わたしはあるじ様の、最後の夢を守りたいのです
わたしのあるじ様は、とても心の清らかな方だ。
あるじ様は、とても心がお優しいのだ。
相手を心の底から慈しみ、愛することができる聖女のようなお方なのだ。
そう――。
愛した人のために、自らに謂れ無き罪の衣を纏わせて、合法的に消えてしまうことを望んでしまうほどに。あるじ様を異国、異世界より誘拐したこの国のために、そこまでするほどに。
愛した相手に与えてしまった絶望の味に、心を粉々に砕いてしまうほどに。
わたしのあるじ様は、コトハ様は、とても素晴らしいお方なのだ。
■ □ ■
わたしが暮らしているこの国は、数年前まで第一王子や第二王子と第五王子の間で、王位を巡った闘いが繰り広げられていた。他国王女を妻にした二人の王子の背後で動く奥方の生家の皆々様と、この国を彼らの手から守ろうとする第五王子の間でのはかりごとの応酬だ。
男爵家の次女だったわたしは、その頃からずっと王城で女官をしている。
しかし長年騎士を務めた亡き父の手ほどきを受けていたので、表向きはただの女官でも実質はあるお方をお守りする護衛なのだった。それこそがコトハ様――第五王子の『元』恋人だ。
コトハ様は、元は女学生だったのだと聞いている。
コウコウセイ、というらしい。
女子なので、ジョシコウセイ――というのだそうだ。
彼女の世界では年齢ごとに通う学校が変わり、その都度、学ぶ内容も変化するという。単純かつ乱暴に言うなら難しくなるのだと、コトハ様は宰相様に申し上げていたそうだ。
コトハ様はこことは違う世界より『誘拐』された。
まだ未婚だった第三王子が、泊をつけるために異世界の巫女だの御使だのと言いながら。
しかし呼ばれたのは華奢な少女で、とてもそんな雰囲気はなく。しかもお好みではなかったらしい第三王子は、彼女を城の離宮に閉じ込めてこのわたしを世話係にしたのだ。
そんな、帰れない場所に連れて来られた上にぞんざいにされて、なお、コトハ様は心のお優しい方だった。貴人の世話などしたことがないわたしを、とても慈しんでくださった。
あぁ、この方が聖女ではないなら誰が!
わたしはそう思い、どうにか彼女に幸せを届けようと誓った。
そんな折、コトハ様はあるお方に出会ったのだ。
それが第五王子のソールクレイ殿下。
わたしと同じ男爵家の令嬢だった母君より生まれ、五番目ということもあって王子など名ばかりのような扱いをされていた、しかし才女と呼ばれた母君のようにとても聡明なお方だ。
この人こそが、次の王になられたらいいのに。
直に話をした相手なら、そう思ってしまうほどに立派な方だ。
しかし大国から妻を得た第一王子や第二王子といった兄らを前にして、そして同じような身分の母を持っている彼らがいる限り、あの方が真に輝く日などきっと来なかっただろう。
そんな日陰者同士、お二人はとても親しくなった。
といっても、殿下はその御名を名乗りはせず身分を伏せていらっしゃったが。
コトハ様はとてもお優しい方だが、王族にはあまりよい感情がなかったらしいのだ。だからせっかく仲が良くなったのに、とわたしが要らぬおせっかいを口にした結果である。
思えばこれが不幸の始まりだったのだが、当時のわたしは自らを褒めていた。
だってコトハ様は王族の皆々様にとっては用済みなのだ、ここでソールクレイ殿下が身分を引き換えに彼女を求めれば、きっと誰もが喜んでどうぞどうぞと言うに違いないのだから。
しかしソールクレイ殿下は、そんな無責任なことはできないお方。
彼はある夜、突然コトハ様を訪ねてこういった。
『この国を正しい道に戻したら、君を迎えに来たい』
それは、ずっと日陰で佇んでいた王子が、国と王座を『守る』ために立ち上がった瞬間。
彼は他国の声をそのまま吐き出すばかりの兄らを、次々と追放していった。詳しいことを城にいたわたしは知らないのだが、内戦スレスレまで行ってしまったのだと聞いている。
そうして半年ほどかけて、国はやっと膿を吐き出したのだ。
次に浮かんだのは世継ぎの問題だった。
第一、第二、といった王子は国外追放となっていて、今はそれぞれの妻の実家に身を潜めているという。第三はおそらく兄のどちらかに謀殺、第四は別の小国に婿へと婿入り済みだ。
何人かいた王女らも嫁ぎ済みで、追放された王子らの子に継承権などない。
つまり、ソールクレイ殿下はすぐにでも結婚し、子をなしてもらわなければいけなかった。
ここで問題になるのがコトハ様だ。
元は第三王子が『いきなり城に連れ込んだ他所の国の女』で、すぐさま非難のやり玉に上げられてしまった。間諜、つまりは他国に情報を流しているのではないか、というものだ。
ソールクレイ殿下はそれを突っぱね、彼女を妻にすると言い続けて。
だからこそ、矛先は次第に直接コトハ様に向けられて。
『異世界から来たというのは嘘。他所の国から、この国の情報を手に入れるために来たの。本当に好きだったのは第三王子の方。あなたなんてどうでもいいんだから』
コトハ様は、自分を騒乱以降に初めて尋ねた殿下に向かって、そう言ったのだ。
わたしは、そして宰相様は知っている。全部嘘なのだと。わたしはダテに貴族の娘ではないから彼女が嘘を付いているかどうかはすぐにわかるし、そもそも仮にそれが真実だとしてもコトハ様は離宮から一歩も出られない生活だった。そして彼女が異世界出身であると、宰相様はよくご存知である。なぜなら召喚の儀の折、宰相様はそこに居合わせたからだ。
だから全部嘘なのだ。
殿下を騙していたという言葉も、愛していたのは第三王子だというのも。
全部虚言なのだ。
ただ、ただ、この国を背負って立たねばならない若い恋人に、それにふさわしい身分を伴った人を沿わせるためだけに、王子が護身用に持ち歩く剣で、その場で切られることも厭わず。
結果をいうなら、ソールクレイ殿下はそれを信じた。
最初は疑っていたけれど、否定していたけれど、コトハ様の迫真の嘘は、虚飾が渦巻く上流社会で野心と願いを抑えつつも、水面下で味方を募ってきたあの殿下すらも騙してしまって。
たった一人、愛した人に裏切られた殿下は、わたしから見てもわかるほどに、深く深く絶望なさった。当然のこと、お二人が真剣に愛し合っていたのは、何を語るより明らかだった。
だからこそコトハ様は心にもない虚言を吐いて身を引こうとし、それを聞いた殿下は深い絶望の果てに復讐をしたのだ。このわたしを、そして宰相様をも利用して。
簡潔にいうと、殿下はコトハ様にこういったのだ。
わたしと宰相様を処刑した――と。
これも虚言、でまかせだ。わたしはここにこうして生きているし、宰相様も未だに混乱が消えない国政をまとめようと必死になっていらっしゃる。だけど一ヶ月、わたしは実家に帰されてしまっていた。それもご丁寧に、屈強な近衛騎士に連行される形を持って、だ。
そして囁いたのだという。
――二人はお前の罪をかばって、自ら断頭台に登ったぞ、と。
自分だけが消されることをコトハ様は望んだ。自分という異分子が消えてしまえば、この世界は正しくなる。自分がいるからこうなったのだと、彼女は常々嘆いていた。そんな彼女に対してわたしや宰相様の『死』は、想像もできないほどの衝撃を与えてしまったのだろう。
殿下はうつろな目となり、呆然として物言わぬコトハ様を、今いるところより更に奥にある離宮に追いやった。ここは渡り廊下から屋根が見える、目障りである、と言って。
それから――世間では四つの季節が三周して。
十七歳のコトハ様が、二十歳。
コトハ様の故郷においては、成人と認められる年齢となっていた。
されどあの日を境に自壊してしまったコトハ様は、今も元に戻らない。
悲しいのは、本人がきっとそれを望み、現状に喜んでいることがわかること。
だってわたしは生きているし、宰相様も無事。殿下は、まもなく奥方をお迎えになられると同時に即位をなさるというし、コトハ様自身は完全に世界から切り離されている。
そう、彼女が望んだ通りになったのだ。
一人の、若く、あるいは幼かった少女の嘘の元に、この国は平穏を享受していた。
そして今日もコトハ様は、静かに『ルク』という恋人を待っていらっしゃる。その方が自分をこの牢獄から出してくれると信じて、静かに縫い物などをして待っていらっしゃるのだ。
今日は来ないのねと、寂しそうに笑いながら。
コトハ様の時間はあの日に戻ってしまったままだ。迎えに行くと言い、国のために剣をとって兄らとの戦いに赴く前の夜。ルク、と名乗っていた殿下が去った次の日以降のままだ。
彼女は当然、自らが恋人だと思っている相手が、王子だとはしらない。もうすでに終わった関係であることも知らない。彼が自分ではない相手と結婚し、永遠に迎えがないことだって。
だけど、わたしはそれを死んでも口にできないのだ。
彼のことを話すコトハ様が、あまりにも幸せそうに笑うから。
せめてその小さな、最後に残された欠片のような夢を、守りたいと思ったのだ。
わたしは両親との縁を切ることも覚悟で、コトハ様のお世話を続けると決めている。宰相様もいつか、せめてもっと別の離宮に移せないかを進言していくつもりだという。
日陰の日陰に追いやられても、わたしの仕事は忙しい。
コトハ様の夢をお守りするというのが、今のわたしの役割だ。
もう二度と、貴族のオバカどもをここには近寄らせたりしないし、奴らが口にするどうでもいい話をあのお方のお耳になど、一片、一音たりともけっして入れたりするものか。
宰相様がそれとなく防いでくれることもあって、この数年は穏やかそのもの。
このまま、宰相様の言うとおりにどこか遠くに追い出してくれないか。
それがわたしの、今の願いだった。
時折、様子を見に来てくださる宰相様も、それは同意見のようで。
「我々は、コトハ様の犠牲に報いらねばならない」
「宰相様……」
「年端もいかない少女を『踏み台』にソールクレイを立ち上がらせた。そして彼女が自ら犠牲となることを決断した結果、彼は新しく立ち上がるこの国の王妃となるべきものを選ぼうとしている。彼女はとても聡明だ――だからこそ、俺は彼を支え、国を建てなさねばいけない」
そうでなければ意味が無いのだと、宰相様は言う。
平和な世界で生まれ育ち、そこで生きて死ぬはずだった一人の少女。コトハ様が自分を犠牲にすることを決断した夜をわたしは知らない。どんな思いだったのかを尋ねることも不可能。
でもきっとそれは愛に違いないのだ。
残酷なほど深い、重い。
それはきっと永遠に殿下には届かないのだろう。
届くことを、コトハ様は望まない。殿下はそれでもお優しい方なのだ。虜囚のコトハ様のために立ち上がったことは、それが最後のひと押しになったとわたしだって知っているのだ。
だからわたしも宰相様も、それを口にすることはない。
もしも自分が彼女の嘘に踊らされ、望まれたとはいえ彼女を壊したなんて。
――わたしの中に、殿下への恨みが無いとはけっして言えない。
だけど、あの人がいなければこの国が終わってしまうことはわかっているのだ。だから個人的な感情を飲み込んで、それがコトハ様の願いだからと気付かれないようにするしかない。
「コトハ様は、本当に殿下を愛していらっしゃったのですね」
もう届かないけれど、今の姿を見ているとつぶやかずにはいられない。
それを、殿下が聞いていたなど思いもしないで。この時のわたしは、きっと慢心と油断があったのだろうと思う。宰相様も、気が緩んでしまっていたのだろうと思う。
そしてそのツケはすぐに支払わされた。
わたしはまた近衛騎士に連行され、宰相様は強制的な休暇を取らされ。
――その間に、離宮の主は連れさらわれたのだ。
「離宮の住民ならば、王の所有物だろう」
そんな暴論を振りかざした権力で、引きずり出されてしまった。
■ □ ■
宰相様を先頭に、わたしは城の奥に向かう。
あるじ様が、コトハ様がいなくなったと気づいたのは、知り合いがそれとなく入れてくれた連絡のおかげだった。ほぼ同時に宰相様が屋敷を訪ねてきて、わたし達は城に向かったのだ。
だけど向かう先は王やその家族が住まう場所。
仕えている人々も、選びぬかれた者ばかりで――宰相様といえど、おいそれとは立ち入ることが許されない場所だった。しかしそんなことを言っている場合ではなかった。
押しのけるように、押し通すように、宰相様が廊下を進む。
わたしは、それを追いかけるだけだった。
ぎゅう、と握りしめるのは首からお守りのようにぶら下げているペンダント。コトハ様がああなってしまってどうすればいいかわからないわたしに、宰相様がくださったものだ。
シンプルだけど綺麗で、いつも身につけている。
――つけていると、宰相様が嬉しそうにしているから、という理由はまだ秘密だ。
もう自分の身体の一部となったそれを、わたしは痛いほど握りしめた。殿下の狂気と、そして怒りは恐ろしいもので。あれがまたコトハ様に向かうのではと思うと震えてしまいそうだ。
目の前を宰相様が歩いているのに、足から崩れていきそう。
歩けない、と弱音を吐いてしまいそう。
だけど握りしめたその硬さが、渡された時のはにかむような宰相様の表情が。それを見てよかったねと言ってくれたコトハ様の笑顔が。次々と浮かんで、わたしの足を動かした。
そうこうするうちに、わたしと宰相様はある部屋の前にたどり着く。
ひときわ立派で大きい扉を、壊さんばかりに押し開けば。
「……コトハ、様」
荒れ果てた部屋、その中央に。
自分より一回り以上大きい身体つきをしているその人を抱きしめ、子供のにするように頭を撫でているコトハ様がいらっしゃった。その服は見るからにボロボロで、もう使いものにならないくらいに破けているし、何か乱暴めいたことをされたのは一目瞭然だったのに。
その人を、殿下を、優しく撫でるコトハ様の表情は、とても穏やかで。
隠し切れないわたしと宰相様の怒気は、ふっと溶けるように消えてしまった。
「私ね、何も思い出せないの」
あの日『ルク』が訪ねてきた夜の次の日からのことを、何も。
あれから何があったのかも、何があって記憶が巻き戻ってしまったのかも。何となく何かあったのだろうと思うけど、だけどやっぱり思い出せない……そう、コトハ様は続けて。
「私が好きなのは、『ルク』なの」
ぴくり、と殿下の身体が震えたような気がした。
怯えるように、そう、さっきまでわたしがペンダントを握りしめ縋ったように、殿下はコトハ様の身体に絡めた腕に力を込める。強く握られたコトハ様の服が、深いシワを刻んだ。
「結構……何だろ、ひどい目にあったんだけど」
なぜだか嫌いになれなくて、とコトハ様は苦笑をこぼし。
「あなたはちょっと怖いけど、今はまだ怖いっていう思いが強いけど、もしもあなたが私を迎えに来てくれると言ったあの『ルク』なら、だったら私はあなたを愛しているわ」
その優しい声に、小さな、引き絞るような泣き声が返った。
■ □ ■
数カ月後、若き王ソールクレイは黒い髪の、美しい妻を娶ることになる。国内外に仲睦まじさを知られた夫婦は、十人近い子宝に恵まれて、以降この国は穏やかにあり続けたという。
庶民出身であるとされた王妃には、一人の女官が常にそばにいた。
国王夫妻の婚礼の後、彼女は王を支えていた宰相の熱烈な求婚を受ける――もとい、かなり前から本人の知らないところで『所有宣言』されていると知り、そのことに怒ったり喚いたり照れたりなどをしつつも、国王夫妻と同じように子宝に恵まれて幸せな生涯を送ったそうだ。