56 小鬼の迷宮2F-ボス戦3
彼女、《冒険者》カエデにとって……いや、禅上院楓にとって、【狂化】は『自身の象徴』である。
何故なら、その【技能】は自分の醜い本性を露にするから。
一切の誤魔化しようもなく、取り繕う隙もなく、お茶を濁す間も与えず、言い訳の機会すら許さず、ただ正確に、明確に、克明に、そして残酷に、『禅上院楓』という人間の本質を暴く。
血に興奮する業を。
その手で敵を斬りたくて仕方なくなる衝動を。
戦いを楽しんでしまう本能を。
この【狂化】は、どうしようもなく高めてしまう。
それは文字通り、狂人としか表現できない感性である。
救いようがないのは、【狂化】は確かに使用者を狂気へと堕とす……が、それは無理やりに植え付けられる訳でも、何処からともなく産み出されている訳でもないことだろう。
この技能は元々、彼女の中に存在していたそれを、ただ表へと引きずり出して浮き彫りにするだけ。
つまり、ある意味では【狂化】を発動している最中の彼女こそが、本来の『偽りなき姿』だとも表現できる、と言うことである。
しかし、彼女はそんな異常な自分に一定量の嫌悪感を抱くと共に、半分くらいは受け入れてもいた。
『これも私の一部なのだ』と、折り合いをつけられていられたのだ。
とは言え、それも当然だった。
でなければ、彼女はその性格を誰にも明かさず、自身を完璧に偽って過ごしていただろう。
抑圧して、封印して、否定して、いつまでも目を背けていただろう。
けれど、それでもやはり常識的に考えて。
そんな醜悪な本性を宿した人間のことを、誰であろう禅上院楓本人が嫌いになるのは、致し方のないことであった。
ゆえに。
その本質を受け入れてくれる人間が現れた時、禅上院楓は内心で大いに驚愕し、同時に感謝し歓喜したことは、言うまでもないのかもしれない。
「――だから、彼の邪魔は絶対にさせてあげません」
「げぎゃぐけきっ!」
その胸の内を確認するように、覚悟を決めるように、彼女は……カエデは呟く。
絶えず炎弾が降り注ぎ、熱気を撒き散らすボス部屋の外周部にて。
カエデは襲い来る魔術を躱しながら、魔物達の攻撃を可能な限り捌き続けていた。
目の前に立ちはだかっているのは、ボスの取り巻きである大斧を持ったゴブリンファイター。周囲には通常個体が数匹控えている。
戦闘に入った直後に分断されてしまったせいで、他のパーティーメンバーが現在、どのような状況に陥っているのか把握できていない。そちらに配慮するほど、思考の余裕がない。
それでも、彼の声だけは聞こえてきた。
様々な音が洪水を起こしたように溢れるこの空間で、まだ諦めていない、足掻き続けている証の叫びだけは、しっかりとカエデの耳に届いていた。
だからこそ、彼女も諦めない。勝ちたいと願う。
「……すぅ」
息を、吸う。
バクリバクリと、今までとは違った原因で心臓が高鳴っていく。大剣の柄を握る手のひらのには、既に多量の汗が滲んでいた。
緊張、しているのだろう。
それはそうだ。以前に受け入れて貰えたからと言って、今回もそうなるとは限らない。もしかしたら、前回よりも更に醜い醜態を曝して、今度こそ愛想が尽かされるかもしれない。
それは理屈とか可能性とか信頼とか以前に、根源的な恐怖だった。
なにより、彼女自身がそれを使うことを嫌っている。
使用を躊躇う理由なんて、それだけで充分だった。
……それでも。
この現状を切り開くには、力が必要だった。
時間をかけていては、こちらの疲労が溜まるばかり。対して、相手は『無限湧き』によって際限なく増えていく。
どんな形でもいい。今まで以上に圧倒的で、暴力的な一手が欲しかった。
だから――
「――【狂化】っ!」
カエデは、技能の発動に踏み切った。
途端。
「あ、ぁ…………きゃはっ」
彼女の頭の中を、非常に愉快で痛快な感覚が染め上げていく。直前の考えなんてすべて吹き飛ばして、カエデは口を三日月に裂いた。
凄まじい解放感が身体を駆け抜けていた。理性が溶けて、その奥からドロッドロの狂気が顔を出す。
いつかと同じよう、彼女の髪が明るい茜色から、血を連想させる暗い紅色へと変わっていく。
「きゃは、きゃはははははっ!」
笑う、嗤う、カエデは嘲笑う。だって楽しいから。
ずっとずっと、ずぅぅっと抑え込んできた感情を発露させるのは、とても心地がよいものだ。
「きゃははははっ!」
「ぎゃぶっ!?」
適当に、カエデは大剣を片手で振るう。
グシャリと、それだけで近づいていたゴブリンが一匹、肉塊に変わった。
その際の感触が愛おしくて、吹き出した鮮血の生暖かさが堪らなくて、鼓膜を叩く音が素敵で、彼女は既に死体と化したゴブリンに何度も剣を叩きつける。
そのいっそ清々しい程に無防備な姿に、けれど、他のゴブリンたちは手を出せなかった。
迂闊に触れてしまえば、次に『ああなる』のは自分だと、直感的に悟って恐怖したのかもしれない。
「きゃはは!」
そして、もはや原型すら留められない程にゴブリンを斬り潰してから、ようやくカエデは俯けていた顔をあげる。
彼女は次の獲物を求めて、警戒心の欠片もない大雑把な一歩を踏み出した。
「きゃは……は……っ――っぅう!」
同時に、唐突にその笑い声が……止む。
今までとは一転、苦しげに表情を歪ませた彼女は、歯を食い縛りながら獣のような唸り声を零す。
だが、先程までと違って、その瞳には微かではあるが、確かな知性の光が見え隠れしていた。
それは、カエデ自身の精神力による賜物なのか。
あるいは、初回発動時と比べてポイントの強化項目の一つ――『狂気汚染耐性』を上げていたお陰なのかはわからない。
もしくは、そのどちらでもあったかもしれない。
確かなのは、この瞬間に彼女が狂化状態を保ったまま、欠片とは言え理性を取り戻したという点だ。
そして、その事実があれば問題ない。あるはずがない。
「あ……あアぁァアぁああアあァアっ!!」
享楽と苦痛が入り交じった咆哮を上げながら、カエデは現状を引っくり返すための一手となるべく、攻勢を開始した。
***
空気が……変わった。
肌がピリピリと引きつるような感覚。俺がそれを覚えたのは、喉が張り裂けんばかりの痛々しい慟哭が耳をつんざいた直前であった。
カエデの声だ。でも、以前のように狂気に飲まれ切り、狂乱した嬌声ではない。
むしろ、内から込み上げる何かを全力で押さえつけるかのような、本能に逆らう苦悩が伝わってくる。
一瞬だけ、【狂化】の制御に成功したのかとも錯覚したが……そんな都合のよい状態ならば、こんな声は出していまい。
「っ、ぁァアああぁアあ!」
「くっ、現状は……カエデはどうなってるんだ!?」
再び、カエデが何処かで叫び声をあげた。
正面の大剣持ちゴブリンファイターが放ってきた斬撃を紙一重で躱しつつ、俺は思わずそちらへと視線を向ける。
すると、そこでは暗紅色の髪を携え、斧持ちの個体相手に一方的な展開を繰り広げる彼女の姿があった。
まるで紙か粘土で出来た玩具のように、無造作に、軽々と大剣を振るっていくカエデ。
その度に暴風が彼女の周囲を吹き荒れていき、跡を追って斬りつけられた魔物の血が飛び散っていく。
既に相手をしているゴブリンファイターは、満身創痍と言った様子だ。大斧を盾のように構え、カエデの攻撃を凌ぐことしか出来ていない。
しかし、アイツがここで背を向け、退くわけにもいかないのだろう。
何故なら、恐らく今のカエデには理性がある。
道を遮る相手がいなくなれば、彼女は脇目も振らず、一直線にボスへと突撃していくだろう。
優先順位も戦略も関係なく、手当たり次第に周囲の魔物に斬りかかっていた、かつての暴走状態のカエデではあり得なかったはずの光景だった。
「ぎゃへ! ぎぎゃぎっ!」
同様に、そんな彼女こそが俺たちの中で一番危険な存在だと認識したのか。
集団の最奥から一歩も動いていなかったゴブリンマジシャンは、群れに指示を出すかのようにカエデを杖で指した。
それに真っ先に反応したのは、俺に相対していた二匹のゴブリンファイターの内の片方――大剣持ちの個体である。距離を取り、俺に警戒を残しながらも彼女の方へと向かっていく。
対して、槍持ちの方は俺の妨害を続けるようだ。忌々しい目で俺を見ていた。
ちっ、二匹とも行ってくれるか、俺の足止めに注力してくれれば良かったものを。
俺かカエデ、もしくはこの綻びを突いた他のメンバーでもいい。誰かがボスの元へと辿り着ければ、少なくともこれ以上の魔術の発動は防げるだろう。
あの炎弾の豪雨を再び降らせるような真似だけは、一刻も早く阻止しなければならない。
俺はヒビの入った杖を握り直しながら、槍持ちゴブリンファイターへと向き直る。
「いい加減、道を開けろよこのゴブリンっ!」
「がぎゃげぎぎぎぎっ!」
その罵倒に、槍持ちゴブリンは殺意を塗り固めた雄叫びで答えてきた。
彼我の距離は、目測で四メートル弱。どちらも詰め寄ろうと思えば、一息で詰められる程度の距離だろう。
グッと、足に力を込める。床を靴裏で掴む。呼吸を止める。俺は――駆け出した。
「っ!」
「げぎゃぁっ!」
それを迎え撃とうと、ゴブリンファイターは広範囲を横殴りに槍で振り払う。真横から飛んできた柄を杖で流すよう受けると、ピシっ、とまた小さくヒビが入った。
けど、その犠牲で稼げた時間は何よりも尊い。更に一歩踏み込んで、俺は槍の間合いの内側へと滑り込む。
「こん、のぉっ!」
「ぎぎっ!?」
杖を引き戻している暇はなかった。
自身よりもやや低い位置にあるゴブリンファイターの顔面へ……正確には、潰れている右の眼孔へと、俺は半ば無意識のうちに狙いをつけた左拳を振り上げる。
その光景に、痛みと恐怖が再燃したのだろうか。ほんの僅か、一秒にすら満たない間であったが、ソイツの動きは確実に止まった。
当然、遠慮なく腕は振り切らせてもらう。
「がぶぺがっ!?」
骨を通して伝わる、硬くて柔らかい手応え。慣れない暴力行為に指の皮が捲れたのか、ジンと俺の拳の方からも痛みが走った。
だが、相手の方はもっと悲惨だ。
まさしく傷口を抉られる事態に、得物である槍を取り落として悲鳴をあげるゴブリンファイター。仰け反るように顔を両手で覆い、何度もその場でたたらを踏んで膝をつく。
俺のことなんて、今は気にする余裕すらないだろう。文字通り、傷にたっぷりと塩を塗り込んでやったようなものだ。
その姿に、俺は一瞬だけ悩む。
出来ればこのまま個人的にも、後顧の憂いを断つ意味でも息の根を止めてやりたい……が、その一分、あるいは数十秒程度の僅かな時間さえ惜しい。
そして、現在二匹のゴブリンファイターと数匹の取り巻きを相手に善戦しているカエデだが、この均衡は長くは続かないだろう。彼女の【狂化】には時間制限がある。
それが切れたとき、一気に不利になるのは俺たちだ。それまでに、何としてでも決着をつけなければならない。
優先すべきはゴブリンマジシャン。
しばらく戦闘に参加できない取り巻きに、いつまでも構ってられないんだよ。
「そこで引っ込んでろ!」
俺は最後にゴブリンファイターへ一瞥を送ってから、隣を抜けてボスの元へと突撃した。
邪魔する存在は、もういない。
道は拓けていた。




