04 小鬼の迷宮1F-2
「もう、絶対接近戦なんてしてやるもんか」
それから五分か、それとも十数分か。
取り合えず、精神を落ち着かせられるだけの時間を確保した俺は、げっそりとした心情でそう呟いた。
手が震える。脂汗が滲む。膝が笑う。頬がひきつる。
正直に言おう。俺は怖かった。余程のことがない限りは負けないだろうと確信していたが、それでも魔物に恐怖した。
俺を殺してやるという殺気が、同時に俺が殺さなければならないという状況が、嘔吐感となって胃の中から飛び出しそうだった。
しかし――
「それでも、俺は乗り越えた」
声に出して、その成果を確認する。
お陰で一皮剥けた感じがするというか、心理的に一段か二段、階段を上れた気がする。
少なくともこの先、魔物との戦闘で無様に取り乱すことはグッと少なくなっただろう。
そう考えると現金なもので、途端に誇らしさが溢れてくるのだから笑えてしまう。
たかが序盤の雑魚敵を一匹倒しただけなのに、誰かに自慢したくて仕方がない。
「落ち着け、俺。今は一周回ってハイになってるだけだ。熱に浮かされてるだけ。ここからは冷静に、全力をもってダンジョンを攻略するんだ」
自分に言い聞かせるよう呟いた俺は、一度大きく息を吐いてから思考を再開させる。
ひとまず、俺一人でもこのダンジョンで最弱の魔物であるゴブリンを倒すことができた。
しかし、それはあくまで一対一の状況でであるし、何より初回ということを考慮しても消耗が酷い。
「だけど、それでも構わない」
そう、構わないのだ。
最初に口にした通り、もう俺自身が前線で戦う気は更々ないのだから。
ダンジョンでは《冒険者》が魔物を倒すことによって、その強さに応じた『ポイント』というものが得られる。
同時に、基本的にはこのポイントが、ダンジョンに挑んだ《冒険者》への褒美となるのだ。
具体例を上げよう。
1ポイント=千円である。
これだけでは理解しづらいので、もう少しだけ詳しく説明しよう。
ダンジョンで得たポイントには主に三つの使い道があるが、その内の一つとして《換金店》というものがある。
転移門を利用して行けるその場所では、文字通りポイントをダンジョンで利用する装備品やアイテム、他にも様々な資財と交換してくれるのだ。
ここで重要なのは、ショップではポイントをお金に換えることができるという点である。
正確には、同等の価値を持つ貴金属や宝石との交換なのだが、どちらでも同じことだろう。
その交換レートが、先程の1ポイント=千円なのである。
つまり俺は、ゴブリン一匹倒すだけで10ポイント=一万円を稼いだことになる。価格破壊なんてものじゃない。時給に直すといくらだよ。
とは言え、調子に乗って得たポイント全部を換金するのは馬鹿のやることである。
何故ならポイントは、《冒険者》の能力を成長させるためにも必要だからだ。
ポイントを稼ぐためには強くならなければならず、強くなるためにはポイントを消費しなければならない。
なんともまあ、人の欲を試すかのようなシステムだ。
「……まあ、俺の場合はしばらく強化重視で進めていくべきだな」
少し考えてから、俺はそう結論付けた。
今までが美味しい話ばかり続いていたせいで感覚が狂ってしまいそうだが、これは自身の命を懸けたリアルゲームだ。
セーブもロードもリセットもない。やり直しはできない。あるのは一度限りの命と死だけだ。
そんな状況で、捨て身のままダンジョンに挑む気には、俺はなれない。
俺はあくまで、このゲームをプレイヤーの一人として楽しむことを決めているのだから。
「さぁてと……それじゃあそろそろ、ダンジョン探索を再開しますか」
時間を空けたお陰で精神的、肉体的にも問題ないラインまで回復したことを確認しながら、俺は寄りかかっていたダンジョンの壁から背を離す。
首や肩、肘や肘などの関節部分が固くなっていないか、順番に動かしながらほぐしていき、最後にパチンと頬を叩いた。
「よし、やるぞ!」
緩んだ雰囲気を引き締め、気合いを入れ直した俺は、側に立て掛けていた初期装備の杖を手に取り、目を閉じて集中する。
もう手は抜かないと決めた。油断して終了なんて真っ平だ。格好悪いってものじゃない。
俺の《冒険者》としての力をすべて振り絞って、俺はこの迷宮に挑戦する。
緊張している? まあ、そうだろうな。
けど、それ以上に遣り甲斐がある。飾らずに言えば、ワクワクする。
これから俺がやろうとしているのは、俺の中に付加された《冒険者》としての職業――【召喚士】としての本来の力を行使することだ。
【召喚術】――《冒険者》が有している技能と呼ばれる特殊な能力のうち、俺は【召喚士】の職業を持つ者だけに許された固有技能を発動させる。
魔術師系の一つである【召喚士】。
その唯一にして無二の魔術は、己の望んだ召喚獣を呼び出し、契約を結んで共に戦うことだ。
「――……すぅ」
息を、吸う。
「……はぁ」
息を、吐く。
「……すぅぅ……はぁぁ」
繰り返す。
深く、深く、深く。
静かに、暗い、奥底へ。
心の内へと沈み込み、深奥へと落ちていき、その奈落の暗闇で自分自身と向き合う……そんな自分を想像する。
――汝が求める召喚獣は、なんだ?
やがて問い掛けてきたのは、俺の中で眠る【召喚士】としての本質。力の本体。
質疑の形式をとることで、俺が求めるものを浮き彫りにさせようとしているのだと、直感的に理解する。
「俺が求める召喚獣は――」
考える。共に戦い、隣を歩き、背中を預けられる仲間の姿を。
思い描く。俺に向けられた殺意の刃を噛み砕き、敵意の槍を薙ぎ払い、悪意の矢を振り切れるだけの力を持った存在を。
最後に掴み取る。このダンジョンで、俺が最後まで信頼し、また信頼し返してくれる友の名を。
そこまで思い至った瞬間。
カッ――と、脳裏に閃光と共に一つの姿が浮かび上がる。
「【召喚・――《黒狼》】ッ!」
意識せずとも動く口。唱えられたのは、俺と契約してくれる召喚獣の名だ。
直後、俺の身体から今までにないほどの光の粒子が放出され、薄暗い通路を真昼のように照らす。
光の粒子は円を描くような動きで宙の一点に集まり、やがて一つの姿をとった。
夜を編んだかのような毛並みに、星屑を溶かしたような艶。
床を掴む四肢は逞しく、見え隠れしている爪は鋭利な反射光を放っている。
ピンと立った耳は周囲を探るかのように小刻みに動き、知性を感じさせる黒い瞳はただ俺だけを見つめていた。
体高一メートル、体長は二メートルを優に越えるであろうソイツ――漆黒の狼は、その存在を示すよう「……オン」と短く鳴いた。
……召喚、成功だ。
その事実に、ふぅぅ……と緊張で張り詰められていた気が緩む。額に滲んだ汗を拭い、ついでに目の前で待ての体勢で待機している黒狼の頭を撫でた。
召喚獣とはただの使役獣ではない。いわば召喚士の半身だ。
召喚者本人との相性によって、同じ願いを抱いていたとしても全く別の召喚獣が出てくるし、逆に言えば相性が良くなければ最初から契約が成立せず、召喚獣を召喚できない。
そして仮に召喚できたとしても、その後の扱いによっては契約を打ち切られ、二度と同一個体を召喚できなくなる。
他の魔術師職とは全く毛色の異なる、異端の魔術師……それが【召喚士】だ。
俺はデバイスを顕現させ、契約している召喚獣の項目を開く。
――――――――――
個体名:なし
固有名:黒狼Lv1
種族:魔獣
契約者:ソーマ
関係:良
特殊技能:【暗殺】
召喚制限:(1:55/2:00)
――――――――――
「……取り合えず、今すぐどうこうするべき問題はない……か?」
これで関係が険悪だったりした日には、全力でご機嫌を取りにいかなければならないところだった。ひとまず胸を撫で下ろす。
俺が視線を向けると、それまで召喚された時の姿勢で待機していた黒狼は、甘えるように頭を俺の腰に擦り付けてきた。
どうやら、黒狼は耳の裏を掻いてもらうのが気持ちいいらしい。
柔らかそうな尻尾を左右に振るのにあわせて、俺は耳の裏を撫でていく。
こうして触れ合っていると、ダンジョン攻略を共にする仲間というより、ただの動物とじゃれ合っているような気分になるな。
ペットと言うには、少しばかり図体が大きくて狂暴かもしれないけど。
――と。
「――……グルルル」
「え?」
突然、黒狼が唸り声を出して威嚇を始めた。
先程まではあんなに機嫌が良さそうだったのに、何か不味いことでもしてしまっただろうか……と内心で焦り始めるが、よく見ると黒狼の威嚇は俺に向けたものはない。
では何に……と、俺がその疑問を解決する前に、黒狼は――駆け出した。
ダンジョンの床を蹴り、疾走し、影すら置き去りにするほどの速度で薄暗い通路を走り抜ける。
俺が反応すらできず、ただ呆然と眺めているうちに、黒狼は少し先の角を曲がり――
「グルァ!」
「がぎゃん!?」
その先から、哀れなゴブリンの悲鳴が届いてきた。
慌てて端末を確認すると、そこに表示されているポイントが20に増えている。
それが指し示すこととは、つまり――
「……はは、これは頼もしいや」
曲がり角から、首を食いちぎられたゴブリンをくわえて戻ってきた黒狼の姿を認め、俺は思わず笑みを漏らす。
「黒狼……いや、今名付けよう。お前は『クロード』だ。これから一緒に、ダンジョンを制覇していってやろうぜ」
「……ヴォフ!」
そう言って、まるで人間に対するように握った拳を突き出した俺に、黒狼――いや、クロードは少しの間戸惑っていたように見えたが、やがて一つ勇ましく吠えてから額を合わせてきた。
この日、俺はクロードの召喚限界が訪れるまでの間に、追加でゴブリンを七十九匹狩り、現実世界へと帰還した。