山中の花
今回の話は、夏に、とある山間部の温泉へ旅行へ行った時の話だ。
そこへは湯治目的で行ったのだが、噂通り素晴らしい温泉街だった。
何でも、昔NHKのドラマの舞台にもなったそうで、一緒に着いて来た裕美が珍しくしな垂れる程度には良い雰囲気の温泉であった。
小さな街は十件程度の宿と、数件の飲み屋で構成されて、中心部には水路が流れており、両脇で昔風の街灯が柔らかな灯りを浮かばせていた。
明治や大正の頃のような、写真でしか見たことのない風景を求めて来る観光客は多いが、そもそも温泉街の泊まれる客数が決まっているせいか、京都や奈良にある雑多な空気は無く、静かな時間が流れていた。
そんな温泉宿だったが、来る途中で少し気になるものを目にしていた。
県境の山を車で走っている時、とあるカーブを超える途中で花が置かれているのを目にしたのだ。
普段そういった場所を通ったら、安全なところで車を止めて一度手を合わせるようにしており、その時も同じように車を止めて裕美と一緒に現場へ足を運んだ。
しかし、どれだけ歩いても花が置いてある場所に辿り着けなかったのだ。
花を目にしてから、車で走って1~2分程度だったにもかかわらず、である。
結局見つけることが出来ず、車に戻って温泉街へ向かったのだが、どうにもそのことが引っかかっていた。
車に乗っていた時は花が見えて、歩いて戻った時には花は見つからなかった。
理由としては、戻っている最中に強風か何かで、花ががけ下に落ちてしまった可能性はある。
当日、風が殆ど無い晴天であったことを考慮しなければだが。
あるいは、誰か、関係者等が持っていった可能性もあるかもしれない。
車で通り過ぎてから、他の車や人とは全くすれ違うことは無かったが、
そうなると、もしかしたら、その時も裕美が口にしていたが、誰かを引っかけるための呼び水だったのかもしれない。
たまに、誰かに気がついてほしいと思っている幽霊等が、そういったものを仕掛けていることがある。
とは言え、その後何かあったかと言えば何事も無く、温泉宿で日々を過ごしていた。
ただ、ふとそのことを思い出し、旅館の女将さんに聞いてみたところ、不思議な話を聞くことが出来た。
数年前、我々が花を見たところで、一組のカップルの乗った車が崖から落ちたらしい。
どうにも訳ありの2人だったようで、女の方は家族が引き取りに来たが、男の方は引き取り手も無く、処理に困った地元の市が無縁仏として処理したそうだ。
それ以来、誰かは分からないが、その崖の近くで、花を置いていく人影が現れるようになったそうだ。
その花を見たと言う場所と、男が処理された無縁仏の塚の場所を確認してから、私は裕美と一緒に、帰る道すがら、その崖に立ち寄り少し辺りを散策してみた。
すると、一本のヘアピンが寂しそうに落ちているのを見つけた。
随分と汚れていたが、拾い上げて少し綺麗にすると、小さくイニシャルが彫られているのが分かった。
そんな、ヘアピンを眺めている私の方を見て、裕美が、少し驚いたように声を上げた。
何があったのか聞くと、私の横に蹲っている女性の姿が一瞬見えたそうだ。
私は、ヘアピンを前に、少し黙祷をしてから、それを手にしたまま車に乗り込んだ。
裕美は少し躊躇したが、周囲を気にしながら助手席に乗り込んだ。
そして、我々は男が埋葬されたと言う無縁塚に向かった。
無縁塚のあるお寺に着くと、辺りは既に暗くなっていた。
足元に注意しながら境内を進んでいく。
小さな電灯と、数匹の蛍が周りを照らすように舞っていた。
蛍は、奥へ進むにつれてその数を増していく。
目的地の無縁塚に着くと、そこにヘアピンを静かに置いて、そっと両手を合わせた。
塚の周辺は、まるで粉雪が舞うかのように蛍が乱舞していた。
ふと、一匹の蛍がヘアピンに近づいてきた。
明滅しながら、ゆっくりと周りを飛んでいると、更にもう一匹の蛍がどこからともなく飛んできて、ゆっくりと周囲を回りだした。
2匹の蛍はしばらく距離をとりながら飛んでいたが、次第に距離を縮め、やがて寄り添うように並んで、夜の闇の中に消えていった。
かつて、蛍は人の霊魂が形を持ったものと言われていた。
ゲンジボタルやヘイケボタルなどは、源平合戦の武士の魂が宿るとされ、合戦にいけるよう捕まえたら放してやらなければならないと、近所の老人に言われたこともあった。
先程まで周囲を舞っていた蛍は、何時しか、飛ぶのを止めて葉の上で休んでいる。
我々は、もう一度、塚に向かって手を合わせてから、そっとその場を後にした。