一章 30 鉄熊
物心ついたころから、鉄熊は自分が特別であることを自覚していた。
母熊も兄熊も自分と比べ、薄汚い毛並みに粗末な牙と爪。
魔力の扱いも拙く、頭も悪い。
同じ日に生まれ、同じものを食べて育ったはずの兄熊は、力も体格も数段劣る。
肉体だけならば母熊を越えるのも時間の問題だった。
しかしながら賢い鉄熊には、生きていくために知識が必要であることもわかっていた。
自分より愚かな母熊の後について、か弱い兄熊をかばいながら魔樹海での生き方を学ぶ生活。
それはまるで枷でもはめられたかのように息苦しく、鉄熊にとって苛立ちの募る日々だった。
季節が一巡りしたある日、鉄熊はついに兄熊を殺した。
母熊のいない間を狙ってのことだ。
鉄熊の苦労も知らず無邪気にじゃれつく兄熊は、前足の一撃で首の骨が砕け、あっけなく死んだ。
次に戻ってきた母熊を殺した。
さすがに一撃でとはいかなかったが、思ったより簡単に死んだ。
全身の毛を鋼鉄に変えられる鉄熊と違って、母熊は手足の一部しか硬くすることができない。
予想よりはるかに弱かった。
これならば同時に殺すのも苦ではなかった。
もっと早く実行すればよかったと、鉄熊は悔いた。
抑圧から解き放たれ、見るものすべて色づいて見えるほどの爽快感。
鮮やかな緑、零れる日の光、流れた赤のなんと美しいことか。
鉄熊の心に歓喜が湧く。
これほどの感動、もっと早くに味わいたかった。
鉄熊はそう考えたのだ。
これでもう、殺したいものを我慢する必要はない。
力を加減することもない。
何もかもが鉄熊の思う通り、すべて自由だ。
この時、この瞬間から、鉄熊にとって生き物を殺すことは、楽しいことになった。
何よりも楽しく、愉快なことだ。
そしてより強くなるための手段でもあった。
兄熊と母熊の、柔らかで温かい臓腑のなか。
そこに目当てのものがある。
魔物の力の源、魔石だ。
これまでも見たことはあったが、母熊に取られ、食べることを禁じられていた。
理由はわからない。知る前に母熊は死んだ。
だから鉄熊は、自身が強くなることを疎んだためだと思い込んだ。
鉄熊は初めて魔石を食べ、こう確信した。
母は己を恐れた。己が母より強いからだ。
魔石を体に入れたとたん、驚くほど力が溢れた。
母熊との戦いで失った魔力が回復し、より強い肉体に変化していく。
進化しているのだと、本能的に悟った。
母熊は己がこうなることを恐れ、魔石を遠ざけたのだ。
激しい怒りが鉄熊の胸中に渦巻いた。
強者である己の行動を、愚者が阻んだ。
その怒りは身体中を駆け巡り、鉄熊をより強く進化させる。
牙も爪も長く堅く。肉体はしなやかな筋肉によってはち切れんばかりに盛り上がった。
より強靭な身体を得た鉄熊に、恐れ怖がるものなど何もない。
気に食わぬものはすべて力でねじ伏せ、潰し、切り裂き、噛み砕き、ことごとく殺し尽くした。
愉快で、爽快で、たまらなかった。
なかでもことさら気に入ったのが、自身より小さな生き物を殺すことだ。
叩けばパンと弾けて簡単に潰れる。
簡単すぎて少し物足りないくらいだ。
だから親子連れならなお良い。
親は子を守るために逃げない。
それどころか己に歯向かってくる。
力の差もわからぬその愚かな頭を潰すと、なんとも痛快だ。
親を殺す間に子は逃げるが、匂いを辿ればすぐに追いつく。
少しずつ追い詰めて、弱ったところで噛み殺す。
骨を砕く感触がくせになるほど心地よい。
あの日もそうなるはずだった。
忌々しいあの日。
鉄熊に初めてできた汚点。
いつものように気配を消し、獲物が通るのを待った。
黄金色の毛並み、翡翠の目、三本の尾。
少しばかり小賢しい狐が向かってくる。
あれは素早く逃げ回って殺しにくく厄介だが、運の良いことに子を連れていた。
それも三匹も。親より一回り小さく、尾はひとつしかない。
長く遊べそうだと、鉄熊はほくそ笑んだ。
遊ぶどころではない事態になろうとは、鉄熊には思いもよらなかった。
親狐の反撃にあったのだ。
炎の塊が、鉄熊の右目に直撃した。
炎は右目に食らいつき何をしても消えず、鉄熊は感じたことのない痛みに狂ったように走り回った。
ようやく消えた時には、鉄熊の顔の半分は焼けただれていた。
痛みはしばらく続き、鉄熊を苛んだ。
火傷が治っても、潰れた右目は戻らない。
欠けた視野では獲物に逃げられることも増えた。
そして、恐れるもののなかった鉄熊に初めて生じた感情――恐怖が、鉄熊の心にべったりと貼りついて離れない。
たとえ小さな獲物でも、たとえそれが小さな火だとしても、鉄熊の心に痛みを伴って襲いかかる恐怖心。
おかげで狩りの成功率は著しく下がってしまった。
この魔樹海では身を守るために火を扱う魔物も多いからだ。
鉄熊の胸の内に恨みが積もっていく。
月日を重ねれば重ねるほど、鉄熊の心に大きく広がり、深く根を張る。
すべてはあの狐のせいだ。
あの狐が己から右目を奪い、楽しみを奪い、惨めな生を歩ませる。
ゆえに鉄熊は、魔樹海をさ迷い、狐を探し、次々に屠っていった。
憎しみを晴らすために。
恐怖を消し去るために。
かつての輝かしい生を、取り戻すために。
鉄熊にとってこれは、己が正義の戦いであった。
――まあ、オレにはなんの関係もないことだけどね。




