13 小鬼の迷宮1F-ボス戦2
「――きゃは、きゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっっっ!!!」
「カエ……デ?」
俺は最初、大量の鮮血を伴いながら目の前に飛び込んできた人物を、カエデ……禅上院先輩だと認識できなかった。
何故なら俺の知る限り、彼女は天然で、血の匂いに魅了されて、強い相手と戦うことに喜びを見いだすような戦闘狂で、まさしく残念美人なんて言葉を地で体現する女性である。
ではあるが、こんな頭のネジが数本どころか、根本から存在していないかのような狂笑をあげるような人物ではなかったはずだ。
何かがおかしい。
状況こそ彼女に間一髪の危機を助けられた形だが、普段の様子とはかけ離れた姿を見せるカエデに、俺は言い様の無い不安を覚える。
だが、そんな俺の心情など知ったことではないとばかりに、止まっていた事態は動き出した。
――ゾワ、ゾワワワワッ! と。
俺の見ている前で、明るい茜色をしていたカエデの髪が色を変える。
赤く、紅く、黒く、深く、暗い、不吉な血の色へと染まっていく。
その光景はまるで、本来の彼女の精神が、内なる狂気と狂騒に飲まれていっているようにも俺には見えた。
グルリ、と。カエデは首だけで周囲を取り囲んでいたゴブリンを見渡す。
その際にチラリと見えた彼女の瞳は、まるで闇夜にただ一つ浮かぶ禍々しい紅月のようで、今まで以上に爛々と輝いていた。
そして――
「――きゃは!」
最初の時よりは圧倒的に短い、しかしその一言に狂気と狂喜と狂騒のすべてを込めたような笑い声を漏らしながら、カエデは蹂躙を開始した。
ズダンッッ! とただの踏み込みにしては重すぎる音を後に残し、彼女は駆ける。
その手には既にバスタードソードが振り上げられており、不幸にも正面に立っていた最初の一匹は、反応する間もなく脳天から股下までを綺麗に両断されて散った。
だが、それだけでは止まらない。
腕を降り下ろした勢いを利用して、カエデは両手で握りしめた剣を斜め下から斜め上へと、風車の如く回転しながら斬り上げた。
そこに技はない。美しさはない。あるのはただ、力任せで暴力的な破壊だけだ。
グチャベキミシッ――と。巻き込まれた数匹のゴブリンの肉が裂け、骨が砕け、身体が千切れる音がボス部屋に響く。
打ち上げられた肉片はベチョリと一度天井に張り付いた後、紫色の血の雨をカエデに降らせた。
速すぎる。なんだこのデタラメな身体能力は。
先程までは生命活動をおこなっていたはずの肉片を眺めながら、俺は腕の痛みとはまた違った理由から脂汗を流す。
恐らくカエデのレベルは、俺と同じ6前後だろう。
戦士職と魔術師職、前衛と後衛という違いこそあれ、同レベル帯の《冒険者》の身体能力にここまでの差がつくことなどあり得るだろうか。
現に先程までの彼女は、あくまで隠していたわけで無いのなら、《冒険者》としての常識的な範囲の身体能力しか発揮できていなかったはずだ。
はたしてカエデの身に、一体何があったのか。
確証はない。けれど、恐らくその答えは――
「げぎゃあぁああああああ!」
と、そこで配下のゴブリンを紙切れかなにかのように、容易く引き千切っては潰していくカエデに激怒したのか、この集団のリーダでもあるボスのゴブリンソルジャーが憤怒の雄叫びをあげる。
そうだ……相手をしていたカエデがこちらに来た以上、ボスはフリーになっていたのだ。
「っ、気を付けて下さい! ボスが狙ってます!」
「きゃは、きゃはははは!」
俺は腕の痛みを堪えながら、精一杯の大声でカエデに警告を送る。
が、彼女は相変わらずの笑い声をあげるばかりで、俺の言葉に欠片たりとも意識を向けた様子はなかった。
これではまるで、本物の狂戦士じゃないか。
ゴブリンソルジャーは周囲の取り巻きに道を開けさせると、未だ止まらない虐殺を続けるカエデに向かって突進。
その勢いを乗せ、両手で構えた大剣を彼女に向かって振り下ろした。
「きゃは!」
しかしその斬撃が直撃する直前、カエデは目を見張るような反応速度で身体を強引に捻り、ゴブリンソルジャーの大剣を迎撃する。
ギャリンッ! と、耳に痛い金属を打ち鳴らす音が鳴り響く。
互いに弾き飛ばされ、強制的に距離を取らされた二者。双方にダメージはない。
だが今の攻防、真に驚愕すべきは後出しで、それも不利な体勢から腕だけの力で完璧に大剣の一撃を押さえ込んでみせたカエデだろう。
ゆらりと、少し離れた場所で幽鬼のように顔を上げた彼女は、ゴブリンソルジャーを次の獲物と判断したようだった。
まるで獣のように身体を倒し、一気に床を蹴るカエデ。低空からゴブリンソルジャーの間合いに入り、掬い上げるような軌道で剣を振った。
「きゃははは!」
「ぐがあぁぁあ!」
再び刃を合わせるカエデとボス。打ち合わされて散った火花が、両者の顔を一瞬だけ照らし出す。
けれども、状況が拮抗していたのはほんの一瞬だけだった。
下から振り上げた彼女の剣は、片手で握っていたにも関わらずゴブリンソルジャーの大剣を弾き飛ばし、その胸に深々と傷をつける。
考えてみれば当たり前だった。
元々の実力で言えば互角だったろうが、今のカエデは何らかの手段を用い、理性を失う代償に爆発的な身体能力を得ている。
正面からぶつかれば、どちらが勝つかなど自明の理だ。
「ぎゃがああぁぁぁぁあ!?」
「きゃははははは!」
戦闘開始から初めて負った深手に、ゴブリンソルジャーは怒りと苦痛の入り交じった悲鳴をあげる。
だが、そんなことはお構い無しとばかりに、カエデは容赦なく剣撃を続けた。
剣を右上から左下へと斬り払い、ボスの右腕を斬り飛ばす。そのまま真横へと振り払い、今度は反対側の腕を落とす。
まだだ。まだ終わらない。
次は右太ももに剣を突き立て、痛みを煽るよう柄を捻る。堪らずボスが膝をつけば、拳でその顔面を殴り付け、耳を掴んで床に引きずり倒す。
もはやボスが憐れに思えるほどの戦闘……いや、一方的な虐待だ。
それでも、カエデにはまだ足りなかったらしい。
更なる血を。更なる闘争を。更なる狂騒を……と。
内なる狂気に突き動かされるよう、床に俯せに倒れるゴブリンソルジャーの背に剣を突き立てた彼女は、近くに落ちていた大剣を手に取った。
「……きゃはっ」
元々は敵であったゴブリンソルジャーが使っていた大剣。
その刃の輝きを確認したカエデは、両手で構えたそれでもって、身動きのとれないボスを――滅多斬りにし始めた。
「きゃはっ、きゃはっ、きゃははははっ!」
血が舞う。血が跳ぶ。血が弾ける。
彼女が剣を振り下ろす度、新たな鮮血が宙を舞い、カエデを妖しく彩った。
それはまさしく狂気の象徴。狂騒の虜。狂乱の証。
人として、大切な何かを捨てた者だけが辿り着く境地である。
決して、彼女が足を踏み入れてよい領域ではない。
だから――
「もういいやめろ! 戦闘は終わったんだ!」
俺はそんなカエデの姿を見ていられなくて、後ろから抱き付くようにしてその行為を中断させた。
とっくの昔にボスは生き絶えている。残っていた取り巻きは光の粒子となって消えた。もう戦う相手なんて残っていないのだ。
それでもなお、血を浴びようと死体に刃を突き立てようとするカエデを、俺は必死になって引き留める。
ここで引き返さなければ、二度と元の彼女には戻れないのではないか。そんな不安が俺を突き動かしていた。
腕が熱を持って痛いとか、俺まで返り血まみれになるとか、今だけはそんな下らない思考は投げ捨てて、俺は耳元で彼女の名を叫ぶ。
「――カエデっ!」
「きゃはは……は、は…………あ、れ? ソーマ、さん?」
そして、そんな思いが届いてくれたのか。
瞳から狂気の色を薄れさせた彼女は、最後に俺の名前を口にして……気絶した。
ウサギ「何の代償もなしに超強化とか、そんな都合のいい話があるわけないじゃないか(呆」