「お前を愛することはない」と冷徹王太子は言った。――それは私にとって都合のいいはずでした
「お前を愛することはない」
初夜を前にアルセス・レグナリア王太子はルシアに冷たく言い放つ。
まるでそれ以上の興味などないと言わんばかりに、アルセスはルシアを一人残し去っていった。
ルシアにとってそれは都合のいい話になるはずだった。
ルシア・ヴァレンティアは隣国の伯爵の娘だった。ルシアの母は平民の名の通った踊り子で、伯爵は権力で彼女を従わせた。その結果ルシアが生まれた。
そして、ルシアが三歳の頃にルシアの母は病気で亡くなった。母から容姿を受け継いだルシアは、幼いながらに人目を引いた。
それを知ったヴァレンティア伯爵家は、使い道のある子供として正式にルシアを末娘に迎えた。
ヴァレンティア伯爵家は国内でも有数の強硬派であった。
伯爵家は幼いルシアへ容赦なく英才教育を施した。読み書きから始まり、計算、礼儀作法、剣術、法学、地理、地政学。異常に厳しい教育をこれでもかと詰め込んだ。
そして特筆すべきは暗殺術。物心つく前からルシアはナイフを握る訓練をさせられていた。
ルシアが八歳を迎える頃には、ルシアは自我を殺し、自らの意思で笑わない子供になった。
笑顔を見せれば、血反吐を吐くまで蹴られる。嫌でも体が学習した。
しかし、伯爵家が要求すれば話は別だった。ごく普通の令嬢のように、好奇心に満ちた目、ふてくされた表情、喜ぶ仕草まで、自然に演じることを求められた。それが出来なければ、殴られた後に反省部屋と称された真っ暗な独房に閉じ込められた。
その結果、ルシアはヴァレンティア伯爵家の末娘兼<暗殺人形>として完成した。ある時は学園首席の優等生として自然に笑顔を振りまき、また、ある時は暗殺人形として任務に従事し、伯爵家の政敵を排除した。
そしてルシアが十七歳を迎える頃、隣国レグナリア王国から縁談が舞い込んだ。相手は「冷徹王太子」として名を馳せるアルセス・レグナリア。王太子妃ならば、公爵令嬢や王女が選ばれるのが普通だが、何故かレグナリア王国が指名したのはルシアだった。
ルシアの本当の姿を知る者はこれ幸いと諸手を挙げてルシアをレグナリア王国へ差し出したのだった。王太子アルセスを殺す刺客として。
レグナリア王国は荒れていた。王が病床に伏し、宰相がその代わりに国を動かしていた。
宰相は賄賂や横領で私腹を肥やし、王国の内側は急速に腐敗していった。
その腐敗した政治を支えたのが、皮肉にもレグナリア王国の強大な軍事力だった。
金が足りなくなれば見境なく戦争を仕掛け、隣国から賠償金をむしり取った。
崩壊の足音が聞こえてくるようであった。そんな時、隣国の学園へ留学していたアルセスが卒業し帰国した。
帰国から半年。宰相に連なる者たちは次々と処刑台へ送られた。妻も子も例外ではない。
それだけではなく、宰相の言うがままに国を荒らした実兄すら、アルセスは断頭台へ送った。アルセスに敵と見なされれば一族ごと消される――そんな恐怖が王都を覆っていった。
重税に苦しめられていた民の中には、宰相の失脚を喜ぶ者も多かった。だが、敵と見なした者を一族ごと葬るそのやり方に、民もまた恐怖した。
その名はやがて国外にまで轟いた。血も涙もない、冷徹王太子として。
出立の前、ルシアはレグナリア王家の血をすべて確認する。
病床に伏す国王。断頭台へ送られた第一王子。そして標的である王太子アルセス。
資料の最後に、一人だけ生き残りがいた。
第一王子の遺児でルイス。まだ八歳。
冷徹王太子が敢えて残したのか、その子だけが生かされていた。公務の記録はなく、社交界に出た形跡もない。
ルシアはその一枚を、束の底へ戻した。
ルシアはアルセスに初夜を断られた後、作戦を練り直した。
本来は初夜に仕掛ける予定だったが、機会などいくらでもあるはずだった。
だが、実際に蓋を開けてみるとアルセスは常に剣を帯び、周囲への警戒を一瞬たりとも解かなかった。そして、護衛のフィリクスは片時もアルセスの側を離れなかった。
「お前を愛することはない」と告げられた時は、支障なしと判断したが、こうなってみると困る。
一人ずつなら殺せる。しかし二人同時となれば、ルシアにも勝ち目はない。
初撃でどちらかを殺せれば望みがあるかもしれない。しかしあれだけ警戒されていれば、厳しいと判断せざるを得なかった。
アルセスの寝室は、フィリクスの控室を抜けなければ辿り着けない造りだった。別の方法でアルセスに近づくしかない。
ルシアは、自分とは別の人格という仮面を被った。幼い頃、生き延びるために身につけた術だった。
※ ※ ※ ※ ※
「アルセス殿下。お手伝いにきました!」
ルシアは弾けるような笑顔を浮かべ、アルセスの部屋をノックした。
今回ルシアが選んだ仮面は、学園時代に人気のあった一人の女学生を模したものだった。
快活で明るく人懐っこい。そして知能がルシアに次いで優れていた。
「入れ」
アルセスの冷たい声がルシアに届いた。
「失礼します」
ルシアはゆっくりとドアを開いて中に入った。アルセスの背後に立つフィリクスが、ルシアをじっと見据えていた。アルセス自身も鋭い目を向けている。
「なんのつもりだ?」
ルシアはわずかに怯んだふりをして答える。
「私はあなたの妻です。夫の手伝いをするのは当然では?」
「求めていない。お前は優雅に暮らすといい」
「残念です。私、これでも結構優秀なんですよ?」
そう言いながら、ルシアはアルセスの机に置かれた報告書を手に取る。
フィリクスが瞬時に身構える。しかし、アルセスが手を上げてそれを制した。
「ふんふん。なるほど」と笑顔で頷くルシアを、アルセスは黙って見ていた。
報告書によれば、穀物の市場価格は前年から二割も上昇していた。
ルシアはアルセスに報告書を渡す。
アルセスは返された報告書を一瞥した。
「お前ならどうする?」
「収穫高に変化がないのでしたら、まずは輸送量を増やすのが無難でしょうか」
「普通だな」
この答えでは足りないらしい。ルシアはアルセスの目を見て、もう一段だけ踏み込むことにした。
「では、通行税を一時的に免除しましょう。流通を増やして値動きを見ます。人手がないなら、私がやりますよ?」
「ほう」
アルセスはその回答が気に入った様子だ。
ルシアは満足そうに「ふふん」と胸を張った。
「殿下。私は敵ではありませんよ?」
ルシアはできる限り柔らかな声でそう告げた。
「お前は怒っていないのか? 普通なら、あんなことを言われれば顔も見たくないと思うものではないか?」
「怒ってませんよ。むしろ感謝しています。何の功績もない伯爵家の四女が、王太子妃ですよ? まあ、多少は優秀ですけど」
ルシアはそこで笑みを深めた。
「無害な女が欲しかっただけ、だとしても」
ルシアは僅かに目を細め、アルセスを見る。
ルシアは学生時代、絵に描いたような無害な優等生を演じていた。
極力目立たず、ただ実直に勉学へ励む。問題は起こさず、首席でありながら妙に印象には残らない。
伯爵令嬢としての品位だけは崩さず、それ以上の個性を見せない。
そんな人格を作り出していた。ならば、アルセスが自分を選んだ理由も推測できる。
今のアルセスに必要なのは戦争ではなく、国内を立て直すための時間だ。ならば、まだ争っていない隣国から妻を迎え、関係を繋いでおくのは理にかなっている。
そして妻にするなら、政治へ口を挟まない無害な女がいい。それが、自分が選ばれた理由だとルシアは考えていた。
「ほう。事情は察していると?」
つい先ほどまでの笑顔を消し、ルシアは傷ついたように目を伏せる。
「ご迷惑でしたか?」
「わかった。フィリクス。机を用意してやれ」
「殿下。よろしいのですか?」
フィリクスが小声で確認する。
「手が回っていないのは事実だ。有能な者を寝かせておく余裕はない」
ルシアは満面の笑みを浮かべる。その奥にある瞳には感情がなかった。
※ ※ ※ ※ ※
ルシアの日常はどんどん忙しくなっていった。最初に任された税の調整を完璧にこなすと、アルセスは遠慮をやめた。翌日から、ルシアの机にも容赦なく報告書が積まれていった。ルシアはその山を見て、わざと目を丸くした。
「どうした?やっぱりやめるか?」
真顔で聞いてくるアルセスにルシアは元気よく答えた。
「大丈夫ですよ。アルセスのために頑張りましょう!」
「アルセス」と呼ばれた瞬間、彼の視線が僅かに動く。その反応をルシアは見逃さなかった。
ルシアは人好きのする笑顔を浮かべ、胸を張った。
「構いませんよね。私たち夫婦じゃないですか?」
「好きにしろ」
アルセスは仏頂面で返事をした。
毎日顔を合わせ、政務について話し、必要な策を考え、時には共に行動する。そんな日々が続いた。有能な妻としてアルセスの信頼を得たルシアは、次にフィリクスへ狙いを定めた。
フィリクスはアルセスの乳兄弟だった。
王太子の乳母を務めた女性の息子で、アルセスより一つ年上。幼い頃から同じ教育を受け、留学先にも付き従って同じ時を過ごしてきた。
性格は真っすぐで正義感が強い。警戒心も高く、何よりアルセスを第一に考えている。
アルセスを殺すためには、フィリクスの隙を突かなければならない。
ならば信用させて少しでも意識の空白を狙う必要がある。
「じゃあ、フィリクスはアルセスの魂の兄弟なのね」
「魂の兄弟?」
アルセスは聞き慣れない言葉に眉を寄せた。
「ええ。私、本で読んだことがあります。同じ志を持ち、同じ道を歩む者同士は、忠義ではなく魂で結ばれるのだそうです。フィリクスは、忠義だけでアルセスの傍にいるわけではないのでしょう?」
「もちろんだ」
フィリクスは迷いなく言い切った。
「かっこいいです。私も夫と妻という形だけの関係より、魂の兄弟になりたいです」
ルシアは勢いよくそう宣言した。
フィリクスとアルセスは難しそうな顔をしているが、ルシアは満面の笑みであった。
その日の夜。ルシアは王宮を抜け出した。黒い装束に身を包み、闇へと紛れる。城壁を越え、月明かりの差す夜の森を風のように駆け抜けていった。
翌日、アルセスとフィリクスは王家主催の狩猟会へ向かう予定だった。
「こんなことをしている場合ではないのだがな」
アルセスは眉間に皺を寄せていたが、長く続く伝統行事とあって欠席するわけにもいかなかった。アルセスとフィリクスが準備をしていると、準備万端といった格好でルシアが現れる。
皮の胸当てに弓を背負っていて、狩猟に参加する気満々だった。
「何をしている? お前は留守番だ」
アルセスは呆れたように言った。
「アルセス知ってる?狩猟会は王家主催なんです!ちなみに私が予算を引っ張ってきました。これで私が不参加はありえません!」
ルシアは得意げに胸を張る。絶対に行きますと顔に書いてあった。
「……好きにしろ」
アルセスはすぐに折れた。どうせ止めても聞かないと悟ったのだろう。
「では、出発です!!」
ルシアは二人を引き連れて会場へ向かうのだった。
会場までは王城から馬車で一時間あまり。道中、ルシアは絶えずアルセスとフィリクスに話しかけていた。その姿は、どこから見ても天真爛漫な令嬢そのものだった。
狩猟会には、平民の狩人から狩猟を嗜む貴族まで、身分を問わず多くの者が集まっていた。王家主催のこの行事は毎年行われていたのだが、昨年は粛清直後だったため中止されていた。
それを今年復活させたのはルシアだ。
「平民にも貴族にも、息抜きは必要です!」
そう主張するルシアに押し切られ、アルセスも最後には開催を認めた。
開会の時刻になると、最初に壇上へ上がったのはルシアだった。ルシアは明るい声で進行を務めた。王太子妃自らが壇上に立ったことに、貴族も平民も驚きを隠せなかった。それでもルシアの笑顔は輝いていて、その場にいた人の目を釘付けにする。十分に場が温まったところで、アルセスが壇上へ姿を見せ、狩猟会の開始を宣言した。会場からは大きな歓声が上がった。
ルシアはアルセスとフィリクスと共に森を歩く。フィリクスは周囲への警戒を怠らない。一方のアルセスは、普段よりどこか肩の力が抜けていた。笑顔にはなっていないが、普段より眉間の皺は浅かった。
少し歩くと近くの草むらから物音がする。三人は足を止め、静かに気配を殺した。すると草むらから白い兎が出てくる。兎はこちらに気づく様子もなく、呑気に森の奥へ跳ねていった。
ルシアは少し期待した目でアルセスを見る。その視線に気づいたアルセスは「ふん」と鼻を鳴らし、慣れた手つきで弓を引き絞った。そして弓から放たれた矢は真っすぐに兎へと吸い込まれていく。
「おー。やりました。さすがアルセスです。かっこいいです」
ルシアは全力で煽てる。顔には出さないが、アルセスの口元がほんの僅かに緩んだ気がした。
そしてルシアは兎の耳をまとめて掴みフィリクスに近づいた。フィリクスは背中に背負った籠をルシアへ向ける。
「次見つけたらフィリクスですね」
「俺はいい。弓よりも剣の方が得意だ」
「あー。フィリクスったら弓できないんだー」
ルシアはフィリクスをからかう。わざと声に出して笑ってやると、珍しくフィリクスがむっとした顔をする。
その時、もう一匹兎が飛び出す。フィリクスは即座に籠を下ろして、弓を引き絞る。その目は真剣だった。しかし矢は兎の横を抜け、驚いた兎は一目散に駆け出した。
「あー逃げちゃいます。えいやー」
ルシアもすぐに矢を放ったが、こちらも見事に外れた。
ルシアが笑い、フィリクスもつられる。気づけばアルセスまで声を漏らして笑っていた。
何がそんなに面白かったのかは分からない。
ただ、三人で笑った。
ルシアがアルセスの笑顔を見たのは、それが初めてだった。
ひとしきり笑った後、ルシアが先導して奥へ向かう。
少し進むと、木々に囲まれた小さな湖へ出た。
「すこし休憩をしましょう」
そう言って、ルシアは湖畔の木陰に荷物を下ろした。
「もう疲れたのか?」
アルセスが珍しくからかうように言った。
「違います。その……お花を摘みたくて……」
ルシアは少し顔を赤くして指をもじもじする。
「すまない」
アルセスはそれ以上何も言わず、すぐに背を向けた。
ルシアが戻ると、湖畔に一頭の雌鹿がいた。そして、二人は穏やかな笑顔で鹿を撫でていた。
雌鹿は警戒する様子もなく、アルセスの頬をぺろりと舐める。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥を細い針で刺されたような痛みを覚えた。ルシアはまだ、その痛みの意味を知らない。一瞬の出来事だったので、一度保留にし、二人に近づく。
ルシアが近づくと、二人は当たり前のように彼女のための場所を空けた。
また、胸の奥がちくりと痛んだ。
帰り道、フィリクスが立ち止まる。アルセスも、そしてルシアも。
三人を取り囲むように、森の中から男たちが姿を現した。その中から大柄な人影が現れる。
ボロ布のようなズボンに革の上着。髪も髭も伸び放題の大男だった。
それと同時に周りを囲んでいた十人の男たちが円を狭めるように近づいてくる。そして、剣を抜いた。
アルセスとフィリクスが荷物を捨て、剣へ手を掛ける。
だが、それより早くルシアの矢が大男の眉間を射抜いた。
アルセスとフィリクスは僅かに目を見開いたが、動揺はしなかった。
ルシアはそこから走りながらもう一射して、盗賊の手下の頭を射抜く。
二射目を放つと同時に大男の傍へ滑り込み、腰の剣を奪い取る。
「アルセスはフィリクスから離れないでください!」
そう言いながら剣を持ったルシアは盗賊の手下に切りかかる。刃を受け流し、間髪入れず首筋へ斬撃を返す。横から切りかかってきた盗賊の剣を身を沈めてかわし、返す刃で首を薙ぐ。
ルシアは冷静に考えていた。こんなはずではなかった。
襲撃が始まれば、自分は後ろへ下がる。その予定だった。
そして、アルセスとフィリクスが盗賊へ意識を向けた隙に、アルセスを仕留める。
そのための襲撃だった。
でも気づけばルシアは弓を射っていた。ルシアは混乱する。
自分の体が、自分の指示に従っていない。初めての経験だった。
アルセスとフィリクスは盗賊を順番に処理している。力量はルシアにちょっと届かないくらい。
彼らの力量なら、この程度の盗賊など脅威にはならない。
それは最初から分かっていた。盗賊をこの位置に誘導した時にはそう結論がでていたはず。
だから、違う。助けたかったわけではない。
二人の信頼を得るために、自分も戦う必要があっただけだ。
そうだ。最初からそのつもりだった。ルシアはそう自分に言い聞かせる。
初めからそういう作戦だったと。
そう考えているうちに盗賊の剣がルシアに迫る。ほんの少し遅れただけで、ギリギリ避けられると判断する距離。
「ルシア!」
その瞬間、アルセスがルシアとの間へ割り込み、盗賊を斬り伏せた。
「ありがとうです」
なぜか全身の温度が一度に上がったような気がした。
その熱を振り払うように、ルシアは最後の盗賊へ踏み込み、胸へ剣を突き立てた。
ルシアは笑顔でアルセスへ向き直る。
アルセスは複雑な表情でルシアを見ていた。
「隠すつもりだったのに、バレちゃいましたね?」
ルシアは何事もなかったように笑った。
「とっくに気づいていた。常日頃の動作にもおかしい点ならあった。隠せていると思っていたのか。なぜ黙っていた?」
アルセスの目は疑心に彩られていた。フィリクスの目も厳しい。
ルシアは頬を染め、困ったように指先をいじる。
「だって……お二人より強いってバレたら、恥ずかしいですし……」
ルシアの顔は真っ赤で消え入りそうな声だった。
アルセスは一瞬呆けた後、声を上げて笑った。
「俺はお前よりも強い。侮るな」
フィリクスは少しズレたところで怒っていた。
ルシアの胸にズシリと鈍い痛みが走る。
「いや~一対一なら多分勝てると思いますよ?」
ルシアは笑った。アルセスも笑った。少し遅れて、フィリクスまで笑う。
いつの間にか、三人とも笑っていた。
※ ※ ※ ※ ※
「腐っています!!この国は腐っています!」
狩猟会から半年ほど経ったある日、ルシアは頬を膨らませ、勢いよく椅子から立ち上がった。
「どうした?ルシア?」
あれ以来、三人きりの時だけはアルセスも随分と表情を和らげるようになった。
「おかしいです! 王太子妃の私がこんなに必死で働いているのに、この国の文官と貴族は何をしているんですか!」
ルシアはいつも通り胸を張る。
「まあ、そうだな。残っているのは強硬派寄りの連中ばかりだ。あてにはならん」
「では、王族は? 確かルイス様がいらっしゃいましたよね。八つなら、書類を運ぶくらいは――」
アルセスの手が止まった。
「駄目だ」
「でも今は人手が足りないので」
「ルシア」
二度目の声は優しく、しかし強い意思が籠もっていた。
ルシアは口をつぐむ。
フィリクスを見た。フィリクスは書類に目を落としたまま、顔を上げなかった。
「ぐぬぬ。わかりました。私にいい考えがあります!」
ルシアは目を輝かせて身を乗り出した。
その瞬間、アルセスとフィリクスが揃って眉を顰める。
「なんでそんな難しい顔をするんですかっ!!」
ルシアは頬を膨らませ、机をばんばん叩いた。
そして机の上に山になっていた紙の束が地面に落ちる。
「ああああああああああ」
ルシアがすぐに床に膝をついて拾い集める。
アルセスとフィリクスもため息をつきながら一緒に集めるのだった。
「で?いい案とはなんだ?」
アルセスは面倒そうに問い返した。
「平民から文官を募集しましょう」
「平民からか……」
フィリクスは一瞬考え込み、すぐに眉を顰めた。
血統を何より重んじる貴族たちが、平民に国政へ口を出させることを許すはずがない。
貴族社会の常識からすれば、無茶な話である。
ルシア自身も、実現するとは思っていなかった。ただ、今演じているこの人格なら、きっとそう提案するだろう。そんな理由で口にしただけだった。
しかしアルセスは否定しなかった。
その沈黙を見て、ルシアの思考が動き始める。
「では、平民を貴族にしてしまいましょう。名誉内政文官爵を新設します。一代限り、名誉騎士爵より下。これなら既存の身分秩序も崩しません」
アルセスはその言葉を聞いて目を見開く。
「そうだな。悪くない。たまにはいいことを思いつく」
「ふふん。そうですよね?私いいこと言いましたよね?愛してくれてもいいんですよ?」
「ふん」
アルセスは鼻で笑った。
ルシアの感情を閉じ込めていた鉄の檻は、すでに内側から腐食し始めていた。
※ ※ ※ ※ ※
その夜、ルシアはルイスについて調べ直した。
東棟の一角に部屋を与えられ、教師が三人。剣は習っていない。政務にも触れていない。訪ねてくる貴族は一人もいない。城の中にいながら、城のどこにも属していなかった。
なるほど、とルシアは思う。
実兄を断頭台へ送った男だ。次に王冠へ手が届く者を、警戒しないはずがない。
殺さずに置いているだけ、優しい方だろう。
ルシアはそう結論づけた。
そして、その結論に納得できない自分に気づいた。
ルシアは東棟へ向かう。
誰にも気づかれないよう、細心の注意を払う。
理由ならいくらでもあった。任務の障害になり得る要素は把握しておく。アルセスを殺した後、王冠が誰に渡るのかも確認しておく必要がある。
そのどれもが正しく、そのどれもが本当ではなかった。
部屋には鍵がかかっていなかった。
中は明るかった。玩具があり、本があり、菓子の皿があった。窓は南向きで、庭が見えた。
牢ではなかった。
ルシアは足を止める。牢であってほしかったのだと、そこで初めて気づいた。
「あなたは、ルシア様ですね」
少年は本から顔を上げて、そう言った。怯えた様子はなかった。
「私を知っているの?」
「先生が教えてくれました。叔父上が結婚されたと」
ルイスは本を閉じ、ちゃんと立ち上がって礼をした。八つにしては、ずいぶん整った所作だった。
「叔父上の奥様でしょう。おめでとうございます。遅くなってすみません」
ルシアは答えられなかった。
「叔父上は、お元気ですか」
「……会っていないの?」
「はい。父上のことがあってから、一度も」
ルシアの喉が詰まった。
この子の父の首を落としたのは、その叔父だ。
「叔父上は、私を殺しませんでした」
ルイスは静かに言った。
「みんな殺されました。父上も、母上も。私だけ残りました。だから、何か理由があるんだと思っています」
「……恨んでいないの?」
少年は少し考えた。
「父上は、悪いことをしたと聞きました。たくさんの人が苦しんだと」
そして顔を上げた。
「でも、私の父上でした」
ルシアは息を呑んだ。
その目には、怒りの感情が僅かに滲んでいた。
やり場のない感情を幼いながらも、心に押し込んでいるのだろう。
この子は優しい。優しすぎる。今の腐りきったこの国では、一年ともたずに食い潰される。
だが、腐敗をすべて削ぎ落とした後なら。血を流す仕事がすべて終わった後なら。
いい王となるだろう。
ルイスとの話を切り上げ、扉を閉めた後、ルシアはしばらくそこから動けなかった。
それきり、ルシアは二度と東棟へ行かなかった。
※ ※ ※ ※ ※
長机の中央にアルセス、その左右にルシアとフィリクスが座っていた。向かいには、最終審査まで残った五人が並んでいる。
審査の進行役はルシアだった。
「では、文官最終審査を行います」
アルセスとフィリクスは無言である。
五人は目に見えて緊張していた。不正を絶対に許さない冷徹な王太子にその護衛。そしてその妻。
一つでも受け答えを間違えれば、その場で首が飛ぶのではないか。
それでも五人がここにいるのは、合格者に名誉内政文官爵が与えられるからだ。一代限りとはいえ、ただの平民が貴族の仲間入りを果たせる。さらに活躍できれば永代貴族に昇爵する可能性すらある。命を賭けるだけの価値はあった。
「では、一つずつ質問していきます」
ルシアは席を立つと、一番左に座る男の前まで歩いていった。
「もし、あなたが賄賂を受けとった場合、どうしますか?」
あまりにも突拍子の無い質問に男は戸惑う。
「すぐに、上官へ報告し首を差し出します」
質問された男は焦ったのか極端な答えを出す。
「正解です。ちなみに、報告するより先に私たちが知った場合――あなた一人では済みません。一族すべてを連座とし、一人残らず首を落とします」
声は穏やかだった。だからこそ、その言葉は余計に恐ろしかった。
男の喉から「ひっ」と引きつった声が漏れた。
これは審査と称した脅迫だった。能力については、一次・二次審査ですでに確認済みだった。素行も家族関係も、ルシア自身が調べ上げている。最後に必要なのは、賄賂へ手を伸ばす気すら起こさせないだけの恐怖だった。そして最後には誓約書へ血判を押させた。
こうして五人の新たな文官が加わり、ルシアたちの仕事は大幅に減った。
その夜、ルシアは眠れずにいた。
すべては順調だった。そうであるはずなのに、胸の内だけが思い通りにならない。
ふとした瞬間に、狩猟会で見たアルセスの笑顔が蘇る。
思い出すたびに胸が痛み、頬が熱を持った。
関係も良好でアルセス自身も少しずつルシアに心を許してきている。
自分で最初に言い放った『お前を愛することはない』。頑固なアルセスのことだ。一度口にした以上、簡単には撤回できないのだろう。
だから、アルセスはルシアを寝室へ呼ばない。このままでは、アルセスを殺せない。
それが問題なのだと自分に言い聞かせる。
けれど、その理由はもう自分自身にすら通用しなくなっていた。
恋や愛というものが存在することくらい、ルシアも当然知っていた。
けれど、それはルシアにとって知識でしかなかった。自分の胸に生まれたこの感情と、恋という言葉が結びつくまで時間がかかった。
ルシアは、アルセスを好きになっていた。これは遅効性の毒だ。自分が与えられた任務の邪魔をする猛毒だ。この感情を切り捨てようとするたび、アルセスの顔が邪魔をした。
愛して欲しい。
心に浮かんだ言葉に、ルシア自身が一番驚いた。ただ、その感情をすぐさま否定する。自分はいったい、何人を殺してきた。
奪った命の一つ一つにも人生があった。家族がいた。愛した者がいて、愛してくれた者がいたはずだ。
そう考えると、先ほどまでの熱が急速に冷えていった。
この血に汚れた手で、誰かの手を求める資格などない。
そう自制する。私には、誰かに愛してもらう資格などない。私は……。
こんなことになるくらいなら、失敗を覚悟してでも、もっと早く夜襲を仕掛けるべきだった。
ルシアはベランダへ出て、夜の王都を見下ろした。
『お前を愛することはない』
あの日は都合がいいと思った言葉だった。
今ではそれが、何よりもルシアを苦しめていた。
※ ※ ※ ※ ※
文官が増えたことで、ルシアたちの仕事量は大幅に減った。
その分、一つ一つの案件をじっくり吟味できるようになった。
その結果、アルセスの粛清は貴族だけでなく、平民の悪徳商会にまで及び始めた。
貴族社会の腐敗は随分と減った。粛清しすぎて肝心の貴族そのものが激減していたが。
文官に至っては、実に八割近くが粛清の対象となった。
粛清は一瞬でできる。だが、人を育てるには時間がかかる。
それでもアルセスの手は止まらない。ルシアが心配になるほどに。
文官たちは専用の執務室で各案件を処理し、まとめられた報告書だけがルシアとアルセスのもとへ上がってくる。
報告書自体は武官が協力してくれているため、今では武官が現場の情報を集め、文官が整理し、それをルシアとアルセスが最終確認する流れが出来上がっていた。
「戦争もないのに訓練ばかりしているなら、少しくらい働いてください」
というルシアの一言で、武官たちまで交代で実務を手伝わされている。
その夜、ルシアは廊下の途中で足を止めた。
東棟に明かりが灯っていた。
ルシアは気配を消して柱の陰に入る。考える前に身体が動いていた。
しばらくして扉が開き、男が出てきた。
武官だ。顔は知っている。文官の手が回らない時、書類の整理を手伝わせた一人だった。
男は廊下の左右を確認してから、足早に去っていった。
人目を避ける動きだ。訓練を受けた者の動きではないが、後ろ暗い者の動きではあった。
ある日、ルシアの手が一枚の報告書で止まった。
金属と穀物の納入量と価格が噛み合っていない。納入量は減っている。それなのに、報告されている価格まで下がっていた。一つ一つなら偶然で済む。だが、金属と穀物だけが揃って同じ動きをしているのは不自然だった。ルシアは何も言わず、その報告書をアルセスの前へ滑らせた。
報告書へ目を通したアルセスが、ゆっくりとルシアを見た。
それだけで頬が熱を帯びる。ルシアは無表情という仮面で、その反応を覆い隠した。
ところがアルセスは、その報告書へ何事もなかったように承認の印を押した。
「アルセス。それは……」
ルシアが声を出そうとしたタイミングでアルセスは人差し指を唇へ当てた。見落としたのではない。分かった上で通したのだ。ルシアは静かに頷いた。
その日の政務を終えたところで、アルセスが不意に口を開いた。
「ルシア。今夜寝室へ来い」
ルシアの心臓が跳ねた。そのまま激しく脈打ち始め、アルセスにまで聞こえるのではないかと思うほどだった。
ルシアは必死で平常心を保つ。それくらいは出来るはずだと抑え込む。
「わかりました」
そのルシアの声は平坦であった。
とうとう来てしまった。ルシアは自室で胸を押さえた。何度呼吸を整えても、胸の鼓動は静まらない。夜伽用の薄い衣服へ着替え、ガーターベルトにナイフを忍ばせた。その手は震えて上手く動かなかった。
息が詰まるほど胸が苦しくなり、目尻に涙が滲んだ。涙など、いつ以来だろう。自分が泣いていることに驚き、ルシアはかえって少しだけ冷静さを取り戻した。
そうしているうちに、約束の時刻が来た。
「ルシア」
フィリクスの声だった。
ルシアは上着を羽織り、部屋を出た。
廊下の先にあるアルセスの寝室へ、一人で歩き始める。
フィリクスはついて来なかった。
ノックをして返事を確認してから入室する。ルシアの動きはぎこちなく、少し震えていた。
ルシアが扉を閉めたのを確認すると、アルセスが立ち上がった。夜着に着替えたアルセスは剣を手にもっていた。その剣を見た瞬間、身体が反応した。先ほどまでの熱が嘘のように引いていく。
「俺を殺すか? ルシア」
その言葉が脳裏に深く突き刺さった。
「なんでわかったの?」
ルシアは仕込んでいたナイフを右手に構える。
「狩猟会で見せた動きだ。あれは明らかに暗殺を仕込まれた人間の動きだった。使っていたのは剣だったがな」
「そう」
ルシアは呟いた。それ以上、訊くことはなかった。
アルセスはしばらく黙っていた。
そして、この期に及んで最も無意味な言葉を選んだ。
「俺は誰も愛さない」
その言葉にルシアの右手が震える。心を閉じ込めていた鉄の檻が、激しく軋んだ。あちこちにひびが入り、壊れ始める。
うるさい。
「今はまだ、お前に殺されてやれない」
アルセスの瞳には、なぜか深い悲しみが滲んでいた。震える右手を押さえ込むように、左手を添える。それでも止まらない。
「なんで……」
問いたいことはいくらでもあるのに、口から出たのはそれだけだった。
まただ。身体が言うことを聞かない。心が強く揺さぶられる。
「あの報告書を見ただろう。近いうちにクーデターが起きる」
「わかってるなら、手を打ちなさいよ」
「誰の旗の下に集まると思う」
「言わないで」
ルシアは首を振った。
言われてしまえば、確定してしまう。
「ルイスだ」
「言わないでって——」
そしてアルセスは独白を始める。
「大好きな国だった。国のためなら、俺の命など安いものだと思っていた。俺はもう千に届く人を殺している。この手はもう、血に染まりきっている。こんな手で誰かを愛していいはずがない。誰かを抱きしめていいはずもない。だから、この国を立て直すと決めたあの日、俺は誰も愛さないと誓った」
ルシアは動けなかった。
その思いをルシアは知っていた。
あの夜にベランダで自分に言い聞かせた言葉と同じものだった。
ルシアは違うと思った。
この人は国のために殺した。私は命じられて殺しただけだ。同じであるはずがない。
だが目の前の男は。
同じことを思って、同じように諦めて、それでも笑っている。
――じゃあ、私は。
この人に愛される資格がないというなら、この世界の誰にも資格などない。
そう思った瞬間、ルシアの中で何かが折れた。
ルシアは手にしたナイフを取り落とす。
乾いた音を立てて、ナイフが床へ落ちた。
その音を最後に、長年ルシアの心を守ってきた鉄の檻は完全に崩れ落ちた。
ルシアの頬に涙が流れる。
一度涙が溢れると、もう止まらなかった。喉から嗚咽が漏れ、全身が震える。両腕で自分を強く抱きしめる。それでも身体は言うことを聞かなかった。やがて足から力が抜け、ルシアはその場に崩れ落ちた。
ルシアは必死に言葉を絞り出した。
「あなたは……全部、一人で持っていくつもりなのね……」
分からないふりをしていた。
分かってしまえば、止めなければならなくなる。
止めれば、この人が積み上げたものを全部壊すことになる。
だから見なかった。
この人が死ぬための準備を、私は黙って見ていた。
毎日、同じ部屋で、隣に座って。
アルセスはそんなルシアを見て微笑む。
「恐らく、そう時間はかからないだろう。もう少しだけ我慢してくれ」
そしてアルセスは、血に染まっていると自ら言ったその手で、ルシアを優しく抱きしめた。
アルセスの腕の中で、ルシアは壊れたように喋り始めた。
「私、あなたを殺しに来たの。ずっと。ずっとそのつもりで、隣にいたの」
言葉が勝手に出てくる。止め方が分からなかった。
押さえつけていたものが、堰を切って喉から溢れ出していく。
「笑ってたのも、全部嘘。あの狩猟会も、盗賊も、全部私が仕組んだの。全部……全部……」
声が割れる。息継ぎが追いつかない。
「なのに、なんで」
ルシアは彼の胸に額を押しつけた。
「なんで、優しくするの」
「私、たくさん殺しました。数えてない。数えたら、もう戻れなくなるから」
背中を撫でる手は、止まらなかった。
その手が優しければ優しいほど、ルシアの中の何かが剥がれ落ちていく。十七年かけて塗り固めたものが、剥がれて、その下から本物が出てくる。
「あなたと同じだって思いたかった。でも違う。あなたは国のためだった。私は言われたから殺しただけ。それだけ。理由なんてなかった」
喉が詰まる。声が途切れる。それでも口は止まらなかった。
「だから、駄目なの。私は……こんな私が、誰かを好きになるなんて、許されない」
自分の声が、自分の耳に届いた瞬間、ルシアは息を止めた。
「好き、なんです」
もう戻れなかった。
一度出てしまえば、あとは雪崩だった。
「好きです。ずっと。いつからか分からない。気づいたら、あなたのことばかり考えてた。あなたが笑うたびに、胸が痛くて、どうしていいか分からなくて」
顔を上げられない。上げたら、この人の顔を見てしまう。見てしまえば、もっと言いたくなる。
「私、こんな気持ち知らなかった。誰かを好きになるって、……こんなに苦しいなんて」
ルシアは彼の夜着を握りしめた。爪が食い込むほど強く。
この人の全部が欲しかった。
欲しがってはいけないと知っていた。
それでも欲しかった。
「駄目だって分かってます。分かってるのに、止まらないんです。誰かに愛してもらう資格なんてないって、ずっと自分に言い聞かせてきたのに」
ルシアは顔を上げた。涙で何も見えなかった。
「愛して欲しいって、思ってしまったんです」
アルセスは答えなかった。
ただ、抱きしめる腕に力がこもった。
その腕の中で、ルシアはもう一度泣いた。
声も、形も、なにもかも崩れた泣き方だった。子供の泣き方だった。八つの時にできなくなったはずの泣き方だった。
どれだけそうしていたのか分からない。
泣きすぎて息が浅くなり、指の先から力が抜けていく。
しがみついていたはずの手が、ゆっくりと落ちた。
ルシアは、そのまま気を失うように眠った。
翌日から、ルシアは仮面を捨てた。誰かに求められた人格を演じることを、もうやめた。
ルシアは武官たちを集め、短く命令を下した。そのまま自らも剣を携え、市井へ向かう。
今度は命令されたからではない。
アルセスの隣に立つために、ルシア自身が選んだ。
ルシアは王都の裏側に巣食う犯罪組織を、次々と潰していった。証拠を積み上げ、裁判にかける時間はない。ルシアはそう判断した。王太子妃という立場には、それを押し通せるだけの権力があった。裏社会の者たちに、王太子妃の権力へ正面から抗う術はなかった。そこで見つけた者は皆殺しにした。
かつては命令されたから殺した。
今は違う。
すべて理解した上で、自分で選んで殺していた。
武官たちは豹変したルシアに戸惑っていた。それでも、その有無を言わせぬ迫力に逆らう者はいなかった。
表からは見えない国の腐敗を、ルシアは容赦なく切り落としていった。裏側に生きる者の思考は、ルシア自身が誰よりよく知っている。逃げ道も隠れ場所も、すぐに見抜いた。全てを終えるのに一週間とかからなかった。
ただ一つだけ、ルシアは手を出さなかった。
金属と穀物が流れ込む先。東棟に集まる者たち。
夫を殺すための刃だけを、ルシアは見逃した。
すべてを終えたルシアは執務室へ戻った。
中は騒然としていた。
ルシアが戻ってきたタイミングでアルセスは立ち上がる。
「今日限りで、お前たちは城を離れろ。しばらく街へ戻れ」
その言葉を聞いた文官たちはまた声を出し始める。
「逃げましょう、アルセス様」
「そうです。アルセス様さえいれば、この国はまだやり直せます」
「私たちは知っています。アルセス様がこの国のために何をしてきたのか」
「この国には、まだアルセス様が必要です」
「もう一度、一から始めましょう。アルセス様」
文官たちはアルセスに懇願している。逃げようと。それほどまでに、クーデターの機運は高まっているのだろう。
「すまないな。これからはルイスについてやってくれ。俺に向けてくれた忠義を、少しだけあいつにも分けてやってくれ。まだ八つだ。気は少し弱いが、心は俺よりずっと優しい」
「アルセス様だって十分にお優しいです。だから――」
アルセスは、ただ悲しそうに笑った。ルシアはもう黙っていられなかった。
「だから、あなたたちが残しなさい。後世に。この人が本当はどんな人だったのかを。あなたたちが口にする食事。暮らしている土地。身に纏う服。そして、秩序を取り戻したこの街。それを誰が守ったのか、必ず語り継ぎなさい!」
ルシアの声は涙に濡れていた。それでも、その言葉には拒絶を許さない強さがあった。
平民は涙をためて頭を下げる。
「必ず」
五人の声が重なった。
「行きなさい」
文官たちは拳を握り締め、深く頭を下げて部屋を後にした。
「すまないな、ルシア」
「かまわないわ」
※ ※ ※ ※ ※
夕方、アルセスはフィリクスと共に王城を回った。残っていたメイドや執事たちを、一人ずつ家へ帰していく。執事は最後まで何も言わなかった。アルセスが肩に手を置くと、ただ深く頭を下げ、涙を流しながら王城を後にした。
最後に、城内の警備兵もすべて帰した。
ルシアは一人で北の棟へ向かった。
国王の寝室に、人はいなかった。侍医も、侍従も、もう帰した。
寝台の上で、痩せた老人が眠っていた。三年、一度も目を覚まさないのだという。
考えることではない。
ナイフを抜き、心臓へ押し込んだ。老人は目を開けなかった。
殺すのは自分でいい。もう誰にも手を汚させない。
人の気配が消えた王城に、残ったのは三人だけだった。
寝室前で三人は合流した。そしてルシアとアルセスは寝室の扉を背に振り返る。
「フィリクス。苦労を掛けた」
「いやだ。アルセス。俺も……」
「フィリクス。ルイスを頼む」
フィリクスは涙を流す。
それを見たルシアは静かに寝室へ入った。
扉が閉まる。ルシアはそこへ背を預け、声を殺して泣いた。たった一年半。だが、その一年半はこれまで生きた中でなによりも輝いていた。最初は分厚い仮面を被っているだけだった。けれど、いつの間にか仮面と自分の境目が分からなくなっていた。本当はこんな風に生きたかったのかもしれない。ルシアの涙は止まらなかった。
扉越しに、フィリクスの声が聞こえた。
「お前は卑怯だ。卑怯者だ。俺だけをのけ者にして。なにもかも自分で背負って」
声が震えていた。
「なんで俺だけ置いていく。ずっと一緒だっただろう。同じ物を食って、同じ剣を習って、あの国まで付いていって。俺はずっと、お前の隣にいた」
言葉が途切れる。
「ルシアは隣で死ねるのに、なんで俺は駄目なんだ」
床を殴りつける音がした。一度、二度。
「お前がいなくなった世界で、のうのうと守られた国を見て、俺はどうやって生きればいい。お前のいない朝が来て、次の日も来て……。何十年もだぞ。何十年も、お前が死んだ日のことを思い出しながら、俺は生きていけばいいのか?」
声が裏返る。
「頼むから、連れて行ってくれ。それだけだ。それだけなんだ」
返事はなかった。
「なあ、アルセス」
涙声はやがて、悲痛な叫びへと変わった。
「俺のこの気持ちは、どこへ持っていけばいいんだ!」
ルシアは扉に背を預けたまま、拳を強く握り締めた。
奥歯を噛みしめる。喉の奥が焼けるように熱い。
泣くな、と自分に命じた。
この叫びは自分のものではない。ここで泣く資格が、自分にあるはずがなかった。
それでも視界が滲む。
ルシアは口元を両手で押さえ、声だけは漏らすまいと堪えた。
「フィリクス。すまない。俺の愛したこの国を頼む。お前にしか頼めない。頼む」
アルセスの声もまた、震えていた。
少し経った後、アルセスが寝室に入ってきた。
扉の向こうに、フィリクスの姿はもうなかった。
「待たせたな」
「構わないわ」
震えも飾りもない、ルシア自身の声だった。
アルセスの顔からは、何も読み取れなかった。
いつもの顔だった。政務の合間に見せる、あの静かな顔。
よくできた仮面だ、とルシアは思った。
だが、扉を閉めた手が、まだ離れていなかった。
ルシアは歩み寄って、その背へ腕を回した。
瞬間、アルセスの背が大きく震えた。
「……フィリクスに」
声が掠れていた。
「連れて行ってくれと、言われた」
「聞こえていたわ」
「断った」
ルシアは何も言わずに、腕の力を強くした。
「あいつは、七つの時から俺の隣にいた。俺が兄を殺した日も、隣にいた。何も言わずに、ずっと」
言葉が途切れる。
「連れて行ってやりたかった」
その一言で、堰が切れた。
「本当は、全部嫌だった」
アルセスの手が、ルシアの背を掴む。すがるように。
「兄を殺したくなかった。あいつの子を、あんな部屋に閉じ込めたくなかった。フィリクスを泣かせたくなかった」
声が崩れていく。
「お前を、巻き込みたくなかった」
ルシアの肩に、熱いものが落ちた。
「毎日思っていた。お前が笑うたびに。名前を呼ぶたびに。この女だけは巻き込むなと、自分に言い聞かせて、それでも」
抱きしめる力が痛いほど強くなる。
「それでも、隣にいてほしかった」
冷徹王太子と呼ばれた男が、声を上げて泣いていた。
ルシアはその頭を抱えるようにして、髪を撫でた。
自分がされたのと、同じように。
どれだけそうしていたのか分からない。
やがて震えが収まり、アルセスの呼吸が静かになった。
ルシアは顔を上げた。
「一晩だけで構いません。私たちは明日、共に死にます。だから今夜だけは……罪を忘れて、私を愛していただけませんか」
二人は寝台の上で、横たわったまま抱き合っていた。
ルシアは顔を上げ、アルセスを正面から見た。
「愛しています」
初めて言う言葉だった。逃げも、飾りも、なかった。
「訂正する。俺はお前しか愛さない。俺が間違っていた。すまない」
「いいえ」
ルシアはアルセスの手を探した。
指が触れる。そのまま、絡めた。
「この手は、血で汚れています」
「それは俺もだ」
どちらの手がどちらのものか、もう分からなかった。
同じだけ汚れて、同じだけ温かい。
十七年、この手が触れてきたのは刃だけだった。誰かの手を握ったことなど、一度もなかった。
「この手で、あなた以外の誰かと手を繋ぐことなどできません」
答えの代わりに、指を握る力が強くなった。
肌が触れる。息が混ざる。境目が溶けていく。
どこまでが自分で、どこからがこの人なのか、ルシアにはもう分からなかった。
分からなくていいと思った。
互いを愛し合う音だけが、静かな寝室に響いていた。
ルシアは気だるい身体を起こした。窓の外が、薄く白み始めていた。
隣で眠るアルセスの輪郭を、指先でゆっくりとなぞる。
愛おしい人。
ルシアは立ち上がった。城門の方角から、轟音が響いた。それでもアルセスは目を覚まさない。昨夜、眠りにつく前に薬を使っておいた。
ルシアはその穏やかな寝顔から、なかなか目を離せなかった。
ルシアは何度も考えた。最後の瞬間を。
ルシアは脱ぎ捨てられた上着からナイフを手に取った。
そしてアルセスの上に跨った。
この人は、もう十分すぎるほど頑張った。憎しみを一身に背負い、人を殺し、自分の心まで殺して、この国を守り続けた。せめて最後は安らかに。ルシアと過ごした幸福な夜の続きを夢に見たまま、終わってほしかった。
ルシアはアルセスの心臓へナイフを突き刺した。唇の端から流れた血を、指先で優しく拭う。
そしてアルセスの胸からナイフを抜き、自らの胸へ突き立てた。
急速に霞んでいく視界の中、ルシアはアルセスの手を探し、自分の手を重ねた。
遠のく意識の中、ルシアはアルセスのために祈りを捧げた。
「どうか来世は幸せでありますように」




