<第二万(よろず)。‐誤解の神様‐> ④
◇
教室移動があった三限目の授業が終わり、私は教室へと戻ってきていた。
今の授業に、先程の休み時間で揉めた吉祥伊呂波は出席していなかった。
先生に尋ねられた毘沙門君は『体調不良で保健室で休んでる』などと言っていたけれど、それも本当かどうか怪しい限りである。
その直前まではそんな様子を見せてなかったのだし。
本当のところ、私を貶めようとした企てが未遂に終わり気まずさを感じただとか、ただ単純に面倒だからサボタージュしただとか、きっとそういった理由なのだろう。
―――でも、もうどうでもいい。
正直今は吉祥伊呂波という最低な人間についてなんて考えたくもない。
彼の行おうとした卑劣な行いを思い出すだけで、非常に苛立たしい気分になるのだから……。
それよりも、次の英語の授業では終了時にノートの提出が求められていたはずだ。
ノートに不備がないかをチェックするため、自分の机の中を確認する。
今朝、教材を鞄から机の中に移した時には確かにあったのだし、一応の確認のためにと手探りで探したのだけど―――
(……えっ?あれっ?)
いくら探そうとも、そこにはノートが見つからなかった。
それどころか、そこに入っていた筈の教材一式がものの見事に無くなっており、机の中は空っぽだった。
「えっ?なんで……?さっきは確かにあったのに……」
手探りで探すのはやめて、机をのぞき込んでどれだけ確認しようとも、英語のノートはおろか、そこに在ったはずの全てがどこにも見つからなかった。
そんなはずはないと、机も学生鞄の中も、そして態々自分のロッカーも隈なく探したのに、目当てのモノは見つけられなかった。
「……うそ、でしょ?なんで……ないの?」
三限目と四限目の間の休み時間も、相も変わらず十分しか設けられていないのだ。何の手掛かりも得られないまま、刻一刻とタイムリミットが迫ってしまっている。
どれほど考えても原因がわからないもどかしさと、クラスメイトのお手本ともなるべき委員長の私がこの先で遭遇してしまう失態への恐れ、さらには迫る時間が齎す焦り―――
幾多の感情が混ざり合い、その複雑に絡み合った不安が私の胸中を暴れまわっている。
「どうしよう……どうしようっ……!」
さっきといい、今といい、今日は私の身に何度悲惨な休み時間が訪れるのだろうか。
冷たいロッカーの扉に額を付けても頭は冷えず、冷静な判断を取り戻すこともできず、不安や戸惑いが私の涙腺をガンガンと刺激してくる。
―――なんて情けないのだろう。
(こんな教室の隅っこで、独りで泣きそうになっているだなんてっ……)
よく知らない男子生徒からの恫喝に始まり、未遂で終わった悪質な張り紙などもあり、私の精神状態はひどく弱ってしまっていた。
いつもならこの程度で泣きたくなるほど、泣きそうになるほど弱い人間ではなかった、そのはずなのに……。
今の自分の境遇を顧みて殊更情けなさが増し、零れそうになる涙を抑えきれそうもないと脱力しかけた。
そのとき―――
「―――委員長?どうしたんだ?何か探してんのか?」
偶然通りかかった毘沙門君が私の様子を不審がり、心配したように訪ねてきた。
「な、ないんですっ……英語のノートがっ!他の教科書とかもっ!」
「ん?あぁそうか。次の英語でノート提出すんだっけ?珍しいな委員長が忘れ物なんて」
「ちがうんですっ!今朝にはあったんですっ!ちゃんと持って来ていたのにっ……!」
そう、確かにあったはずなのだ。この目でちゃんと確認している。こんなに忽然となくなるなんてことはありえないはずだ。
誰か、別の人間が盗み出さない限りは―――
「―――吉祥伊呂波は……いま何処にいますか?」
「え?伊呂波なら体調不良で保健室に―――」
「……嘘ですよねそれ?三限目が開始される直前にはそんな様子なかったですから」
「あ、あーいや、そんなことは……まぁあるんだが……正直俺もどこでなにしてるのかは知らないんだ。さっきの休み時間に急にどこかに行っちゃってな……」
首を傾げながら思案顔の毘沙門君が零した言葉で、疑いは確信へと変わった。
「……やっぱりそうですよね?わかっていました……どうせそうなんじゃないかって」
「……それ、どういう意味だ?まさか委員長のノートが無くなった原因が伊呂波のせいだって言いたいのか?」
「ええ、その通りです。さっきは失敗したから、また別の方法を考え付いたのでしょう。私を困らせるための陰湿な方法をっ!」
今までに受けた迷惑や先程の冗談ではすまないレベルの悪戯のことを思い出すと、吉祥伊呂波の底意地の悪い人間性が透けて見えてくる。
よっぽど私のことが嫌いなのか、日頃注意を受けている鬱憤を晴らそうとしているのか、その両方の感情を抱えているのか。
「おい待てよっ!あいつはそんなこと絶対にしないっ!」
「やはり毘沙門君は彼のことを庇うのですね。あの人は傍にいてくれる毘沙門君にすら、底意地の悪さを隠して、騙し続けているんです。それでもあなたは彼を庇うのですか?」
「だから違うっ!委員長は勘違いしてるんだっ!あいつは、伊呂波は人を傷つけて平気でいられるようなやつじゃないっ!信じてやってくれっ!俺の言葉も!伊呂波のことも!」
あの人と付き合いが長いはずの毘沙門君が、何故これ程にも彼を擁護するのかが不思議でならない。
あの人の性格を理解したうえで庇っているのだとしたら、それは友情や親愛などではなく、ただの腐敗した馴れ合いでしかないだろうに……。
「信じられるわけないでしょっ!?現に私はあの人に酷く傷つけられましたっ!今までのあの人の行いを見て、どうやったら信じろなんて言えるんですかっ!」
「たしかに伊呂波は委員長に迷惑をかけてきたかもしれないっ!けどあれはっ!あいつなりに委員長と仲良くなろうとしてただけなんだっ!人と仲良くなるのが苦手で不器用なだけなんだよっ!?」
「あれがあの人の仲良くなり方ですってっ!?他人を貶めて仲良くなれると思ってるのなら吉祥伊呂波の人格は破綻してますっ!それか只のサイコパスですよっ!毘沙門君はどこまでお人好しなんですかっ!?」
「だからそうじゃないんだってっ!伊呂波はそんなこと―――」
「もしかしたらっ!私のノートを自分のものだと偽って提出するつもりかもしれませんねっ!?あの人のことですしそのくらいの卑劣な真似はしそうですっ!」
授業中にしょっちゅう居眠りをしているのだから、ノートに板書を写しておらず、不備に満ちたノートを抱えている可能性が高いだろう。
私がノート提出を行えず困っている姿を内心で笑いつつ、さらには自らの成績の向上にも繋げようと画策するような非道な行いだって、あの人ならば平然と手を染めるだろう。
「いい加減にしろよっ!あいつはノートを提出するために昨日も遅くまでっ―――」
吉祥伊呂波の下劣な品性や非道さをどれだけ説明しても彼を庇い続けている、あまりにも分からず屋な毘沙門君への説得は不毛であると―――
私は毘沙門君への説服を諦めようとした。
そのとき―――
「―――はぁ、はぁ……間に合ってよかったぁ」
息を弾ませ教室に戻って来た吉祥伊呂波は、私たちのいるロッカー前まで歩いてきて、私の目の前に数冊の『何か』の束を差し出した。
「弁財さん、はいこれ。探してるのはこれでしょ?」
見慣れているはずなのに見慣れない姿へと変わり果てた、微かに土のような汚れや濡れたようなシミが付いたノートや教科書。
その薄汚れた私の物を、『笑顔』で私に差し出す吉祥伊呂波。
「おい……伊呂波それ……」
「弁財さんのでしょ?探してたんじゃ―――」
パァンッ!という乾いた音が、教室に響き渡った―――
◇
その音は私の右手が、吉祥伊呂波の頬を張ったことにより生じた音だった。
「……えっ?」
頬を張られた吉祥伊呂波は何が起こったのか理解できなかったように、その大きな瞳を丸くさせて、叩かれた顔の向きを戻そうともせずに硬直していた。
その赤く染まった頬は、きっと私以外の人間からすれば同情し心配するような痛々しさを訴えているのだろう……。
けれど、私にとってはそんなことに同情する余裕などはなく―――
「もう……やだ。あなたなんて嫌い……!大っ嫌いですっ!もう私に関わらないでっ!」
自分の頬を、雫が流れ落ちる感覚がする。
(泣いている。泣いてしまっているんだ、私は……)
こんな教室の中、クラスメイトの目の前で……。
(でも、もう、どうでもいい……)
公衆の面前で涙を流した恥ずかしさよりも、強く激しい感情が胸の中を渦巻いている。
今はもう、吉祥伊呂波に関わる出来事が、時間が、その全てが―――
―――何よりも、忌むべきものになってしまっている。
―――そして何よりも、嫌悪すべきものになってしまったのだから―――
「おい委員長どこ行くんだっ!もうすぐ授業始まるぞぉ……おーぃ……行ってしまった」
背中にかけられる誰かの静止の声も、私に対してはまるで意味を成すこともなく―――
―――そして、私は逃げ出した―――
―――目の前の嫌な事、その『全て』から―――
足が向かう先はどこに辿り着こうとしているのか。
意識して運んでいるわけではないのに急く様に動く両足が、私の身体を一刻も早く、少しでも遠くへとまるで訴えているように教室の入口を抜けても動き続け、八百万学園の廊下に音を立て続けた。
教室に残された二人のクラスメイトが、どのような会話をしているのかを考える余裕など―――
―――ある筈もなかった。
◇
授業の開始を告げるチャイムが鳴った後であるにも関わらず、そんなことを忘れさせるような直前の言い争いの末、伊呂波と鞍馬の2人はクラスメイトたちからの注目を集めながら、ロッカーの前で呆然と立ち尽くしていた。
台風が通りすぎたような、悲惨な諍いの後に取り残された2人は―――
「……どぅして?どうしてこうなったぁ……ボク頑張って探してきたじゃん……うぐぅ」
頬を張られた時にバサバサと零し落としたノートや教科書の上に頽れて床に手を付きながら、伊呂波は自分に起こった理解の不能な出来事を嘆き―――
「そりゃこっちのセリフだ……はぁ。何があったかちゃんと説明してくれ……」
鞍馬は僅か十分の間に起こった出来事のせいで凝り固まった眉間を指で揉み解した。
「うぅ……うぅぅあぁ……ぐすんっ」
「はぁぁぁぁ…………」
情けないうめき声をあげている伊呂波を見下ろしながら―――
鞍馬はもう一度大きな溜息を吐き出したのだった―――
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