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一章 15 逃走


 巨大な灰色の熊だった。

 硬そうな尖った体毛に覆われ、上顎から二本の長い牙が伸びていた。

 真っ黒な鼻をしきりに動かし、こちらに歩いてくる。

 四つの脚は全て丸太のように太い。爪は小型のナイフを思わせた。


 さっきの熊など前足の一振りで殺せるだろう。

 押し潰すことさえ可能なほどの巨体。さっきの熊の二倍はありそうだ。

 オレがいくら体を固くしたところで、あの爪で容易く引き裂かれ、ゴミのように蹴散らされるに違いない。


 巨大な体に比べ、頭は小さかった。

 首を左右に振りながら歩くから気づかなかったが、右目は潰れていた。

 目の周りが焼けただれ、痛々しい火傷の痕が見える。

 右目は完全に見えないようで、残った左目で周囲を見ていた。

 その灰色の小さな目がこちらを見据え、赤く光った。


「グォオオオオオ!!」


 灰熊が吠える。ビリビリと空気が震える。反射的に触手を出して構えてしまった。

 葉に当たりガサリと音が出た。灰熊がまっすぐこちらを見て、近づいてくる。


 ヤバいヤバいヤバい! 逃げなきゃ!!


 走って! と狐ちゃんに向かって念じたが、狐ちゃんは動かなかった。

 伏せたままだ。どうしたんだ。

 焦りの感情が伝わってくる。


『動けない』と。


 灰熊が茂みの前で立ち上がるのと、オレが狐ちゃんをなんとか包めたのが同時だった。

 灰熊はそのまま両前足を上に構えて、地面に叩きつけるように振るった。

 オレは狐ちゃんを抱え、左に跳ぶ。体の一部、間に合わなかった端が灰熊の右足に潰され、千切れた。


 い、痛くない!

 狐ちゃんじゃないからセーフ!


 素体で良かったと思う間もなく、触手を出して走る。

 あんなのに捕まったら狐ちゃんは食べられ、オレは磨り潰されて死ぬだろう。それはやだ。

 だから逃げる一択だ。

 幸い、ここは植物が多い。あの巨体は恐ろしいが、木が邪魔で走りにくいはずだ。

 反対に、オレも狐ちゃんも小さい。追いつかれなければ逃げられるだろうし、もし追いつかれても隠れる場所はたくさんある。


 だから落ち着け、冷静になれ。

 オレならできる。狐ちゃんと逃げ切るんだ!


 走りながら視野を広げ、後ろにいる灰熊を警戒する。

 灰熊は死角に跳んだオレを一瞬見失ったが、音と匂いでわかるのかすぐさまオレを追い始めた。

 意外と早い。さすがこの森に棲んでいるだけあって、森での動き方がわかっているみたいだ。


 オレは触手の数を六本から四本に減らし、狐ちゃんの走り方を真似た。自己流で走るよりは早くなるはずだ。たぶん。

 もちろん本当は狐ちゃんが走った方が良いんだけど、逃げながらじゃ離せない。

 しかも今、胴体と足しか包めなかったせいか、狐ちゃんの体勢は上下逆さまに近い。

 さらに頭が灰熊の方に、尻尾が進行方向に向けられている。

 これを直して地面に下ろして、なんてわたわたやってたら追いつかれてしまう。


 狐ちゃんには悪いけど、しばらく我慢してもらおう。

 気合いを入れて触手を動かす。灰熊と距離が開き始めた。

 またやつの目が赤く光る。


「グォオオオオオ!!」


 再びの咆哮。狐ちゃんの体が震え、固くなった。

 あれはもしかして、何らかの〈アビリティ〉なのか?

 だから狐ちゃんの体が硬直して、動かなくなるのかも。

 でもオレには効かない。なぜだかわかんないけど。


 へっへーん、残念でした!


 灰熊との距離が開くにつれて、なんだか余裕が出てきた。

 吠えて相手が固まったところを狙うような卑怯な戦法を取るやつに、紳士のオレが負けるわけない。


 ヒャッハー! このまま逃げ切ってやるぜ!


 右に左に揺さぶりをかけながら森を駆け抜ける。

 倒木を飛び越え茂みをかき分け、走りは順調、気分は高揚!

 後ろにいる灰熊はもう追い付けない。

 倒木は体当たりして砕き、茂みを踏み越え、最短距離を真っ直ぐオレに向かって走ってくるが、これ以上の距離は近づけないみたいだ。


 オレの走りでね。

 オレの! 走りでね!!


 森が途切れ、川に出た。川幅は大人の足で十歩程。

 対岸は崖になっている。崖の上は森の続きだ。

 川に入って泳ぐか、崖を登って走るか。

 少し迷って走りを止めたら、後ろから灰熊が飛びかかってきた。

 

 残念、ちゃんと見えてるぜ!

 

 今度は右に跳んで完璧に避ける。

 そのまま駆け出し、上流に向かった。


 灰熊は頭から川に突っ込み、派手に水しぶきを上げた。

 だが体を起こすと四肢に力を入れ、向きを変えてまた追いかけてくる。

 もう、いい加減しつこい。

 この執念深さはなんなんだ。


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