ピンク・トカレフ PINK/TOKAREV
私は今私が笑っていることが許せない
トカレフ拳銃……ソ連陸軍一九三三年正式採用自動拳銃。正式名称「トゥルスキー・トカレヴァ」。安全装置が存在せず、徹底した機構の簡略化が図られている。弾薬は7.62mm×25mmトカレフ弾。銃口初速420m/s。有効射程50m。
一、ピンク・トカレフ
ピンクのトカレフをかまえた。
もともと、ぼくのじゃない。ぼくの生まれる前から、このトカレフ拳銃は、人のドギモを抜くようなピンク色をしていた。
トカレフ拳銃は、じいちゃんの家の納屋で長いことほこりをかぶっていた。もともとロシアで――その頃はソヴィエト社会主義共和国連邦、略してソ連と呼ばれていた国――の拳銃だ。ぼくはネットでこれを調べて、グリップの部分に星のマークを発見して、銃がトカレフと呼ばれている事を知った。
太平洋戦争が終わって、じいちゃんの昔の友達が、シべリアから引き揚げるときにこっそり日本に持ちこんだものが、じいちゃん家の納屋に保管されていたのだ。ぼくのじいちゃんは、銃を持っていることをこっそりぼくに教えてくれたのだが、生きているうちは決してどこにしまってあるのかは教えてはくれなかった。それをぼくはやっと発見した。
最初はどう見てもおもちゃにしか見えなかった。ピンクに塗りたくられたトカレフは軽そうで、そもそも本物があるような場所でもない。
手にとってみて、やっとそれが本物なんだと言う実感がわいてくる。ずっしりと重く、鉄のつるつるとした、肌にぴたりと張り付くような、ひんやりした感触が伝わってくる。
銃にも銃弾にもさびが無い。じいちゃんはこれまでずっと、ぼくを除いては人に打ち明けず、綺麗に整備していたのかもしれない
ピンクに彩られている。じいちゃんの友達によれば、それは封印のおまじない、だそうだ。じいちゃんがいうにはじいちゃんの友達は何か病気にかかって、頭がおかしくなっていたらしい。帰国後にピンク色のペンキで銃を塗りたくり、じいちゃんにあずかってもらいに来たのだ。
この拳銃は呪われている――と友達は言ったそうである。このままではこのトカレフに殺されると……。
――拳銃は、トカレフは呪われていたのだろうか。だとしたらそんなものあずかってくれなんていい迷惑だし、じいちゃんはそれを長いあいだ隠し持っていたのだ。そうしてじいちゃんもその友達も、今はもういない。
ピンクのトカレフは、ぼくの手の中にある。ぼくはこのトカレフ拳銃が、ぼくのためだけに姿を現したように思えてならなかった。ぼくはじいちゃんの友達に会ったことはなかったが、このピンクのトカレフはじいちゃんの友達にかわって、ぼくが見つけ出すことを、長い間待っていたと、そんな気がした。
二、絶望同盟
――ぼくたち家族は東京から、じいちゃんの家のある肥吉町に引っ越してきた。ぼくが高校二年生の夏休み中のことで、じいちゃんが死んでからは、少なくても半年はたっていたと思う。
父さんも母さんも、ぼくに大自然のすばらしさを伝えたいのだの、自主性や個性を踏みにじる都会と学校はよくないからだのドーノコーノと言って話を逸らしていたが、この突然に起こった引越しの原因が、父さんの仕事に関係した事で、しかもそれが決していい方向に傾かなかった結果である事はわかっていた。父さんも母さんも、つまりはぼくのせいにした。でも、ぼくはちゃんと知っている。
結局、東京の学校から、肥吉町の高校に転入しなければならなかった。もともと学校は好きではなかったから、この転入も大して気にしていなかったし、それに東京でやりたいことがあったわけでもない。ぼくはだらだら、流されるまま流されたのだ。
肥吉町はのどかな町だ。悪く言えば寂れている。いや、そもそも何もないのだから寂れる余地すらない。寂れたり廃れたり――と言うのは一度繁栄したものがその役目を終えて忘れ去られるから、寂れたり廃れたりするのだ。
ここにはそうした過去の輝かしい記憶はない。
戦国時代名のある武将が生まれたわけでも、重要な戦略拠点だったわけでもない。太平洋戦争中に大空襲を受けたわけでも、戦後高度成長の一翼をになった工場地帯があったわけでもない。それは全部肥吉の身の丈にあったものではなかった。
平成の大合併で肥吉町はN市に合併された。だから正確に言えば、N市肥吉だ。
田んぼが延々と広がっている。日に当てていない大きな畳のようだ。町の中央を通っていた河北線は、合併と同じ時期に採算が合わずに廃線になった。残された線路には草が伸び放題になっている。今は一日に数本走るバスがあるだけだ。
そんな肥吉の学生には唯一のオアシスがある。……国道沿いのサイゼリヤだ。ちょっと休憩に行くには遠すぎる。肥吉の人間が利用できるようには作られなかったようだ。それでも、みんな肥吉学生のステータスとして、足をダイコンのようにしながら、あるいは自転車を必死にこぎながら、たむろしに行くのだ。
「――戻ってきたな」
モンちゃんはにやりと笑ってぼくを迎えた。
モンちゃんとは小さいころから友達だ。夏休みなんかにじいちゃんの家に遊びに来ると、何か勘のようなものが働くのかモンちゃんは必ず飛んできた。乱暴な奴だけど、憎めない。モンちゃんの性格は変わっていないようだ。悪ガキがそのまま成長したという感じだ。
モンちゃんの父さんは、落ちぶれたやくざだ。モンちゃんはそれが嫌でたまらない。自分にもその血が流れているからだ。モンちゃんは子供の頃から、そうした血の逃げ場所として詩を書いていた。それはいまも変わっていない。ぼくと再会した時も、急に何か思いついたかのように、手帳に書きつけていた。
ただ、変わったとしたなら、その隣にいる女の子の存在だ。彼女でもできたのだろうとぼくは思った。確かにぼくたちは日々年をとっている。
その女の子は日差しが強く、しかも蒸し暑いにもかかわらず、黒のフリフリのついたゴシックロリータでキメて、モンちゃんからも肥吉からも浮いている。
彼女はまるで昔からぼくのことを知っているとでもいう風に「おかえり」と言った。一方ぼくは誰なのかわからない。
「あれ、もしかしてわすれちゃったの?」
ぼくは気まずくてしょうがなかった。いやな汗をかきながら、
「いやわかっているよ、ここまで出かかっているんだ……」
と情けない声でうんうんうなった。
「わかるわけねぇだろう。そんな格好してよ……」
モンちゃんは苦笑して女の子の肩を小突く。
「そーお? そんなに変わったかな。……じゃあこれならどう……お~か、おかおか、岡やんやん、は~いっ!」
少女は急に野太い声を上げ直立不動の姿勢で、ピーンと両手を上げたものだからぼくはあっけにとられた。
「……え、もしかして岡やん?」
「今はオカピーで~す」
そう言って少女――いや女装少年は、ぼくに軽くウィンクした。
岡やん――もといオカピーは、もんちゃんと同じく子供の頃の〝男〟友達である。いつの間にか本気と書いてマジと読むような女装をするようになったらしい。確かに子供の頃からそのケがないではなかったが……。
オカピーが女装街道を爆走するその原因は、モンちゃんにあるようだ。
子供の頃から、オカピーは「おかあさんといっしょ」のエンディングテーマで有名なあの意味深歌詞「女の子になりたい男の子」を地で行くような存在だった。気味悪がられたり、いじめられたりしたらしいのだが、何より親友だったモンちゃんだ。そんなことは気にもとめず、いじめられていれば口より先の鉄拳制裁で助けた。ある日、モンちゃんは言った。
「おまえの好きなようにやればいいんだよ…」
モンちゃんにとっては何気ない一言のつもりだったようだが、その一言が、オカピーの中で長いことくすぶっていた乙女なハートに火をつけてしまった。つまりはモンちゃんに恋してしまったのだ。オカピーはモンちゃんに振り向いてもらうため、今や乙女街道を爆走中である。
……ぼくには、もう一人消息の気がかりな子がいた。
「ここちゃんは?」
ここちゃん――篠崎こころ。ぼくらといっしょに、元気いっぱい走り回っていた少女のことだった。まだモンちゃんの言うこの「吹き溜まり」にいるのだろうか。
その名前をぼくが口にしたとき、明らかにモンちゃんの表情はくもり、オカピーはバツが悪そうにしていた。
「あ、あのね、ここちゃんはね――」
「ってかお前、本当に何も知らねーの?」
ぼくには何のことかわからなかった。モンちゃんはハッと短いため息をつき、オカピーはますます気まずそうな表情で、小さく肩をすくめた。
モンちゃんはぼくにぐっと顔を寄せ、声を潜め、まるで悪事を暴露するかのように、こう言った。
「あいつ、〝まごころ〟信者なんだぜ……」
――〝まごころ〟は一年ほど前に、この肥吉にやってきた新興宗教だ。比較的大きな新興宗教だった(・・・)らしい。
それも昔の話だとモンちゃんは言う。モンちゃんは誇らしげにネットで集めたいくつかの情報を、ぼくに教えてくれた。
教祖――信者たちから「ココロ様」と呼ばれているその男は、写真では胴長短足、下唇と下腹が重力に負けて垂れ下がったような、サラリーマン風の男である。カリスマ性などどこにもない。
モンちゃん情報によれば、〝まごころ〟祭壇に祀ってあるのは、黄金に光るチンコらしい。黄金のチンコがご神体のようだ。教義は「こころの清掃」――現世でたまった垢を落とし、また、現世のほかの人間たちの垢も落とす。その垢を落としたきれいな姿で来世の救済を願う。きれいな姿で来世の救済を願うと、現世でも幸福が次々と訪れる、という教義らしい。
「チンカスを洗い流すってさ」
モンちゃんはげらげら笑い、オカピーは「きたなーい」と合の手を入れる。
なぜ、〝まごころ〟は肥吉にやってきたのだろう。
どうやら二年ほど前政界に進出しようとしていた〝まごころ〟は、その時の衆院選で全員が落選してしまったらしい。その反省として「教祖の教えを始まりの地からもういちどやりなおす!」と、この町に来たようだ。そう、肥吉は〝まごころ〟の教祖の故郷だった。
「でさでさ、篠崎のカァチャンが信者なんだ。教祖サマと同級生だってよ。だから篠崎もとっくの昔に洗脳されている」
「なんでわかんのそんなこと?」
と、ぼくは聞いた。
「おまえはまだ篠崎がどうなったか見てないからそんなことが言えるんだ。今のあいつはなぁ――」
「君たち、肥吉高の子?」
不意に背後から声をかけられて、ぼくはふりかえった。
見るからに「夏休みに地元に帰ってきました」というような大学生風の男が、にこにこしながらこちらに近づいてきた。マッシュルーム・ヘアー、逆三角形の顔、眼は糸のように細い。
男は制服姿の少女を連れ立っている。肥吉高の制服らしい。栗色がかったつやつやとした髪。包帯のような白い肌。愛想のない表情。ぼくは直感した。
「はぁ、っすけどぉ」
モンちゃんは明らかに不機嫌そうに答えた。
「やっぱりね。僕も肥吉高だったんだ」
やっぱり――というより、こんな交通のアクセスに不便なところに、ほかの高校の生徒がいるはずがないのだ。わかったうえで言っているに違いなかった。
ふん、とモンちゃんは鼻で笑った。
「ミエミエだよ、バーカ。さっさと他のバカひっかけてろ、信者さん(・・)」
モンちゃんはさっさといけ、というように手をひらひらさせた。
男は残念そうな顔をして「そうか……でも僕たちはいつでも開かれているよ。それがココロ様の教えだし、そのための〝まごころ〟なんだから…」と言い残して、少女に声をかけて去って行った。
モンちゃんはぎりっと歯噛みすると、空のコップをテーブルにたたきつけた。
「あいつバカなんだよ。もう三回も俺たちに声かけてる。いい加減顔くらい覚えろっつーの」
「もしかして、あの信者の隣にいたのって――」
「な、わかったろ。あれが今の篠崎さ」
と、モンちゃんはそう言ってぼくの肩をたたいた。
「あいつはもう友達なんかじゃない。俺たちの、敵だ」
「敵」という言葉にぼくはどきりとした。
〝まごころ〟――あの若い信者(その信者たちは自分たちのことをまごころの仕といっている)は、おもにこのファミレスで勧誘をしているらしい。最初は宗教であることを隠して、相手の趣味や生活の様子をうかがっては、そこから相手の間合いに入り込む。だんだん相手が心を開いてきたら、自己啓発セミナーと称して伝道所に招待し、ゆっくりと 〝洗脳〟、信者に仕立て上げてゆく……。
〝まごころ〟信者はモンちゃんがいうには「詩人の勘」というものでわかるらしい。「肥吉の人間らしくない」――と、モンちゃんはいう。「会話がかみ合わず、すこしすると人生の幸福や祈るだけで体の調子が良くなるという話がはじまる」らしい。
「わたしなんて『女装するのは前世の罪業のせいだからみそぎしろ』だって。ばっかじゃないの」
オカピーはそう言ってふくれっ面をしてみせた。
モンちゃんも、最初のころは詩を書いているところに声かけられ、「君の詩は人の心の闇をえぐっている」などと称賛されて有頂天になっていた。
だがそれが〝まごころ〟のやり方だとモンちゃんは気が付いた。「心の闇を解放するためにはココロ様に会ってお話しした方がいい」……モンちゃん、それでやっと気が付いた。〝まごころ〟はモンちゃんの詩を利用した。モンちゃんに対する最大の侮辱だった。
「やつらはどこから湧いて出てくるかわからないんだ。ゴキブリだよ。ゴ・キ・ブ・リ」
モンちゃんは五杯目のジンジャー・エールを飲み干してつづけた。
「でもお前が帰ってきてくれてよかった。あとは……」
あとは……とぼくは先を促す。モンちゃんはまたもやにやりと笑みを浮かべた。
「あいつらが大~好きな教祖サマを引きずり出す! 戦争だ!」
モンちゃんもオカピーも、正直なところ実害というほどの実害を受けていない。きっとモンちゃんが憎んでいるのは、このファミレスという肥吉高生唯一のステータスに、くだらないやつらがずかずか入ってくることへの怒りなのだ。今回、それはヤンキーでも旅疲れに少しの間休憩を取る旅行者でもなく〝まごころ〟であったというだけのことだ。
「おまえにはおれたちの戦争に参加してもらいたい」
モンちゃんはそう言った。モンちゃんははっきり「戦争」といった。
そしてぼくはモンちゃんの頼みを断る理由もなかった。
「いいよ」
そうすかさず返事をした。モンちゃんは満足そうに何度も頷いた。
モンちゃんの言う「戦争」は、はっきり言って単なるイタズラだったのだが……。少なくとも最初はそうだった。
「〝まごころ〟の信者」――そうモンちゃんが断言する家へのピンポンダッシュというウォーミングアップからはじまった。モンちゃんがリストアップした信者の家にそれぞれピンポンダッシュするのだ。相手が出てくるまでに何回インターホンを連打できるかで度胸をためす。
それから伝道所という名のプレハブ小屋に(「〝まごころ〟ココロのSОS」と書かれたチラシの下には電話番号が書かれていた)順番に電話をかけまくって、「死ね……」と、ぼそり脅して「ガチャ切り」したり、そのプレハブ小屋の壁に「チンカスを洗い流せ!」とかスプレーで落書きしたり、牛乳、粕汁その他で腐らせたぞうきん、コードネームは〝最臭兵器〟を、プレハブ小屋の開いた窓から巨大パチンコで放り込んだりした。
とにかくぼくらはそれを楽しんでいた。イタズラすることが「いいこと」だとして、そのスリルを楽しんでいた。ぼくの肥吉での高校生活は、そんなバカなことに費やされた。
それ以外は、ツマラナイ出来事だった。なにしろここには何もない。さっきもいったように寂れたり廃れたりするものがない。
例えば授業の時など、モンちゃんはこそこそノートに詩を書くのに没頭しているし、オカピーはそんなモンちゃんの後姿をうっとり眺めている。そんなオカピーのまなざしにモンちゃんは気が付かない。詩を書くくせに、その手のことには鈍感だ。
一方、勉強する気にもなれないぼくは、退屈しのぎに窓の方を見て一日を過ごしていた。一日一日表情を変える景色は、見ていて飽きない。ぼくたちはみんなバラバラな方向を向いていた。ぼくたちはいっしょにいても、それと同時に離れ離れだった。そう思うと〝まごころ〟は唯一共通の遊び相手だったのかもしれない。
ぼくたちのことを簡単に表そう。
――「俺は絶望している」
なにか見えない敵を睨みつけるように、モンちゃんは言う。頬に青あざが出来ている。詩人になりたいなんて語る息子を父親は殴るよりしかたない。
モンちゃんは焦っていた。モンちゃんは自分の詩を片っ端から応募していたが、返事が返ってくることはなかった。返ってきたとしても「予選落選」とか「選考を通過しませんでした」とか、「貴殿の今後一層の活躍をお祈りしています」とか、とにかくモンちゃんが欲しがっていた言葉は、そういったたくさんの紙切れのどこを探しても見つからなかった。
詩は、モンちゃんが外へ出るための口実だった。でも、だれもそれを許してくれないようだ。それどころか都合のいいように利用しようとしさえする。彼は、だから絶望している。
――「ワタシも、絶望している」
モンちゃんを切なそうに眺めて、オカピーは言う。
おそらく想いは届くことはない。それでも好きな人のことを本気で想うことが出来るなら、姿かたちは関係ないのかもしれない。
だが、相手もそう思っているとは限らない。どんなにうまく女の子に化けたところで、下半身には男が付いているのだから。また完全に女の子になるためには、お金をためて肥吉をいったん出なければならない。だが今のオカピーはその点無力だ。彼女(?)は、だから絶望している。
――「ぼくは……絶望しているのだろうか?」
そしてぼくは、ぼんやり空を見つめながらつぶやく。いや、その目の前にある篠崎こころを見つめていたのだ。こころは振り返らない。今のぼくとこころはあらゆる接点を失っている。そしてぼくたちは敵対している。敵対させられている。絶望していると言えば、こころはぼくの方を振り返らず、〝まごころ〟と教祖を見つめているということだけだ。
一方でぼくの家族とその生活は、もうぼくには何の関係もないものだった。自分たちの勝手な都合で、ぼくにそれを押し付ける家族、ぼくのせいにする家族には、ぼくは絶望しない。そもそも無関係だからだ。絶望するということは、関係を維持するということだ。だから、ぼくはこの家族には絶望しない。絶望しないのだから家族なのかも怪しい。
もしぼくが絶望するとしたら、こころがぼくのほうを向いてくれないこと。こころの隣にぼくがいないということだけだ。
ぼくらはいつの頃からか〝絶望同盟〟と、自分たちの集まりを呼んだ。
三、ピンクのトカレフ再び
そんなぼくら〝絶望同盟〟の遊びはその後もだらだらと続いたが、事態は着実に肥吉を蝕んでいた。子供だましのイタズラで追い出すことなんか出来ない。それがだんだんわかってきた。
ぼくの家にも、〝まごころ〟は入り込んできた。父さんと母さん、ふたりして夢中になってしまった。ふたりは強がっていただけで、やはりここでの生活に無理を感じていたらしい。山菜取りに行かなくなり、畑の野菜を枯れ腐らせ、雑草を延び放題にし、残った貯金の貯えは、浄財のために見る見るうちに〝まごころ〟に吸い取られた。〝まごころの仕〟の中でも位の低いとされるオレンジのシャツを、ふたりともいつも着るようになった。二人はプレハブの伝道所に足しげく通った。そして伝道所から帰ってくるなり、じいちゃんの書斎を改造した、金ぴかの像――キリストでもお釈迦様でもない――モンちゃんの情報は正しかった――どうみても黄金のチンコの形をした品のないご神体を置いた祭壇の前で、
「…ヨクボウハタマシイヲフハイサセル
タマシイヲジュウゼンニカイホウセヨ
マゴコロヲコメ
ジンルイキュウサイニツクセ
マゴコロノアルジノオミココロニソエ……」
と、お経のように合唱した。
モンちゃんやオカピーと比べれば、みるみる自分のお小遣いが浄財として吸い取られるぼくの方が、ずっと実害らしい実害を受けていた。それにしても、ぼくはふたりがどんなに宗教に夢中になろうが狂おうが関係なかった。ぼくが不安だったのは、このふたりがしつこく伝道所で、ぼくにみそぎ(・・・)をすることを勧めたことだ。信者を獲得するたびに、このシャツの色は変わってゆくものらしい。
ぼくはじいちゃんの家の中で、唯一鍵のかかる部屋に閉じこもるようになった。そこがぼくの要塞になった。ふたりの姿は気味悪かった。まるでゲームに友達を勧誘して、ポイントやコインをゲットしようとするのと、これはそっくりなことじゃないか。〝まごころ〟には、もしかしたら家族割でもあるのかもしれない……。
しかし何度も言うように、家族が洗脳されたことは、ぼくにとって大したことではなかった。なぜなら絶望していないからだ。そして絶望していないものに関係を迫られることが、ぼくにとって不快だった。
家族に絶望していないぼくが確かに絶望したと感じたのは、ある日唐突に、こころが黒髪をバッサリと切って学校に来たことだ。そのショートウルフは、水色に光っていた。ぼくはあるアニメの少女と、こころを重ね合わせていた。実のところを言うと、そっくりだった。先生もクラスの奴らもみんな驚いていたが、彼女が〝まごころ〟に関係しているのは「公然の秘密」だったから、それもありうることだろうと、誰もそのことについて触れたがらなかった。
そうだ、ぼくは絶望した。
こころは着実に、ぼくたちの世界から離れ続けていた。……
……「洗脳が続いている。いつか〝まごころ〟は肥吉を喰いつぶすことになる」
モンちゃんは予言者のようにいった。
ぼくは、モンちゃんやオカピーを縛るものが、ほんとうは〝まごころ〟ではなく肥吉自体だとしたら、それを壊す発端として、それもそれで「アリ」なんじゃないかと思っていた。肥吉がまるごと〝まごころ〟にのっとられたとすれば、モンちゃんもオカピーも、いやでもここを出ていける。
モンちゃんは物思いにふけっている時間が以前より多くなった。険しい表情で、空を見つめている。その後ろ姿を、オカピーは心配そうに見つめる。
今、肥吉は怒りや憎しみや、不安や恐怖といったものを限界まで溜め込んだダムの状態だった。
そしてピンクのトカレフが、最後の一押しをした。
ずっと前に、ぼくはトカレフのことを二人に打ち明けていたが、持ってくるのも二人に見せるのも怖くて、結局話だけでは、ふたりはなかなか信じてくれなかった。
モンちゃんの予言のあったその日の放課後、ぼくは父さんと母さんが〝まごころ〟信者になってから絶えず持ち歩いていたピンクのトカレフを、ついに二人に見せたのだった。
トカレフに触れた瞬間、これまで「どうせおもちゃだろう」と笑っていたモンちゃんの目の色が急に変わった。そしてゆっくり、不敵なにやりとした笑みを浮かべた。ピンク・トカレフの呪いに、モンちゃんはかかったようだった。オカピーはそれを見てちいさく首を振って、青ざめた、恨めしい表情をぼくに向けた。
モンちゃんは何か決心したようにぼくとオカピーに交互に頷いてみせると、急に立ち上がってぼくの肩をたたいた。
「ついてこい」
ぼくは何がなんだかわからないまま、モンちゃんとオカピーに引っ張られて、モンちゃんの家にたどり着いた。
モンちゃんが家にぼくを入れてくれたのは初めてだった。モンちゃんのお父さんはぼくたちのようなよそ者を敵視していたし、オカピーも女装街道を走り始めてからは気持ち悪がられ、家に上げてもらえなかったと言う。
「モンちゃん、お父さんは?」
あ? と、モンちゃんは振り返る。ギョロっとモンちゃんの目が、ぼくを見つめた。
「――しらねぇ」
モンちゃんも、家族には絶望していないのだ、とぼくは思った。絶望していないから、どうでもいい。
モンちゃんの家の裏には、崩れかけの納屋があった。赤茶けたトタンの切れ端をいくつも重ね合わせた、ありあわせの納屋だった。こどもの頃、それはぼくたちの秘密基地だった。
その納屋で、モンちゃんは得意気にあるものを見せた。
「これが俺たちの武器だ」
モンちゃん家の納屋には、ガソリンの入ったガラス瓶のケースと、白抜きで「絶同」と書かれたヘルメット、金属バットなどが置かれていた。そして壁に立てかけられた黒板には、チョークで名前が書いてある。〝まごころ〟信者の名前のようだ。その中にはこころの名前もある。
「――火炎瓶ってんだ」
モンちゃんはガラス瓶の一本を取り出し、軽く振って見せた。
「それに銃だ。これでこんなクソみたいな掃き溜めをぶっ壊すことが出来る。『渡りに船』っていうんだろこういうの? これで〝まごころ〟を――教祖を取り除く準備が整った。俺たちはこれで本当の戦争をする」
――ぼくは実際このトカレフを人に向けてみようなど、考えもしなかった。
いや、嘘だ。本当は誰かに向けたかっただろう。だからぼくは二人に打ち明けたのだが、もしぼくがそれを実行して、もし仮に一発でもトカレフ弾が「撃たれた」なら、そのときぼくのまわりにある世界は、もう取り返しがつかないほどメチャクチャに破壊されるだろうと思った。たった一発で。
もし――が続く。
もし、仮に上手く〝まごころ〟を、そして教祖を「取り除いた」て、ぼくたちの生活に一体どんな変化が待っているのだろうか。〝まごころ〟がいる今と〝まごころ〟がこの町やって来る前と……それは同じように一日は繰り返されるだろうとしかぼくには思えなかった。それにさっきも言ったように、遊び相手を失ったぼくらは、次は誰を遊び相手にするだろう。
モンちゃんは授業もそっちのけで、ごつごつした手に似合わない繊細な詩を書くのに没頭するだろう。オカピーは斜め横の席で、詩作に没頭するモンちゃんの後姿を、決して受け入れられることのないその想いを込めて眺め続けるだろう。そしてぼくは、何にもしないで退屈な授業を、毎日毎日窓のほうを見てやり過ごすだろう。ぼくたちは、孤立している。その島と島とをつないでいるのは、結果として〝まごころ〟じゃなかったか……。
ぼくはこの新しい戦い方に、煮え切らないものを感じていた。
「洗脳が続いている。いつか〝まごころ〟は肥吉を喰いつぶすことになる」
モンちゃんはそう預言者のようにいった。だからそれを取り除くために本格的な「戦争をする」といっている。でもそういうモンちゃんが、だんだん憎い〝まごころ〟と似てきているとぼくが考えるのは、気のせいなのか。
モンちゃんが本当にぶち壊そうとしているのは、〝まごころ〟や肥吉ではなく、そこに悶々とするモンちゃん自身なのだと思った。
ぼくがそういうと、モンちゃんは妙な顔をした。
「それ、どういうことだよ?」
……火炎瓶、金属バット、それにこのピンクのトカレフを使って「戦争」をするということは、こころにそれらを向けることに違いがなかった。ぼくはどんなに世界が食い尽くされていったとしても、こころの横顔だけは、たとえそれが別の世界のものであっても、眺めていたいと願っていた。ぼくはそう自分の考えをモンちゃんに打ち明けた。
モンちゃんはしばらくの間、ぼくをじっとにらんで黙っていた。オカピーはぼくとモンちゃんを交互に見て、心配そうな表情でどうすればいいのかわからないようだった。
「……ならその銃、くれ」
しばらくじっと黙ったあとに、苦しげにモンちゃんは言った。
「トカレフってんだろそれ? 俺にくれよ、トカレフ。お前がやんないんだったら、俺がやるよ。教祖を……教祖を、殺す」
モンちゃんはどうしてそこまで教祖を憎むのだろうか。
教祖は、結局何もしていない。モンちゃんの詩を利用しようとしたのは、あのマッシュルーム・ヘア、目が糸のように細くて、逆三角形の顔の男だ。あの男を殺すならわかる。
もしかしたら、教祖はなにもしていないから悪いのかもしれない。周囲が何でもやってくれる。周りがみんな持ち上げてくれる。崇めてくれる。だから悪いのかもしれない。それにしても、教祖を殺す必要はない。たんに肥吉から追い出せばいいだけの話だ。
「……いやだ」
ぼくが拒絶すると、モンちゃんはそれ以上強制しなかった。オカピーは悲しそうな笑みを浮かべて「しょうがないよね」といって、そのまま黙ってしまった。もう誰も口をきかなかった。
取り戻すことのできない何かが、壊れた気がした。
―ぼくは、なぜトカレフを渡さなかったろう。
ぼくの拒絶で〝絶望同盟〟は、あっけなく解散した。
教室で、ぼくらは一言も口をきかなくなった。
ぼくは授業の間中、MDプレーヤーのオートリピート機能で、バンプオブチキンの「アルエ」を聞き流しながら、アニメの中から飛び出したような女の子とセックスすることばかりを、ぼんやりと目の前を覆っている、ヨーグルト色の膜の中で考えていた。
こころは決してしゃべらなかった。一方妄想の中のこころは子供の頃と変わらない舌足らずな口調でぼくの名前を呼び、ぼくの身体に馬乗りになるのだった。ぼくはものぐさで、こころはいつもそんな風にあおむけに寝転がるぼくの身体にぴたりと張り付いた。
そしてぼくはトカレフを枕元に押し込んで寝た。それがいつか暴発して、ぼくの体が吹き飛ばされることがあっても、それはそれでいいような気がした。トカレフには安全装置がない。
――一方、モンちゃんとオカピーは戦闘を開始していた。
モンちゃんのいう本当の「戦争」が始まったのだ。肥吉には不穏な空気が立ち込めた。それが、モンちゃんとオカピーによるものだとは、なんとなく想像がついた。
事件は全て〝まごころ〟の施設や、その信者とモンちゃんが断言した家で起きていた。
――出てこい。教祖サマ(・・)。
残酷さが……ふたりの中にくすぶっていた何かが、はじけたようだった。実際、金属バットで、ある信者はぐちゃぐちゃになって、原形をとどめないほどにたたき殺されたのだった。授業中、ぼくはモンちゃんとオカピーの方を、見ることが出来なかった。
教室はその噂で持ちきりだった。
(犯人は○○だ)
(お前も信者じゃないのか)
(次はお前の家だ)
……学校は混乱していた。帰り途中に職員室の前を通ると、蛍光灯の光が、まるでその場所だけ光が切り取られたように見えた。
火事が起きた。〝まごころ〟の伝道所――という名前のプレハブ小屋。全焼した。発見されたのは割れたジュースの空き瓶と、ガソリンを染み込ませた雑巾。たしかに「戦争」のために用意された火炎瓶だった。
教室には次々と人がいなくなっていた。信者だとモンちゃんが断言した生徒、先生もいなくなった。モンちゃんとオカピーもある日から学校に来なくなった。そしてこころも……。みんな怖がって学校に来なくなったが、ぼくはそれでも学校に通い続けた。なぜだか自分でもわからない。もしかしたらモンちゃんやオカピーが何事もなかったかのようにひょっこり現れて声をかけてくれるのを待っていたのかもしれない。
それで現実にぼくは自分ひとりが教室に取り残されたような気持ちで、どうしてみんなぼくの前からいなくなってしまうんだろうと考えた。その日のうちに学校は休校になって、ぼくは学校を追い出された。
しかし、モンちゃんとオカピーが始めた戦いは、案外あっけなく幕を閉じることになった。
ふたりは殺された。
モンちゃんとオカピーが、河北線の線路脇で死んでいたのが発見されたのは、ふたりが学校に来なくなってすぐのことだった。
ぼくは、群がる人々の隙間からそれを見た。ブルーシートに隠された死の場面。その隙間から一瞬だけ見えたか細い腕は、きっとオカピーのものであったに違いない。その腕は遠目から見るとかたく氷のように縮こまっているようで、誰からの理解も同情も拒否しているようだった。
オカピーはモンちゃんと死ぬことが出来て幸せだったかもしれない。逆にもっとモンちゃんと「生き」て、想いは遂げられなくても、その後ろ姿を眺めていたかったかもしれない。ただどっちにしても、ふたりは死んだのだ。
……その日の夜、ぼくは眠れないままぐったりとベッドに寝そべっていた。いつものように「アルエ」をオートリピートで流しっぱなしにしながら、仰向けに寝そべるぼくの体に、真っ白な包帯のようなこころの裸が舞い降りてくる妄想をしていた。
夜の二時だった。妄想の中のこころが、ぼくの言うことも聞かずに、部屋をするりと抜け出した。ぼくが「こんな時間にどこ行くんだ?」と聞いても、こころは振り返ってくれない。本物のこころも、妄想の中のこころも、ぼくの前からいなくなってしまう。
何かに突き動かされるようにして、ぼくは枕元のピンクのトカレフを、パーカーのポケットに押し込み、部屋をすり抜けたこころを追って、きしむ木の階段をそっと下りた。
そんなに慎重にならなくても、よかったかもしれない。父さんも母さんも、ほとんど頭がおかしくなっていた。伝道所は焼け、もともとの信者たちはいつの間にかいなくなっていた。すがるべきものを失っていたふたりは、お手製の祭壇に飾られていた黄金のチンコを、その時はげしく奪い合っていた。交互に奪い取っては、べろべろとチンコをなめていた。黄金のチンコは金メッキだったらしく、ふたりが必死になめるものだから、もう黄金ではなかった。そして、
「…ヨクボウハタマシイヲフハイサセル
タマシイヲジュウゼンニカイホウセヨ
マゴコロヲコメ
ジンルイキュウサイニツクセ
マゴコロノアルジノオミココロニソエ……」
……ぼくは家を出た。
あてはない。ぼくには意思がない。妄想のこころを追いかけているだけだから。とにかくぐるぐる肥吉の夜道を歩いた。月明かりに照らされて、外は青ざめていた。ぼくから五メートルほど先に、妄想のこころは包帯のような体を月明かりに発光させながら、まるで道路にトランポリンでも埋まっているかのようにぴょんぴょん飛び跳ねていた。追いつこうとぼくが何度駆け寄ろうとしても、こころはぼくの五メートルほど先をぴょんぴょんと飛び跳ねている。何度目かにぼくはあきらめて、こころの少し後をついて行くことにした。
いつの間にかぼくたちは焼け落ちた伝道所の前にいた。どろどろに溶けたプレハブの建材や、信者の割れたお茶碗や焼け焦げた教祖の写真、遠目から見るとチンコのように見えるご神体が黒焦げのまま残っていた。モンちゃんとオカピーの「戦争」が、二人が死んだことであっけなく終了したように、〝まごころ〟もあっけなく消え去った。どちらもひどく脆かったのだ。
ぼくはじっと目を凝らしてモンちゃんとオカピーの仕掛けた「戦争」の跡を目に焼き付けていた。
その時だ。その月明かりの中に、こそこそと動き回る、あの男を発見した。
「あいつら僕の邪魔ばっかりしやがって…」
トカレフが本物とわかると、男はガタガタ震えながら、いとも簡単に自分たちが殺したことを告白した。実際には、自分は殺しにはかかわらず、はねっかえりの狂信的な連中がふたりを殺して、自分は後になってそれを知ったに過ぎない、といった。
そんなことはどうだっていいのだ。誰が殺しても、もうふたりが戻ってこないことは確定している。誰もふたりを返してはくれない。
ぼくが教祖のことを聞くと、男はべらべらしゃべりだした。どうやら教祖は、信者を残して逃げだしたようだった。
「あのくそ野郎…ぼ、ぼ、僕をだましやがって。みんな嘘だったんだ。みんな…みんなインチキだったんだぁ…」
男はめそめそ泣きだした。ぼくが知りたいのは教祖がインチキだったとか、彼が騙された可哀想な男だったとか、そんなことではなかった。
「んなのしらねえよ」
ぼくは自分の周囲を渦巻いている冷淡さが、ひどく恐ろしくなった。
「おしえろ! オトナのくせしていつまでもめそめそしてんじゃねぇよっ! いつまでも騙されたと思ってろよ。みんな人のせいにして死んじまえ! どこにいんだよ、偉大な教祖サマとこころは!」
男ははっと顔を上げた。こころという名を聞いたとたんに、見る見るうちに恐ろしい表情になって歯ぎしりしだした。
「あのヤリマン女……あいつとくそ野郎はグルだったんだ。知ってんだろう? いや知らないか……あのくそ野郎がこのクソ田舎に帰ってきたのはあいつのためだったんだよ。知ってるか? あのヤリマン女、くそ野郎とエンコーしてたんだ。で、あのくそ野郎あいつのまんこ忘れられなくてさ、〝まごころ〟もボロボロだってのにそっちのけでこんなクソ田舎に……。た、たしかに、僕もあいつンまんこ使わせてもらったよ。やっと童貞卒業さ。……あいつの母親を引き入れたのは口止めさせるためさ。いまじゃ立派に教育されているけど、あいつだけは絶対教育されなくて、それどころかくそ野郎から――いや僕たちの金巻き上げて――」
「うるさい! ぼくの質問だけに答えろぉぉっ! どこにいったんだよぉっ!」
男は、ひいぃと悲鳴を上げた。そうして片言のように、
「カニプリ…カニプリ」
と、顔をぐちゃぐちゃにして言った。
カニプリ―カーニバル・プリンセス。山のふもとにあったラブホテルだ。今は廃墟になっている。そこに教祖とこころはいるのだと言う。
結局この男は教祖がだましただのインチキだったのだといって、そのくせ二人の居場所を知っていながら手を下せないでいる。一人では何にも出来ない。〝まごころ〟はその点で弱い人間の集まりだ。
とにかく聞きだせる事だけ聞き出すとぼくは再び、男の額にピンク・トカレフの銃口を向けた。
「まってくれよぉおおおお! 僕全部いったじゃんかぁぁぁああっ」
ぼくは半狂乱の男につばを吐きかけた。するとそれで何かの糸が切れたのか、男は何度かぶるっと身を震わせて、ちょっとしてからへっへへと薄く笑った。妙な臭いがして下を見ると、男は小便を漏らしていた。
一瞬ぼくのほうに隙が生まれて、男はわけの分からないことを叫びながら、マンガみたいに両手を挙げて暗がりに駆け出した。国道の明かりの方へ向かっているようだった。
だが次の瞬間、男は「ひょっ!」と声を上げてぼくの視界から姿を消した。おくれてしぶきを立てる、水の音を聞いた。どうやら用水路か何かに気がつかずに、スーパーマリオみたいに落っこちてしまったらしい。
ばかだな――とぼくは姿を消した男に向かってちいさくつぶやいた。あんな弱い人間に、トカレフの弾を使う余裕なんかないのに。
それはとにかく、ぼくは自分のやるべきことを見つけ出した。
本物のこころに会わないといけない。会ってどうするのか? それはぼくにも分からなかったが、カニプリに向かって、ぼくは夜道をひたすら走った。妄想のこころは、いつのまにかいなくなっていた。月も雲に隠れてしまった。青白く光るこころがいないと、街灯が圧倒的に少ない肥吉の夜道は心もとなかった。何度も躓いて転んだ。ぼくはそのたび悪態をついて立ち上がった。ただ苛立ちと、恐怖と、不安と、焦燥感だけが、ぼくを走らせた。
……カニプリは闇に慣れたぼくの目の前にぼんやりと立ち現れた。いや、もしかしたら、こころがいるためかもしれない。
カニプリの薄いピンクの壁には、雨に流された排ガスの黒いしみが無数に這っている。それは白い壁のところどころに走る亀裂にしみこんで、どす黒くなった血管のように見える。ピンク色の壁に血管のような黒いしみ。カニプリは生き物だ、と思った。
立ち入り禁止の札をくぐると、むき出しのコンクリートブロックを積みあげた、細く長い廊下がだんだんに薄暗く奥まで続いているのがわかる。壁はぼろぼろと崩れ、じめじめと濡れていて、緑色のこけがいっぱいにはえていた。
ぼくが奥へと足を踏み入れ、じっと中をうかがっていたとき、背後で何かがつぶれたような音がした。振り返ってみると、コンクリートブロックの壁の一部と、そこからあふれ出る土砂が入り口をふさいでいた。
ぼくは二度と静かな世界には戻れない。もう後には引けない。退屈で、暇で、単調な――それでもある程度明日が来ることがわかっているような場所には、もう帰ることは出来ない。
ぼくは先へ進み続けた。
もともとカニプリは肥吉の心霊スポットとして有名な場所だった。自殺や殺人やホームレスのリンチと、いくつも都市伝説をもっていた。肝試しにこれまで何人も入り込んだらしく、部屋のいたるところにスプレーでいくつも落書きされていた。どれも汚い落書きでその横に(おまんこしよう)とか(チンポなめたらほけきょー)なんて書かれている。
その中でも印象的な絵があった。
まるでマンガ家が書いたような妊婦の絵だ。ここで自殺した妊婦がモデルらしい。ショートカットで両の手を天に突き出しているような姿。そしてその妊婦の腹には包丁が突き刺さっている。それがすべての個室のドアに書かれていて、奥に進むほどその包丁の数は増えた。
この絵の妊婦はこころに似ていた。
足元でかさかさ、妙な音がした。ぼんやりと浮かんだのは、木の葉でもゴキブリでもなく、一万円札だった。しわくちゃになった諭吉は、ぼくににやりと笑っていた。きっとこの万札は、教祖が信者たちから巻き上げた金だろう。それがヘンゼルとグレーテルの帰り道のしるしみたいに、一枚、また一枚と廃墟の奥にまで続いている。
その時だ。
「ロシテコロシテコロシテコロシ……」
ざらざらとした砂嵐の暗闇の中から、抑揚のない、意味のないお経じみた声が聞こえた。
「コロシテコロシテコロシテコロシテ……」
「殺して」――そうだと気がつくのに、長い時間がかかった。それは建物全体に反響して、カニプリ自身が「殺して」とぼくに頼んでいるようだった。
いちばん奥の部屋――だった。入り口には何本も長細い注射キットが散乱している。シリンジの部分には公衆トイレの液体石鹸に似た緑色の液体がわずかに残っている。そしてまた一万円札。一万円札……その束。
雲が切れて、部屋の中が月明かりに照らされた。
「コロシテコロシテコロシテコロシテ……」
こころは薄汚くとうの昔に壊れた回転ベッドの上でそんなことを言い続けていた。その姿は、こどもに乱暴に服をはぎとられた人形のようだ。
こころと教祖は〝合体〟している。まるで一つのもののように。ふたりとも口元からぶくぶくと緑色の泡を吹いている。ぼくが入ってきたことなんて、気付いちゃいない。
こころのコロシテ経は続く。それに教祖が共鳴したように、
「コロシテコロシテコロシテコロシテ……」
と、合唱した。それは形を持った言葉が、ぐるぐると目まぐるしい回転でふたりを包み込んでいるようだった。
「コロシテコロシテコロシテコロシテ……」
――コロシテ経を唱えるモノに対する本当の〝まごころ〟の体現が、ぼくにピンクのトカレフをかまえさせた。
いつの間にかぼくの妄想のこころはまた姿を現し、包帯のように真っ白な体を月明かりに青白く発光させながら、回転ベットの周りをぴょんぴょんと飛び回っている。こころはしだいに縮んで行き、ぼくの知っている最後の、元気いっぱいだったこころの姿に変わっていた。
ぼくは何の感動もなく、引き金を引いた。乾いた妙に軽々しい音を二発聞いた。こんな軽々しさで、少なくともふたりのニンゲンが死ぬんだという事が、ぼくなりの慈善であるということに気が付いた。時が進むのをぼくが止めなければならない。トカレフはぼくの手の中にある。今できるのはぼくしかいない。モンちゃんもオカピーもいない。
そして教祖もこころも。
今いなくなった。
(了)
作品は2015年度の織田作之助青春文学賞に応募したものを、その後手を入れたものである。そのため思い入れもあり、映画を撮りたくて底本に脚本も執筆したがついに叶わなかった(内容云々より主に筆者の人徳のなさがこれに起因している……と思わないと救われない)。
大森靖子とピンク・トカレフの「これで終わりにしたい(加地等の楽曲)」を聴いたのが、この小説の始まりだった。本作が織田作之助青春文学賞で第二次選考まで通ったことで一人称の語り口に手ごたえを感じ、その大いなる勘違いによって大コケしたのが次の「悪の組織の戦闘員」というオチつきである。
水色のショートウルフに包帯のように真っ白な肌、アニメの女の子に似ていて、そのうえバンプオブチキン「アルエ」ともなれば、もう篠崎こころの正体は説明するまでもないと思う。包帯のように真っ白な肌のイメージは筋肉少女帯「どこへでも行ける切手」中の「♪包帯で真っ白な」を勘違いしたためだろう。この筋肉少女帯の楽曲が「福耳の子供」と並んで綾波レイ(あ、言ってしまった)のモデルなのは有名な話。
主人公たちの集まりの名称で、また本作の元タイトル「絶望同盟」についてだが、某宗教政党に対するカウンターのつもりでつけた。幸福の党に対する絶望の同盟である。このころの日記によれば、作家になる希望が徐々に目減りしてゆく感覚の中で、物語を書きながら次の言葉を想起していたようである。
「希望がないなら絶望を動員せよ」
確かナチの宣伝相ゲッベルスの言葉だったと思う。