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「大隈くん、私たち別れましょう」と鹿島さんが言った
今日は日曜日の午前中の喫茶店、天気は晴れ、いつもの鹿島さんとの流れでは今からどこへ行くか予定を決めてデートするはずだった。しかし、今は目の前で真剣な表情で僕の返事を待っている彼女がいた。
「なんで? 僕何か悪いことしたかな?」
僕の質問に対して彼女はすぐに答えず、ただまっすぐに僕の瞳を見つめた。
「いえ、あなたはとても優しいし、とても助けてもらったわ……あなたは何もしていない……何もね」
そう言われて他の可能性について僕が口にしようとすると、彼女は口を開いた。
「他に好きな人ができたとかではないの、あなたのことは今も好きだし感謝しているわ……でもね大隈君? 私たち初めて知り合ってからもうどれくらいになる?」
「もうすぐ二年だよ」
「そう、もうすぐ二年よね? あなたと出会った頃の私は酷い状態だったけどあなたのおかげで立ち直れて、その後も支えてくれて、励ましてくれて、やりたかった今の仕事も軌道に乗り始めたし、とても感謝してるわ、感謝してもしたりないくらいよ……ねぇ? 大隈君いきなりと思うだろうけど本当に私のこと好き?」
こちらの重い雰囲気を感じたのか、隣の席のスーツのサラリーマンが新聞に向けていた視線をチラチラこちらに向けてくる。
「もちろん好きだよ」
「ありがとう 信じるわ、でもね……大隈君私たちまだ一度も一緒に寝ていないわよね?」
「それはタイミングというか……気分の問題だよ」
彼女の表情を見れば誤魔化しは逆効果だとわかっていた。その上での言葉だった。
「大隈君別にホモとかではないわよね? パソコンの中にちゃんと健全な画像がいくつもあるの私知っているのよ? 一時期すっごい悩んだんだから! 私に魅力がないのか、それともEDなのか、他に女の人でもいるのかって、だって私の方から誘っても、あなた全然その気も見してくれないんだもの」
「ちょっとそういう話はここでは……」
「で 私気づいたの」
彼女はこちらの話を聞いてくれるつもりはなさそうだ。
「大隈君 私のことじゃなくて、ただ可哀想な私が好きだったのね? 目の前に疲れて全部が嫌になってどうしようもなくて……そんな人がいたから助けた。それがたまたま私だったってだけ。そうでしょう?」
「いや、違うよ僕は君のことが……」
「嘘よ! だってあなた私が別れましょうって言ったとき、ちっとも動揺しなかったじゃない! 今だってまるで義務みたいに私をひきとめようとしているだけ……」
彼女が声を荒げ店中の人間が僕達に神経を集中させているのがわかる。隣のサラリーマンは新聞を手に持っているだけでとうとう視線を僕たちへ向けっぱなしになっていた。
「別にバッサリと別れたいわけではないの、少し距離を置きたいだけ、これからはいい友達として接していきたいの。私としてもつらいときに助けてもらって順調になったから用済み、みたいにしたくない。なんなら私の友達の女の子を紹介するわ、大隈君は私の恩人だもの」
彼女は問いかけるように首を傾けたが、それに対し僕は何も答えなかった。
ようはこれは儀式みたいなものなのだろう、たとえ僕がいま何を言おうとどれだけ謝罪しようと、彼女の心は変わらない。
それはきっとずっと前から決まっていたことなのだ。
「……変なことをいったわね、ごめんなさい私はただ自分に言い訳がしたかっただけかもしれないわね。あなたに女性を紹介しても、そんなの何も意味がないのはわかっているのに」
その言葉を皮きりに彼女は席を立った。
「本当にごめんね、大隈君。本当はもっと穏やかに話そうと思っていたの、でも私いまちょっと本気で怒ってる、だってあなた私が何言っても顔色ひとつ変えないんだもの、何だか私一人だけ熱くなっているみたいでバカみたいじゃない。」
彼女はバッグを肩にかけ椅子を席にしまった。その時、乱暴に響いた音は彼女の心を表しているらしかった。
「それとね、他に好きな人がいないって言ったけど、あれ半分嘘なの、会社の人にこの前プロポーズされたの、ちょっと年上だけど真面目な人よ、私OKすることにしたわ」
そして彼女は最後に呆れたように僕の顔を見つめた。僕から言うことは何もない。彼女は一つ小さな溜息をついて別れの言葉を告げた。
「さよなら、大隈君」
彼女が去ってしばらく、僕一人に店中の憐みや好奇の視線が注がれた。
「フム」
僕はすっかりぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、そう呟いてみた。別に余裕ぶりたかったわけではない。ただ今の僕のこの気持ちによると、この心境によると、彼女の言っていたことはどうやら全て正しかったようだ。
なぜなら、僕は彼女に別れを告げられても何も感じなかった。彼女との別れは僕の心という池にさざなみさえ起こさないようなものだったのだ。確かにさっきまでは彼女のことをちゃんと愛していた……つもりだったが、どうやら勘違いだったようだ。僕は彼女と出会ってから彼女の幸せを第一に願って生活してきた。それだけは誰が何と言おうと確かだった。でもそれはその時の彼女が決して幸せとは言えない状態じゃなかったから……不幸だったからだろう、そして彼女はその状況にあがいていた、がんばっていた、僕はただそれを見て力になりたいと思い、応援したいと思い、実際に行動し続け、彼女は今全てにおいて充実した生活を送れるようになった。
でも僕は実際、彼女を幸せにしたいとは思っても一緒に幸せになろうという気持ちは最初からさらさら無かったのだ。僕は彼女が他にいい人がいるといった時、安心と喜びを感じさえした。僕がいなくても彼女は大丈夫だろうと。これからも幸せだろうと、きっとその男性は僕なんかよりさらに彼女を幸せにしてくれるだろうと、今度はちゃんと二人で一緒に……
これでは確かに僕の今までの気持ちは愛とは呼ぶことができても、異性間の恋愛とはとてもじゃないが呼べやしない。現に幸せになり僕の元から去って行った彼女は僕の中でかなり優先順位が下がってしまっていた。
(今日、これから何しよう?)
残念ながら彼女の僕の心を占める割合はその程度だったようだ。しかし、同時に今の僕にはハッキリと頭に思い浮かべることができる。
今の会社で成功を収め、その男性と幸せに過ごし笑っている姿が……
つい鼻歌を歌いだしそうになるのを我慢する。いくらなんでも女性に振られた後で鼻歌を歌いだすのは周りからすれば随分気味が悪いことだろう。席に残った伝票を手に取り喫茶店を後にしようとする直前、さっきまで隣にすわっていたサラリーマンが声をかけてきた。
「いいことあるよ」
僕はどんな表情をすればよいかわからないまま、とりあえず礼を言った。
「ありがとう」
この感謝の言葉はさっき彼女に言うべき言葉だったと思った。