<第四万(よろず)。‐氷解の神様‐> ①
【狭依毘売命】
須佐之男命の持っていた十拳剣より生まれた宗像三女神。
その一柱である市杵島毘売命の異名。
本地垂迹により弁財天と習合し、福の神として信仰されるようになった。
◆
五限目は日本史の授業だった。
担当教諭の布袋先生とは、お互いが同じ七福家の一員という縁もあり、八百万学園に入学する以前にも何度か話をしたことがある。
さらに言えば、布袋先生は一年担当の生活指導も担当していたはずなので、私の相談を行う相手として最適だと思っていたのだけど……。
他の先生方にはし辛い相談事でも顔見知りの布袋先生ならば、まだ幾分気が楽であるだろうと意気込んでいた私の考えも、残念ながら不発に終わってしまった。
周囲の情報通を自称するクラスメイトが話していた眉唾な情報によれば、なにやら急な用事が布袋先生に入ってしまった為に、急遽五限目が自習の時間に変更になったとのことらしい。
情報通を自称する割には、内容は曖昧で誰にでも想像できそうなものだ。
彼は情報通の看板を下ろした方が得策だろう。
(授業を不在にするほどの急な用事というものにも少し興味は引かれますが、どうしましょう……肩透かしを食らってしまいましたね……それに彼らも―――)
教室の後方を見やると、そこには二つの空席があった。
吉祥伊呂波も毘沙門君も、先の昼休みから教室には戻って来ていなかった。
毘沙門君はともかく、吉祥伊呂波は『もしかしたら』と予想はしていたので、案の定といった感もあるのだけれど。
(まあ、あの汚れた格好のままで教室に戻って来られていたら、そのせいでクラスメイトの方たちは気になってしまい授業への集中力を欠いてしまっていたでしょうし、騒ぎにもなっていたかもしれないですしね……)
五限目の終了を告げるチャイムが鳴り響き、私は自習に使っていたノート類や筆入れを机の中にしまう。
(毘沙門君たちは、戻ってくるのでしょうか?昼休みから戻って来ていないようですし、きっと着替えも持っていない筈ですよね。次の授業に参加するためには、ロッカーまで着替えを取りに戻ってこないといけない筈ですけど……)
そこまで考えて、私は考えを一旦やめた。
授業をサボるクラスメイトたちを遺憾に思う気持ちはあるけれど、毘沙門君はともかく、もうわざわざ心配する義理などはないのだ。
どれだけ授業をサボタージュしようとも、もう全て吉祥伊呂波の勝手なのだし。
あとで精々痛い目を見れば良い。
それも因果応報で自業自得なのだし。
(そんなことよりも、先生方への報告は……やっぱり布袋先生を探してお時間を頂きたいですね)
不発に終わったとはいえ、一度そうと気持ちを固めたのだし、やはり吉祥伊呂波の相談は布袋先生に行おうと決め、そのタイミングも帰りのHRが終わった後にしようと頭の中で計画を立てた。
そうと決まれば、あとは本日最後の授業を無事に終えることが、今の私が為すべきことである。
本日最後の授業は体育だ。
ロッカーから着替えを取り出して更衣室に向かわなければと席を立ったところで、隣席の女子生徒が声を掛けてきた。
「委員長、四限目いなかったから心配してたけど、もう大丈夫そうだね」
「えっ!ぁ、は、はい!心配をおかけしたみたいで……ごめんなさい」
彼女とは隣席のよしみで軽い世間話くらいはしていた仲だけど、所詮その程度の親交がある程度の関係だと思っていた。
そんな子から頂いた突然の『心配』という言葉に、私は思わずテンパって言葉を返してしまった。
「そんな謝らないでよ~。私が勝手に心配していただけだし。委員長が授業をサボるはずはないだろうから、体調でも悪いのかなって思ってたんだ~」
クラスに特別親しい人などいないと思っていた。
けれど、私が知らないところで、私の欠席理由に変な勘繰りをせず、さらには心配までをもしてくれる人がいた。
何か、得も言われぬ熱いものが胸の中を満たし始めた。
この人とならば、もしかしたら―――
「あ、ありがとうございます……あの、もし宜しければ―――」
「おーい!早く行かないと着替える時間なくなるよっ!」
「ごめ~ん!すぐ行くからっ!んじゃ委員長、私先に行くねっ!」
さらに親交を深められるかもと思って、勇気を出して何かを言おうとしたけれど、それも不発に終わってしまった。
彼女には私なんかよりも優先すべき友人がいるのだし、それも当然なのだろう。
(私は彼女に、一体何を言おうとしたのでしょうか?はぁ……なんか今日は疲れることばかりですね……)
やる事為す事が上手くいかない。
感情が酷く揺り動かさせる散々な一日である。
そんな一日も、あと一限の授業を乗り越えればようやく終わりを迎えられると、その為の準備をしようとロッカーに向かおうとしたところで、先程声をかけてくれた女子が私の前まで戻って来た。
(えっ……!もしかして、『一緒に行こう』と誘ってくれるのでしょうか)
と淡い期待を胸に秘めている私の気持ちに気付くこともなく、彼女は一言の親切な言葉を残して、私を置いて友人たちと共に教室から出て行った。
(……ん?どういう、ことでしょうか……?)
私は理解できなかった。
彼女の発した言葉の意味を。
もう諦めていたことなのに、なぜそんなことになっているのか。
『あっ!それと良かったね委員長!全員分ちゃんと提出されてるって先生は言ってたし、委員長のノートも誰かが提出してくれてたみたいだよっ!授業休む前に誰かに頼んどいたのかな?それだけ伝えて安心させときたかっただけだからっ!それじゃね!』
(あの授業前に私のノートを回収して、そのまま提出してくれてたとするなら、毘沙門君ですかね……それよりも、あの人も提出できたのですね……。人のノートを代わりに提出するようなことはなかったようだし、確かに安心しましたけれど……)
英語の成績が下がることは避けられたと安堵し、けれどそれ以上に特に深く考えることもせず、私もロッカーから着替えを取り出して、彼女たちを追うように教室を後にした。
―――この時、私にもっと警戒心があれば。
きっと、『結末』は変わっていたのかもしれない。
けれど私は相も変わらず鈍感で、私の陥っている状況の把握だって、全くといって良いほど察することが出来ていなかった。
いつでも、いつまでもテンパって、自分のことばっかりで。
他人に割くような意識の余裕すらも、全然持っていなくて。
その実、私が一番可哀想で、誰よりも頑張っているなどと。
恥ずかしげもなく、被害者面で居続けた―――
―――そして、また知らずに傷つけるのだ。
私のことを、ずっと想って、ずっと支えて―――
そして、ずっと守ってくれていた『彼』のことを―――
◇
体育の授業は、つつがなく終了した。
男子と女子は分かれての授業であった為、毘沙門君たちが体育の授業に参加していたかは定かではなかったけれど。
その日の最終授業が体育の日は少し面倒くさい。
着替えの終わったクラスメイトの全員が教室に戻って来て、それから帰りのHRが開始されるからだ。
そのため、授業が少し長引いたり、使った用具の片付けで遅れた人がいると、その分だけ帰る時間や部活に参加するのが遅れてしまう。
そのような事態を少しでも避けるために、六限目の体育が終了した後は、各々速やかに着替えを終えて、さっさと教室まで戻るのが暗黙の了解となっていた。
私もそのルールに習って、クラスメイトからのヘイトを集めないためにも、早々に着替えを済ませて女子更衣室を後にし、教室までの道程を急いだ。
女子更衣室を出た時には、まだ着替えの終わっていない女子は結構な数が居たため、先のルールを鑑みても、それほど急ぐ必要があるわけではなかったけれど。
それでも、教室まで早足で戻っているのには訳がある。
体育の時間中、教室には人気がなくなってしまう。
その分、私の所持品は誰の監視もない無防備な状態となってしまう。
そのことに気付いたのは、授業が終わってから着替えをしている最中だった。
私の杞憂であることを祈りつつ、教室の入口が見える場所まで戻って来るや、その光景が目に入った。
先に戻った数人の女子は、教室の中に入ることなくその入口に立ちすくんでおり、入室を躊躇っているようだった。
(ま、さか……)
私の抱えていた不安が現実に起こっていないことを願いつつ、私は彼女たちの後ろまで辿り着き、教室の中を確認した。そこに広がった光景は―――
「なに、これ……なんでこんなことに……」
私の口から漏れ出た疑問の呟きによって、目の前で茫然としていた女子たちは私の存在に気付いたようだった。
「えっ?あっ委員長……」
「あそこ、やっぱり委員長の席、だよね……?」
「なんであんな酷いことに……」
口々に漏れ出た彼女たちの声も、未だ目の前に広がる事態を呑み込めていない私には、意識の外で飛び回る雑音にしか聞こえなかった。
私は独り、誰もいない教室の中に進んでいく。
私の席の前まで来ると、なるほど、ようやく少しは理解できるようになってきた。
机や椅子だけでなく周りの床にまで広がっているのモノは、白飯や唐揚げなどのお弁当『だった』もの。
床に投げ捨てられた見慣れたお弁当箱が、そこに広がる無残な数々は、元々はお父様が私の為に作ってくれた、私がお昼休みに食べ損ねたお弁当だったということを教えてくれた。
散らばっていたのは、それだけではない。
結構な量の液体が撒かれたのか、周囲の床も自席も椅子もビショビショに濡れており、さらには無数のタバコの吸い殻と灰の残骸がバラ撒かれている。
その近くまで寄ったことでわかったけれど、液体や吸い殻のせいで、その場には酷い悪臭が発生していた。
そして他にバラ撒かれていたのは、目を背けたくなるような醜い言葉の数々が書かれた幾多もの紙だった。
「こんな……なんで、私の、私だけに……」
その呟きに、嘆きに、疑問に意味などはない。この状況のいきさつを、その理由を誰かが教えてくれる訳でもない。
そんなことはわかっている。
それでも、自然と止めることも出来ずに漏れ出てしまったのだからしようがない。
「……ぁ」
そして目の前の現実を理解し始めた私は、悪臭を我慢して机に駆け寄り、その中に手を差し入れた。『そうでないこと』を祈っていた私を裏切るように、そこにあった数々を触れることが出来ずに、私の手は空を彷徨った。
そこにはなかった。教科書も、ノートの類も。
そして、お父様からもらった大切なあの『筆入れ』も―――
「ない、ない……なんで?どうしよう、どうしたら……」
無駄だと告げる脳内の声も無視して机の中を手弄り続けるけれど、目当てのモノが触れる感触は依然として見つからない。
感じられるのは、手を入れた当初から手の端をくすぐり続ける一枚の紙の感触だけだった。
動揺や狼狽、不安や疑問。
それら負の感情や周囲に立ち込める悪臭のせいで、グラグラと視界が揺さぶられている。
立っているのも辛くなり、その場にしゃがみこんだ私の膝に感じられる食べ物が潰れる不快な感触。
(うっ……気持ち、悪い……うっ!)
そして、私はその嘔吐感に耐えきれず、吐瀉物を吐き出した。
自然と流れる涙を頬に伝わせながら、何度も何度も嘔吐き、床を汚していった。
「うわっ!どうしたんだよアレっ!」
「わかんないよっ!私たちだって戻って来たらああなっててっ!」
「ちょっヤバくないっ!?委員長もどしてないっ!?ウチ先生呼んでくるっ!」
「トイレから雑巾とバケツ持ってくるっ!」
「俺も手伝うっ!」
「とりあえず窓開けるかっ!誰か女子!委員長の介抱してやってっ!」
「わかったっ!委員長っ!大丈夫っ!委員長っ!」
「とりあえずみんな中入れっ!廊下で騒いでたら野次馬沸くかもしれないっ!」
「女子何人か手伝ってっ!外から委員長が見えないように囲って隠そうっ!」
―――周囲の喧騒が、どこか遠い世界のことのように聞こえる。
―――周りのこえが、まるでまったく別のくにの言葉のようにきこえる。
―――とび交うことばの意味が、ぜんぜんりかいできない。
―――だれかが、誰かのことをよんでいる。
―――からだに、ちからが、はいらない。
それまで机の中に差し込んでいた手がだらりと垂れ下がり、その拍子に机の中に入っていた一枚の紙が、私の目の前に舞い落ちてきた。
うずくまったまま、震える手で『それ』を拾い上げる。
「イインチョウ!ダイジョウブッ!?」
ぼやけた視界の中、二行の羅列された文字列が目に入る。
「マダキモチワルイ?セナカナデルヨ?イイ?」
一度、目を通しても内容が理解できなかった。
背中に、誰かの手が触れた。
「クソッ!ナンデコンナヒジョウジタイニイロハチャンモビシャモンモイナインダヨ!」
二度、一行目に書かれているのは『返す』『場所』『来い』?誰かが私を呼んでいる?
「アノ二人ガイチバンイインチョウト仲イイノニ!」
三度、一行目に書かれているのは『返して欲しいなら第三専門施設棟四階に来い』?
「オレ探シテクルッ!イインチョウガ大変ダッテ言えバ、スグ来てクレルト思ウシ」
四度、二行目は?
なんてかいてある?
これはかんたんだ。
『誰にも』
『一人』
『今すぐ』?
「ハンカチ濡らシテキタッ!委員長!クチ拭くカラ顔あげテッ!」
五度、二行目に書かれているのは『絶対に誰にも言わず今すぐ一人で来い』?
俯き続ける私の口を、冷たい何かが優しく撫でた。
なんだろう?
スッキリする。
「コノお弁当箱、たぶん委員長のだよね?ワタシ洗ってクルネ」
六度、初めから読んでみる。
『返して欲しいなら第三専門施設棟四階に来い 絶対に誰にも言わず今すぐ一人で来い』
(返す……返ってくる……?私の大事な、お父様から、もらったっ……!)
私は立ち上がり、駆け出した。
私の周りを何故か大勢の人が囲んでいたけれど、その人たちの隙間を縫って、教室を抜け出し廊下を走る。
「えっ!委員長!?」
「おいっ!あれ大丈夫かよっ!追いかけるかっ!?」
「一人にして欲しいってことかもしれないし……」
「とりあえず教室片付けとこうぜ。いつ委員長が戻って来てもいいようにさ」
誰かが誰かを呼び止めるような、いくつもの声が聞こえた気がしたけれど、今の私にはそんな声に構っている時間はない。
走っている最中、何度も立ち眩みのような不快感に襲われた。
だけど、その度に壁にぶつかり、手で壁を押しやり、身体を前へと押し出した。
ただひたすらに、目的の場所に辿り着けるように、私は足を動かした―――
◇




