鼻毛との出会い
気付いてしまった。気付いてしまう前の、あの平穏な心の状態に戻りたい……そう心は願っていても、もうそれは片山にとっては無理な望みであった。
片山の職場の机から右斜め前45度の方向を、彼は見てしまったのだ。そこには直属の上司の、奥田係長が座っていた。
片山の机の前には、パートのオバちゃんである麗子の机がくっつけて置いてある。
その向かい合って置いてある二つの机の横に、さらにくっつくように、奥田係長の机が配置してあった。なので、まっすぐ前を向くとそこには麗子が座っており、右斜め前を見ると、そこには奥田係長が座っているのが見えるのである。
片山は、さっき気付いてしまった。
奥田係長の左の鼻の穴から、鼻毛が出ていた。
今までは、きっと鼻の穴の中でひっそりと過ごし、そして今成長した姿を皆に見せようとするかの様に姿を晒しているそれは、なかなかの長さを誇っていた。
鼻から出ている部分だけで、恐らく1センチに達しているのではないかと思われるその鼻毛は、奥田係長が息をする度に、小刻みに震えるように、鼻息になびいて動いていた。
(くっ……)
片山は、その鼻毛から目を逸らした。見ないようにしようと思い、仕事に集中するべく目の前のパソコンに向かい合う。
しかし、片山のその思いは、右斜め前45度の存在に脆くも崩れ落ちてしまった。
見てしまう。見えてしまうのだ。そっちを見ていなくても、目に飛び込んでくる。何をしても無駄だった。片山は、奥田係長の鼻毛を無視する事が出来なかった。
(くそっ……駄目だ……どうしても見てしまう……)
奥田係長が息をする度に、その鼻毛は微妙に震えるように動き続けた。その様子は、見ようによっては鮭が川を遡らんと奮闘するかのような感じに見えなくも無い。
あれはすぐには抜けなさそうだ……と、片山は思った。
奥田係長のその鼻毛は、あれだけ激しく鼻息で揺り動かされていても、しっかりと根を張ったように、毛根の部分が奥田係長の鼻の穴に食い込んでいるように見えた。
すぐに抜けて、鼻息で何処かに飛んでいってくれたらどれだけ良かっただろうと、片山は思った。
すぐに鼻毛が抜けて、片山の乱れ切った心がもうこれ以上かき乱される事が無ければ、片山も落ち着いて仕事を再開する事が出来たであろう。しかし、それは叶わなかった。
片山は、午前中のうちにお得意先数十件相手への請求書を作成して、午後にはまとめて発送しないといけないのであるが、鼻毛が気になるせいで、彼の仕事のペースはガタ落ちになってしまった。
このままではまずいと思い、仕事に集中せねばと思えば思う程、あの鼻毛は片山に対して存在を主張し、その視界の端でふるふると揺れ動き続けたのである。
パソコンのキーを、つい押し間違えてしまう。
数字の桁を、つい入れ間違えてしまう。
そんな片山の心には、いつしか焦りが生じていた。
今は、間違いにすぐ気付いてすぐに入力し直しているが、このままではいつか間違った内容の請求書を作成してしまいかねない……そう思った片山は、一旦場の空気をリセットさせようと試みるかの様に、別に行きたい訳でもなかったが、トイレに立ったのであった。