閑話 とある少女の覚悟と願い
一方で。
終盤へと向かう戦局。幾つもの積み重なった要因の助けも借りて、ソーマがボスへと続く道を抉じ開けたのと時を同じくして。
――負けたくない、と。
そこから少し離れた場所で、彼女……ベルは歯を食いしばりながら、今にも崩れ落ちそうな膝に力を込め直す。
戦端が開かれたのと同時に、混戦の中へと叩き込まれたベル。
気付けば周囲を数匹の取り巻きのゴブリン囲まれていた彼女は、それ以降、ひたすらに四方八方……いや、頭上からも襲い掛かる攻撃と魔術を凌ぐことを強いられて続けていた。
その消耗は、もはや無視できない領域に踏み込みかけている。
「ぐげへぎゃっ!」
「っ、はっ……はっ…………!」
今もまた、右方から飛んできたゴブリンの棍棒を、ベルは寸前のところで上体を反らして躱す。
鼻先を掠めていく金属の塊。吹き抜けていく風が前髪を揺らし、彼女は額に汗を滲ませた。
胸が苦しい。呼吸が乱れている。息を吸い込む度に、喉に焼けるような感覚が走る。
まるで数日前まで、一人でダンジョンを彷徨っていた頃を思い返されるようなこの状況。誰の助けも来ない、期待できない孤独な戦い。
既に相手に気付かれてしまっているがゆえに、得意の【気配遮断】の技能も意味をなしていなかった。ジックリといたぶられるように、ベルは徐々に劣勢に立たされていく。
あくまで彼女の職業の【忍者】は、奇襲からの暗殺に特化した能力構成である。いくら接近戦がこなせようが、戦士系職業ではなく斥候系職業なのだ。
正面からぶつかれば、加えて数で上回られれば、条件的に不利になるのは致し方のないことであった。
――だが。
「負けたく……ないっ!」
それでも、なお。
フツフツと胸の内から湧き上がる感情を叫びながら、ベルはまだ光の消えていない瞳で正面を見据える。
彼女にとって、初めての思いだったのだ。こんなに何かを欲したのは。自分の意思で、何かを求めたのは。
ベルにとって、《冒険者》とはただの手段であった。
父親のために金を稼ぐ――そのために都合がよい立場でしかなく、間違っても固執するようなモノではない。
むしろ、一時期は捨て去ってしまいたいとすら頭の片隅で考えていた。
こんな手段があるから、こんな立場を与えられたから、自分は更に苦しい汚泥の中でもがく事になったのだと。
辛く終わりのない戦いを、繰り返さなければならなくなったのだと。
だけど、ベルは出会ってしまったから。
自身と同じ《冒険者》なのに、むしろその立場を楽しんでいる人達に。
何故だ。どうしてだ。こんな行為のどこに楽しむ要素がある。ただ苦しくて、辛くて、痛いだけじゃないか。
最初は理解ができなかった。彼らの口にしていた言葉が、何一つ飲み込めなかった。自分と同じ言葉を話しているのか、半ば疑いかかったほどだ。
それでも、向こうから根気よく接せられて、ようやく一つだけ、ベルは知ることができた。
――自分が、実は『何も知らなかった』子供であることを。
ままならない現実に悲観して、諦観して、『そういうものだ』と絶対視していた常識。
そんなモノは、実際はちっぽけに凝り固まった、個人の捉え方の一つでしかないことを突き付けられた。
率直に表現して、その事実が彼女には恐ろしかった。自身が積み上げてきた過去を、根底から否定されてしまったのだから。
だが同時に、自由に生きる彼らに憧憬の念も抱いてしまった。
あの中に交ざりたい。だが、一歩前に足を踏み出すのすら怖い。
今よりも現状が悪化して、もっと酷い有り様になるのではないのかと……そんな想像が、現在に至ってさえ脳裏で激しく瞬いている。
しかし、だからと言って、ここで逃げ出したくはなかった。
こんな臆病者の自分のために、必死で奔走してくれた人がいた。
何の義理も義務もないはずなのに、彼は危険を承知で、閉じ籠っていた殻から自分を引っ張り出そうと奮闘してくれている。
「――やら、せるかぁぁぁああッ!」
「っ……ぐっ」
そう、今もこんな風に。
喉を枯らして吼えながら、あの人は……ソーマは、戦っているのだから。
ここまで何度も届いてきている声に、ベルは再び胸の奥から汲み上がって来た、大きくて熱い塊を苦労して飲み込んだ。
今なら彼女にもわかる。それが、とてつもなく有り難いことで、感謝すべきことで、幸運なことで――。
――自分が、どうしようもなくその事実に喜んでいることを。
以前は言葉にできなかった。経験したことのない感情に振り回されて、目を会わせることすら避けていた。
だが、ようやく理解した。整理できた。口に出して、表現できる。
「ベルは……違う。鈴は、あの人が……」
「――ぎゃぐげげっ!」
その先の呟きは、直後に斬りかかってきた別の斧持ちゴブリンの叫び声に掻き消され、本人の耳にさえ届いていなかった。
しかし、例え誰に聞こえていなくとも、他ならぬベルだけは気付いている。
彼女、ベルは――否、敢えて訂正しよう。
《冒険者》の一人、百地 鈴は、そんな特大級の馬鹿で愚かで優しい彼のことが――。
「勝ちたいよ、逃げたくない……っ。ここで、鈴はっ!」
ギュッと、右手に握った短刀を握り締めた。口にすると共に、ベルの瞳からはボロリと涙が零れる。
希望なんて、とうの昔に捨て去ったはずだった。勝手に抱いた幻想に、何度手酷く裏切られたかもわからない。
だけど、もう一度だけ。
今だけは、みっともなくたって、見苦しくたって、足掻いてやりたい。自らの足で立ち上がって、前に進みたい。
いつまでも彼に頼りっきりなんて、嫌だった。
「ぁ――ぁぁああぁぁああああぁあああッ!」
だから、ベルも吼えた。濁流として溢れだす感情を、すべて吐き出す勢いで。己に残された力を振り絞って、かき集めて、無理矢理にでも疲労を訴える身体を前に進ませる。
彼に一歩でも近付き、その背中に追い付くために。いつか、隣に並びたいから。
この時、彼女は初めて心の底から《冒険者》になりたいと願った。
――その、瞬間。
バクンッ! と、ベルの心臓が一つ、過去に覚えがないほど力強く拍動した。
「あ、え……!?」
同時に、彼女の視界が灰色に染まる。
すぐ眼前にいるゴブリンも、ボス部屋の床も、天井も、壁も、そこに掛かっていた照明具も、挙げ句には自身さえも。
身体が、動かない。時が止まってしまったかのように、指一本さえ自由にならなかった。
『――おめでとう、《冒険者》ベル。そして……「ありがとう」と、礼を言わせて欲しい』
そして、突然の事態に混乱するベルに、何処からか聞き覚えのある声が語りかけてくる。
唯一動かせる視線を向けると、そこに立っていたのはデフォルメされたカラフルなウサギ。
彼女……いや、すべての《冒険者》の産みの親であるラッキーラビットの姿が、そこにはあった。
ただし、その身体は半透明で、陽炎のように揺らいで実体感と言うものがなかった訳だが。
『君が、本当の意味で《冒険者》の力を望んでくれて。現実を変えたいと、祈ってくれて。お陰で、ようやく君の職業である【忍者】、その本来の性能を発揮させてあげられる』
「なに……を……?」
思わず、頭に浮かんだ疑問を口にしかけるベル。
けれど、ウサギは遮るよう片手を上げてそれを制止し、話を続ける。
『悪いけど、質問に答える暇はないんだよねぇ。こうやって会話する時間を作ることだって、本当なら制約違反と言うか、私が自分に課したルールを破ってる訳なんだから』
だから、手短に済ませてしまおう……と。
そのように一方的に話をまとめたウサギは、身動き一つ取れないベルに歩み寄り、軽く跳躍してその胸を叩く。
直後。
彼女の中で、一つの力が生まれた。
いや、正確には最初から持っていた能力が解放された、と表現すべきか。ズレていた歯車が嵌まり、正常に動き始めたかのような感覚をベルは覚えた。
『さあ……君の《冒険》は、ここから始まるんだ。その前途に数多くの光が降り注ぐことを、私はいつも願ってるから』
多くは語らず、その言葉だけを最後に残して、宙に溶けるよう消えていくウサギの身体。
それと同じくして、世界に色が戻ってきた。徐々に時が動き出し、世界が回り始める。
「ぐへぎゃっ!」
途端、辺りのゴブリンが一斉にベルへと距離を詰めてきた。醜い顔を更に醜悪に歪め、武器を振り上げて襲い掛かってくる。
その光景を眺めながら、どういう訳か先程までと比べると、やけに透き通った頭で彼女は考える。
これをすべて躱すことは……出来ないだろう。切り抜けるには、どうしても何発か受ける必要があった。
ただし。それは、つい数秒前までの彼女の実力を前提とした予測ではあるが。
不思議と、ベルはその力の使い方を理解していた。
鳥が空を飛べるよう、魚が水の中を泳げるよう、人が生まれた瞬間から呼吸を当然の行動として行えるよう。
自然に、彼女はその能力を――ようやく遅れて目覚めた、【忍者】の固有技能を発動させる。
「――【忍術・影渡り】」




