<第三万(よろず)。‐半解の神様‐> ①
【宗像三女神】
多紀理毘売命、多岐都毘売命、市寸島比売命の三柱の女神。
須佐之男命の十拳剣から生まれた。
航海や交通安全の神様としても信仰されている。
◆
吉祥伊呂波の頬をブッ叩いた私はそのまま教室を飛び出し、女子トイレの個室に駆け込んだ。
そのままトイレに腰かけ、四限目の開始を知らせるチャイムが鳴り響いてもトイレに籠り続けていた。
すでに授業は始まっているため、自分の他には誰もいなくなったトイレの一室で、便座に腰かけ独りで俯く自分の現状は―――
(本当に……なんて惨めで、情けないのだろう……)
―――悔しい。
吉祥伊呂波に泣かせられたこと。
私は自分をクラスメイトの誰よりも、精神的には大人であると思っていた。
それなのに、正直に言ってしまえば見下していたような人間に、ここまで追い詰められたこと……。
その事実が、悔しくて堪らない。そして―――
(あぁ……なるほど。わかってしまった。やっぱり、素直に従うべきだったのだ……)
『自分の目で確かめるまではと』そう思っていたけれど、やはりお母様が言っていたように、『吉祥家』と関わるべきではなかったのだ……。
―――あの日、まだ幼かった私と、華やかな宴会の席での母の言葉―――
『狭依、あなたが吉祥家と関わる必要はありません』
冷ややかな、叱りつけるような母の視線と、警告とも思えるその言葉。
今日この日、現在に至るまで、あの時のような強い感情を露にした母の姿など、見たことがなかった。
あの言葉は、忠告というには生温い、弁財家に生まれた私を思っての警告だったのだ。
その警告の意味を、私は何一つとして理解できてなかったのだろう。
もしお母様の言う事に従っていれば―――
ひとりで孤独に涙を流す『可哀想な弁財狭依』が生まれることもなかったのだろうか―――
◇
「吉祥様とご子息様がお見えになりました」
寿様宅の女中さんが大広間の襖を開けてそう告げた時、私はひどく退屈していた。
幼い私は宴会での楽しみ方など分からず、周囲で酔っ払って赤い顔をしながら、楽しそうに騒ぐ大人たちを眺めていることにも、飽きが来ていたところだったのだ。
宴会に参席していた年の近い子どもたちも、仲の良い子同士で固まって話していたり、どこかに遊びに行ってしまった。
その頃の私は、引っ込み思案で人見知りであるばかりか、大好きで憧れていたお母様の真似をして、お母様の隣で行儀正しく座っていることで『大人っぽい』などと悦に入っており、子どもたちに交ざって遊ぶという選択も避けていた。
それでも、去年は―――
(―――なんで、いないの……?)
去年の私には、遊び笑い合うことのできる相手がいた筈なのだ。
共に晴れやかな和服で着飾り、時に言葉を交わして笑い合い、時におはじきや双六などをして楽しい時間を共有していた。
内気な私とも仲良くしてくれて、ずっと隣にいてくれて、あまつさえ友達にもなってくれた女の子が、確かにいた筈なのに……。
その女の子は、テレビで見たどの芸能人やアイドルよりも可愛くて、私のオドオドとした態度を鬱陶しく思うことなく受け入れてくれる優しさも持っていた。
まるで天使のような女の子だった。
私のモゴモゴと零れるような、か細い言葉を気長に待ちながら聞き入れてくれて、私のしたいことの全てを優先し叶えてくれた。
そんな女の子に引き合わせてくれたお母様に、宴会が終わり家に帰った後も何度となくお礼を伝えた。
二人でいた時間がどれほど楽しく幸せに満ちていたのかも、飽きることなく何度も自慢したのに―――
今年、この新年の宴会の席に、その女の子はいなかった。
どれほど探そうとも、見つからなかったのだ……。
あれほど可愛い女の子だ。居れば必ず目を引き、見つけられる自信があった。
そして、今年もまた二人で幸せな時間を過ごせるのだと。
ずっと前からこの日を楽しみにしていたのに―――
私のことを『さよちゃん』と呼んでくれた『はーちゃん』は、どれだけ探しても、宴会に参席してはいなかった。
(なんで……?はーちゃん……)
どれほど探しても目当ての人物はおらず、失望し退屈していたちょうどその時、寿家の女中さんが入ってきて、新たな来客があったと告げた。
その言葉を聞き、それまで隣で静かに座っていたお母様が立ち上がった。
私もお母様に習って立ち上がりかけた時、寿様と女中さんの会話が私たちの耳まで届いた。
「ほぉ、ようやっといらっしゃったか。遠慮せずに上がってもらいなさい。この広間までご案内してあげて」
「いえ、それが……『この後、生放送の撮影の都合で宴会には参席できない為、申し訳ないですがご挨拶だけさせて頂く為に参った』と……」
「むむ……そうなのかい?うーん……それは残念だねぇ。儂もすぐに玄関まで向かうから少しだけ待っててくれと伝えてくれるかな?」
「かしこまりました」
そう了解の意を示し頭を下げた女中さんは、大広間から出て行った。
お母様は女中さんに続く様に襖へと歩き出そうとしていたため、寿様たちの会話に聞き入っていた私は慌てて立ち上がり、お母様の後に付いて行こうとしたのだけど―――
「狭依。あなたはここで待っていなさい」
その言葉は、お母様のものとは思えない程に感情的で鋭さを含むものだった。
私を叱りつけるようにも聞こえたお母様の一言は、私にとっては予想外の物であり、更に常とは異なるお母様の態度と声音は私の身体を硬直させるに十分な威力を孕んでいた。
「えっ……でも、私も挨拶に……」
「必要ありません。狭依、あなたがい「がっはっは!バッカでぇ」して吉祥家と関わる必要はありません。今日は「もう飲めねぇって!」るので、大丈「ちょっとあなた飲み過ぎじゃないの!」もう、周りがうるさいですね。皆さん浮かれすぎですよ……。とにかく、狭依はここでパパと待ってなさい。いいわね?」
「はい……ごめんなさい」
近くで騒ぐ大人たちの声に呆れながらも、私を嗜めるお母様の言葉。
先ほどまでお母様が現わしていた苛立ちや怒りのような不機嫌さは鳴りを潜めていたけれど、そのお母様が発した中で、周囲の騒ぎ声で掻き消されることなく零れ聞こえた―――
―――『吉祥家に関わる必要がない』というその言葉。
普段の冷静で常に泰然自若な態度を貫いているお母様とはかけ離れた、先程見せた感情的な姿。
そして『吉祥家に関わる必要がない』という私への忠告ともとれる言葉は、まるで私の心を縛る鎖のように絡み結びつき、その時の幼い私の脳裏に鮮烈に焼き付いた。
叱られたのだと理解した私は、静々と座っていた席へと戻って項垂れた。
永遠に続くかと思われた退屈を少しは紛らわせることが出来るなどと、浅ましくて碌に考えることもなく行動したさっきの私を恨ましく思ったりもした。
もしかしたら『はーちゃん』がやっと来たのかも、なんて思い浮かれてもいたが、去年その『はーちゃん』と出会わせてくれたのはお母様である。
だけど、挨拶に来たという『吉祥家』の方に、お母様は良くない感情を抱いているようだった。
先程の苛立ったお母様を思い出せば、それくらいのことは容易く考え至ることができる。
もしかしたらお母様と『吉祥家』との間に、何か確執めいた関係や過去でもあるのかもしれないと、その時の私は思い至ったのだった―――
そのお母様が『会う必要がない』とまで言ったのだし、きっと『はーちゃん』が来たわけではないのだろう。
そのあとは、叱られた悲しみと想い人が来たという期待を裏切られた失望を抱え、鬱々とした気分でお母様が戻るのを待っていた。
お父様は落ち込む私を元気づけようと、いろいろな心配りをしてくれていたが、私の心に差した陰が晴れることはなかった……。
(あぁ……はーちゃんに会いたいなぁ……)
今はとにかく、はーちゃんに会いたかった。
あの天使のような可愛い顔を見て癒されたかった。
落ち込んだ私を、あの包み込むような優しさで慰めて欲しい。
―――でも、その望みは叶うことはなかった。
そして、幾許かの時が過ぎ―――
「ほら狭依。ママが帰って来たよ」
そのお父様の言葉で俯いていた顔を上げようとも思ったけれど、そんな勇気を私は出すことができず、もしまた叱られたらと思うと俯いた顔が尚のこと下がっていった。
「まったくもうっ!自分が『七福』の一員であるという自覚がないのかしらっ!」
「まぁまぁ落ち着いて。ほら、狭依もママに怒られたと思って落ち込んでるんだから」
「私は落ち着いてるし、狭依を怒ったりもしていませんっ!」
お母様の発した言葉の内容に反して、明らかに感情の荒ぶりを感じさせるような語調であった。
ちらと見上げたお母様は、何かを堪える様に眉間に皺を寄せて、今まで見たこともなかった表情をしていた。
―――お母様と因縁めいた確執を抱える『吉祥家』という名前を持つ人たち。
その『名前』と絡みついた悲痛な『記憶』はこの後もずっと、私の心中に残り続ける。
(そういえば、『はーちゃん』の本当の名前って、なんだっけ……?)
あだ名で覚えてしまったあの子の『本当の名前』。
その名はもう、どれほど探そうとも記憶の中には残っていなかった―――
◇