1話 玄関を開ければ
玄関を開けると、中で美少女が泣いていた。
「うぅぅ、ひっく……!」
庇護欲をかきたてる鈴の音のような声で、白髪の少女が泣いていた。
まあ、百歩譲って泣いているのはよしとしよう。誰にだって涙を流す自由はある。
問題はここが俺の部屋で、俺がその子を全く知らないってことだ。
「し、失礼しましたー……」
バタンと扉を閉める。壁についた表札を確認する。
そこには確かに「春風」という俺の苗字が、特徴のない字体で書かれていた。
とすると、ここは間違いなく俺の部屋だということになる。隣の部屋を間違って開けてしまったわけではない。
うん、そりゃそうだ。酔っているわけでもないのに自分の部屋番号を間違えるわけがない。第一俺は未成年で、酒なんて呑んだこともないし。
じゃあ、今しがた見えたあの女の子は誰だ?
俺には妹なんていない。女友達もいない。と、すると……
「……もしかして、幻覚か? 一人暮らしが寂しすぎて幻覚見てんのか、俺?」
もしそうだとしたら、俺は完全にやべえヤツだ。早急に精神科を受診しないとならなくなる。
いや、落ち着け俺。俺はまともな人間なはずだ。自分を信じろ!
春風湊十七歳、高校二年生。好きなものは漫画とアニメ、嫌いなものは普段大人しいのに怒ったら怖い人。
この春から両親の遺産で一人暮らし中……よし、大丈夫だ。ここまでは覚えてる。俺は冷静だ。
「ふぅ……」
息を正し、もう一度部屋のドアを開けてみる。
「ううぅぅ……うぇぇんっ……!」
少女は未だ泣いていた。
軽そうな身体を小さく丸め、頭を華奢な脚の間に挟み込み、まるでアルマジロかなにかのような体勢をとっている。
状況が分からないまま、俺は恐る恐る部屋の中に入っていく。
そして思い切って、声をかけた。
「あのー……大丈夫ですか?」
「だいじょば、ない、です……! ぐすんっ!」
だいじょばないらしい。困った。
「……とりあえず、水でも飲む?」
少女はコクンと頷く。
水道を捻り、コップに水を満たし、少女に手渡す。
少女は小さな手でコップを受け取り、コップに口をつけた。
こくこくと繰り返し喉が動く。
よほ喉が渇いていたのだろうか、コップの水を一気に飲み干した少女は、ぷは、と小さく息を吐いた。
「ありがとう、ございます。少し落ち着いてきました……くすん」
「そりゃよかった」
アルマジロのようだった体勢をやめ、すとんと体育座りになる少女。
ずっと伏せていた顔を上げたことで、俺はようやく少女の顔を確認することができた。
見た感じ、年齢は十五、六歳といったところだろうか。
雪を連想させる真っ白な髪は、鎖骨に触れるかどうかという塩梅だ。
くりんとした大きな紅い目、小さいながらもスッと通った鼻、ぷるんと瑞々しい唇が絶妙なバランスで顔に配置され、幼顔なのに美しい。
胸部の主張は控えめだが、女性らしい腰のくびれは備えている。
むにむにとしていそうな肌は日の光など浴びたことがなさそうなほど白く、黒い衣服と鮮やかなコントラストをなしている。ミニスカートからは華奢な太腿が覗いていた。
息をするのも忘れるほどの美少女、というのはこの子のようなことをいうのだろう。
かわいい。たしかにかわいい。超かわいい。
こんな可愛い子は街にも滅多にいないだろう。
だけど、今はそれどころじゃない。
「……で、一応ここは俺の部屋なわけなんだけど……」
そう、ここは俺の部屋なのだ。2LDKの男一人の城なのだ。
この子はそこに無断で侵入して来ている。いくら相手が美少女と言えども、これを見過ごすわけにはいかなかった。
「はい、知ってます。ミナトハルカゼ……いえ、ハルカゼミナトさんですよね?」
「知ってて入ったんだ……」
「……すみません、仕事なもので」
申し訳なさそうに項垂れる少女。
未だ涙が渇いていない紅い瞳は潤んだままだ。
「一応聞きたいんだけど、えーっと、あの」
「ユルルです」
「あ、どうも。えーと、聞きにくいんだけど、ユルルさんは泥棒?」
「ど、泥棒じゃないですっ」
「じゃあもしかして、俺が作りだした幻覚?」
「幻覚でもないですよ!? ちゃんと物にも触れます。ほら」
そう言って、ユルルと名乗った少女はテーブルをぽんぽんと叩く。
その振動で、テーブルの上に乗った箱ティッシュが僅かに揺れた。
よかった、俺は幻覚を見ていたわけじゃなかったんだ!
しかも泥棒でもないときた! なんだ、なら良い人じゃないか!
「自己紹介が遅れてすみません。私はユルル。冥界からミナトさんの魂を奪いに現世にやってきた死神です」
「なぁーんだ、俺の魂を奪いに来ただけの死神かぁー! いやー、ユルルさんが良い人でよかったー!」
「えへへ、照れますね!」
「うんうん本当によかったよー……って、いいわけあるかぁぁぁっ!」
「ひぃっ!?」
突如出した大声に、ユルルの肩がびくんと跳ねた。
ふざけんな、ノリツッコミなんかしたの人生で初めてだぞ!
「えへへ、照れますね!」じゃないんだよ!
俺の初めてを奪いやがって! 責任とってくれ!
……っと、いけないいけない。
あまりにも非常事態過ぎて、頭がハイになってしまっている。
落ち着け、今ユルルはなんて言った? 冷静に考えろ。
魂を奪いに来た? 俺の? ……え、つまりどゆこと?
冷静になってみても、さっぱりわからなかった。
仕方ない、直接聞くしかないか。
「なんだよ、死神って。おまけに俺の魂を奪いに来た? どういうことだよユルル、説明してくれ!」
「そ、そうですね。すみません、説明が足りませんでした」
ぺこりと頭を下げたユルルは、手の平で俺を指す。
「ミナトさん、あなたは人間としては稀有……というか、桁外れの尋常じゃない量の魂力をその身に有しているんです。それこそエリート死神の私さえ凌ぐほどの」
「魂力? ……魂の力ってこと? 俺が、その魂力ってやつを凄い量持ってるって?」
「はい、その通りです」
そんなよくわからない名前のファンタジー全開な力、生まれてこのかた感じたこともない。
人違いじゃなんじゃ、と思う俺だが、そうではないらしい。
「現世では魂力を感じにくいせいで、自覚は無いようですね。でも死神である私がミナトさんから魂力を感じとっている以上、人違いではありません。これほどの量の魂力が現世にあるのは冥界にとっては非常に大きな損失なんです。……なので冥界に来てもらうために、閻魔大王様の命で死神の私が直接ミナトさんの魂奪いに来ちゃいました。てへっ」
「いやいやいや……いやいやいや!」
なんか最後の方ちょっと可愛い感じで言ってるけども!
内容が内容なだけに恐怖しか感じねえ!
「待って、待ってくれ! それじゃあれか? 俺の人生はここでおしまいってことか?」
「いえ、問題があってですね……」
「問題?」
「現世に来てみてわかったんですけど、ミナトさんの魂力が想像の数倍ほどあるんです。これじゃ私では魂を奪えません。でも任務を中止してもらうにしても、魂を奪って任務を完遂する以外には現世から冥界へコンタクトをとる方法はありません。……要は私いま、八方ふさがりなんですよ。なので、ミナトさんが現世を去るようなことはありません。安心してもらって大丈夫です」
「ああ、だから泣いてたのか」
やっと理由が分かった。
まあ泣いていた理由が分かったことよりも、俺の命が危なくないことがわかったことの方がでかい。さすがに死ぬには早すぎる。
「そこでご相談があるんです。不躾なお願いで申し訳ないんですが、なんとか私がミナトさんの魂を奪えるようになる方法を一緒に考えてはもらえないでしょうか……」
「これほど不躾なお願いをされたのは初めての経験だ」
「恐縮です」
「褒めてねえ」
というか、この子は本気で俺がそれに協力するとでも思っているのだろうか?
……いや、そういうわけでもないんだろうな。
とれる選択肢が無さ過ぎて、可能性がほぼゼロだとしても頼まずにはいられない状況、ということだろう。
それについては同情しなくもないが、しかしそれとこれとは別問題だ。
「もしそんな方法が見つかったら、君は俺の魂を奪えるようになるってことだろ? そうしたら君はまず間違いなくそれを実行するだろ? そうするとさ……俺、この世とおさらばだよね。確実に」
「お悔やみ申し上げます……」
「いや、神妙な顔で言われてもさ」
「やっぱり駄目、ですよね」
「こればっかりはなぁ」
「そうですよね、すみません……」
しゅん、と背中を丸めるユルル。
ただでさえ小さな体が、さらに一回り小さくなる。
また泣きそうになっているが、唇を白くなるほど強く噛んでなんとか耐えているようだ。
気の毒には思うけど、俺にはどうにもできないしなぁ。
まさか魂を渡すわけにもいかないし。
「……ユルル。君はこれからどうするの?」
「どうしましょう……」
ユルルはうううと頭を抱えた。
「身一つで送り出されたせいで家もお金もツテもないですし。これからどうすればいいかなんて、さっぱりわかりません……」
項垂れるユルル。
とそこで、俺は一つ案を思いつく。
「……一つ、案はある」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、この部屋に住めばいい」
「なるほどっ! ……いや、でも、それはその……ミナトさんのご迷惑じゃないですか?」
「俺は一人暮らしだし、ユルルさえよければ大丈夫だ。それに、現世の人間って結構同棲とか多いから」
別に嘘は言ってない。結婚している人間のほとんどは同棲しているはずだ。それに、最近はルームシェアとかもよく聞くし。
さすがに出会って数分の人間と同棲するヤツは滅多にいないだろうけど。
でもユルルは美少女だし、警戒心も高くないとやっていけないだろうからきっとこんな誘いには乗らな――
「ありがとうございますミナトさん! 恩に着ます!」
「ああ、うん」
マジかよ。
警戒心無さすぎじゃないこの子? 大丈夫?
なんか俺の方が心配になって来るんだけど……。
いや、心配してる場合じゃないな。ここからが俺の勝負どころだ。
「ただし、条件がある」
浮かれ顔のユルルの前に、俺は指をピンと立てた。
「条件、ですか?」
「ああ、無条件で家を手に入れられるとはユルルも思ってないだろ?」
それを聞いたユルルはごくりと唾を呑みこむ。
そして縋るように俺の手をとった。
「な、なんでもします! 私にできることならなんでも仰って下さい!」
「なんでも……。……じゃあさ、俺の魂を奪うっていうのをやめてくれ」
「っ!? そ、それは……!」
ユルルの顔が曇る。
おお?
即座に突っぱねられるかと思ったら、意外と揺れてるっぽいぞ。
ならここは強気で……!
「無理ならこの話は無しだ。出て行ってくれ」
玄関を指差す。
もう夏に差しかかるころとはいえ、今は夜だ。そんな露出の多い格好で外に出たらどれだけ寒いか。
それを感じ取ったのかは定かでないが、ユルルはゆっくりと顎を引いた。
「……わ、わかりました。ミナトさんの魂は奪いません、約束します。だから家に置いてください!」
「本当にいいんだな?」
「はい、閻魔大王様なんてくそくらえです! 野宿なんてするくらいなら、喜んでミナトさんの魂を諦めます!」
なんとも清々しい寝返りっぷりだ。
上手くいった、か。
俺はホッと胸をなでおろす。
そしてユルルに手を差し出した。
「交渉成立だ、今日からよろしくな、ユルル」
「はい。よろしくお願いします、ミナトさん!」
手を握り合う俺とユルル。
ユルルの手の感触はひんやりと冷たく気持ちがいい。
トクントクンという血液の流れはたしかに感じるから、血が通っていないという訳ではなく単に体温が低いのだろう。
俺よりも幾分も小さい手をぎゅっと握りながら、俺は思う。
よかった。正直、同棲は絶対条件だったんだ。
何かの拍子にユルルが俺の魂を奪える方法を知ってしまった時の保険のために。
仮定の話ではあるが、ないとは言い切れない。
そしてそうなった場合、ユルルは間違いなく俺の魂を奪う。
彼女からしてみれば仕事であり任務なのだから当然だ。
それを避けるための必須条件が、同棲だったのだ。
同棲をしてしまえば、四六時中顔を合わせることになる。そうなると嫌でも親近感が湧くはず。
一度ユルルが俺に親しみを持ってしまえば、魂を奪うことはしにくくなるはずだ。
ユルルは家が得られる。俺は魂を守れる。同棲は両者にとって最善の策ってわけだ。
もちろん美少女と一つ屋根の下で暮らしたいという願望もなかったとはいわない。いわないが、理由としては魂を守ることの方が格段に大きかった。
だってまだ俺十七歳、花の高校二年生だぞ! 成人もむかえないまま死にたくねえよ!
それもこれも、この子が来たせいで――
「私、ミナトさんのこのご恩は一生忘れません! 誠心誠意尽くします!」
「いや、そこまでしなくていいから……」
――駄目だ、良い子すぎて憎めない。
いや、それどころかむしろ罪悪感が湧いてくる。
保身のための企みをしていた自分が卑怯者に思えてきた。
「とにかく、俺に尽くしたりは必要ないからな。常識の範囲内なら、ユルルはユルルの好きなようにやってくれて構わない」
「ミナトさん、優しい……。じゃあ、ミナトさんが困ったことがあったらサポートするくらいに留めておきますね。困ったことがあったらなんでも言ってください。私、これでもエリートなのでっ!」
ユルルはふふん、と得意げな顔をする。
「……どうでもいいけど、靴下左右違うの履いてない?」
「へ? う、うわ、本当だ!」
かぁぁ、と顔を赤くするユルル。
……抜けてるなぁこの子。
これから始まる共同生活に、不安が隠せない俺だった。