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39 ウサギの限界

 



 《冒険者》ベル――彼女には、母親と言う存在の記憶がなかった。


 それがどうしてなのか、ベルは理由を知らない。

 幼い頃は疑問に思ったこともあったが、今では『そういったものなのだろう』と考えるようにしている。


 物心ついた時から、彼女の家族は父親のみ。

 それも定職に就いているわけではなく、アルバイトや日雇いの仕事に就いては辞めるを繰り返す、あまり他人に誇れない類の父親だ。


 日中から狭く古いアパートの一室に引きこもり、僅かな生活費を酒代に費やす毎日。稀に外出したかと思えば、ギャンブルに手を出して新たに借金を抱えてくる。


 抜け出せない最底辺の生活。それが、ベルの日常だった。


 彼女自身、なんとか中学には通えているが、そのような父親をもってしまった引け目からか、それとも元から人付き合いが絶望的に苦手だったのか、親しい人物は居ない。

 担任からは腫れ物のように接せられ、助けの手を伸ばしてくれるような親族も知らない。


 ベルにとって、親しい大人とは父親しかいないのだ。

 世間一般からはクズだなんだと評される駄目な男でも、彼女にとっては唯一の家族だったのだ。


 例え、酒に酔った勢いで毎日のように怒鳴り散らされ、時に暴力を振るわれることがあったとしても……代わりのいない、大切な肉親なのである。


 そして――ある日、そんなベルの前にウサギからの招待状が現れた。


 当初、彼女にはそれが救いの手に見えたと言う。

 これで、この腐った掃き溜めのような生活から抜け出せる。日常は変えられるのだと。


 《冒険者》となることを受け入れた彼女は、初日に300ほどのポイントを稼ぎ、それを純金に変換して父親へと見せた。


 それが、さらなる転落の毎日に続く選択だとは知らずに――。


 父親は当然のように喜んだ。なにせ役立たずだお荷物だと蔑んでいた娘が、まさか一日で大金を稼いでくるとは夢にも思っていなかったのだから。

 珍しく褒められ、頭を撫でられ、抱き締められた。それがベルには嬉しかった。誇らしかった。


 しかし次の瞬間、父親はそんな彼女に当然のようにこう告げた。


 明日はこの倍の金を稼いでこい――と。


 繰り返すが、ベルにとって父親とは唯一の肉親に他ならない。

 だから、できる限りその願いを叶えてあげたかった。

 何故なら、家族とは『そういったもの』だから。娘は父親を助けなければならないと考えた彼女は、その要求に首を縦に振った。


 ゆえに、ベルはダンジョンに潜り続けている。一日に600ポイント。不可能ではない数字だ。

 しかし、不可能ではないことと、無理をしないことはイコールではない。


 日に日に溜まっていく疲労。成長しきっていない身体は休息を訴え始め、ロクな食事を口にしていない生活は彼女から容赦なく体力と思考能力を奪い去っていった。

 そんな毎日を崖っぷちで支えていたのは、娘の稼いだ金で豪遊し、一方で当の彼女には何の還元もしていなかった父親ではなく、《冒険者》として強化された肉体性能であることは、はたして何という皮肉だろうか。


 けれども、ここに至ってもまだ、ベルの受難はまだ終わってなどいなかった。


 父親が、彼女に課していた要求をつり上げ始めたのだ。

 そしてそれが、すでにギリギリの状況であったベルに止めを刺すことになる。


 より多く魔物を探さなければならなくなった。ダンジョンに潜る時間が徐々に増えていく。

 夜遅くまで戦闘を繰り返すことになった。彼女の精神がさらに磨耗していく。


 ……やがて、ついに。


 ベルが《冒険者》となって六日目。

 彼女は、限界を迎えることとなる。





          ***





 《酒場》には沈黙が降りていた。

 ベル本人の口から語られた境遇、それが俺たちから言葉を発する機会を奪っていたのだ。


 だが、それは決して静寂なんて生易しいものではない。

 この場の誰もが胸の内では……少なくとも、俺の心中では吐き出せないほどのどす黒くてネバついた憤怒の感情が、溜まりに溜まって湧き上がり続けているのだから。


 なんだそれは。どういうことだ。ふざけるんじゃない。


 幾つもの罵詈雑言が、流星のように脳裏で瞬きながら過ぎ去っていく。

 その度に俺の口からは何かが飛び出そうになる。が、グッとそれを堪えながら俺は大きく息を吸い込んだ。


「――すみません、一つ気になったのですが……」


 と、そこで俺たちの中では比較的冷静さを保っていたカエデが、手をあげながら声を発する。

 それに全員の視線が一斉に向く中、彼女は普段通りの口調で――しかし不快そうに眉間にシワを寄せながら疑問を口にした。


「この場合、あのラッキーラビットは介入してこないのでしょうか? 明らかにその父親は、ベルさんに悪影響を及ぼしていると思うのですが……」


「っ! そうだ、それだよ! なんであのイカれたウサギは何も手を出してこないんだ!」


 そのある意味では当然とも言える質問に、この中では俺と同じくらい怒りを露にしていたゴウキさんが真っ先に反応する。


 ラッキーラビット――俺たちを《冒険者》へと誘った張本人にして、圧倒的な力を振るう絶対の味方。


 彼、もしくは彼女が動いていたのなら、すでにこの問題は解決していたも同然だっただろう。

 どのような手段になるのかまでは予想がつかないが、最終的にどうにでもしてしまえる程度の能力を有していることは間違いないのだから。


 だが、そんな怒りが入り交じった……もしくはすがるようなゴウキさんの指摘に、意外にも反論したのはいつもの軽薄な態度を脱ぎ捨て、不気味なほどに無表情を貫いていたクロであった。


「それは無理ッスよ、カエデっちにゴウキっち。恐らくラッキーラビットは、今回の一件には不干渉(・・・)を貫くと思うッスから」


「はぁ? なんでそうなるんだよ。アイツは俺たちの味方なんだろ? 『世界を敵に回す覚悟も力もある』って、ウサギ自身が宣言してたじゃねぇか」


 平坦で淡々とした声。それに苛立ちを刺激されたのか、やや刺々しい声色でゴウキさんは彼女を睨み付ける。

 それを軽々と受け流しながら、クロはやはり表情を変えることなく彼に返答した。


「確かに、本人はそういってたッスよ。だけど……いや、だからこそ(・・・・・)無理なんッスよ。あれはおそらく、『《冒険者》が望まぬ境遇に置かれた』場合を前提にした話ッスから、今回は条件が違うッス」


「だから、何が違うんだよ!」


 ついに感情を再爆発させ、荒々しく立ち上がるゴウキさん。ガタンと腰を下ろしていた椅子が倒れ、一人だけ蚊帳の外気味だったベルが身体を跳ねさせた。

 それを、何処までも透き通った紅玉のような瞳で見つめていたクロ。その目には、不自然なほどに感情が浮かんでいなかった。


 そこで、俺は気づく。

 彼女は決して冷静な訳ではない。むしろ俺たちに負けないほど、怒り狂ってさえいる。

 ただ、それを表に出さず、胸の奥底に押し込んで溜め込んで、限界まで我慢しているだけなのだと。


 その証拠に、身体の影に隠すようにして握り締められていたクロの拳からは、ポタリポタリと血液が滴り落ちていた。


「良いッスか? ウサギは何処までいっても《冒険者》の味方ッス。これは間違いないッスけど……今、ベルっちは誰かに強いられて(・・・・・)ダンジョンに潜ってるんッスか?」


「はぁ? そんなの当たりま――」


「いいえ、違うわ」


「なるほど、違いますね」


 一つ一つ、諭すように告げられていくクロの質問に、ゴウキさんは反射的に肯定しようとした。

 ――が、逆にそれを否定したのは、今まで口をつぐんでいたレイナさんと、最初に疑問を提示したカエデである。


 ……ああ、そういうことか。


 同時に、俺も彼女の伝えたかったことを悟り、そしてそのどうしようもない現実に吐き気を催した。

 ちくしょう、と俺は口の中で小さく悪態を吐き捨てる。気づけば苦い味が広がっていた。


 そして――


「あんまり言いたくはないッスけど、わからないならハッキリ言うッスよ。そもそも今回の一件は、ベルっちが『自ら望んで』父親に搾取されてるのが原因ッス」


「は、はぁ!?」


 そのどう頑張っても勘違いのしようがない残酷で明確な答えの前に、思わずといった調子でゴウキさんは呆けたような声をあげる。


 だが、考えてみればそれは、極自然な推察でもあった。


 怒りで視野が狭くなっているからわからなくなる。もっと単純で純粋に考えれば良い。


 ――はたして、ベルは本当に父親に逆らえないのか……と言う問いに。


 答えは否だ。《冒険者》としての力を思う存分に発揮すれば、如何様にでも父親に歯向かうことができる。

 もっとも明快な『暴力』と言う力でも、もはやただの人間では彼女に敵わないことは明白だろう。


 弱味を握られている訳でもない。大切な誰かを人質に取られているわけでもない。もちろん、契約で縛られているわけでもない。

 嫌な表現になるが、現状、ただベルは父親に『お願い』されているだけとも取れる。自分のために金を稼いでこいと。


 そして、そのお願いを叶えようと無理をしているのは、他ならぬ彼女自身だった。


 だから、ウサギは介入しない。

 《冒険者》本人が強制された訳でもなく、自らの意思で行動を起こしている限り、その結果までにウサギは手を出さない。出してはならない。


 何故なら、《冒険者》の自由を保証しているのはウサギ自身なのだから。

 そんなウサギが、《冒険者》の意思を否定してはならないのだ。


 だけど、その自由の先にあるのは幸福ばかりではなかった。

 どんな行動を起こそうと、《冒険者》に付いて回るのは『自己責任』の四文字のみ。


 ダンジョンに挑むのも、そこで莫大な富を築くのも、その富をどう使うのかも、また下手を打って屍を晒すのも、すべては《冒険者》の勝手(じゆう)なのだ。


 だけど……その事実はこの一件が、ベルの父親に対する意識を改善しない限り、絶対に解決できないことも示していて――


「くそ……そんなんありかよ……」


「…………?」


 俺はこのやり取りを首を傾げて聞いていたベルへと視線を送り、弱々しく無力な自身を罵倒するのだった。



 

 

 逆らおうと思えば幾らでも逆らえる。なのに逆らわない。

 この時点で、《冒険者》のすべての行動はウサギにとって本人の自由意思と見なされます。だから手出しはしませんできません。


 ぶっちゃけ、今回の一件はベルが一言「嫌だ」と父親を拒絶するだけでも解決します。それでもしつこく父親が絡んでくれば、さすがにウサギも動きますし。

 まあ、それがベルの心理的に厳しいって話なんですけど。こういう描写って難しい……。

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