第43話 夜の甲板で
その夜のこと。
遠い波の音のするなか、見張りの交代を終えたモモが甲板の手すりにもたれていると、外套の頭巾を目深にかぶった白髪の青年が、音もなく隣へ並んだ。
トウヤだった。
「眠れないのですか」
「トウヤこそ。……あ、お酒はもう平気?」
おのれが引き起こしたことなのに、その顛末を伝聞でしか理解していない。
トウヤは決まり悪そうに、視線をそらす。
「不思議なものですね」
話をそらすように、トウヤはぽつりと言った。
「僕はずっと、ビャクヤを取り戻すことだけを考えて生きてきました。あの子の面影を探して、海を渡って……はじめて君を見たときも、あの子と重ねていた。それなのに……」
言葉が、そこで途切れる。
どう受け取っていいか分からず、モモは頬が熱くなるのを感じて、うつむいた。
「わたしね」
ごまかすように、口を開く。
「ずっと、誰かに呼ばれて、守られて、ここまで来たの。自分では何も選べないまま。……でも、トウヤは違うでしょう。全部、自分で選んできた」
「褒められた選び方では、なかったようですが」
「それでも、選んできたよ。わたしも、そうなりたい」
トウヤはしばらく黙って、それから、モモの髪をひと房、指先ですくった。
落ちていく髪を見送るその横顔を、モモは直視できずにいる。
身をこわばらせたモモを、どこか楽し気にながめやると、視線を空へと移した。
「なら、そのときは。君が選んだものを、僕にも教えてください」
答えの代わりに、潮風がふたりの間を通り抜けていった。
何も、まだ決まってはいない。
ただ、この夜のことを、モモはきっと忘れないのだろうと思った。
◇
海での生活に慣れるに従って、空と海を彩っていた青は、いつしか失われていった。
空は隠れ、鉛色ににごった波が、船腹をたたくようになった。
潮風には冷気がまじり、これまでの旅路が嘘のように、船内から陽気な喧騒が消え失せていた。
代わって這い寄ってきたのは、視界のすべてを白く塗りつぶす、異常なほどに濃密な霧。
オニたちの領域を守る、結界の霧だ。
穏ヶ島への上陸は、目前だった。
厨房でモモは、しなびた芋を乱切りしながら、包丁を持つ右手へと視線を落とした。
感覚はなく、以前のようには動かない。
ただつかみ、移動する。
その動作だけであれば、かろうじて使い物になっている。
トウヤの服を仕立て直した、あやかしの加護を持つ上着。
その袖の奥で右腕が、芯から凍りついてしまったと錯覚する。
痛みはないが、うずきはする。
それは、この霧の海のどこかにいるビャクヤの悲鳴が、結晶を通じて直接、モモの魂に届いている証拠だった。
ここからが、本当の戦いだ。
どうにもならない状況のなか、目の前に差し出された選択肢を、ただ選ばされるだけ。
そんな自分では、もうない。
クロウとシキが、モモには考えもつかない方法で、力を尽くしてくれている。
トウヤの想いも、復讐や自己犠牲ではなく、希望へと向けられている。
(うまくいく。そしてみんなで、笑って帰るんだ)
上陸後の携行食の仕込みを進めながら、モモは息をひそめて、その時を待った。
十歩先すら見通せない白一色に視界が染まるなか、操舵室ではシキが羅針盤と海図を交互ににらみつけ、船の振動と波の音に、神経をとがらせていた。
「霧の海域から船が戻らないのには、いくつかの理由がある。その一つが、隠れ根が連なる海底の地形なんだ。前方への監視を強めるよう、見張りに伝えてくれるかい?」
シキの指示に、伝令役の小男が「へい」と短く応じ、立ち去っていく。
そこへ入れ替わるように、白い息を吐きながら、トウヤが入ってきた。
見張り台から戻ったのだ。
風と霧で体温をうばわれ、唇がうっすら紫色に染まっている。
「この速度なら、日が暮れるころには瀬戸に入ります。切り立った岩壁に沿うように船を進めてください。岩壁の亀裂に潮が流れこむ水路があるので、見逃さず、舵を切って船を島へと入れるように」
トウヤは船長へと向き直ると、言葉を続ける。
「姐さん、その亀裂は、島を横断するように流れる激流の水路です。島の要所ですので、襲撃を覚悟してください。ただしその先、上陸してしまえば、激しい戦いはもうありません」
船長がぎょろりとした目を、トウヤに向ける。
ニタァと唇をゆがませ、発言をうながす。
トウヤは、興奮を抑えるように一呼吸入れると、冷え切った目つきで船長を見返す。
左手を胸に当て、首をかしげると、一段低い声でささやいた。
「難所ですが、山を抜けることができれば、その先がオニの里です」
「ひゃあ……! いよいよだねえ!」
船長はうっとりとした表情を浮かべると、霧の向こうにある莫大な宝に、想いを馳せるのだった。




