<第四万(よろず)。‐氷解の神様‐> ③
◇
「なんで……あなたが……?」
「そんなことよりっ今は逃げようっ!」
蹲る不良たち3人の呻き声が漏れ出す中、吉祥伊呂波は呆然とする私の手を取った。
「―――ひっ……!いやぁっ!」
つい数舜前まで暴行されかけていた私の身体は、きっと誰であっても触れた者を拒絶しただろう。
触れられた瞬間、私を襲っていた恐怖がフラッシュバックし、私の手を握る吉祥伊呂波の手を払い除けた。
「っちょ!ああもぅ!んじゃいいからっ!とにかく逃げようってっ!」
「だって……なんで、あなたが私を助けるのっ……そんな、ことって……」
「ちゃんと後で全部説明するからっ!『吉祥ちゃん』が教えてくれて焦って来たから鞍馬も仙兄も置いてきちゃったんだよっ!だから今は逃げなきゃダメなのっ!」
たしかに彼の言う通りだ。
なぜ吉祥伊呂波が私を助けてくれたのか、その真意は今はどうでもいい。
失ったと思ったチャンスがまた訪れたのだから、今はとにかくこの場を切り抜けることを優先するべきである。
「っ―――!」
身体の向きを翻して、遠ざかっていた階段へと駆け出した。
「―――っ逃がすかぁっ!クソがぁぁぁっ!」
背中に聞こえた声と共に、私の背中を押し出した手の衝撃。
階段を駆け下りようとした勢いだけでなく背中にも加わった力によって、前に出した足は階段を踏みしめることなく、私の身体は宙に投げ出された―――
「なっ!?『さよちゃん』っ!!」
交通事故にあった人が口々に言うようなスローモーションに移ろう世界に入り込んだように、宙を舞う私の目に映る壁や階段は、緩やかなスピードで通り過ぎていった―――
懐かしい『その名前』で、私を呼んでくれる声が聞こえた―――
視線の遠く先に見える階段の踊り場が、少しずつその距離を縮めてくる―――
だけど、急に―――
私の視界は、遮られた―――
『何か』に、『誰か』に、私の頭は抱えられ―――
踊り場への落下から、私を守るように抱きかかえられて―――
その温かさを―――
ぬくもりを―――
確かに、感じて―――
目を閉じた私の身体を―――
―――その瞬間、大きな衝撃が襲ったのだった。
◇
「―――ろ波っ!おいっ!伊呂波っ!!」
―――聞こえて来た誰かの声を目覚ましに、私は意識を取り戻した。
けれど、瞼を開いたにも関わらず、私の視界は暗さに包まれていた。
(あ、れ……なんで、真っ暗……?私、一体……)
寸前まで気絶していたせいか、朧げな意識が現実の認知を邪魔している。
鼻先に触れている布の触感が温かく心地よかった。
鼻腔に感じる匂いは、脳を蕩けさせるほどに甘く、いつまででも嗅いでいたくなるようなものだった。
(良い匂い……でもこの匂い、どこかで嗅いだことあるような……)
記憶に引っかかったその匂いも、朦朧とした意識の中では該当するモノを思い出すことが出来ないどころか、何時何処で嗅いだのかを思い出そうとする意志さえ持てなかった。
そんな嗅ぎ覚えのある匂いの中に、違和を感じる鉄臭い臭いが混じっている。
その記憶に残っていた匂いとの違和感が私の意識を取り戻させるきっかけとなり、私の思考を少しずつ明瞭にさせていく。
現状の確認をと身体に意識を巡らせると、酷い気怠さに支配された私の身体は今、冷たい床に横たわっているのだということを、まず理解することができた。
「あれ……?私、なにして……誰の声?……っ痛!」
真っ暗な視界の中で、身体を動かそうとした瞬間、右足首のあたりにズキンッと痛みが走った。
「おいっ!おいって!伊呂波っ!目を覚ませってっ!いろはっ……!」
聞き覚えのある男の子の声が、必死に誰かを呼びかけている。
私の頭を包んでいた拘束が解けて、私はようやく身体を起こすことが出来た。
まずは状況の確認をしようと視線を向けた先には―――
「うぅ……」
「くそっ……血がっ!まず止血、いや救急車っ!仙兄っ!伊呂波がっ!きゅ、救急車を!」
「今呼んでるっ!―――すいませんっ救急ですっ!八百万学園教師の布袋といいますが!ウチの生徒の一人が階段から落ちて頭から血を流して気を失っています!至急救急車をお願いします!住所は―――」
どこかに電話をかけている布袋先生。
制服が血で染まることにも構うことなく、必死に呼びかけ続ける毘沙門君。
そして―――
床にぐったりと横たわり、頭から血を流している吉祥伊呂波君の姿があった―――
◇
―――どうして、こんな状況になったのだろうか?
床に座り込み動けないままで、私は呆然と目の前に広がる光景を見続けていた。
私が目を覚まし幾分かが経過した今、第三専門施設棟の踊り場には数名の教師が招集され、事態への対応を行っている。
遠くから聞こえて来たサイレンの音も今では止み、階段を昇る足音と共に2名の救急隊員もやってきた。
冷静さを欠いた毘沙門君は救急隊員に運ばれようとしている伊呂波君から離れようとせず、その名を必死に呼びかけている。
ふと視線を上げた先では、布袋先生を含む教師達や生徒会役員の恵比寿先輩と言い争いをしている3名の不良学生の姿も見ることが出来た。
私と視線が合うや何事かを叫んでいるが、私の脳は彼らの叫びの内容を理解することが出来ず、私はその怒号をただ茫然と聞くことしかできなかった。
未だ目を覚まさない吉祥君は、その小さな体を担架に乗せられ階下へと運ばれていく。
「伊呂波っ!目を覚ませよっ!頼むからっ!なぁって!」
「大丈夫ですから落ち着いてください。頭部から出血をしていますので揺らさないで」
「す、すいませんっ!でも―――あっ磯前先生っ!」
「ごめんなさい遅くなったわ。吉祥君は?」
「階段から落ちて頭から血が出ててっ!呼んでも返事しないんですっ!」
「そう……あ、名乗るのが遅れてすいません。私この学園で保険医を務めております磯前といいます―――」
運ばれている吉祥君と共に階下に姿を消していった毘沙門君が合流し話しているのは、おそらく保険医の磯前先生だろう。
私も何度かお世話になり、姿は見えずともその声には聞き覚えがあった。
(茫然と事態を眺めている場合じゃ……ないですよね。でも、私はどうしたら……)
立ち上がろうとしたが、右足に痛みが走りしゃがみ込んでしまった。
もう一度、今度は踊り場の手すりを握りながら、少しずつ立ち上がった。
階上に上がるのは―――正直無理だ。
あの不良たちに襲われた恐怖がまだ残っている。
彼らの近くに寄りたいとは到底思うことが出来なかった。
では、毘沙門君たちに付いていく?
(この足で、彼らに追いつくことが出来るでしょうか……けど)
たとえ痛みに耐える必要があろうとも、私は毘沙門君や吉祥君を追いかけるべきだ。
そうしなければいけないと、強く思った。
手すり越しにゆっくりとではあるが、階下に続く階段を目指して足を進めていく。
ズキンッズキンッと足に走る痛みにも、歯を食いしばり耐えながら、一段一段と階段を下りていく。
―――どうして、こんな状況になったのだろうか?
私は大切な筆箱を取り戻すために、そして吉祥君との決別をするためにここまでやって来た筈だった。
だけど、実際に私を呼び出したのは吉祥君ではなく、いつかの名前も知らない彼らだった。
襲われそうになっていた私の元に、吉祥君が駆け付けて、私を逃がそうとしてくれた。
そして階段から突き落とされた私を、私のことを『虐げてきたはず』の吉祥君が、身を挺して庇い守ってくれた。
その結果、私は足に軽い怪我を負うだけで済み、一方で吉祥君は―――
頭から血を流して、誰よりも親しい毘沙門君の必死の呼びかけにも反応をせず、意識を失ったままで病院に運ばれようとしている……。
『私を虐げてきたはずの吉祥伊呂波』
―――果たして、本当にそうだったのだろうか?
その時に感じた小さな疑問の種は、私の記憶の中で急速に根を広げ、葉を茂らせるようにこれまでの出来事をいくつも思い返させた。
私は一段、階段を降りる。
『それならば―――何故?』
私より遅く登校してきたという理由で、あのギャル風の女子学生を容疑者からはずしたけれど、いつも私よりも遥かに遅れて登校してくる吉祥君のことは疑い続けた。
(それは、きっと私がそうであるはずだと思い込んでいたから)
―――犯人捜しをする自分に酔いしれて、吉祥君を犯人に仕立て上げようとした―――
手すりを握る手に力が入る。
そしてもう一段、私は階段を降りる。
『それならば―――何故?』
(その前から違和感を感じていたのに、怒鳴られたショックでそれどころじゃなかった。皆が私を遠巻きに見ていることを、憐れむような視線を向けていることを、『気のせい』で済ませようとした……)
急ぐ背中越しに聞こえたいくつもの言葉にも、あえて反応しないように努めた。
あの時の私の心に、現実を知るための余裕が、度胸がなかったからだ。
(あの人たちは、私の背中に『既に』貼ってあったモノ、それを張られて気付かないままでいた私のことを憐れんでいた……?)
それならば、そのあと私と接触した吉祥君が貼ったはずがない。
彼が持っていた紙とそれまでの違和を無理矢理こじつけて、鬱憤を晴らすように吉祥君を責め立てただけだ。
―――むしろ、あの時の吉祥君は―――
手すりを握る手に力が入るのは、痛みを堪えてるからではない―――悔しいからだ。
もう一段、階段を下った時に足に痛みが走ったけれど、この程度の痛みなんて……。
『それならば―――何故?』
(私のノートを隠すつもりなら、わざわざ持ってくる訳がない。ただでさえ汚れたノートを差し出せば、私に疑われるってことくらい、吉祥君はわかっていたはずなのに……)
だけど、それなら吉祥君は、なぜ私のノートが盗まれたことに気付けたのだろうか?
(ノートが無くなっていることは、被害者の私と犯人しか知り得ないはず……)
だからこそ、あの時の私は彼を糾弾した。
(でも、偶然に犯行の瞬間を目撃しただとか、それこそ吉祥君が第三者の犯行を知り得る可能性だっていくらでもあるだろうし……)
―――私が困ることになる事態を防ぐために、探しに行ってくれたのではないか―――
唇が震える。
鼻の奥が痛い。
階段を降りようとした足が止まり、その一歩が踏み出せなかった。
私が感じている痛みなんて、吉祥君が負った痛みや、悔しさに比べたら―――
(いえ……比べることさえ、烏滸がましいっ……!)
『それならば―――何故?』
昼放課の校舎裏で私を押し飛ばした吉祥君は、あんなにも泥に塗れていたのだろうか?
私が最後に見た吉祥君は校舎の上階を睨みつけていたのだろうか?
(それが、私を押し飛ばした理由だとするなら……私が『暴力』だと罵ったあの行動は、批判されるようなことなんかじゃ決してなくて……)
―――私の代わりに、あんなにも汚れて―――
涙が頬を伝い、顎から零れ落ちる。
何粒も、何粒も、床に落ちては弾けていった。
止めどなく流れる涙は、まるで―――
―――まるで、誤解という名の残酷な氷が解けて生まれた融解水のようだった。
『何故、なんてそんなこと―――もうわかっている』
吉祥君は忠告してくれた―――あの人たちに気を付けろ、と。
吉祥君はお願いしてくれた―――あの人たちに近寄らないで、と。
吉祥君は助けてくれた―――あの人たちに襲われている私のことを。
吉祥君は庇ってくれた―――階段から落ちそうになっている私のことを。
吉祥君は―――守ってくれていた。
ずっとずっと、何も知らない、何も気づけない、『私なんか』のことを―――
(っめ……なさいっ……ごめんなさいっ……!わたし……なんてひどいことをっ……!)
もう一段も、一歩も、動くことが出来なかった。
「ごめ……さぃ……ごめんなさいっ……!ぅ、ぅあぁぁぁっ……!」
顔を覆った両手の隙間から、涙が零れ落ち続ける。
どれほどの謝罪を重ねれば、私は許されるのだろうか?
いや、たとえ何万回とその言葉を積み上げたとしても、私のしでかした罪を贖うことはできないだろう。
(どうしよう……もしこのままっ……吉祥君が目を覚まさなかったらっ……!)
最後に見た吉祥君は、きっと酷く打ち付けたであろう頭から少なくない血を流し、どれほど呼びかけても目を覚まさなかった。
恐ろしい想像が身を凍り付かせる。
もしかしたら、このまま謝る機会さえ与えられずに―――
(どうしよう……どうしようっ……!どうしたらっ……わたしはっ……!)
凍える様な季節でもないはずなのに体の震えが止まらない。
階段の途中でひとり、身を抱きしめていた私の耳に足音が届いた。
階下から階段を昇ってくる慌ただしい足音。
その慌ただしく響いていた足音は、私のすぐ目の前で……止んだ。
顔を上げた先、涙でぼやけた視界の中には、乱れた呼吸を整えることもしないで、息を切らせたまま私に手を伸ばす毘沙門君の姿があった。
「委員長……一緒に来てくれ―――」
毘沙門君は手すりに掛けていた私の手を取り、そう告げたのだった―――
◇




