウハ、カエリマス」
「じゃ、また明日ね」
僕がそう言って、ばいばいと小さく手を振ると、綾乃はバッグを力なく手に取ってぼんやりドアまで、ふらふらと歩く。途中何回か机と本棚に当たっていた。
扉の前まで辿り着いて、ようやく正気を取り戻した彼女は、ちらりとこちらを振り返る。
僕が笑いかけると、なにか抗議したげに口をもごもごさせて、結局言葉にならずに耳をほんのり赤くさせ、ドアノブを回す。
帰る間際、もう一度綾乃が振り返り言う。
「そ、そうだ先輩」
「なにかな後輩?」
彼女はそっと囁くように呟く。
「香水、とっても似合ってますよ」
申し遅れたけれど、今さら自己紹介なんて不要だろう。
黒川湊、旭陽高校二年生の生徒会長で、肌は白くて、髪と目と腹の色は黒。
視力は両目ともに1.5、身長は157センチの体重は秘密。
髪は肩までかかるミディアムヘア。毛先にほんの少しだけパーマもかけている。
好きな食べ物はショートケーキ、嫌いなのは脂っこい食べ物全般。
友達はつい先日いなくなって、ほとんどぼっち。居場所とお昼ごはんは生徒会室。
家族構成は父母兄兄の五人家族。
末っ子で、やっと生まれた妹に両親と兄二人は大喜びなのだった。
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