僕の居場所
それまで何事もなく普通に過ごしていた小学4年生の翔太。ある日、たまたま蹴ったサッカーボールでおばあさんに怪我を負わせてしまったことから、子供なりに罪を償おうと一生懸命頑張るところから始まるお話です。
その家は、山口翔太の家から約5分ほどのところ。
小学校への通学路の途中。
小さな細長い三角形の公園の向かい。
だから、毎朝見かけるし、帰りも必ず通る。
外壁がところどころ剥がれて、見た目はかなり古い家。
公園側の道路に面しているその家の庭には柵がなく、パッと見公園との境がないようにも見える。
だけど、やっぱり庭は庭らしく、アジサイやツツジの和風の花の木がぽつんぽつんと植えてあるだけ。
木の周りは草がぼーぼーに生えているけれど、時折散髪したみたいに綺麗に刈られているのを見たことがある程度。
翔太はそこにどんな人が住んでいるとか、全然興味なんてなかった。
そのくせ下校中には仲の良い友達とバッタを取ったり、その庭の端っこに植えてあるブルーベリーの実がなるとこっそり盗って食べたり、僕はその家の人の迷惑なんかまるで考えもしないで、勝手にそんなことをしてばかりいた。
友達も一緒にやっていたことだし、見つかったこともなかったので、全くと言っていいほど悪いことをしている自覚を持ち合わせてはいなかった。
ただ、この間久しぶりの連休だった母と一緒に買い物に行った時、その家の前を通って、つい調子に乗って「ここのブルーベリーが…」と口を滑らせてしまったことがあった。
それまでものすごく機嫌が良かったお母さんの表情が曇り一瞬哀しそうにも、泣きそうにも見える顔になると途端、「翔太!あんたなんてことを…」と周りに聞こえるほどの大声で怒鳴られ、次の瞬間、ほっぺたを強く平手打ちされた。
真っ赤に腫れたほっぺたは、それからしばらく熱くて痛くて、ご飯を食べたり、歯を磨いたり、口から言葉を出そうとしたりするのに、結構苦労した。
母の右手の手のひらも、真っ赤に腫れて痛そうだった。
母の腫れた手を見ると、翔太は自分のしたことがどんなに悪いことなのかを思い知った。
だから、それからはもう二度とその家の庭に勝手に入るような真似はしないと誓ったはずだった。
それが僕に出来るせめてものおわびだと信じて。
でも、仲良しの「もっちー」こと望月智也や「なかじー」こと中島祐樹が、その家の庭になんの遠慮もなくずかずか入るもんだから、本当は心の中で悪いことをしているってわかっていても、どうしても彼らに「駄目だよ!」と促すことも特にせず、むしろ仲間はずれにされるのを恐れて一緒になって庭に入り、「お母さんに知られなければいいんだ。ばれなければいいんだ。」という自分勝手な解釈で、また同じ事を繰り返していた。
心の中で母にいっぱい「ごめんなさい。」をしていれば、それで許されると考えていた。
「僕はまだ子供だから。」という甘えが、翔太の中にずるく居座っていたからだった。
それにドラマや漫画みたいに「そうだね。」なんて、彼らが心を入れ替えて笑って過ごして終わりではなく、現実はいつもと変わりなくただ自分達でも気づかないほどゆっくりと体も心も成長していくと薄っすら知っているから。
空が薄い青色で、随分と高くて手が届かないように感じられる頃、翔太はいつものようにもっちーとなかじーと3人一緒に学校から帰ると、すぐさまあの三角の公園で遊ぶ約束をした。
母と暮らしている小さなアパートに戻ってから、急いで公園に向かうもそこにはまだ誰も来てはいなかった。
一人で母の弟の「要お兄ちゃん」から、一昨年のクリスマスにもらったサッカーボールを蹴って待っていた。
父と暮らさなくなった3年前から、お誕生日もクリスマスもやってもらえなくなった。
それまではテレビで見る幸せな家族みたいに、きちんとそれなりのお祝いをしてもらっていたけれど、そういうのをできるだけの余裕が、母と二人だけの暮らしになってからはまるでなくなってしまったから。
なので、一昨年のクリスマス、要お兄ちゃんがボールを買ってくれたのが、翔太には何よりも嬉しかった。
それまでにもらっていたプレゼントやおもちゃの数々は、母と家を出る際、荷物になるので全部置いてこなければならなかったので。
本当は全部持って行きたかったけれど、それを口に出そうものなら母にこっぴどく叱られるのが目に見えていた。
何も悪いことをしていないのに、どうして母に叱られるのだろう?
翔太は心の奥でそう思っていた。
だけど、あの時は説明できない不穏な空気を、幼いながらも飲み込んだ翔太だった。
そんな翔太の唯一とも言える遊び道具が、そのサッカーボールだった。
待っても待ってもなかなか二人がやってこないので、翔太はだんだんイライラし始めてきた。
最初は誰も遊んでいない狭い公園の中で、ブランコや滑り台なんかを縫うようによけてドリブルの練習なんかをした。
そのうちそれも飽きてくると、今度はイライラを吐き出すようにボールを思いっきり蹴りたくて堪らなくなった。
だから、八つ当たりのようにカバの遊具の開いた口に向けて、イライラを込めたボールを思いっきり何度も蹴った。
それに飽きても、まだまだみんなは来なかった。
翔太の中にイライラがいっぱいになると、利き足の右足で再びカバの口めがけてボールを思いっきり蹴ってみた。
ドシュー!
鈍い音と共に蹴ったボールは勢いのままの速さで、カバの口ではなく公園の向かいにある、あの家に向かった。
翔太は一瞬、「あちゃー!」と思った。
漫画でよくある光景を「自分もやっちゃった。」と思っただけだった。
ガッチャーン!
やっぱり想像通り、ボールはあの家の角の部屋の窓を割ってしまった。
割ってしまったことは仕方がない。
翔太はそう軽く思っていた。
すぐにでも、正直にあの家に謝りに行けば許してもらえると思っていた。
その後、母に事情を話して、何とかガラス代を弁償してもらえばそれで済む話だと軽く考えていた。
だが、実際はまるで違った。
割った窓の中から、女の人の何とも言えない唸り声が聞こえてきた。
次に違う若い女の人の「きゃあああああ~~~!」という叫び声が聞こえたかと思うと、今度は中から表に響き渡るほどの泣き声も聞こえてきた。
翔太はその声で悟った。
ただ謝りに行くだけではいけないんだと。
中にいる人に怪我をさせてしまったかもしれないんだと。
翔太は呆然と立ち尽くしていたけれど、徐々に体が震えてくるのがわかった。
怖かった。
「どうしよう…僕…怪我させちゃったかもしれないんだ…どうしよう…どうしよう…」
幸いなのか、公園にもその周りにも人っ子一人いなかった。
いたのは翔太だけ。
誰にも見られてはいない。
怖くてきょろきょろ辺りを見回すと、翔太は急に駆け出した。
一直線に家に向かった。
走って逃げながら、翔太は「おまわりさんが追いかけてくる」ような気がした。
そして、自分に手錠をかけて、牢屋に入れてしまうんだ。
まだ小学4年生なのに、僕は「はんざいしゃ」になってしまったんだ。
そう思うと涙が目からいっぱい出た。
「またお母さんを泣かせてしまう。困らせてしまう。そしたら…またぶたれる。」
翔太は自分が捕まってしまうかもしれない恐怖と、母のことしか考えていなかった。
あの家がどうなったかなんて、すっかり頭の中から抜け落ちてしまっていた。
自分さえ良ければ、他はどうだってよかった。
急いで家に入ると、すぐに玄関のドアに鍵をしてチェーンをかけた。
部屋のカーテンを閉めると、押入れの布団を引っ張り出してそこに隠れた。
膝を抱えて座り両耳を両手で押さえ、目をぎゅっとつぶった。
耳の奥で自分の心臓がどきどきしているのが聞こえた。
「お母さん!助けて!」
翔太は心でそれだけを叫んだ。
「お母さん、早く帰ってきて!」
もうどれだけ時間が経ったのか、翔太には皆目見当もつかなかった。
目を閉じていると、さっきの光景が脳内で何度も何度も自分の許可なく勝手に繰り返した。
僕が蹴ったボールがあの家の窓を割った。
あの家の中から悲鳴が聞こえた。
僕はすぐに謝りに行くどころか、逃げて帰って来てしまった。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
きゃあって聞こえたけれど、それは怪我したとかじゃないかもしれない。
ただ、窓が急に割れたから、それに驚いただけかもしれない。
そうだよ。
漫画だとおっかないおじいさんが「こらー!」って怒ってるだけじゃないか?
きっとそういう感じだったんじゃないかな?
そんなに大したことじゃないよ。
そうだよ…そうだって…絶対にそうだって…そうに決まってるって…
翔太はそう自分に無理やり言い聞かせると、ふらふらと押入れから出てきた。
カーテンをしているアパートの6畳間は、いつの間にか薄暗く明かりが必要なほどになっていた。
座布団ほどの玄関や台所、ユニットバスがある側の4畳半の部屋は、西側の6畳間よりも一層暗くなっていた。
喉が渇いたことに気づくと、冷蔵庫で冷えている麦茶をコップに注ぎごくごく喉を鳴らして飲んだ。
落ち着いてくると、翔太の頭の中に別れた父の姿が浮かんだ。
3年前、翔太の父と母は離婚した。
その理由はまだ幼かったから聞かされていなかったけれど、翔太は離婚間際まで父と母が壮絶な夫婦喧嘩ばかりを繰り返していたのを覚えている。
その頃、翔太は家にいるのがただただ恐ろしくて、当時の自分の部屋の押入れで膝をかかえて泣いていた。
幼いながらも「どうしてお父さんとお母さんはいつも喧嘩ばかりしているんだろう?」と、哀しくて仕方がなかった。
そして、幼稚園で習った「お祈り」を翔太なりに一生懸命やった。
幼稚園のシスターから教わった通りに、「祈れば神様が助けてくれる」と真剣に信じていたからだった。
だが、結局は逃げるような形で父と暮らした家を、母と共に出た。
今まで学校から帰ると必ず出迎えてくれた専業主婦の母は、父との離婚を境に働きに出た。
母方の実家から、「一緒に暮らさないか?」との誘いをうけるも、母は翔太がこんな形で転校するのを考えた時、自分の子供時代を思い出し、自分達だけで暮らす道を選んだ。
それは母が転校のせいで、小学生時代に壮絶なイジメにあったからだった。
必ずしも転校がきっかけでいじめられる訳でもないとわかってはいるのだが、大事な息子に自分と同じ思いをさせたくないと強く思うと、どうしても転校しなくてもいいようにしたかった。
離婚で実家に戻ることが母の中で「負け犬」のように思えたせいもあった。
万が一でも、元夫とその新しい家族と出くわすリスクがあっても、息子である翔太が楽しそうに学校に通っている今の現状をなるべく変えたくなかった。
ただでさえ、家での生活が以前とはがらりと変わってしまったのだから。
「せめて…」という親心だった。
家から車で5分ほどの場所にあるグループホーム。
そこが母の職場となった。
早番、遅番、夜勤もあるけれど、母の給料は翔太と食べていくだけでぎりぎり。
本当はよその子供達のように塾や習い事をさせてあげたいと思っていても、そこまではとてもしてあげられないほど家計はひっ迫していた。
月に一度の割合で遠方に住む両親から、大きなダンボールいっぱいの食料や洗剤、それに母と翔太の下着や服などが送られてくる。
その中には祖父母からの手紙と一緒に、お年玉袋に入った1万円も送られているのを翔太は知っていた。
それがなければ、母の給料だけでは暮らしていけないのが現状だった。
翔太はそんな我が家の現状を思い出すと、「あの家の窓の弁償が出来ないのではないだろうか?」と心配になってきた。
学校の給食費は大丈夫でも、急な教材費を出すのが締め切りギリギリまで待ってもらうこともあるのに、これ以上母の負担になってしまうことは翔太にとって心苦しくて仕方がないのだった。
もう一杯麦茶を飲み干すと、翔太は父の姿が浮かんだことを思い出した。
「そうだ!お父さんに頼んでみたらどうだろう…会いに行って事情を話したら、もしかしたら…」
一瞬淡い期待が脳を横切るも、翔太は勝手にそんなことをしたらまた母を困らせて怒らせて泣かせてしまうのではないかと不安になった。
母は翔太が父に会いたがるのを、どうにも嫌っていた。
会わせてしまうと、そのまま向こうに翔太を捕られてしまうような気がしていたから。
そんな不安を抱きつつも、逆に父親の方に翔太を預けたほうが、こちらよりも金銭面で圧倒的に裕福なので今よりもずっといい生活を送らせてあげられるのではないか?
けれども、翔太を向こうに預けるということは、自分よりも随分若くて綺麗な継母と腹違いの幼い兄弟と暮らすことになる。
夫を奪った女に息子を預けるぐらいなら、例え貧乏しても自分と一緒に。
自分から夫を奪った女になぞ、大事な息子を渡せるもんか!
お腹を痛めて産んだ、大事な息子を手放すなんて出来るわけがなかった。
翔太はまるで知らないけれど、母の中には常にそんな葛藤があった。
気持ちがぐらぐらと揺らぐと、「どうしてあの時、養育費を断ってしまったんだろう。」という後悔の念が、しまっていた母の心の闇のカオスからひょっこりと顔を覗かせることもあった。
離婚してからの母の精神状態はいつもどこか不安定だった。
それは我が子である翔太のこれからを考えたり、キツイ仕事のストレスもあったり、元の夫のことを回想してみたり、楽ではない今の暮らしに不満を募らせたり。
離婚の際、この先一人で子供を育てていかなくてはならない覚悟の上でこの状態になったにも関わらず、母は父との結婚生活が時折とても懐かしく思え、あの頃に戻りたいとすら思うような時もあった。
けれども、割れてしまったお皿がもう元には戻せないように、父と母の仲も今更もう元には戻せる訳もなかった。
あちらには既に新しい家庭があるのだから。
翔太は翔太なりに一生懸命考え、悩み苦しんだ。
「…やっぱり、これからでも謝りに行った方がいいよね…だけど、もう暗くなっちゃったからなぁ…どうしよう…僕、どうして逃げたりなんかしちゃったんだろう…どうしてすぐ謝らなかったんだろう…だいたい、もっちーとなかじーが遅いからいけないんだ!僕はちゃんと家に戻ってからすぐ行ったのに…あの二人、すぐに来ないから…だから、僕がボールを蹴ってて…僕はあの家の窓ガラスを割っちゃったんだ…あいつらが来てたら…あんなことにはならなかったんだ…絶対にそうだよ…僕は悪くない…わけないよね…僕が悪いんだよね…それにボール…要お兄ちゃんが買ってくれた大事なボールなのに…返してもらわなくちゃ駄目なんだ…だけど…」
過ぎてしまった時間を取り戻せないことは、10歳でも理解できる。
翔太はさっきの出来事を落ち着いて回想すると、堪らない気持ちでいっぱいになり、涙が次から次へと溢れ出てきた。
そんな時、不意に家の電話が鳴った。
泣くだけしかできない状態の翔太は、その音に心臓が止まりそうなほどびっくりした。
「…まっ…まさか警察?…どうしよう…」
受話器をとるのを躊躇った。
だが、いつまでも電話は何度も呼び出し音を出し続けた。
その音はまるで翔太に「早く出ろ!」と催促しているようにも聞こえた。
切れるのを待とうかとしていたが、翔太は耐え切れず受話器をとった。
「もしもし!翔太ぁ~?もしも~し!…」
電話の主はあの公園で待ち合わせていた望月智也だった。
翔太は友達の声を聞くと、張り詰めていた気持ちの糸が急に緩んだ。
「もしもし…もっちー…」
「もしもし?翔太?何?泣いてたの?大丈夫?なんかあったのか?」
「…ううん…別に…何でもないよ…それより何…」
「あ、そうそう…お前、待ち合わせたのになんで来なかったんだよぉ~…俺が行ったらさ、救急車来ててすごかったんだぞぉ~!…なんかさぁ、公園の角の家あるじゃん…あそこの角っこの部屋の窓割れててさぁ…で、あの家の人、丁度窓の傍のソファーだかに座ってて…それで、おばあさん怪我したんだって…俺、びっくりしちゃってさぁ…なかじーも一緒にいたんだけど、二人でこえぇ~!って叫んじゃった…でな、近所のおばちゃんが話してたんだけど…急にバーンってサッカーボール飛び込んできたらしい…でさぁ、おばあさん割れたガラス浴びちゃって、頭の後ろとか肩とか腕とか首とかにいっぱい刺さっちゃったんだって…で、血だらけで救急車で運ばれたって…娘さんだか?孫だか?一緒に住んでる金髪の女の人、泣きじゃくってすごかったんだよぉ…俺、あんなの初めて見ちゃったから、怖くて怖くて…翔太来てなくってよかったかもしれない…だって、すんごく可哀想だったからさぁ…教えてくれたおばちゃん、留守番頼まれて、ガラス屋さん呼ぶって言ってた…女の人はおばあちゃんに付き添って、救急車で病院に行ったみたい…」
「…そう…そっかぁ…」
翔太はそれしか言えなかった。
「…なぁ、それより、お前、なんで来なかったんだよぉ~!俺ら、結構待ってたんだよぉ…なぁ、翔太ってばぁ…」
「…あっ、ごめんごめん…明日…明日ちゃんと学校で話すからさ…ホントごめん…」
そう言うなり、翔太は一方的に電話を切った。
たった今、望月から聞いた情報で、翔太はぶるぶると震えが止まらなくなった。
涙も引き続き流れ続けた。
明かりもつけない真っ暗な部屋の中で、翔太は怪我をさせてしまったおばあさんのことが気になってき始めた。
さっきまでは自分の保身ばかりと母にばれないか、心配をかけてしまわないか、叱られないか、ぶたれないかしか考えられなかったけれど、今度はそんなことよりも相手の怪我の具合だけが気になってしょうがなかった。
そうなると、夜になってしまったけれど、今から謝りに行った方がいいに決まっていると思った。
ようやく部屋に明かりをつけると、翔太は机代わりの丸いちゃぶ台で母へ向けた手紙を書き始めた。
「お母さん、ちょっと近所まで出かけてきます、心配しないでね。ごめんなさい。ご飯炊くのすっかり忘れてました。本当にごめんなさい。」
「これでよし!」
手紙を書き終えると翔太は鍵をかけて部屋を出た。
すると、丁度のタイミングで遅番の母が帰ってきたのだった。
「あれぇ?翔太ぁ…どした?」
軽自動車から降りた母は、外の玄関前でハッとした様子の翔太を見るなり声をかけた。
「あっ…おかえりなさい…僕、ちょっと出かけてこようと思って…ごめんなさい…」
「えっ?こんな時間に?ちょっと待ちなさい翔太…ちゃんとお母さんの目ぇ見て話しなさい…これからどこに行くの?おかしいでしょ?こんな時間に…どしたの?ちゃんと…ちゃんと教えて…」
自分の両肩をがっちりと掴んだ母の真っ直ぐな視線に、翔太はつい目を逸らしてしまった。
それが「罪悪感」だと、翔太にはまだわからなかった。
一旦出た部屋に母と共に戻ると、ちゃぶ台を挟んで向かい合わせに腰掛けた。
「…で?どしたの?誰かと喧嘩でもしたの?言ってごらん…お母さん、怒らないから…ちゃんと教えて!」
きっぱりした口調で母は言った。
俯いたまま顔を上げずにいた翔太がようやく重い口を開いたのは、それから約3分後のことだった。
「…実はさ…ごめんなさい、お母さん…僕…僕…とんでもないこと…しちゃったんだ…」
「えっ?どしたの?何?言いなさい!」
深刻な表情で話し始めた翔太がそうっと目の前の母の顔を覗くように見上げると、眉間に深い皺を刻み込んだ険しい表情の母がいた。
翔太は恐る恐る母の顔色を伺いながらも、たどたどしく一生懸命に公園での出来事を話した。
テーブルをピアノを弾くように小指から順々にとんとんと叩く母が、怖くてどうしようもなかった。
けれども、翔太は窓を割ってしまった出来事を隠し通せるほどのしたたかさは持ち合わせてはいなかった。
どこにでもいる小学4年生の翔太。
絶対に母にこっぴどく叱られ、強くぶたれるのも覚悟の上での必死な説明だった。
翔太が話し終えると、案の定、母は翔太の頬を平手で思いっきりぶった。。
パシッ!
「あんたって子は、どうしてそう次から次に悪いことばっかりするのさ!ちゃんとわかってんの?人様に迷惑かけて、それでいいと思ってんの!反省しなさい!」
そういうなり、母は翔太の頬だけでなく頭や背中、腕に肩など手当たり次第に両手でばしばしぶった。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
母の怒りが収まるまで、翔太は両手で頭を抑え体を丸めた状態で、何度も何度も謝った。
ぶたれた痛さが全身をつらぬいた。
「お母さん、やめてぇ!ホントにごめんなさい!だから…やめてぇ~!」
抵抗できないというのか、親である母に抵抗なんてしちゃいけないと思っている翔太は、自分のしでかしたことの報いを受けているのだと感じた。
小さな翔太は謝りながら、ジッと耐え続けた。
「悪いことをしたから、僕は罰を受けているんだ。」
母が翔太に手を上げるようになったのは、父と離婚してからだった。
それまでは翔太が小さかったこともあり、母はただただ優しい普通の母だった。
今の母からはとても想像がつかないほど、絵に描いたような優しい普通の母だった。
しかし現在、翔太は時折、自分のしでかした些細な過ちや言いつけを守れなかった時、母から受ける折檻の壮絶さから、すぐにでも逃げ出したいと思うことがしばしばあった。
だが、家を出たところで自分はただの子供。
お金もなければ、行くあてすらないのを十分に知っていた。
友達を頼っても良さそうなものだが、翔太の中にはそんなアイデアは微塵もなかったというのか、考えも出来なかった。
それに母が鬼のように怒り狂うのは、どんなに些細な出来事でも、全て自分が悪い時だけ。
よそのお母さんのように、自分の虫の居所が悪いからといって、理不尽に怒るわけでは決してなかった。
ただ、一旦怒り始めると、それがちょっと「強い」だけだと、翔太はちゃんとわかっていた。
そして、それは自分をまっとうな人間にする為なのだと思うことで、翔太は母にどんなにぶたれようと必死に耐えた。
勝手に涙が流れても、体中が痛くて堪らなくてもグッと歯を食いしばり、母の怒りの嵐が過ぎ去るのをただただ待った。
「中学を卒業したら、家を出て働いて、お母さんを楽にさせてあげられる。そしたら、きっと、お母さんは僕をぶたなくなると思う。」
そんな淡い期待を密かに抱き、大好きな母が一刻も早く元の穏やかで優しい母に戻ってくれるのを祈るだけだった。
涙でぐしゃぐしゃな顔のまま体を小さく縮ませている翔太を見て、ようやく母は我に返った。
「…翔太、あんた、ちゃんと謝りに行ったのかい?えっ?どうなのさ!」
まだまだ般若のような険しい母は、泣いている翔太にお構い無しに聞いてきた。
しゃくりあげるほど泣いたけれど、母に尋ねられるとすぐさま答えようと頑張った。
「…っくっく…まだ…僕…っくっく…逃げて来ちゃったから…っくっく…」
「…っはぁ…ったく、あんたって子はホントにどうしようもないね…そういうずるさは父親そっくりだよ…まったく…ああ!もう!仕方ない…これから先方に謝りに行くから…いいね!ちゃんと頭下げるんだよ!わかった?」
別れたとは言え、翔太は母が父の悪口を言うのがとても嫌だった。
母とは壮絶な別れだったとしても、翔太にとってはこの世でたった一人の父だから。
一緒に遊んだ思い出や、アルバムの写真に写っている父はいつも優しい笑顔。
母に言いはしないものの、翔太はまだ父のことが好きだった。
それが例え自分と母を裏切り、捨てた父だとしても。
母の号令に従い、翔太はとぼとぼと後ろを歩いた。
肌寒く仕事の疲れやストレスも相当溜まっているらしい母は、翔太がしでかした出来事が本当に邪魔臭くて面倒だといった様子だった。
そんな母の姿に、翔太は益々「自分はとんでもないことをしてしまった。」と哀しくなった。
公園のななかまどの大きな木の間から、あの角の家が薄っすら見えてきた。
道路に面している1階の角の部屋の窓は、まだガラスが入っていないらしく、新聞紙とガムテープでとりあえずしのいでいた。
翔太はそんな窓を見ると、再び涙が込み上げてきた。
心の中で何度も何度も「ごめんなさい。」を繰り返した。
その家の玄関前には、車が1台停まっていた。
カーテン越しに中の明かりがちょっぴり外に漏れていた。
怒りが収まらずに鼻息が荒いままの母は、右手の人差し指で強くチャイムを押した。
ピンポーン。
「は~い。どなたですか?」
玄関の明かりが灯ると、中から女性の声がした。
「あのぉ~…私、山口と申します。昼間は申し訳ありませんでした。うちの馬鹿息子がボールを蹴って割って、こちらの方に怪我をさせたとか…誠に申し訳ございませんでした。…その…なんと言ったらいいのか…ほらっ、頭下げなさい!」
母に強引に頭を掴まれると、そのまま下に下げられた。
翔太はその動作と一緒に「本当にごめんなさい。僕…あの…僕…ごめんなさい…」と謝った。
すると、ようやく玄関のドアが開いた。
中から金髪の若い女の人が、母に勝るとも劣らないほどの怒りが頂点に達している表情で、翔太と母をギッと睨んできた。
「…ああ、そうですか…こっちはね、うちのおばあちゃんがどんな目にあったか…あんたのボールのせいで、おばあちゃんはね、ガラスまみれで血だらけで、もうちょっとで死ぬところだったんだよっ!わかってんの!ちょっと!なんですぐに謝りに来なかったのさ!えっ!ちょっと!どういうつもりで今頃のこのこ謝りに来てんのさ!この人でなし!きっちり落とし前つけてもらいますからねっ!いい?わかってんの?窓ガラスの弁償と、おばあちゃんの病院代と慰謝料、それに通院費でしょ?いい!金額がちゃんと出たら、こちらから連絡しますから…そだ、これに名前と住所と電話番号と書いてちょうだい!」
ぷりぷりと怒ったまま、金髪の女性は母に乱暴にメモとペンを手渡した。
困った泣きそうな顔の母は、言われるがままさらさらとメモに書いた。
待っている間、金髪の女性は小声で「絶対に許さないんだから…」と呟いていた。
翔太は女性の怒りを間近に感じると、どうしていいのかわからないほど申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「本当にごめんなさい。」
翔太がもう一度謝り終わる前に、玄関のドアは乱暴に閉められた。
母は女性の態度に、お門違いの腹を立てていた。
そんな母と女性の怒りに触れた翔太は、「僕がいるからいけないんだ。僕なんかいない方がいいに決まってるんだ。僕がいるから、お母さんが困るんだ。僕なんか…死んでしまいたい…」と薄っすら考えた。
それは小学4年生、10歳の子供が考えることではなかった。
未来のある子供が、そんなことを考えていい理由はなかった。
切なくて哀しすぎる気持ちを自分の息子が考えているとは、まるで察してもいない母だった。
むしろ「面倒ばかり起こす翔太なぞ、いっそのこといなくなってくれたら。」とまで、薄っすら願ってしまう母だった。
血の繋がった親子の心はお互い知ることはないものの、哀しく一致してしまっていた。
雲ひとつ見当たらない夜空には、小さく瞬く星がいくつも見えていたけれど、今の翔太と母にはそれすら見上げる心の余裕が全くなかった。
目の前に広がる真っ暗な夜の闇しか、目に入っていなかった。
とぼとぼと歩く二人の上空には、レモンイエローの綺麗な三日月がぽっかりと浮かんでいるだけだった。
布団に入っても翔太はなかなか寝付けなかった。
隣では母ががーがーと怪獣のようなイビキをかいて、大の字で眠っていた。
翔太はあの家の人にどう償えばいいか、それだけを一生懸命考えていた。
責任を取って、命を絶とうかと思ったけれど、それを考えただけで再び涙でいっぱいになった。
それに仮に命を絶つとしたって、その前にやっぱりもう一度きちんとあの家の人に謝りたい。
金髪のお姉さんにじゃなく、怪我をさせてしまったおばあさんに直接会って、ちゃんと謝っておきたい。
翔太はそう思った。
そして、それをやらなくては絶対に駄目だとも感じたのだった。
カーテン越しの外がほんのり明るくなってきた辺りから、翔太の記憶はなくなった。
じりりりりりりりり。
母方の祖父からもらった古い目覚まし時計の音で、翔太は目が覚めた。
ハッとして布団から起き上がると、いつものように母が台所に立っていた。
「おはよう!翔太…早く支度しないと遅刻するわよ!」
母に促され布団を押入れにしまうと、すぐさま着替えて顔を洗った。
昨日のことがまるで悪夢だったかように思ってしまうほど、いつもと同じ朝だった。
「翔太、お母さん今日夜勤だから…冷蔵庫に晩御飯入れていくからね。ちゃんとレンジにかけて食べるんだよ!それと戸締りしっかりね…」
「うん、わかった…あの…お母さん…昨日の…あの…」
「それと…昨日のこと…お母さん、ちゃんとしておくから…あんたは心配しなくていいからね…」
「…うん…お母さん、ごめんなさい…そして、ありがとう…」
翔太は母の優しさに胸が痛くなった。
折角洗った顔が少しだけ涙で汚れてしまったのだった。
「ほらほら学校遅れちゃうから…いってらっしゃい…ちゃんと勉強してくるんだよ!ねっ!」
「…うん、いってきます…お母さん…ホントにごめんなさい…」
それだけ言うと翔太はくるりと母に背を向けて、小走りで出かけた。
ランドセルをがしゃがしゃ揺らしながら、翔太は走った。
走りながら、ちょっぴり泣いた。
どうしても通らなくてはならないあの家の傍を通る時、翔太はなるべくそちらを見ないようにしてしまった。
だが、ちらっと横目に入ったあの家は、母と一緒に伺った昨夜とは違って見えた。
昨日はこの家自体が自分に怒っているように見えたのだが、今朝は優しく見えていた。
「どうしてるだろう?…怒ってるに決まってるよなぁ…僕が悪いんだもん…」
きゅーと胸が締め付けられるような感覚に囚われると、翔太は涙が止まらなくなっていた。
駆け抜けながら翔太はあれこれ考えた。
でも、どうしたっていいアイデアは浮かばなかった。
なので、担任の松野先生に相談しようと思った。
去年から翔太達のクラスを受け持っている松野和子先生は、先生になってまだ3年ほどの若い教師。
小柄で優しい先生は生徒達だけでなく、保護者達からの評判も上々だった。
学校の玄関で後ろから声をかけられた。
振り向くとそこには、にやにやした顔の望月と中島が立っていた。
「おはよ~!翔太…なんで昨日来なかったんだよぉ~!」
中島に尋ねられたが、翔太は答えられなかった。
口をつぐんだ真一文字のまま、眉間に皺を寄せて教室とは逆の方向に歩き出した。
「なぁ、翔太ってばよぉ~、もしかしてお前、泣いてんの?なんで?なんかあったのか?なぁ、翔太ぁ…教室に行かないのかぁ?そっちは職員室だって…なぁ、翔太待ってって…」
今度は望月がそう声をかけながら、ずんずん歩いていく翔太にくっついて行った。
友達二人がしつこく纏わりついてこようが、翔太は意を決した顔つきで真っ直ぐ職員室を目指した。
翔太は職員室の引き戸の前に来ると、大きく深呼吸をしてから涙で濡れた顔を着ているTシャツの裾で拭いた。
ガラガラガラ。
職員室の引き戸を開けると、中は忙しそうな先生達でいっぱいだった。
廊下近くの席で教室で配るプリントの確認をしていた松野先生を見つけると、翔太は慌てたように駆け寄った。
「先生!…」
「あれっ?おはよう、山口君…どした?なんかあった?」
涙がこぼれるのを我慢しているような顔の翔太を見るなり、先生は優しい笑顔で尋ねてくれた。
「…先生…僕…僕…」
泣くのを堪えたまま、両手をギュッと拳にした翔太の様子を見て、先生はすぐさま「山口君、あのさ、ここじゃなんだから…違う場所に移動しよっか…ねっ!そうしよう?…ところで、望月君と中島君も…一緒に行くのかな?山口君、二人も一緒で大丈夫?…」と言ってくれた。
翔太はただこくんと頷くしかできなかった。
「わかった…じゃあ、出よっか…ねっ…」
松野先生に連れられて、翔太と他の二人は廊下の先にある保健室まで歩いた。
ほんの僅かな間、誰も口を開こうとはしなかった。
「…あのぉ~…三田村先生…申し訳ないんですけど、ちょっとだけここお借りしてもよろしいでしょうか?」
保健室の三田村先生は翔太を始めとするみんなの様子を見ると、すぐさま「はい、いいですよぉ…今はまだ誰もいないんで…どうぞゆっくり使ってください…」と言ってくれた。
深刻な固い表情の翔太は、先生に促されるまま椅子に腰掛け、後の二人は少し離れたベッドに腰掛けた。
三田村先生の定位置のどっしりとした椅子に先生が腰掛けると、翔太は涙目のまま、堰を切ったように話し始めた。
「…先生…僕ね…僕…」
自分の言葉で一生懸命話し始めた翔太の顔をしっかりと見つめながら、松野先生は静かに話を聞いてくれた。
ベッドに腰掛けていた二人は、翔太の話に驚きを隠せなかった。
途中、「ええ~っ!翔太が犯人だったんだぁ…嘘ぉ~!」と大声を出したのは、中島だった。
すっかり事情と経緯を説明した翔太は、安心した表情でじっくり泣くことが出来た。
「…僕は…どうすればいいですか?…先生、教えてください…」
涙でいっぱいのまま必死に縋る翔太の頭を、先生は優しく撫でた。
「…そっかぁ…そんなことがあったんだぁ…それは悪いことをしちゃったけど…でも、山口君も辛かったね…もう、今は落ち着いたかい?大丈夫?」
翔太の顔を覗きこむように、松野先生は少し眉毛をへの字にした。
「…どう償えばいいか…う~ん…難しいね…それはさ、何度も謝って済むってもんでもないだろうし…だけど…そうだなぁ…先生だったら、今の自分にできることを精一杯すると思う…ああ、例えばね…例えばなんだけど…そうだなぁ…先生だったら…お花を持ってお見舞いに行くとか…う~ん…そだね…そういうのかなぁ…だけどね、山口君ぐらいの頃だったらお小遣いも少ないから、お花なんてなかなか買えないじゃない?高いもんねぇ…でもね、お花はお花屋さんで買うばっかりじゃないと思うんだ…つまりさ…なんて言うか…人の家の花壇のは絶対に駄目だよ…それはわかるよね…だけど、原っぱとかに咲いてる可愛いお花だったらさ、それだったらお金がなくっても手に入るでしょう?そういうのだっていいと思うんだよねぇ…後さ、お手紙とか、お花を絵に描いたって、折り紙で作ったっていいと思う…材料は教室にあるやつ、自由に使ってもいいから…それは先生も許可しますよ…そんな感じでどうだろう…相手の反応とかはさておいて、こっちからできることってのか、まずはごめんなさいって気持ちをめいっぱいこめてさ、反省しているって気持ちが一番大事だから…ねっ…ごめんね、先生こんな答えしかできなくて…」
翔太は首を左右に振った。
良いアイデアをもらったと思ったからだった。
すると今まで黙って聞いていた二人が急に立ち上がると、翔太の傍にくっついた。
望月が翔太の肩をポンと叩いた。
「俺達も協力するから…なっ!翔太は俺らの友達だもん…放課後、一緒に花摘みに行こう!」
笑顔の二人の優しさに、翔太は再び涙が止まらないほどだった。
「先生、ありがとう…僕…僕…ちゃんと謝ってきます…お母さんと一緒じゃなく…一人でちゃんとします…そうしないと絶対に駄目だと思うから…」
「…そっか…わかった…それはそうとさ、翔太君のお母さん、夕方まで家にいるんだね?じゃあ、後で先生連絡しておくから…ねっ…じゃあ、みんな先に教室に行ってて…授業の時は、ちゃんと集中してね…」
「はい!」
心がちょっぴり軽くなった翔太は、仲良しの二人と一緒に教室に向かった。
ただ、中島の表情は、何だかうかない様にも見えた。
教室では昨日の事件で持ちきりだった。
まだ誰も事件を起こしたのがどんな人物なのか知らないので、休み時間なども容赦なく「犯人探し」や「犯人像を考える」の話題ばかり。
その話題が出る度に、翔太は居心地が悪いような気分だった。
望月はそんな時翔太にこっそり「大丈夫か?」と声をかけてくれた。
だが、事情を知っている中島は、翔太や望月とは少し距離を置いた形で、今日に限って違う友達のところに行ってばかりだった。
「…なんだろ?なかじー…あっちばっか行って…変なの…」
望月は中島の行動が理解できなかった。
けれども、翔太は事情を知った中島が、明らかに自分を避けているのだと悟った。
「…なかじー…もう、僕のこと嫌いになったんだと思う…」
放課後、一緒に花を摘みに行こうと誘ってくれた望月に、翔太はぼそっと呟いた。
「えっ!なんで?…そんなのおかしい…だって、なかじー、朝一緒に約束したのに…なんで急に…」
「…あんな酷いことしちゃった僕なんかと、友達でいたくないって思ったんじゃないかな?…」
「え~っ!」
驚く望月に、翔太は冷静にそう答えた。
そうなって当然だと思った。
見ず知らずのおばあさんに大怪我を追わせた翔太なんかと一緒にいたら、自分まで同じ「悪い子」と思われてしまうだろう。
それが当たり前の感情で、行動なのだと翔太は誰に教わったわけじゃなくとも、ちゃんとわかっていた。
もし、自分と中島の立場が逆だったとしたら?
望月みたいにちゃんと友達でいられるだろうか?
翔太は心の中でじっくり考えてみると、中島の態度が妙に納得できた。
今は一緒にいてくれる望月だって、明日には自分から離れてしまうかもしれない。
学校のみんながそういう風に動いたならば、望月だって中島みたいになる可能性は十分にある。
翔太は改めて自分のしでかした事の重大さを思い知ると、一緒にいてくれる望月に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そうなるともうこれ以上、大事な友達に迷惑をかけたくないと思った。
軽い気持ちで蹴ったボールがこんな結果をもたらしたのは、神様が自分に罰を与えているのだとも思った。
「…あのさ…もっちー…一緒にいてくれるのは、すんごく嬉しいんだけどさ…でも…やっぱりさ、僕なんかと一緒にいたら、もっちーまでさ、絶対みんなから仲間はずれにされちゃうと思うんだ…だから…もう、いいよ…ありがとう…花は僕一人で探しに行くよ…もっちーはさ、中島達のところに行きなよ…もう、僕の傍に来ちゃ駄目だよ…僕からのお願い…そうしてよ…それに僕、今は一人になりたいんだ…」
翔太は一方的にそれだけ言うと、だだだだと駆け出した。
「えっ!翔太…なんでだよぉ~!なんでそんなこと言うんだよぉ~!」
望月は翔太の背中に向かって大声で叫んだ。
だが、何故か足は動かなかった。
翔太を追いかけられなかった。
望月の中に激しい感情が広がるも、どうしても翔太を追うことが出来なかった。
その場で立ち尽くし、わーわー声をあげて泣くしか出来なかった。
全力で走りながら、翔太は声をあげて泣いた。
昨日からずっと泣き通しで、体中の水分がすっかり乾ききっているかと思うほど泣いたけれど、まだまだ翔太の目からはとめどなく涙が流れた。
家に戻らず、ランドセルのまま学校近くのお寺の傍にある原っぱを目指した。
そこは普段、人気のない淋しい場所。
子供が一人で行くようなところでは決してなかった。
ただ大きな道路から見えるそこを母の軽自動車で通る度に、いつも何かしらの花が咲いているのを翔太は知っていた。
だから、ここにやってきた。
ここなら何かしらのいい花が手に入ると思ったからだった。
息を切らして到着した原っぱで、休む間もなく翔太は花を探した。
名前も知らない素朴な花が沢山そこらじゅうに咲いていたので、翔太は嬉しくなった。
「これをあの家の人に持って行こう…今の僕には、こんなことぐらいしかできないから…だから…綺麗なのを選ばなくちゃ…なるべく綺麗な可愛いやつ…」
翔太の脳内に、今朝の母の言葉が過ぎった。
「ちゃんとしておくから…あんたは心配しなくていいからね…」
反芻した時、翔太は母だけに責任を負わせるわけにはいかないと強く思った。
「悪いのは自分」
改めて自分自身に言い聞かせるとランドセルを背負ったまま、なるべく綺麗に咲いている花を見つけて一生懸命摘んでいった。
「いたっ…」
摘んでいる最中、花の茎や葉っぱで何度も手を切った。
スパッと切れた傷跡から、赤い線がじんわり滲んだ。
両手の指だけではなく手首や腕など、あちこち何箇所にも細かい切り傷が沢山できた。
その度に翔太は一瞬、するどい痛みを感じた。
だが、何の前触れもなくいきなりガラスで怪我をしたあの家のおばあさんの痛みを想像すると、自分の傷なんて大した怪我じゃないと思った。
「…おばあさんは僕なんかよりも、ずっとずっと痛かったんだ…だから、こんな傷で泣いてちゃ駄目なんだ…」
心の中でそう自分に言い聞かせると、翔太は再び綺麗な花を摘むことに専念した。
片手では握りきれないほど花を摘むと、翔太は大きく深呼吸した。
そして、口を真一文字に結ぶと、あの家を目指して走り出した。
原っぱにいる時には気づかなかったけれど、そこを出ると足にもズキッと痛みを感じた。
一旦立ち止まり自分の足をよく見てみると、半ズボンから出ているすねにも葉や茎、棘などで切ったらしい細かい傷があちこちに出来ていた。
気がついてしまうと、急に痛みを感じた。
それでも翔太は泣かずに歯を食いしばり、再び走り出した。
摘んだばかりの花が萎まないうちに、あの家に届けたい一心だった。
走ると全身にひんやりした風を浴びた。
熱くなってきた体には、それが丁度良い塩梅だった。
ピンポーン。
あの家のチャイムを押す時、翔太の息は切れそうなほどだった。
「は~い!どちらさまですか?」
昨日聞いた金髪の女性の声がした。
翔太は緊張と駆けて来たことで、心臓のドキドキが激しくなっていた。
「はぁはぁはぁはぁ…あっ、あのぉ~…はぁはぁはぁ…昨日、ボールを…そのぉ…」
頭で考えていた良い台詞が、今はどうしても出てくれなかった。
そうしている間に、玄関のドアが開いた。
「はい?…あっ…」
中から出てきた金髪の女性は、真っ赤な顔で汗だくのまま、息を弾ませランドセルを背負った翔太を見るなり、声のトーンががくっと下がった。
「…はぁ…はい、なんでしょうか?」
女性は、大きなため息の後、つっけんどんな棒読みで翔太に聞いてきた。
「…あのっ…おばあさんのお加減はどうですか?…あの…これ…昨日は本当にごめんなさい…僕…僕…これ…あの…これ…」
また怒鳴られるのではないかという緊張感と、心底おばあさんが心配だった翔太は、摘んできたばかりの野に咲いていた花の花束を女性の前に突き出した。
女性は一瞬声を失い、表情を硬くした。
「…あのさ…何?これ…」
女性の質問に、翔太は正直な気持ちを精一杯答えた。
「あの…これ…お見舞いのお花です…ごめんなさい…僕…お金ないから、こんなのしか用意できなかったんです…でも、おばあさんにどうしてもどうしてもきちんと謝りたいって思って…それで…あの…お寺の裏の原っぱで摘んで来たんです…だから…これ…受け取ってもらいたくて…」
「…はぁ~…あのさ…こんなんで許すとでも思った?…」
女性からの質問に、翔太は答えられなかった。
「…あの…でも…これ…おばあさんに…渡してください…お願いします…お願いします。」
涙を溜めた目で必死に頭を下げている少年の姿を、女性は黙ってちょっと観察した。
汗だくで真っ赤な顔の少年の手や足に細かい切り傷が沢山ついており、そのどれからも赤く細い線の血が滲んでいるのを見つけてしまった。
少年が一生懸命花を摘んできたのだとわかると、女性はちょっぴり切なくなった。
「あ~…はいはい…」
もう一度大きなため息をひとつついた女性は、仕方がないといった態度で翔太から雑草のような野の花の花束を受け取った。
翔太は受け取ってくれただけで、嬉しかった。
それだけで許してもらえるとは到底思えなくても、自分の心がちょっとでも伝わったのだと感じた。
「ありがとうございます…ありがとうございます…」
何度も頭を上下させてお礼を言う翔太に、女性は思い出したことを急に喋った。
「そうそう…昼間、あんたのお母さん、謝りに来たわよ…ちゃんと窓ガラス代とか置いてったから…だから、もういいから…謝りに来なくていいから…」
そう告げると、頭を下げたままの翔太をほっといて、玄関のドアを乱暴に閉めてしまった。
ゆっくりと頭を上げて姿勢を正すと、翔太はもう一度玄関に向かって深く礼をした。
押さえきれない嬉しさが膨らむと、翔太はだんだんと笑顔になった。
だが、次の瞬間、「やっぱりちゃんとおばあさんに謝らなくちゃ…」と思った。
それと同時に自分が学校に行っている間、母が謝罪に来てくれていたことを知ると、迷惑と苦労をかけ通しの母の手伝いを今まで以上にもっとしようと心に誓った。
次の日、登校すると教室のみんなの態度が妙によそよそしく感じられた。
「おはよう!」と声をかけても、返事は返らず。
翔太は、「みんなに自分が犯人だと知られたんだ。」とわかった。
昨日まで仲良くしてくれていた望月も、翔太に言われたことなどで少し距離を置いてきていた。
自業自得と思えば、罰が当たったと思えば、翔太の心は少しだけ落ち着いた。
急に友達を無くしてしまったけれど、翔太は今日の放課後もあの家にお花を摘んで持って行くことで頭がいっぱいだった。
今の翔太には、それがやりがいになっていた。
休み時間には他のクラスの生徒達や他の学年の生徒達にまで、指を指されひそひそ声で色々悪口や陰口を叩かれた。
5~6年生の男子にトイレに呼び出され、強く咎められたり、暴力を振るわれたりもした。
本当は逃げ出したいほど辛くて哀しかった。
だが、これも全ては自分が悪いせいだと、翔太は黙って耐えた。
そうやって悪いことをした自分を存分に責めてくれる方が、何故か気が楽にも思えた。
クラスの一部の男子や女子に、中途半端な情けや同情される方がかえって辛い試練な気もした。
自分が悪いんだ。
責めるなら責めてくれ!
それであのおばあさんの怪我が良くなるのなら、それでいいと思った。
長く孤独な学校での一日が終わると、翔太は一目散であの原っぱに向かった。
さわさわと風で擦れる野草の音や小さな虫の声、道路からの車の音などが薄っすら聞こえる中で、翔太は一生懸命綺麗に咲いている花を選んで摘み取ると、萎まないうちにあの家に届けに行った。
そんな日が一週間ほど続いた。
学校がお休みの土曜日曜には、朝から自転車で出かけ、お寺の原っぱとは違う場所を探した。
河川敷や一人で行ったこともない住宅街に公園、遊歩道など、摘み取ってもいい花を探しに翔太は駆けずり回った。
そして、見つけたいつもと違う花を摘むと、再びあの家を訪れ持ってきた花束を玄関に出てきたあの女性に手渡した。
翔太はそれが自分にできる「償い」だと強く信じていた。
なので、相手が迷惑だと感じているかもしれないとは、微塵も思っていなかった。
そんな中、ここ一週間ほど毎日玄関先に出てくる不機嫌そうな女性が、今日は留守らしかった。
翔太はどうしても摘んだ花束を渡したくて、家に帰らないランドセルのまま、あの家の玄関先にしゃがんで帰りを待った。
道行く近所の人や通りかかった同じ学校のの生徒達などにじろじろとキツイ視線を浴びせられるも、翔太は摘んだ花束をギュッと握り締めて家の人が帰宅するのをじっと待った。
この一週間は青空が続いていたけれど、今日に限って時間の経過と共に空に厚くて黒い雲が広がってきた。
辺りが夜の暗さになりつつある頃、頭上からぽつんぽつんと大きな雨粒が落ちてきた。
それなのに翔太はその場所を動こうともせず、道路の同じ場所をじっと見つめたままでいた。
しばらくすると、本格的な雨になった。
全身がずぶ濡れになるほどの強い雨は、翔太から徐々に温かさを奪っていった。
いつまでも学校から帰らない翔太を心配して、早番だった母が傘を持って探しに出た。
「翔太…どうしたんだろう?こんな雨の中…なんで帰ってこないんだろう?最近、帰りが遅いみたいだけど…あの子一体何やってるのかしら…まさか…イジメ?…そんな…まさか…そんな…」
まずは学校に行ってみようと考えた母は、ゆっくりと歩きながらきょろきょろ周りを見渡し、翔太を探しながら歩いた。
ななかまどの公園を過ぎると、あの家が見えてきた。
母はその前を通るのがどうにも気が引けたので、ぐるっと大回りをして違うルートから学校を目指した。
雨はまだまだ容赦なく降り続いた。
母が学校に到着する頃には、生徒の姿はどこにも見当たらなかった。
とりあえず職員室に向かい、担任の松野先生に事情を話した。
「あの、先生…うちの翔太…まだ帰ってきてないんですが…学校にいますでしょうか?」
母の問いかけに、松野先生は驚いた様子。
「えっ?まだ帰ってないんですか?ええ~っ!…このところ、山口君、毎日のように放課後はすぐに学校を飛び出して行くんですよ…あのことがあってから…その…何ていいましょうか…クラスのみんなから、ちょっぴり距離を置かれてるみたいなんで…私、ホームルームにみんなに言い聞かせたんです。でも、山口君の方からみんなと離れているみたいなんです…仲良しだった望月君にも、僕と一緒だと仲間はずれになるだろうから…って…」
長々と聞いた先生からの話に、母は切なくて哀しくてもどかしいような気持ちが溢れた。
そして、翔太が自分の犯した罪を自分なりに一生懸命償おうとしているとわかると、余計に胸が締め付けられるほど辛くなった。
いつの間にか涙を流してしまっていた母は、「そうですか…先生…本当にすみません…翔太が、そんな風だなんて知りませんでした…あれから急にって訳でもないんでしょうけど…今まで以上に私に気を遣って、お手伝いを一生懸命やってくれるんですよね…それもあたしに迷惑をかけたって思ってるからみたいで…だけど…あの子はまだ4年生だから、友達と沢山遊びたいと思うんです…でも、それを自分で封じ込めてるってのか、もう二度と遊ばないって自分で勝手に決めたみたいで…けなげに頑張ってるあの子を見ると、なんだか辛くて…」と話した。
松野先生と母が自分のことで涙を流していることなどまるで知らない翔太は、暗くなった雨の中、あの家の人が戻ってくるまで同じ場所でじっと待っているのだった。
住宅街に外灯が灯った頃、一台の車がやってきた。
それはこの家の車だった。
眩しいライトに照らされた翔太は、車に驚きようやく立ち上がりその場から動いた。
こちらからは眩しくて何も見えなかった。
ゆっくり慎重に玄関前に車が停まると、運転席から金髪のあの女性がびっくりした様子で慌てて降りてきた。
「ちょっと、あんた…何してんのさ!こんなところで…あ~あ~…ずぶ濡れじゃない?大丈夫?ちょっともうやめてって言ったでしょ?なんでいるのさ…おうちの人が心配してるでしょ?やめてよ!もう…帰りなさいよ…ねっ!…風邪引いちゃったらどうすんのさ…全く…」
頭からびしょびしょに濡れて哀しげな表情の翔太を見ると、女性は怒りながらも心配で堪らない様だった。
「…あの…あの…これ…僕…どうしても…おばあさんにちゃんと謝りたくて…ごめんなさい…僕、迷惑かけてるつもりなんてないんです…ただ、怪我させちゃったから…だから…ごめんなさい…ごめんなさい…」
青白い顔のまま、翔太は必死に自分の思いを伝えた。
「…ちょっと…」
ふらついて倒れそうな翔太を、女性はサッと抱きかかえた。
「まぁまぁ、どうしたの?」
車からゆっくりとおばあさんが傘を差して降りてきた。
雨に濡れてぼんやりしてきていた翔太の前に、怪我をさせてしまったおばあさんが痛々しい包帯のまま姿を現した。
どうやら今日が退院の日らしかった。
「…あっ、おばあさん…あの…これ…ごめんなさい…僕がボールを蹴っちゃったから…おばあさん、ホントにごめんなさい…ごめんなさい…体、大丈夫ですか?ホントにごめんなさい…痛いですよね…本当に本当にごめんなさい…僕…僕…」
全身ずぶ濡れの寒さで震えている翔太は、ずっと握り締めていた花束をおばあさんにやっと手渡すことができた。
「…まぁ、可愛らしいお花…ありがとう…ぼうや…おかげさまで、あたしは大丈夫ですよ…だからもう心配しなくていいのよ…ねっ…ありがとうね…ありがとうね…」
包帯でぐるぐる巻きになったか細い両手で、おばあさんは翔太の濡れた手をギュッと握った。
雨ですっかり冷たくなった翔太の手を、おばあさんの乾いた温かい包帯の手が包み込むとそれだけで翔太は嬉しくなった。
「ありがとうございました…じゃあ、僕…帰ります…お母さん、心配してると思うんで…」
車が停まっている傍の雨で濡れたコンクリートの上で正座にしていた翔太はよろよろと立ち上がると、ずぶ濡れでふらふらしたまま、家を目指してゆっくりと歩き出した。
「…あっ、ちょっと…ちょっと待って…これ…傘…持ってって!」
後ろから金髪女性の声が聞こえると、翔太は振り向き丁寧にお辞儀した後、「大丈夫で~す…大丈夫ですからぁ…ありがとうございました。」とだけ言い、雨の中をそのまま歩いて家を目指した。
翔太を探して学校まで行っていた母は、先に帰宅し翔太の帰りを今か今かと待ち構えていた。
8時までに翔太が戻らなかったら、警察に電話をかけるつもりだった。
「ただいまぁ…」
力のない声で翔太が帰ると、奥で待っていた母が慌てて駆け寄ってきた。
「ちょっと、翔太!あんたこんな時間までどこに行って…」
そこまで言いかけたが、ずぶ濡れでふらふらの翔太を見るとすぐに母は驚いて抱きしめた。
「翔太、翔太…可哀想に…こんなにずぶ濡れで…すぐにお風呂に入ろうね…おなか空いてないかい?何か食べようね…うどんがいいかな?…お母さん、心配で心配で…学校まで行ったんだよ…でも、翔太の姿どこにも見えないし…今までどこに行ってたの?」
濡れた服をゆっくり脱がしながら、母は翔太にそう尋ねた。
熱で少しばかり朦朧としたままの状態で、翔太は静かに母に説明した。
「…ごめんなさい…お母さん…ホントにごめんなさい…僕…どうしても、あの家のおばあさんに謝りたくて…それで、あそこの家の前でずっと待ってたんだ…この一週間は毎日おうちの人がいて…ちゃんとお花受け取ってくれてたんだけど…今日は…留守だったから…僕ね…だから、家の前でずっと待ってたんだ…そしたら雨が降ってきちゃって…だけど、頑張ったの…そしたらね、車でおばあさんも帰ってきたの…体中に包帯でぐるぐる巻きだったけど、ちゃんと一人で歩いてたから…僕ね、良かったなって思ったんだ…それで、いつものお花を渡してね、それから、ちゃんと謝ったの…そしたら、おばあさん、お花ありがとうって…もう大丈夫だから心配しないでって…お母さん、僕ね、ちゃんとひとりで謝れたんだよ…エライ?…」
「えらいね、翔太…えらかったね…」
ふらふらしたままでも一生懸命話してくれる翔太の姿に、母は涙が止まらなかった。
熱い風呂に翔太を入れてあげる際、母は翔太の手足についた無数の切り傷にやっと気がついた。
それはこの一週間毎日一生懸命花を摘んだ時にできたのだと、すぐにわかった。
母は翔太がそこまでしていたのかと知ると、自分の腕の中にいるこの子が愛しくて尊いと思った。
「この子なんかいない方が…」と少しでも思ったことを、激しく後悔したのだった。
それと同時に翔太がとてもいい子に育っているんだとわかると、母として誇らしいような気持ちにもなった。
次の日、熱がなかなか下がらない翔太の為に、母は仕事を急きょ休んでくれた。
病院へ行くお金もなかった。
なのでいつぞや母の実家からの荷物の中に入っていた、市販の風邪薬でやりすごすことにした。
母は家にある材料で、何とか栄養のある消化の良いものを作り、翔太にゆっくり食べさせた。
一日では具合がよくならなかった翔太は、結局学校を3日ほど休んだ。
最初の一日だけ母は仕事を休んでくれたけれど、残りの2日はどうしても仕事に出なくてはならなかった。
アパートに翔太を一人置いていくのが、後ろ髪を引かれるほど辛かった。
けれども、少しづつ回復傾向にあった翔太自ら、「お母さん、僕は一人で大丈夫だから…ちゃんとお布団に入ってるから…だから、お母さん、お仕事に行って…お願い…」と母に告げた。
翔太が休んでいる3日間、ずっと雨ばかり降っていた。
放課後には配られたプリントを持って、望月が訪ねてくれた。
「…あっ…翔太…これ…今日のプリント…」
「ああ、もっちー…わざわざありがとう…ごめんね…」
「ううん…こんなの、全然へっちゃらさ…それより…翔太…お前、大丈夫か?…熱はもう下がったのか?…」
「…うん…だいぶいいみたい…だんだん体も楽になってきたよ…まだ、鼻水がすごいけど…でも、大丈夫…明日には、学校に行けると思う…ごめんね、心配してくれてありがとう…」
「そ…そんなの…当たり前じゃん…」
「…ううん…ホントにありがとう…じゃあね…もっちー…」
翔太がパジャマ姿のまま玄関で望月を帰そうとすると、望月は何か言いたげな顔のまま翔太をじっと見た。
次の瞬間、望月は濡れた傘を畳んだまま、雨の中を駆け出して行ってしまった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、翔太は望月を見送ったのだった。
学校からのプリントはいつもの学級通信と国語と算数の宿題だった。
翔太はそれらに目を通すと、はぁと小さくため息をついた。
「翔太、なるべく水分…お茶とかお水飲むんだよ…それと薬、飲むの忘れないでね…」
母の言葉を思い出し、冷蔵庫の麦茶をごくごく2杯も飲んだ。
窓から薄暗い外を見ると、雨がまだまだ降っていた。
翔太はふとあることが気になった。
「…そういえば…お母さん、お金どうしたんだろう?」
10歳ながらも翔太は家計が火の車なのを十分知っていた。
月に一度の祖父母からのダンボールに頼っていることも。
そして、給料日前の数日、お米がないこともあった。
作ったカレーに水を足して量を増やすと、最後の方はカレー味の薄いスープのようになることもしばしばあった。
なので、子供心に母がどうやってあの家のガラス代や病院代を工面したのか、不思議でしょうがなかった。
具合がよくなり登校すると、休む前よりもクラスメイトが自分から離れているのがわかった。
それでも翔太は何事もなかったかのように平然と、静かに大人しくしていた。
そんな中、隣の席の女子、伊藤彩とは少しだけ会話するというのか、しなければならない状況にある時だけ、話すことがあった。
1時間目が始まる前、伊藤彩の教科書から何かがはらりと翔太の机に落ちてきた。
「はて?」と思い、「これ…」と拾って手渡す際、何気なく手に取ったそれを見た。
それは綺麗な紙の台紙に貼られた四葉のクローバーだった。
翔太は伊藤彩にそれを手渡すだけでなく、どうしても気になったので自分に話しかけられるのを相手は嫌かもしれないけれど、思い切って聞いてみた。
「…あっ…あのさ…伊藤さん…これ…これね…綺麗だね…」
あの事件以来、すっかり話もしなくなっていた翔太がいきなり自分に声をかけてきたので、伊藤彩は一瞬びっくりすると共に、自分で作った四葉のクローバーが貼ってあるしおりを褒めてもらって嬉しくなった。
「…ああ、ありがと…これね、自分で作ったの…いいでしょ?…」
「うん、すごくいい…伊藤さん、上手だね…」
「えっ!そう…そうでもないと思うんだけど…」
伊藤彩は照れてもじもじした。
「四葉のクローバーってさ、確か持ってると幸せになれるって聞いたから…それでね、みっちゃん達と一緒に探して見つかったから、押し花にしてからしおりにして持ってようって思ったんだぁ…」
「そっかぁ…持ってると幸せになれるのかぁ…」
翔太はしみじみ呟くと、「伊藤さん、いいこと教えてくれてありがとう。」とお礼を言った。
伊藤彩は自分は「大したことを教えたわけでもないのに。」とも思ったけれど、翔太がにこにこと丁寧にお礼を言うもんだから、自然と顔がにやけてしまった。
もう翔太の心は四葉のクローバーのことでいっぱいになった。
あの雨の晩、あの家のおばあさんに直接ちゃんと謝ることはできたけれど、あのおばあさんはまだ包帯だらけだった。
なので、怪我が早く良くなればどんなにいいだろうと思うと、掃除当番が終わった後、お花を摘みに行くのではなく、今度は四葉のクローバーを探して伊藤彩が作ったのみたいに、綺麗なしおりにして渡そうと考えた。
翔太は今までよりも丁寧に教室の掃除を済ませると、元気いっぱい外に飛び出した。
学校の玄関前にあるちょっとした原っぱには、クローバーがいっぱい生えているのを覚えていたので、いつものお寺の原っぱに行くことはせずに、そこで這い蹲って四葉を探した。
ランドセルを端っこに置くと、翔太はクローバーに顔を近づけた。
下校していく生徒達が自分を奇妙な目で見ていたとしても、翔太は気づかずに必死だった。
そんな中、不意に後ろから自分の名前を呼ぶ声がした。
「へっ?」
ようやく顔を上げると、そこには望月が立っていた。
「翔太…何探してんの?」
「あっ、もっちー…えっと…えっと…いいよ…もっちーには関係ないから…ほらっ…それよりもさ、早く離れて…僕と一緒にいるところ誰かに見られたら…もっちーまで仲間はずれにされちゃうから…僕、そんなの嫌だからさ…」
翔太はそう言いながらも、急に周りをきょろきょろと見渡した。
万が一でも自分と一緒にいるところを誰かに見られでもしたら、望月まで辛い目に遭ってしまうと思ったからだった。
「いいんだ…そんなのどうでもいいんだ…俺、やっぱり翔太と友達だもん…ずっとずっと大人になっても友達だから…」
「…えっ!…でも…」
「いいんだって…言いたいやつには言わせておけばいいんだって…俺さ、お前といるとおもしぇぇんだもん…」
望月はそう告げると、翔太のランドセルの傍に自分のも置いた。
そして、翔太と一緒に同じ四つん這いになると、「翔太!何探せばいい?」と聞いてきた。
「…えっ…あっ…四葉…のクローバー…なんだ…」
「そっか…俺も一緒に探すから…そしたら翔太ひとりで探すよりも、きっと早く見つかると思うんだ…なっ?」
望月の笑顔に、翔太はちょっぴり涙ぐむと「…そうだね…」とだけ言った。
前日まで降り続いた雨のせいで、クローバーは随分濡れてしまっていた。
それでもお構い無しとばかりに、翔太と望月は目を凝らして四葉探しに躍起になった。
そんな二人の姿をたまたま2階の理科室にいた、担任の松野先生がにこにこしながら見ていた。
四葉を探しながら、望月は父からの言葉を思い出していた。
あの事件の後、望月の母は翔太との付き合いをやめるように強く言い聞かせていた。
そんな様子を知った父は、翔太との付き合いに迷っていた望月と二人きりで話す場を作ってくれた。
「男同士の話し合いに、お前は絶対に入ってくるな」と、父は母にきつく釘を刺した。
「本当に友達なんだったら、誰が何を言おうとずっと友達でいるもんじゃないのか?お前と山口君の付き合いはそんな程度のもんだったのか?見損なったぞ!智也…父さんはお前をそんな薄情な子供に育てた覚えはないぞ!…男だったら、友達を守ってやれ!友達が困っていたなら、何も言わずに助けてやれ!持ちつ持たれつお互い助け合うのが、本当の友情じゃないのか?違うか?父さんはそう信じてる。」
望月は真剣に話す父の目を、真っ直ぐには見られなかった。
父の言っている意味がよく理解で来ていても、実際学校の中で自分までもが仲間はずれにされる側になるのかと考えると怖くなっていたからだった。
だが、独りになると父の言葉を回想し、もやもやしていた気持ちにケジメをつけようと思った。
いてもたってもいられないほど、学校で翔太と距離を置いているのがもどかしかった。
あの出来事の前と同じように、翔太と一緒に遊び、笑いあいたかった。
翔太は望月の優しさに胸が熱くなった。
自分から「離れた方がいい。」と言ってはいたものの、本当のところは心も体もしんどくて堪らなかった。
みんなからの痛い視線や悪口に耐えられず、学校へ行くのをやめようかと何度も何度も考えたりした。
辛さから逃げたい気持ちでいっぱいになると、毎朝の学校への足取りも重くなっていた。
けれども、逃げたところでそれはただ後々自分にしわ寄せがくるだけであって、自分以外のみんなの印象なんて変わらないんだとわかっていた。
大切な母にこれ以上の負担をかけさせる訳にもいかないと思った。
だから、苦しくても、仲間がいなくて一人ぼっちになったとしても学校へ行くことだけはやめる訳にはいかなかった。
翔太はあの一件以来、今まで以上に母や自分の為に友達が辛い目に遭うのは、絶対に嫌だとも思っていた。
それでも、何も言わずに黙々淡々と自分と一緒になって四葉を探してくれる望月に、感謝してもしきれないほどだった。
望月に気づかれないように、翔太はそっと涙を拭った。
「あったぁ…翔太、あったよ!これこれ…ほらっ!」
大声でそう言うと望月は見つけたばかりの四葉のクローバーをそうっと、翔太の手の平に置いた。
「わっ!ホントだ!すごいや…すごいね…もっちー、ありがとう!ありがとう!」
二人は見つけた喜びでいっぱいだった。
「なぁ、翔太…これひとつでいいのか?…もっと、いっぱい探そうか?」
「…ううん…ありがとう…これで十分…そだ、これね…自分のじゃないんだ…折角見つけてくれたけど、これ…人にあげてもいいかな?」
「えっ?…あっ…いいけど…」
望月はちょっぴり残念な気持ちになった。
「ごめんね、もっちー…これね、伊藤さんに教えてもらった通りにしおりにして、怪我させちゃったおばあさんにあげたいんだ…」
「…そう…なんだ…」
「うん…ごめん…この間、僕ね、やっと直接おばあさんに謝れたんだけど…おばあさんね、まだ包帯ぐるぐる巻きだったんだ…怪我、早く良くなってもらいたいんだ…僕が…怪我させちゃったからさ…」
言いながら翔太はしょんぼりとしてしまった。
「…いいんじゃない?…すごくいいね…」
「そう?ありがとう…僕さ、綺麗なの作っておばあさんに持って行きたくてさ…」
「そっか…じゃあさ、俺も手伝うよ…」
「…あっ、いいよ…だって、悪いし、これ作るの一人でもできるもの…小さいからさ…」
「それもそうだねぇ…う~ん…じゃあ、俺、もう一回四葉探すかな…」
顎に手を当てて望月は深く考え出した。
翔太はそれがどういう意味なのか、わからなかった。
「うん、そうする…俺、四葉探すわ…」
それだけ言うと、望月は再び四つん這いになり、クローバーを探し始めた。
もう既に一つ見つけてもらった翔太だったが、望月が探すと言うので、今度は自分の為に一生懸命探してくれた望月の為に改めて四葉を探そうと四つん這いになった。
「…あった…もっちー…見つけたよぉ~!見てみて!」
今度は翔太が見つけた。
「ほらっ…さっきのよりは、ちょっと小さいけど…はい、これ…あげる…」
望月の手のひらに見つけた四葉のクローバーを乗せてあげると、翔太と望月は顔を見合わせて笑った。
気づけば空がオレンジ色になっていた。
「今日は…もう、無理だね…家に帰らなくちゃ駄目な時間だもんね…」
翔太がちょっぴり沈んだトーンで言うと、望月が「じゃあ、明日の放課後、一緒に作ろう!」と言ってくれた。
「うん!ありがと、もっちー!」
「いいってことよ…俺ら、友達じゃん…」
真っ直ぐな瞳の翔太にお礼を言われると、望月は照れたようにそれだけ言った。
次の日の放課後、翔太と望月は見つけた四葉のクローバーで早速しおりを作ることにした。
本当は押し花にしなければならなかったけれど、すぐにでもしおりにしたかった二人はまだ緑色のままのクローバーで作り始めた。
松野先生に許可をもらっていたので、クラスの道具を遠慮なく使わせてもらった。
色画用紙や千代紙、細いリボンなどを用いて、約1時間ほどかけて二人は集中し作った。
翔太は綺麗なピンクを使い、望月は綺麗な黄緑を使った。
「できたぁ~!やったぁ~!あははははは」
上手に出来上がったしおりを、翔太はこれまた自分で作った綺麗な封筒にそうっと入れた。
しおりだけでは何だか淋しいように思えたので、手作りの小さなカードも入れることにした。
「早くケガが治りますように」
翔太は心をこめて、できるだけ綺麗な文字でカードにそう書いた。
望月も翔太と同じく作った封筒に出来上がったしおりを入れると、そのまま翔太に手渡した。
「はい、これ…」
差し出された封筒に、翔太は戸惑った。
「…えっ?いいの?…これ、僕がもらっちゃっていいのかい?」
「うん」
笑顔でこくんと頷く望月は、ちょっぴり照れたように続けた。
「…だってさ、四葉のクローバーは持ってると幸せになれるんだろう?…だから…はい…」
「ありがとう…もっちー…ありがとう…」
翔太は望月の優しさに、また少し涙ぐんだ。
水泳教室に行くという望月と笑顔で別れると、翔太はあの家に向かった。
その家に行くのは、あの雨の日以来。
翔太は両手で作った封筒を折ったり、汚れないようにそうっと持つと、今日はゆっくり歩いた。
学校を出てほどなく、翔太の前に「窓を割って怪我をさせた」として翔太のことを「悪者」扱いし、暴力を振るってきた6年生の男子が2~3人歩いているのが見えた。
それに気づいた翔太は、彼らに気づかれないようにある程度距離をあけた状態で、ゆっくりゆっくり下向き加減で後ろを歩いた。
すると、不意に一人が翔太に気づいた。
「あっ!あいつ…ボール蹴って、おばあさんに怪我をさせた悪いやつじゃない?」
大声で仲間にそう告げると、その中のリーダー的な男子がつかつかと翔太の方に近づいてきた。
「怖い!」
翔太はそう思うも、体が硬直してその場から動けなくなった。
それはまるで蛇に睨まれた蛙みたいだった。
手に持っていた大事な封筒を彼らに見つからないように、そっと後ろに隠した。
それに気づいたリーダー角の男子が、すかさず大きな声を出した。
「おいっ!お前、今、何隠した!」
「…いいえ…何にも隠してません…」
翔太は震えながらも、必死に答えた。
「嘘つくなっ!いいから見してみろっ!」
理不尽な命令をされるも、翔太は首を左右に激しく振って、手を後ろに回したままじわじわ後ずさりすると、子分らしき二人がさっと翔太の後ろに回った瞬間、大事に持っていた封筒を取り上げてしまった。
「何だよ!これっ…あはははは…」
「何だ、こいつ…こんなの持っていやがったぜぇ…」
「返してっ!返してっ!お願い!返して下さいっ!」
必死に封筒を取り返そうとする翔太に、意地悪い笑みを浮かべた上級生は取り上げた封筒を馬鹿にすると、翔太の目の前でそれをぐしゃぐしゃに丸めてすぐ、傍にあった道路脇の側溝に投げ捨ててしまった。
「やめてぇ~!」
叫びながら翔太は、封筒が捨てられてしまった側溝まで駆け寄った。
汚い雨水が溜まっているそこに行くと、翔太はおもむろに道路にうつ伏せの姿勢で、たった今投げ捨てられたばかりの大事な封筒を拾い上げた。
そんな翔太の姿を笑いながら見ていた上級生達はそれぞれ、うつ伏せの翔太のランドセルを一回づつ強く踏んだ。
リーダー格のひとりは翔太を踏んだだけではなく、わざとらしく躓くフリをした後、翔太の脇腹をおもむろに蹴った。
その後「うわぁ…こいつ、きったねぇ~!ひゃあ~…」と言うと、他の二人も同じようにわざとらしく翔太の脇腹を思い切り蹴っ飛ばした。
「いたっ…」
痛みで一瞬体を丸めた翔太は、すぐさまキッと上級生達を睨みつけた。
「ああん?なんだよ!お前!文句あんのか、こらぁ…」
リーダーの後から子分が続けた。
「お前!おばあさんに怪我させたくせに生意気だぞ!」
もう一度翔太を蹴っ飛ばそうとした時、残りの一人が慌てたような声で「あっ!やべっ!誰か来た!逃げようぜ!早く早く!」
わぁ~と嫌な声を上げながら、上級生達は雲の子を散らすように走り去って行ってしまった。
「…ひ…酷い…折角…折角…作ったのに…もっちー…一緒に探してくれたのに…一緒に作ってくれたのに…どうしよう…これじゃ…もう、あげられないよ…酷い…酷いや…うううううう…」
やりきれない気持ちのまま、翔太は泣きながら真っ直ぐ家に戻った。
途中、あの家の前を通る時頭を下げながら、心の中で「ごめんなさい。」を念仏のように何度も何度も唱えた。
悔しい気持ちが湧いてくるも、「これも全ては自分の犯した罪のせい」だと思い、そうなるとより一層翔太は沈んだ気持ちになった。
両手を泥だらけにして、首から下の部分を汚して帰ってきた翔太を見て、たまたま休みだった母は驚くと、理由も聞かずにすぐさまお風呂場に連れて行った。
翔太も翔太で自分がどうしてこんな酷く汚い格好で泣いているのかを、母に話そうとは思わなかった。
「絶対にぶたれて叱られる。」
緊張していた翔太だが、怒った様子を見せるどころか優しい顔のままの母を見ると、だんだんと心がほぐれていった。
母は翔太がいつまでも大事そうに持っている泥だらけのものが、こうなっている理由だと悟っていた。
けれども、翔太が自分から話してくれるまでは、そのことは聞かないでおくことにした。
と言うよりも聞いちゃいけないと思った。
そして何より、翔太がこんな格好で帰って来たけれど、この子は決して悪いことをしてきてこうなったんじゃないと母には十分わかっていた。
お風呂上りの温かいスープは、昨日のクリームシチューの残りを水で薄めたものだった。
「おいしい…」と泣くのを我慢したようなぎこちない笑顔の翔太の頭を、「そう、よかった。」と母は優しく撫でた。
母の手が頭に触れると、翔太は我慢しきれずちょっぴり泣いた。
だが、母の方を見ようとはしなかった。
見ないまま、「ホント、おいしい…」と呟いた。
見ようとはしなかったのではなく、自分の泣いた顔を見せたくないと思うと、どうしてもそうなった。
母は翔太のそんな気持ちがわかっていた。
なので、「そっか…」と呟きで返した。
アパートの窓から差し込む外の明るさが、いつの間にかピンクがかったオレンジ色になっていた。
翔太は泥だらけの封筒を洗面所で一度表面を綺麗に洗い、窓際で乾かしてみるも、元の綺麗な状態に戻らないので、どうしようもないぐらい気持ちが激しく落ち込んでしまった。
母はそんな様子をちらりと見ると、切な過ぎて翔太になんて声をかけたらいいのだろうと途方に暮れた。
次の朝、翔太は学校に行きたくないと思った。
それは前日自分に意地悪をしたあの上級生達と顔を合わせたくなかったというよりも、望月に合わせる顔がなかったから。
折角、一緒にクローバーを探して、二人で心を込めて作ったしおりを、あんな無残な形にされてしまったことを、どう望月に言ったらいいのか。
翔太はそのことで、望月に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それでもいつかはこのことをきちんと望月に言わなければいけない。
だったら、早い方がいいに決まっている。
後に回せば回すほど、取り戻した望月との友情を壊しかねない。
言わないのは卑怯者のすることだ。
そう思うと、翔太は「よし!」と気合を入れてから家を出た。
普段通り登校すると、望月はみんなの視線を気にすることなく、翔太の席の傍にやってきた。
そんな望月の堂々とした態度に、距離を置いて違うグループにいった中島は面白くなかった。
けなげに耐えている翔太の姿に同情し始めていたクラスメイトは、望月の行動に感心した。
翔太に同情していた一部の女子達は、以前から人気のあった望月の男らしい態度を更に見直したのだった。
「おはよう!翔太!」
元気いっぱい声をかけたが、翔太は望月の顔を見ようとしなかった。
「どした?なんかあったのか?…それはそうと、あれ、ちゃんと渡せたか?」
構わずに話しかけてくる望月に、翔太はやはり顔を見ず、ただ力なく下を向いたまま首を横に振るだけだった。
「…えっ!なんで?…あっ!もしかして、留守だった?」
翔太の顔を覗きこむようにしゃがんだ望月は、俯いたままの翔太が目にいっぱい涙を溜めているのに気がついた。
瞬きをしたらすぐにでも大きな涙の粒がぽとんと落ちそうなほど、翔太の目には十分に涙が溜まっていた。
「…ごめん…ごめんね…もっちー…ごめん…ごめんなさい…」
ぶつぶつと囁くような小さな声で下を向いたまま謝る翔太に、望月は傍にいる者達に聞かれないよう、二人だけしか聞こえない程の小声で返した。
「…どしたの?翔太…なんで謝るのさ…変だよ…何があったか…ちゃんと教えてよ…なっ…」
こくんと頷くと、翔太は昨日のできごとをゆっくり小さな声で話し始めた。
「…ごめんね…もっちー…実はさ、昨日…」
途切れ途切れになりながらも、望月に全容を話し、ちゃんと謝ることができた翔太は一旦ランドセルに入っているポケットティッシュで鼻をかんだ。
「…そっか…そんなことが…」
望月は翔太に意地悪をした上級生が憎くて堪らなかった。
それと同時に、一緒に探して作った四葉のクローバーが駄目になってしまったことが、残念で哀しかった。
けれども、一番悔しくて哀しいのは翔太だと思うと、望月はある提案をした。
「…じゃあさ…今日、もう一回一緒に探さないか?…」
「…えっ…」
「だからぁ~、今日の放課後、もう一回四葉一緒に探そうよ!…そんでもってさ、しおりももう一回作ろう!…そうしよう…なっ!決まり!」
笑顔の望月の素敵な提案に、沈んでいた翔太の心がぱ~っと明るくなった。
涙を拭うと翔太は、「そうだね!ありがとう、もっちー!」と返した。
放課後、翔太は望月と一緒に学校の玄関前の原っぱで、あの日みたいに四葉のクローバーを探した。
すぐに見つかるほど、四葉のクローバーは甘くなかった。
二人が何かを探している姿を見かけたクラスの女子達4~5人は、すかさず駆け寄ると二人に笑顔で声をかけてきた。
「なにしてるの?」
始めに声をかけたのは、翔太の隣の席に座っている伊藤彩だった。
それまで一心不乱に四葉を探す為、目を凝らして這い蹲っていた翔太も望月もその声にびっくりしてしまった。
「…あっ…」
翔太はそれしか言えなかった。
続きを話そうにも、驚きすぎて声が出なかった。
そして、こんな状態の自分に声をかけてくれたことが嬉しくて、余計に何も言えなくなった。
突然のことで驚きすぎている翔太の代わりに、少し離れた場所にいた望月が声を出した。
「ああ、伊藤さん達…」
「なにしてるの?二人してこんなところで…」
「ああ、えっとね…えっと…四葉のさ…クローバー…探してんだ…」
望月は、女子達に「四葉を探している」なんて男らしくない場面を見られたのが少し恥ずかしかった。
「…へぇ~、そうなんだぁ…」
訝しげな伊藤に、翔太はすかさず慌てたように続けた。
「…あっ…あっ…そうなんだぁ…ほら、この間さ…伊藤さんに綺麗なしおり見せてもらったでしょ?…それで、僕もあんなの作ってみたいなって思ってさ…そしたら、もっちーが手伝ってくれて…僕、ひとりだったら見つけるの大変だからって…それで…」
「…そうそう、翔太がさ…ある人にどうしてもプレゼントしたいって言うからさ…だから、俺も協力しようって思って…」
「…そうなんだぁ…」
慌てふためく翔太と望月にここにいる理由を聞いた伊藤は、一旦仲間の女子達とこそこそ話し始めた。
「何だろう?悪口言ってんのかな?」
望月が翔太の耳元で不安げにそう言うと、まもなく女子達が笑顔になった。
「じゃあさ…あたし達も一緒に探してあげる…」
「えっ!いいの?」
驚く翔太に、伊藤はにこにこと返した。
「うん、いいに決まってるじゃない…あたし達も友達でしょ?…それに、山口君、あたしのしおり褒めてくれたし…四葉が見つかったら、みんなで綺麗なしおり作ろう…だから、そうね…できるだけいっぱい四葉見つけなくっちゃね…うふふふふ。」
あれ以来、翔太は学校には誰も自分の味方になってくれるものはいないと思っていた。
自分はあれだけのことをしてしまったのだから、そうなっても仕方がないと諦めていた。
けれども、望月が再び友達として一緒にいてくれて、更に今、一部だがクラスの女子達が自分に協力してくれると言う。
みんなの温かい心に、翔太はまたちょっぴり涙ぐんでしまった。
人海戦術とばかりに、翔太と望月に女子達が加わると、案外早く四葉のクローバーがわらわらと見つかった。
職員室の窓から、担任の松野先生がにこにことみんなの様子を見つめていた。
松野先生は「よかったね、山口君」と心の中で呟いた。
暮れかけている空が綺麗なので、翔太は明日はきっともっといいことがあるかもしれないと思った。
次の日の放課後、翔太を始めとする昨日のメンバー全員で教室に残り、四葉のクローバーでしおり作りにとりかかかった。
丁度教室を訪れた担任の松野先生も、何故か一緒に作ってくれる運びとなった。
翔太は嬉しかった。
こんな風に和気藹々とみんなでおしゃべりをしながら過ごすのが、随分久しぶりのように思えたからだった。
それぞれが誰にプレゼントするか考えながら、一生懸命綺麗なしおりにしようと頑張った。
望月は途中慣れないカッターを使ったせいで、左手の指に切り傷を作ってしまった。
すかさず伊藤彩はランドセルから可愛らしいキャラクターがついた絆創膏を取り出し、望月の指に巻いて手当てした。
「あ…ありがとう…」
「いいえ、どういたしまして…えへへ。」
望月と伊藤は顔を見合わせると、途端に二人とも真っ赤になった。
みんなそれぞれ上手に仕上がると、「わ~い!」だの、「やったぁ~!」だの歓声が上がった。
翔太はもう一度あのおばあさんの分と、今度は母の分、それに望月の分も作った。
3つ全てに大きさを合わせた封筒と、小さなメッセージカードを添えた。
松野先生が用意してくれた可愛らしいリボンをもらうと、翔太はそれぞれに丁寧にかけた。
みんなも自分の親や兄弟などにあげようと、なるべく上手にリボンをかけた。
出来上がってすぐ、翔太は望月に封筒に入れたしおりを手渡した。
「えっ?これ、いいのかい?もらって…」
意表をつかれた様な顔で望月が翔太に尋ねた。
「うん!だって、この間、もっちーにもらったから…だから、今度は僕から…ありがとう、もっちー…」
翔太が望月にしおりを手渡すのを見た伊藤彩は、すかさず声をあげた。
「山口君、ずる~い!あたしも…あたしだって、望月君に作ったんだから…」
鼻息を荒くした伊藤彩はそう言うと、望月に綺麗な封筒を渡した。
「…えっ?えっ?…伊藤さん、いいの?なんで?」
「なんでって…そんなの…いいじゃない…」
望月は伊藤に肩をバシンと叩かれた。
「あっ…ありがとね…俺からは…ごめん…ないんだけど…今度…今度、ちゃんとお返しするから…」
戸惑いながらそう言うと、急にみんなが笑い出した。
松野先生は他の女子から、作ったばかりのしおりを4枚ももらっていた。
翔太は「いいのが出来た。」と思った。
「明日の土曜日、絶対に渡しに行かなくちゃ!今度は、上級生にとられちゃわないように、気をつけなくっちゃ!…おばあさんとお母さんも喜んでくれるといいなぁ…」
こんなに嬉しくて幸せな気持ちになったのは、久しぶりな気がする翔太だった。
にこにこと嬉しそうな顔の早起きの翔太に、早番の母は少々驚いた。
普段は起こしてもなかなか自力で起きられないのに、目覚ましにも頼らずこうしているのだから。
あれ以来、翔太の生活態度は随分と変わった。
いやいやながらの布団の上げ下ろしも、今は進んで母の分までするようになった。
以前の翔太なら、母に何度言われてもなかなか行動に移せず、だらだらしていることも多かった。
それは単にだらだらしているだけではないようにも見えた。
何かしら母の気が自分に向くように、構って欲しくて、自分を見てもらいたくてわざとだらけているような雰囲気もあった。
その他にも翔太は自分でできることを進んでやるようになった。
褒められたくてやっているといった感じでは、まるでない様子。
見違えるほどの変化に、母は嬉しいようなちょっぴり切ないような気持ちでいた。
本来ならば、子供なのだから子供らしく友達と遊んだり、勉強に励んだりしてもらいたいとも思っていた。
けれども、遊んでいる素振りもなく、母が仕事に行っている間、部屋の中がきちんと片付き掃除されていたり、洗濯をしてくれていたり、それが乾くと綺麗に畳んで衣装ケースにしまってあったり、時には子供でも電子レンジで作れる簡単でおいしいおかずを作っていてくれたり。
母にはまるで見習うべき手本のような生活に変わった翔太が、少し頼もしく思えた。
「お母さん、はい!これ…」
仕事に出かける前、翔太は母にあの封筒を渡した。
「何?これ…いいの?」
「うん!」
「…今、開けちゃってもいい?」
「うん…」
翔太は母の反応が気になると、少しだけトーンが下がった。
「どれどれ…何が入ってるのかなぁ?」
翔太の表情を伺いながら、母は少しおどけたような態度のまま、封筒を開けて中を見た。
「わっ!これ…翔太が作ったの?」
「うん!えへへへへへ…」
翔太は照れてモジモジした。
「うわあ、これ、四葉のクローバーじゃないの…見つけるの大変だったでしょ?…」
「あのね、もっちーとか女子が一緒に探してくれたの…」
「そう…そうだったの…翔太、上手に作ったねぇ…これ、綺麗だねぇ…」
「えへへへへ」
「そうだ!これ、お母さんのお守りにしよう!っと…いいかい?」
「えっ…うん…いいけど…そんなんだけど…いいの?ホントに…」
「いいに決まってるじゃないのぉ…だって、幸運の四葉のクローバーだもん!それに翔太が一生懸命作ってくれたんだから、これ持ってたら絶対にいいことある気がするもの…」
喜んでくれる母の笑顔に、翔太もつられて笑顔になった。
「じゃあ、いってくるね!…あ、そうそう、出かけるときは戸締りと火の用心しっかりね…じゃね、いってきまぁ~す!」
母が出かけた後、翔太もすぐさま渡すものを準備して、今日は歩いて出かけた。
外に出るとひんやりとした風が、ふんわりと翔太の体をすり抜けていった。
空を見上げると、夏よりも高く感じる薄青い色に、サラッとした薄い雲の線が出来ていた。
ふんふんと鼻歌交じりにあの家へ向かうと、あの金髪の女性が大きな麦藁帽を被り、首に白いタオルをぶら下げ、軍手をはいた手でしゃがみながら庭の草むしりの最中だった。
割れたあの窓は、もうすっかり元通りになっていた。
翔太は駆け寄ると元気よく挨拶した。
「おはようございまぁす…あの、あの…この間はお花受け取ってくださって、ホントにありがとうございました…ところで…あの…おばあさんの怪我の具合はどうですか?」
いきなり大きな声をかけてきた翔太にびっくりした女性は、一旦手を止めた。
「ああ、もう大丈夫だから…あんたも気にしなくていいから…」
気だるくそれだけ返すと、女性はふぅ~っと大きく息を吐き、首から下げたタオルで顔の汗を拭った。
「…あの…あの…」
「何?まだなんか用?」
もじもじしている翔太に、女性は素っ気無く返した。
「…あの…僕も手伝います…」
翔太は思いきってそう言った。
迷惑をかけたことを考えると、少しでも役に立つことがしたい、どうしてもそうしたいと思ったからだった。
「えっ?何?今なんて言ったの?」
「あの…僕、草むしり手伝います!」
「いいよ、そんな…いいから…あんたに手伝ってもらわなくても大丈夫だから…」
「あのっ!お願いします!どうか、僕にも草むしり手伝わせてください!」
女性のまん前まで進み出ると、翔太は両手をついて、地面に顔がついてしまいそうなほど深々と頭を下げた。
「ちょっ…ちょっとやめてよ…そんな大声で…ご近所の人が変に思うでしょ…」
女性は周りをきょろきょろ見渡しながら、翔太に釘を刺す形でそう言った。
「ごめんなさい…」
少しだけしょげた翔太だが、肩から斜めにかけていたカバンを後ろに回すと、女性の傍にしゃがみ黙ったまま両手で草をむしりだした。
「あ~あ~…全くぅ…しょうがないなぁ…」
「えへへへ」
呆れる女性に翔太はずるい顔で笑った。
二人は並んで草むしりをしながら、徐々に色々話し始めた。
「あんた…え~と山口君だっけ?下の名前は何ていうの?」
「翔太です…山口翔太…お姉さんは何て名前なんですか?」
翔太はこの家の人の苗字を全然知らなかった。
「えっ?あたし?あたしは北村雫…おばあちゃんは順子だよ…」
「…そう…ですかぁ…」
会話が進むと共に、庭の雑草も二人にどんどんと綺麗にむしられていった。
「…そういえばさ、翔太君さ、毎日お花持ってきてくれてたでしょ?」
「はい。」
「最初はさ、絶対に受け取ってなんかやるもんかって思ってたんだぁ…」
「…」
「だってさ、うちの窓は割るし、おばあちゃんに怪我させたし、許せないって…」
「…」
「だけどさ、翔太君、手と足にいっぱい切り傷作ってて、顔も真っ赤で汗だらだらかいてるの見たらさ、この子一生懸命花を摘んできたんだろうなぁって思ってさ…泣きそうな顔だったし…それで受け取ったことおばあちゃんに話したら…ありがとうって、怒るどころか嬉しいって喜んじゃってね…それで、あたしも翔太君がわざとやったんじゃないんだしって思えるようになったのさ…」
「…そうだったんですか…雫さん、ごめんなさい…僕、ホントになんてことしちゃったんだろう…」
雫の話を聞いた翔太は、改めて自分の起こしたことの重大さを噛みしめた。
「いたっ…」
翔太は草で手を切った。
「大丈夫?どれ…見せてごらん。」
怖いとばかり思っていた雫の優しさに、翔太は何とも言えない申し訳なさが込み上げ、手を切った痛さに紛れて泣いてしまった。
「あ~…これは痛いね…翔太君…もうやめてさ…中に入ろう!早く手当てしないと…ばい菌入ったら大変だから…ねっ…行こう。」
雫の後について、翔太は初めてこの家に足を踏み入れた。
中からおばあちゃんが出てきた。
「あらっ?雫…もう終わったのかい?」
「ううん、ちょっと手ぇ切っちゃったから…」
「えっ?だって、雫、軍手はいてるのに…」
おばあちゃんは不思議そうな顔で雫を見つめた。
「違うって…この子…翔太君が手ぇ切っちゃったから…ほら、翔太君、中に入って入って…」
雫に促されると、後ろで隠れるようにしていた翔太はひょっこり顔を出した。
「あの…こんにちはぁ…あの…あの…順子おばあさん、怪我の具合はどうですか?ごめんなさい…僕…あの…」
バツが悪いといった翔太は、おばあさんの顔色を伺うように顔を上げた。
「あらっ!あなた…」
やっと翔太が誰か気づいたおばあさんをよそに、「いいから入って入って!そういうのは後あと…先に傷の手当てしなくちゃ!」雫は翔太の腕を掴むと半ば強引な形で家に導いた。
外観とは打って変わって、中は洋風のおしゃれな造り。
案内されたリビングは観葉植物がところどころに飾ってある、シンプルながらもおしゃれな家具でまとまった部屋だった。
「そこに座って…と、その前にちょっと沁みるだろうけど、手ぇ洗おうか!ねっ!そうしよう…」
雫に連れられ洗面所で綺麗に手を洗うと、再びリビングに通された。
「そこに座って…」
翔太が丁度良い硬さの大きなグレーのカウチソファーに腰掛けると、救急箱を持った雫がすかさず手当てを始めてくれた。
「はい、これで終わり…まだ痛いだろうけど…しょうがないか…」
困ったような笑顔の雫に翔太は、「こんなの…順子おばあさんに比べたら…」と呟いた。
一瞬止まった雫は、申し訳なさげに俯いた翔太の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「まぁまぁ、お二人さん…草むしり大変だったでしょ?…今日はもういいから、まずはこれでも飲んでちょっと休んでちょうだいな…」
そう言いながら、台所から両手にお盆を持ったおばあさんが出てきて、ソファーの前のガラスのテーブルの上に、ジュースとおいしそうな焼き菓子を乗せた。
汗をかいたコップには、ブルーベリージュースが氷と一緒に入っていた。
解けた氷がカランと小さく涼しげな音を立てた。
お皿の焼き菓子は、マドレーヌだった。
翔太がこんな素敵なものをいただくのは、随分と久しぶりだった。
「さあさ、どうぞ!翔太くん…だったかしら?…どうぞ、召し上がれ…」
「わぁ…なんか、すいません…あの…いただきます。」
翔太は目の前にあるおいしそうなジュースを見ると、喉がからからに乾いていたことに気づき、すぐさまごくごくと飲み干してしまった。
「あらあら…喉、渇いちゃってたのねぇ…翔太君、おかわりする?ちょっと待っててね…」
「あっ、いい…おばあちゃんはそこにいて、翔太君の相手してて…あたし、持ってくるから…」
雫はそう言うなり、マドレーヌをひとつ口に銜えたまま、台所に行った。
「すいません…」
謝る翔太に、「いいのよ…そんなの…」おばあさんは優しい笑顔で翔太を見つめた。
何も話せず緊張したままだった翔太は、後ろに回していたカバンを思い出した。
おもむろにその中から辞書を取り出すと、そこに挟んだ封筒を静か出した。
みんなで作ったしおりが入った封筒は、折り目もつかず綺麗なままだった。
「あの…これ…よかったら…受け取ってもらえますか?」
翔太に差し出された封筒を、おばあさんは不思議そうな顔で受け取った。
「まぁ、何かしら?開けていい?」
おばあさんが封筒を開ける時、丁度のタイミングで雫がジュースの瓶を持ってきた。
ブルーベリーのジュースもマドレーヌも、どうやら手作りのようだった。
「え~、何なに?」
急かすように封筒に興味しんしんの雫は、おばあさんに寄り添うと二人一緒に中を覗いた。
「あらぁ…綺麗…これ、翔太君が作ったの?」
おばあさんは嬉しくて堪らない様子で、翔太に尋ねた。
「はい…」
「ホントだ、上手に作ったねぇ…四葉のクローバーなんて、探すの大変だったでしょ?」
今度は雫がにこにこしながら聞いてきた。
「…あっ…友達が一緒に探してくれたから…」
もじもじと返事をしながら、翔太の心は嬉しさでいっぱいになっていた。
「そう…ありがとうねぇ…あら、これ…」
四葉のしおり以外に、小さな手作りのカードが入っているのを見つけたおばあさんは、隣で寄り添うようにしおりを見ていた雫と一緒にカードに書いてある短い文を読んだ。
「早く怪我がよくなりますように。」
目で読み終わるとおばあさんは、目を擦るように涙を拭った。
「ありがとうね…ありがとう…翔太君…ありがとう…」
翔太は涙を拭うおばあさんの手が、包帯は取れているものの、まだ痛々しい傷が残っていることに気がついた。
「ごめんなさい…僕のせいで…」
そう言いながら翔太はおばあさんの横に並ぶと、おばあさんの傷跡が残る手を取り静かに撫でた。
「翔太君、もう大丈夫よ…傷は残ってるけどね、もう痛くないから…それよりもあなたの手の方がよっぽど痛そうね…可哀想に…」
おばあさんは翔太の頭を優しく静かに撫でてくれた。
開け放った窓のあちこちから、ふんわりと涼しく乾いた風が家の中に入り込んだ。
カララン。
沢山汗をかいたコップの中の氷が解けて、綺麗な音を立てた。
翔太と雫とおばあさんの3人は、穏やかで優しい時間を過ごした。
すっかりお邪魔したまま、翔太は二人と沢山話した。
おばあさんの順子さんは5年前に旦那さんを亡くしたそうで、それ以来孫の雫が同居してくれることになったと言っていた。
普段は昔着ていた着物をほどいて、バッグを作ったり、パッチワークしてカバーを縫ったりしているのが楽しいと教えてくれた。
孫の雫は、この家でおばあさんと一緒に暮らしながら、パソコンで文章を書いたり、イラストを描く仕事をしていると聞いた。
翔太は自分の身の上を話すのが、ちょっぴり恥ずかしいような気がした。
自分ではそんなことを思っていなくても、聞いた二人が「不幸な子」ととらえてしまわないか心配だった。
けれども、翔太の心配はまるで無用だった。
二人は「そうなのぉ…翔太君えらいねぇ…」とだけ言った。
「…あのっ…あの…僕、明日も草むしりに来てもいいですか?」
翔太の突然の申し出に、雫とおばあさんはきょとんと顔を見合わせた。
「あの…だって…こんなにおいしいジュースとお菓子、ご馳走になったから…ホントはそんなの駄目なのに…だから…だから、僕…」
「あはははは…翔太君さ…そんなの気にしなくたっていいんだよ…ご馳走になったから草むしりするなんて、そんなの別にいいからさ…ねっ…」
雫が笑ってそう言うと、おばあさんが続けた。
「そうよぉ…翔太君…あなた、まだ小さいんだもの…いつまでも気にしちゃ駄目よ…」
「でも…僕…どうしてもお手伝いしたいんです…本当は窓ガラスのお金だって、病院のお金だって僕が払わなくちゃいけないけど…僕、小学生だからって、新聞配達とかやろうって思って頼んだりしたけど断られちゃうし…だから…お金は用意できないから…せめて、何か僕にもできることしたいんです…お願いします…お願いします…」
翔太はそう言うと、床におでこが着くほど頭を下げた。
けなげに一生懸命頼む翔太の姿に、おばあさんと雫はしょうがないといった表情になった。
「…わかった…じゃあ、お願いするかな…それで翔太君の気が済むんならさ…別にかまわないよ…あっ、今日はもうやめよう…あたしも疲れちゃったからさ…翔太君、ゆっくりしていきなよ…もっといっぱい色んな話しようっか…ねっ…そだ、ボール…ちょっと待ってて…」
雫はそれだけ言うと、部屋を出て行った。
「…すいません…僕、勝手なこと言っちゃって…」
「いいじゃない…だって、あなたまだ子供なんだもの…それよりも草むしり、ホントにいいの?無理してない?」
優しいおばあさんに、翔太は元気よく「はい!やらせてください。お願いします。」と答えた。
それ以来、翔太は毎日のようにこの家に通うようになった。
訪問する度、翔太はどんな些細なことであろうと、進んでお手伝いを申し出た。
それが自分にできる唯一の償いだと信じて。
「翔太ぁ…火ぃ起こすからこっち手伝ってぇ~!」
「は~い!今行きまぁ~す!」
「あっ、翔ちゃん、あっちに行くついでにこれ持ってって…」
「はい」
庭から雫が大声で呼ぶと、翔太はおばあさんに頼まれた食器類をお盆に乗せてそうっと落とさないように庭に行くと、すぐさま雫の手伝いをした。
この家に通うようになって一ヶ月も経つと、翔太はすっかりこの家の二人と仲良くなっていた。
バーベキューの手伝いをしながら、翔太は嬉しくて堪らなかった。
雫とおばあさんのご好意で、学校がお休みの土曜の夕方、庭でするバーベキューに翔太と母も誘われたから。
こんな経験が一度もない翔太にとって、こんなにも素敵なお誘いは夢のようだった。
「…そだ、翔太ぁ…お母さん、何時頃来れるって?」
「…ええと…今日は早番だから…4時過ぎには来れると思うんですけど…」
「そっかぁ…じゃあ、もうちょっとだね…あたしさ、ちょっとお腹空いてきちゃったからさ…」
笑顔の雫に、翔太もにこにこが止まらなかった。
時計の針が4時を回ってしばらくしても、翔太の母はなかなか訪れる気配もなかった。
翔太は不安になり、何度も何度も家の前の道路に出ては、母が来るのを待った。
「…どうしたんだろうねぇ…まさか…なんかあったのかねぇ…」
「ちょっとやめてよ、おばあちゃん…翔太が心配するじゃないのさぁ…」
「あっ、ごめんね…翔ちゃん、お母さんは大丈夫だから…一緒に待っていようねぇ…そだ、小腹空いたでしょ?ちょこっとなんかつまんだら…ねっ?」
雫とおばあさんは不安で堪らない様子の翔太に、昼間焼いておいたクッキーを勧めた。
6時近くに通りの向こうから見慣れた人が、自転車に乗ってやってきた。
それは翔太の母だった。
「おかあさ~ん!おかあさ~ん!」
翔太が大きな声で呼ぶと、自転車に乗った母が片手を放して手を振ってくれた。
ようやく母が来てくれた嬉しさと同時に、どうして母が自転車に乗っているのか不思議だった。
我が家にあるのは翔太の自転車だけ。
母のはなかったからだった。
「はぁ~…ごめんごめん…遅くなっちゃってごめんね、翔太…」
慣れない自転車で息を少し弾ませた母は、翔太と一緒に玄関まで来た。
「はぁ~…すいません、遅くなっちゃって…それと翔太がいつもお世話になってます…ホントにありがとうございます…」
母は雫とおばあさんに深々と頭を下げた。
「いいえぇ…こちらこそ、翔太君にいつも沢山お手伝いしてもらっちゃって…すいませんねぇ…それよりも…ささっ、お腹空いたでしょう…あたし達もぺこぺこだから、早速バーベキューにしましょうか…ねっ…ささ…どうぞどうぞ…」
おばあさんに促され、母は翔太と共に庭に入った。
歩きながら、翔太は母に尋ねた。
「ねぇ、お母さん…あの自転車どうしたの?買ったの?」
母は少し困ったような顔をすると、言いにくそうに口を開いた。
「…うん…あそこのリサイクルショップで2000円だったからさ…あのね、お母さんね、今度から自転車で仕事に行こうかなって思ってさ…だから、車、売っちゃったの…ごめんね、翔太に黙ってて…」
「えっ!車、売っちゃったの?なんで?」
「…ああ、うん…だってさ、ガソリン代とかかかるから…それにアパートの駐車場もお金かかるでしょ?よくよく考えたら、うちにそんな余裕ないよなぁって思ってさ…いい機会だから、思い切って売っちゃおうって…お母さんももうちょっと痩せたいし、体力づくりも兼ねて…そうしようって…それだけ…」
あっけらかんと話す母の顔をじっと見つめながら、翔太はもう一度くどく尋ねた。
「ホントにそれだけ?そんな理由なの?」
「そうそう…それだけ…それよりもバーべキューなんて久しぶりねぇ…北村さん、今日はお招きくださって本当にありがとうございます…」
母はこの家の二人に笑顔で挨拶をした。
雫とおばあさんは母が車を売り払った本当の訳を何となく悟ると、ちょっぴり哀しげな笑顔になった。
翔太はまだ納得がいかない様子だった。
それでもみんなが揃ったので、早速バーベキューパーティーが始まった。
炭火で焼いたお肉や野菜、ベーコンなどの加工品のおいしさで、お腹が膨らんできた頃、翔太は台所にいる雫の傍に行った。
母とおばあさんは楽しそうに、話を続けていた。
「…ねぇねぇ…雫さん…雫さんってば…」
ひそひそ声で話しかけてきた翔太に、雫は驚いた。
「わっ!…なんだぁ、翔太かぁ…どした?なんか持ってくのあった?」
「…ううん、そうじゃないんだ…あのね…雫さん、お母さんどうして車売っちゃったんだろう?どうしてかわかる?…僕、わかんなくって…お母さんに聞いてもはぐらかされちゃって、ちゃんと教えてくれないから…雫さんなら、大人だからわかるかなって…ごめんね、こんなこと聞いちゃって…」
翔太の縋るような目に勝てなかった雫は、「もしかして…」の仮定で話し始めた。
「…う~ん…もしかして…だけどさぁ…なんてのか…う~ん…つまりさ…その…窓ガラス代とか、おばあちゃんの病院代とかを捻出するのに…じゃないかなぁ…」
翔太は雫が言った「捻出」の意味はわからなかったけれど、窓ガラス代とおばあさんの病院代と聞いて、ピンときてしまった。
「えっ!そんなぁ…そうだったんだぁ…どうしよう…僕のせいだ…」
ぶるぶると震えながらしゃがみこみ、両手で口元を押さえて泣く翔太の姿に、雫は「しまった。教えるんじゃなかった。」と思った。
庭にいる母に気づかれないよう、翔太は声を殺してその場で泣いた。
雫は翔太の横にしゃがみこむと背中をさすって慰めた。
「翔太…大丈夫…大丈夫だから…ねっ…もう泣かないで…翔太…ねっ…」
折角の楽しく美味しいバーベキューだったが、翔太はその後何となく沈んだままだった。
「今日はどうもご馳走様でしたぁ…ホントにありがとうございました…」
母は本当に清清しい笑顔で雫とおばあさんに深々と頭を下げると、隣で哀しい顔をした翔太も母に倣って深々と頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ、楽しかったわぁ…またいつでもいらしてくださいね…それはそうと…ねぇ、山口さん、もしね、もしよかったらなんだけど…夜勤の時、翔太君をうちに寄越してくださいな…子供一人で留守番なんてねぇ…淋しいだろうし、心配でしょう?…勿論、無理強いしてる訳じゃないのよ…ただね、こうして仲良くなったんだから…どうかしらって思ったのよ…」
おばあさんからの素敵な提案に、母も翔太も驚きすぎてすぐには何も言えなかった。
「…あの…でも…ご迷惑じゃ…」
申し訳ない気持ち全開の母は、嬉しい申し出だけれどどうしてよいかわからなかった。
「いいえ、全然…迷惑だったら、こんなこと言いやしませんって…ねぇ、雫。」
優しい笑顔のおばあさんは、話の続きを雫に託した。
「うん、かえって翔太が家に来てくれた方が、賑やかで嬉しいですよ…駄目ですか?あたしはすごくいいと思うんですけども…」
食い入る形で母に迫る雫に、母はふと翔太の方を見た。
「…翔太…どうする?お母さん夜勤の時さ、北村さんのとこにいてくれたら、お母さん安心だけど…翔太はどうしたい?」
大人達の会話を聞いていた翔太は、そうすることが最もいいと思うも、それだと何だか図々しいような気もして、なかなか返事ができなかった。
少しの間があいた後、翔太から返事があった。
「…あの…よろしく…お願いしたいです…その方がお母さんも安心するんだったら…僕はその方が嬉しいから…すいません…僕、ちゃんとお行儀よくしますから…お手伝いもちゃんとしますから…その…お願いします…」
両膝に両手をつけて深々と頭を下げてお願いすると、母も一緒に「それじゃあ…お言葉に甘えさせていただきます…お願いいたします。」と頭を下げた。
雫とおばあさんは大そう喜んでくれた。
それからは母が夜勤の時、翔太は雫達の家に泊まることになった。
古いアパートの部屋で、母がいないひとりぼっちの淋しい夜がなくなった。
10歳の翔太にとって、それはとてつもなく大きなことだった。
父と離婚したばかりの頃、母がいないことに慣れるまで随分時間がかかった。
特に夜勤の時など、ひとりで部屋にいるのが怖くて怖くて堪らなかった。
何度涙にくれたかしれない。
それが今では、知り合ったきっかけは嫌なものだったけれど、信用できる大人が見守ってくれている温かい家で、母との生活では食べたこともないようなご馳走やお菓子をいただき、翔太は言葉では説明できないほど幸せだと感じていた。
泊まる時以外にも、ほぼ毎日のようにこの北村家を訪れることが翔太の習慣となっていた。
母は母で翔太を北村家で預かってもらうことで、随分と気持ちが軽くなった。
運動会や学習発表会など学校の行事に母が来られないことを知ると、北村家の二人は母の代わりに学校に来てくれたりもした。
翔太はそんな学校でも、もうひとりでいることはなくなっていた。
四葉のクローバーがきっかけで、望月や一緒にクローバー探しとしおり作りをした女子達に加え、中島のグループに属していない男子なども徐々に仲間になると、翔太の周りには友達が随分戻ってきてくれていた。
中島はそんな翔太のことを許せなかった。
「…翔太…あいつ、おばあさんに怪我させたくせに…悪いことしたくせに…なんでだよ?…なんでもっちーまで、あんなやつと一緒にいるんだよっ…」
中島の中に面白くない気持ちが広がると、翔太の悪口や根も葉もない悪い噂をわざと流したりした。
そうして再び翔太をひとりぼっちにさせようと画策したのだった。
だが、どんなに酷い噂を流されようと、翔太の正直で一生懸命な姿を知ってしまっている面々は、中島達の行動をまるで無視して、翔太と行動を共にした。
クリスマスもお正月も母が夜勤だったこともあり、翔太は北村家でそれらの行事の日を過ごした。
翔太は、クリスマスには雫の手伝いでケーキ作りに挑戦したり、お正月を迎える準備の大掃除も手伝った。
母と二人だけの生活ではクリスマスもお正月もやらなかった。
というよりもやれなかっただけに、今回のそれら行事の日が翔太にとって心に残るほどの嬉しい日となったのは否めなかった。
母が夜勤の時、北村家でお世話になっていると、時々、父と離婚したばかりの母との生活を思い出した。
一昨年は北村家の窓を割ってしまったサッカーボールを、母の弟の要お兄ちゃんに買ってもらったけれど、クリスマスの日母が夜勤だったので、翔太は生まれて初めてひとりぼっちのクリスマスを過ごしたのだった。
大晦日から元旦にかけても、やはり母が夜勤だったので、翔太はひとりで朝から面白くもないお正月番組をだらだら観ていたのだった。
淋しさに耐えられず、死んでしまうような気持ちになった。
それが今回はどうだろう。
あんな形で知り合った北村家の雫やおばあさんと一緒に、美味しいご馳走を食べて温かい部屋で安心して過ごせたことが、翔太には夢のようだった。
真冬の凍てつく季節になったある日、北村家でいつものようにお手伝いをしたり、雫に勉強を教えてもらっていたら、不意に電話が鳴った。
その日、母は遅番。
翔太は晩御飯をいただいてから、迎えに来た母と一緒に帰ることになっていた。
「…はい、北村です…」
晩御飯の後片付けを手伝っていた翔太は、電話で話すおばあさんの声を薄っすら聞きながら妙な胸騒ぎを感じた。
こんな不思議な感覚は生まれて初めてだった。
皿を洗っていた雫は、すっかり手が止まってしまっていた翔太の様子がおかしいと気づくと、すかさず声をかけた。
「翔太、どしたぁ?大丈夫かい?…具合でも悪いの?…」
雫の声にびくっと我に返った翔太は、持っていたふきんで慌てたように皿を拭き始めた。
「…ううん…大丈夫…何でもない…ごめんなさい…ちょっとぼんやりしちゃった…えへへへへ。」
おどけた顔を見せると、翔太は再びせっせと洗ったばかりの食器を拭き始めた。
そんな時だった。
電話に出たおばあさんが、びっくりしたような大声を出した。
「えっ!…そんな…嘘…でしょ?…ええっ…そんな…そんな…」
動揺しているおばあさんに気づくと、雫が急いで電話を代わった。
「はい、お電話代わりました…はい…はい…えっ?…はい…はい…わかりました…すぐ一緒に連れて行きますから…はい…はい…はい…」
電話口に出た雫は険しい表情になると、すぐさま電話の横でメモを取った。
「翔太!…これからちょっと出かけるから…一緒に来て!いいかい?」
切羽詰ったような雫に促されると、きょとんとしたままの翔太はふきんで残りの食器を急いで拭き始めた。
「ああ、翔ちゃん…それはもういいから…雫と一緒に行って!ねっ…」
おばあさんは翔太からふきんを貰い受けると、優しく翔太の頭を撫でた。
「大丈夫…大丈夫だからね…あたし達がついてるからね…翔ちゃんはひとりじゃないよ…」
おばあさんの言葉の意味がわからないまま、青い顔の雫と共に翔太は車に乗り込むと、すぐに出発したのだった。
外灯のオレンジ色の光やよその家から漏れる僅かな明かりが、何となく幻想的に見えた。
すれ違う車のライトの眩しさで、一瞬目をつぶると、そこに笑っている母の姿があった。
「…お母さん…」
助手席の翔太が呟くと、運転している雫はぎょっとした。
「…どしたぁ、翔太ぁ…寒くない?大丈夫?」
「うん、寒くないよ…それより雫さんこそ、大丈夫?ブルブル震えてるみたいだけど…運転気をつけてね…僕だって乗ってるんだからさ…」
「…そだね…夜だし、気をつけなくっちゃね…ごめん…ちょっと焦っちゃって…ゆっくり行くね…ごめん、翔太…」
「何で?謝らないで…雫さん…そだ…あのね、さっき僕ね、眩しくて目ぇつぶったらさ、お母さん笑ってるの見えたさ…変でしょ?なんでかなぁ…いつもはこんなことないんだけど…そういえば、出かけちゃって大丈夫かなぁ?お母さんもう少しで迎えに来る頃だから…」
きょとんと不思議そうな表情の翔太を横目で見ると、運転している雫の目から一筋の涙がこぼれた。
「…翔太…もうすぐだからね…もうすぐだから…」
急かしている訳でもないのにどうして雫がそんなことを言うのか、翔太は静かに考えた。
電話の様子と慌てて出かけたことを考えてみると、「お母さんに何かあったのでは?」と思った。
だが、そんな予想を信じたくない。
「信じてなるものか。」と思うと、翔太はそれ以上何も話さず、ただ静かに車から外を眺めた。
どんどんと暗闇に吸い込まれていくように、翔太を乗せた車は街の中心部へ向かっていくのだった。
着いたところは救急病院。
大きな建物のそこは、近郊の街からも救急で受診しに来る人が大勢だった。
雫が受付で尋ねてくれると、自動販売機の傍で待っていた翔太の手を繋いで、看護士に案内されるまま見慣れない病院の廊下をすたすた進んだ。
「…雫さん…」
翔太は自分の手をぎゅっと握る雫の険しい表情に声をかけたが、それ以上は何も言えなかった。
一階の裏玄関の傍の部屋に案内された。
翔太は入る前、ふと部屋の名前が書いてあるプレートを見たが、幽霊の「霊」という字しかわからなかった。
沈みかえった薄暗いその部屋の真ん中に置いてあるベッドに、それを覆い被せるような形で大きな真っ白い布がかけられていた。
「…こちらです…」
無表情にも見える看護士さんは雫と翔太をその場に通すと、静かに部屋を出て行ってしまった。
殺風景な部屋に立ち込める重たい雰囲気に、翔太は嫌な予感しかしなかった。
白い布の中には、変わり果てた姿の母が仰向けで目を瞑っていた。
翔太はこれがどういうことなのか、理解できずにその場で棒立ちになった。
横で翔太の頭を撫で手をぎゅっと繋いだままの雫だけが、いきなり泣き崩れ大声を出した。
「…お母さん…死んじゃったんだ…」
頭の中でそれが理解できても、翔太はドラマの様に激しく泣くことができなかった。
目の前の現実を受け止めるだけの容量が、10歳の翔太にはまだなかった。
母は車にはねられ即死だった。
右折待ちの車を避けようとした車が、前方にいた自転車の母に気づくのが遅かったそうだった。
翔太と祖父母、要お兄ちゃんと雫とおばあさんだけの小さなお葬式の時、母が死んだ状況のを詳しく知った。
母をはねたのは、約一ヶ月前に免許を取ったばかりの男子大学生。
当然、はねた本人は警察に捕まったけれど、後からその親が翔太のアパートを訪れ、「私どもで出来る限りのことはしますから…」と、風呂敷に包まれた大金と高そうな菓子折りを置いていった。
大人達は行き場のない怒りと悲しみに暮れた。
翔太は気力を失い、ただ呆然としているだけだった。
事故当時、母が持っていたものを全て返してもらうと、お財布の中から翔太が作った四葉のクローバーのしおりが出てきた。
それを見た瞬間、翔太は母が事故で死んだのは自分のせいだと思った。
自分があの日、サッカーボールを蹴って北村さんの家の窓ガラスを割って、おばあさんに怪我をさせてしまったせいで、母は車を売って自転車で通勤していた。
あの日がきっかけで、穏やかだった日々が全部ぶち壊された。
ぶち壊したのは自分。
それまですっかり忘れてしまっていたような涙が、堰を切ったように翔太の目から次々に溢れ出した。
それは母が、綺麗な布に包まれた箱に入って翔太の元に帰って来た日のことだった。
しばらくは祖父母がアパートにいてくれた。
翔太も初七日が終わるまで、学校を休んだ。
母の死の衝撃が残る中、翔太は普段通り学校へ行くことにした。
本当は哀しくて哀しくてやりきれない気持ちでいっぱいだったけれど、休んでいる間に線香をあげに来てくれたみんなの励ましもあったから。
それより何より、母が学校へ行くことを強く望んでいると思ったから、哀しみを抱えた翔太の足は自然と学校へ向かうのだった。
教室でもっちーを始めとした仲良くしているクラスメイト達が、翔太を囲んで励ました。
だが、翔太を避けている中島達など一部のクラスメイトは、「母親が死んだのは、翔太のせいだ。」と心無い陰口を叩いた。
「やめろよ!」
我慢できずに望月が大声を出すも、「もっちー…いいんだ…いいんだよ…だって、その通りだから…」と翔太は望月の服の後ろを掴んで、今にも中島達に殴りかかろうとしている彼を全力で止めた。
力のない笑顔で学校生活をやり過ごしていた翔太だったが、下校途中、普段通りに雫達の家に寄ると、我慢していた哀しみが一気に溢れ出てしまった。
「…っくっく…雫さん、おばあさん…僕…僕…」
二人に会うのが随分と久しぶりのような気がした。
毎月ダンボールいっぱいに物を送ってくれていた祖父母とはあまり打ち解けていなかった翔太は、この家の雫とおばあさんの前ではつい甘えて存分に涙を流すのだった。
「…翔ちゃん…辛かったねぇ…」
ソファーに腰掛けたおばあさんは、膝の上に突っ伏して泣く翔太の髪をそっと撫でた。
「翔太…小腹空いてないかい?…これ飲んで、食べて元気だしな…ねっ…」
台所からお盆を持ってきた雫は、翔太が好きなパウンドケーキとブルーベリーのジュースを泣いている翔太に勧めた。
「…あ…ありがと…雫さん…ごめんね…いっつも…」
涙でいっぱいのまま気を遣う翔太は、差し出されたジュースを一口飲んだ。
「な~に言ってんの…子供が遠慮なんかするもんじゃないよ…」
への字眉の哀しそうな笑顔の雫は、翔太の背中をさすってくれた。
「…僕…これから…どうなっちゃうんだろう?…」
翔太がぽつりと呟いた。
雫とおばあさんは、それに対して何も答えることができなかった。
「…翔太はどうしたい?」
おもむろに雫が尋ねると、翔太は口に入ったパウンドケーキをごくんと飲み込み、ジュースで流した。
「…僕は…僕は…」
翔太はもごもごとそれを繰り返した。
本当は「この家に居たい。」と強く願っていた。
けれども、他人である雫とおばあさんがいくら良い人だからって、こうして仲良くなったきっかけが怪我をさせてしまったこともあって、翔太の願いは絶対に叶わないと確信していた。
「…わかんない…」
それが正直な翔太の気持ちだった。
「…そっか…そうだよね…」
沈んだ雫の言葉に、おばあさんも切ない顔でこくんと頷くだけだった。
ほどなくして、翔太は別れた父の元ではなく、母方の祖父母の家に引き取られることに決まった。
そうなると翔太は転校することになった。
本当はこの街で暮らしたい。
母と過ごしたこの街に居たい。
望月や他の友達と離れたくない。
そして何より、北村家の雫とおばあさんに会えなくなるのは嫌だ。
翔太の心はそう叫んだ。
だが、子供の翔太にはどんなにそれを叫んだところで、どうにもならないのだった。
母との生活で使っていた100円ショップで揃えた食器や、激安衣料品店で買った布団にリサイクルショップで集めた家電などほとんどが処分されると、祖父母の家に持っていくものは翔太のとりあえずの着替えや学習品、自転車にあのサッカーボール、それに大事な母の遺影と遺骨ぐらい。
祖父の車の乗せて運べるほどの、僅かな荷物にしかならなかった。
アパートを引き払い、いよいよ出発の午前中、雫とおばあさんがお別れの挨拶に来てくれた。
「翔ちゃん、体に気をつけてね…それと、いつでも遊びにいらっしゃいね…私達、待ってるからね…」とおばあさん、「翔太、元気でね…また、バーベキューやろうね…手紙ちょうだいね…あたしも書くからさ…」と雫がそれぞれ翔太の頭を優しく撫でた。
翔太はぐすんと鼻をすすると、無理したぎこちない笑顔で「約束する…また絶対に来るから…」とだけ言った。
二人との名残惜しい別れが終わった頃、「郊外学習」との名目で松野先生を先頭にクラスのみんなもやって来てくれた。
「山口君、淋しいけれど、あちらでも頑張って下さいね。」
松野先生がそう言うと、すぐさま後ろにいた望月が喋りだした。
「翔太!これっ!…みんなで書いたんだ…あっちに行っても、ずっとずっと友達だからなぁ…」
望月が差し出したのは、色紙に寄せ書きしたものだった。
「山口君、これもあげる…みんなで作ったの…持ってって…」
伊藤彩が翔太の前に差し出したのは、手作りのアルバム、表紙には四葉のクローバーが貼ってあった。
渡されてすぐにぱらぱらっとアルバムのページをめくると、3年生から4年生の色んな行事の写真だった。
「ありがとうございました…僕…僕は、大丈夫です…みんなも元気でね…」
袖口で涙を拭うと、翔太は車に乗り込んだ。
窓を開け望月と握手すると、翔太を乗せた車は静かに発進したのだった。
三学期も終わりに近づいた頃、翔太は思い出がいっぱいのこの街を後にした。
祖父母と一緒に暮らし始めた翔太は、徐々に元気を取り戻していった。
新しい学校にはすぐに馴染めて、仲が良い友達も数人できた。
毎月決まった日に、母を死に至らしめた大学生の親から翔太に、いくらかのお金が送られてきた。
皮肉にもそのおかげで翔太は、サッカー教室に通うこともできた。
中学、高校と順調に過ごした翔太は、大学で偶然にも望月と再び出会うことが出来た。
手紙ではやりとりをしていたものの、それもだんだん頻繁ではなくなっていたので、この再会は翔太にとっても望月にとっても嬉しいという言葉だけでは足りないほどだった。
同じ大学に通っていることを知った二人は、長い夏休みの間、海外の貧しい子供達に文房具やボールなどを届けるボランティア活動に参加した。
それは決して就職を見越したものではなく、かつての自分のような子供の為にという翔太の強い希望からだった。
「…なぁ、もっちー…これさ、こっちに来る前見つけたんだぁ。」
そう言うと翔太は望月にリュックから出してきた2枚の紙を広げて見せた。
「え?なに、なに?」
「ほら、これ…懐かしいだろぉ…」
翔太が広げて見せた紙は2枚の古い原稿用紙。
その右端には小学生らしいお世辞にも綺麗で見やすいとは言えない文字で、「ハーフ成人式。10年後の自分へ」と書かれてあった。
「あ~、懐かしい~…そういえば、そんなの書いたっけか…あははははは。」
翔太が転校する前に授業で書かされた未来の自分への作文だった。
「ああ、俺…何書いたっけかなぁ…」
嬉しそうな笑顔で望月は翔太の作文に目を通した。
その内容は、自分が蹴ったサッカーボールでよその家の窓ガラスを割ってしまい、その家の人に怪我をさせてしまったことから始まり、それまで自分のことしかまるで考えていなかったことの反省とこれからは怪我をさせてしまった人や母や友達への謝罪と、将来自分のような子供達を元気にさせてあげたい。などが書かれていた。
「…ああ、そっか…だから…お前、これにどうしても参加したいって…ああ、そういうことだったのかぁ…」
望月は翔太がこのボランティア活動に参加することを強く望んでいた理由が、ようやくはっきりとわかったのだった。
「…お前さ…あん時と変わんないね…」
「そうかなぁ?もっちーだって、全然変わんないよ…相変わらず男前だもんなぁ…」
「あははははは…な~に言ってんだか…」
「あはははは…でも、こうしてさ、作文に書いたことが実現できてさ…僕、すんごい幸せだよなぁって思うんだぁ…って、ちょっとかっこつけちゃった?あははははは。」
「そんなことねえよ…翔太は昔っから、すげぇいいやつだ!それだけは本当だ!俺が証明してやるよ!なぁんてな…あはははははは。」
日本から沢山の物品を持って、郊外の街の小学校を訪れるトラックの荷台に乗り込むと、翔太は自分達を待ってくれている顔も知らない子供達が喜んでくれるだろうかとあれこれ考え、わくわくが止まらなかった。
じっとりとべたつく、日本とはまた違った暑さのここで、時折感じる風は妙に涼しく心地よかった。
全く整備などされていない凸凹道を進み、もうすぐ街が見えてくる頃、不意に横から考えもしなかった銃撃にあった。
「安全」なはずの場所で、思いがけずゲリラに遭遇した一行は、街に着く前にその場で足止めをくってしまった。
トラックの奥にいた望月は、翔太が流れ弾に遭い荷台に倒れこんできたのを、慌てて受け止めた。
「翔太!翔太!しっかりしろって!翔太!翔太!…頼むよ…翔太…おい!嘘だろっ!なぁ、さっきまでお前、元気だったじゃねぇかよぉ!なぁ!翔太!翔太ってばよ!」
望月の腕に抱かれながら、翔太はぼんやりと夢を見ていた。
それは自分がまだ母と一緒にあのアパートに住んでいた頃。
急な事故で母がどんな声だったか思い出せなかった翔太は、今、やっと母の声を思い出していた。
「翔太…翔太…」
夢か現実か区別がつかないまま、薄れゆく意識の中で翔太は母を呼んだ。
「…お…おかあ…さん…おかあ…さん…」
血だらけの翔太がぼんやりとそう呟くと、望月がすかさず大声で叫んだ。
「翔太!翔太!しっかりしろって…もうすぐ助かるから…なっ…翔太…翔太ぁ…」
「…あっ…もっちー…なんか…寒い…ね…なんでかなぁ…」
望月の声にようやく反応した翔太は、震える声で小さく言った。
「翔太ぁ…目ぇあけてくれよぉ~…翔太ぁ…翔太ぁ…」
寒さがまるでなくなると、翔太の心も体もなんだか軽く楽になった。
すると目の前にパーッと眩しい光が見え、その中に母の優しい笑顔があった。
「…あっ、お母さん…」
久しぶりに会う母は、あの頃とちっとも変わっていなかった。
「…僕…ずっと会いたかったんだよ…」
翔太がそう言うと、母は「そう…ごめんね…これからはずっと一緒ね…」と言った。
山口翔太は異国の地で、20歳の生涯を終えた。
冷たくなった翔太と共に日本に戻った望月は、祖父母に翔太の荷物を返した。
中にあった財布の中に、望月が作った四葉のクローバーのしおりが大事そうに入っていた。
それと一緒に一切れの紙が出てきた。
どうやらそれは翔太が日本を出る前に書いたらしい、「もしも」の時の遺言だった。
「万が一、僕が死んでしまったら、僕の荷物を全部使ってくれる人にあげて下さい。誰かの役に立つのなら、その方が嬉しいから。」
祖父母と望月はそれを読むと、声を出して泣いた。
翔太が死んだ知らせを聞いた北村家の雫とおばあさんは、庭に一本の木を植えた。
それは翔太が大好きだったブルーベリーの木。
あれからもまだあの家に住んでいる二人は、ふと空を見上げた。
空は青く澄み切っていた。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
誤字など多々あるかもしれませんが、どうか温かい目で見守っていただけたら幸いです。




