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上らない階段

作者: しおり 雫

上らない階段


毎日終電近くまで働く生活が、もう三年も続いていた。


営業職の宿命とはいえ、午後十時を過ぎてから会社を出ることが当たり前になっている。

家に帰り着くのはいつも午後十一時過ぎだった。


最寄りの西川駅は、地下二階が改札で、地上に出るには長いエスカレーターを二回乗り継がなければならない。

深夜の時間帯になると、駅構内はがらんとしており、自分の足音だけが響いている。


その夜も、いつものように地下二階から地下一階へのエスカレーターに乗った。

午後十時四十分頃だった。

終電まで、あと一時間ほどある時間帯。

平日の夜ということもあり、駅のホームには私一人だけだった。


長いエスカレーターをゆっくりと上がっていく。

いつもなら一分ほどで地下一階に着くはずだった。


しかし、その夜は違った。


エスカレーターを上がっているはずなのに、気がつくと地下二階の改札前に立っていた。


「おかしいな」


私は首をかしげた。

疲れと眠気でぼんやりしていたのかもしれない。

エスカレーターを間違えて、下りに乗ってしまったのだろうか。


もう一度、上りエスカレーターに乗った。


今度は注意深く、足元と進行方向を確認した。

間違いなくに上に向かっている。


しかし、またしても地下二階の改札前にいた。


私は困惑した。

エスカレーターの故障だろうか。

しかし、機械は正常に動いているように見える。他に異常はない。


三度目に挑戦してみた。


エスカレーターに乗り、手すりにつかまって上を見上げる。

確かに地下一階に向かって上がっているはずだった。


途中で振り返ると、地下二階の改札がだんだん遠ざかっていくのが見える。

しかし、エスカレーターを降りると、やはり地下二階にいた。


私は混乱した。

駅員に相談しようと思ったが、この時間帯に駅員の姿は見当たらなかった。


仕方なく、階段を使って地下一階に上がることにした。


階段は少し離れた場所にある。

普段は使わないが、非常時用として設置されている。


階段を上がると、無事に地下一階に到着した。

そこから地上へのエスカレーターに乗り、問題なく駅から出ることができた。


「エスカレーターの調子が悪かったのだろう」

私はそう結論づけた。


しかし、翌日の夜も同じことが起きた。


地下二階から地下一階へのエスカレーターに乗ると、なぜか地下二階に戻ってしまう。


今度は、エスカレーターに乗っている間の記憶がはっきりしていた。

確実に上に向かっていたのに、降りると元の場所にいるのだ。


私は駅員を探した。

地下一階の改札のそばに事務室があった。


「すみません」私は声をかけた。


中から年配の駅員が出てきた。


「どうされましたか?」


「地下二階から地下一階へのエスカレーターなんですが、調子がおかしいようで...」


「エスカレーターが?」


「はい。上に向かっているはずなのに、元の階に戻ってしまうんです」

駅員は困惑した表情を見せた。


「そのような報告は受けていませんが...一度確認してみましょう」

駅員は私と一緒に地下二階に降りた。


「では、実際に乗ってみてください」


私はエスカレーターに乗った。

駅員は下で見ている。


エスカレーターは正常に動き、私は地下一階に到着した。


「問題ないようですが」駅員は首をかしげた。


私は愕然とした。

駅員がいる時は正常に動くのだ。


「夜中の一人の時だけ、おかしくなるんです」


「そうですか...」駅員は半信半疑の表情だった。

「もし何かあったら、また連絡してください」


その夜、私は再びエスカレーターを試してみた。


やはり同じことが起きた。一人でエスカレーターに乗ると、地下二階に戻ってしまう。


四回目の挑戦をした時、奇妙なことに気づいた。

地下二階に戻った瞬間、誰かの足音が聞こえたのだ。


「カツカツカツ」


女性のハイヒールの音のようだった。

私は辺りを見回したが、誰もいない。

音は改札の向こうから聞こえてくるようだった。

私は恐る恐るその方向に向かった。


改札を通り、電車のホームに向かう通路に入った。

足音は続いている。

私の前を誰かが歩いているかのように。


しかし、姿は見えない。


足音は電車のホームまで続いた。

ホームに着くと、音は止んだ。


私は一人、薄暗いホームに立っていた。

終電の時間が近づいており、清掃員以外には誰もいなかった。


翌日、私はインターネットで西川駅について調べてみた。


すると、三年前の記事を見つけた。

「西川駅で女性が転落事故。エスカレーターから転落し、重傷を負う」


記事は短く、詳細は書かれていなかった。

しかし、事故が起きたのは地下二階から地下一階へのエスカレーターだった。


私が毎晩奇妙な体験をしている、あのエスカレーターだった。


記事をさらに調べてみたが、その事故についての続報は見つからなかった。

女性がどうなったのか、事故の詳細も不明だった。


その夜、私は再びエスカレーターに乗った。

今度は、転落事故のことを頭に置きながら。


案の定、地下二階に戻った。

そして、足音が聞こえてきた。


しかし今度は、足音だけではなかった。

「痛い...」


小さな声が聞こえた。

女性の声だった。


「大丈夫ですか?誰かいるんですか?」私は声をかけた。


返事はなかった。

しかし、声は続いた。


「痛い...助けて...」


私は声の方向を探ろうとした。

声はエスカレーターの近くから聞こえてくるようだった。


「どこにいるんですか?」


「階段...落ちた...」


私は背筋が寒くなった。

エスカレーターを見ると、何も異常はない。

しかし、声は確実にそこから聞こえてくる。


「痛い...上がれない...」


私はその意味を理解した。

あの事故で転落した女性が、まだそこにいるのではないか。


エスカレーターを上ろうとしているが、上がれずにいるのではないか。

そして、同じようにエスカレーターを使おうとする人を、一緒に引き戻してしまうのではないか。


私は急いでその場を離れた。

階段を使って地下一階に上がり、そのまま駅から出た。


翌日から、私はエスカレーターを使うことをやめた。


毎晩、階段を使って地下一階に上がるようになった。

階段は少し遠回りになるし、疲れた体には辛かったが、仕方がなかった。


しかし、一週間ほど経った夜のことだった。

階段を上がっている途中で、後ろから足音が聞こえてきた。


「カツカツカツ」


あのハイヒールの音だった。

私は振り返ったが、誰もいない。

足音は私のすぐ後ろを追ってくるようだった。


私は急いで階段を上がった。


足音も速くなった。

地下一階に着いた時、私は息を切らしていた。

後ろを見ると、やはり誰もいなかった。


しかし、階段の途中で、小さな声が聞こえた。


「一緒に...上がりたい...」


私は恐怖で体が震えた。

あの女性は、エスカレーターだけではなく、階段にもいるのだろうか。


それとも、私について来ているのだろうか。


翌日、私は別の出口を使うことにした。


西川駅にはもう一つ、東側に出口がある。

そちらは地下一階から直接地上に出られる階段があった。


その夜、私は東側の出口を使った。

問題なく地上に出ることができた。

足音も声も聞こえなかった。


私はほっと安心した。


しかし、その安心は一時的だった。


三日後の夜、東側の階段でも足音が聞こえるようになった。

今度は、複数の足音だった。


ハイヒールの音に加えて、革靴の音、スニーカーの音。

まるで何人もの人が、私の後ろを歩いているかのようだった。


私は駅員に相談することにした。


「最近、駅構内で奇妙な音が聞こえるんです」


「どのような音ですか?」


「足音や、人の声が...でも、誰もいないんです」


駅員は困惑した表情を見せた。

「他にもそのような話をされる方がいらっしゃいまして」


「他にも?」


「はい。深夜に駅を利用される方から、時々そのような相談を受けます」


私は驚いた。私だけではなかったのだ。


「何か対策は?」


「申し訳ございませんが...音の正体は分からないのです。

防犯カメラで確認しても、何も映っていません」


その夜、私は早めに会社を出ることにした。

午後九時頃、まだ駅に人が多い時間帯に帰宅した。


エスカレーターには何人もの人が乗っていた。

私も一緒に乗った。


問題なく地下一階に到着した。

足音も声も聞こえなかった。


「人が多い時は大丈夫なのか」


私はそう結論づけた。


しかし、毎日早く帰ることは難しい。

仕事の都合で、どうしても遅くなってしまう日がある。


その夜も、午後十時過ぎに駅に着いた。


エスカレーターには私一人だった。

私は覚悟を決めて乗った。


案の定、地下二階に戻った。

そして、いつものように足音と声が聞こえてきた。


しかし、今夜は違った。


「一緒に...」


「上がりたい...」


「助けて...」


複数の声が重なって聞こえる。


男性の声、女性の声、年寄りの声、若い人の声。

まるで大勢の人が、同時に話しているかのようだった。


私は恐怖で動けなくなった。

その時、エスカレーターの方向を見ると、薄っすらと人影のようなものが見えた。


半透明で、輪郭がはっきりしない影が、エスカレーターの上下を行き来している。


一人、二人...いや、もっと多くの影がいるようだった。

皆、エスカレーターを上ろうとしているが、上がることができずにいるようだった。


そして、私を見つめていた。


私は急いでその場から逃げ出した。

階段を駆け上がり、地上に出た。


それからしばらく、私は西川駅を使うことを避けた。


少し遠い駅まで歩いて、そこから電車に乗るようにした。

しかし、一ヶ月ほど経って、再び西川駅を使うことになった。

終電を逃してしまい、他に選択肢がなかったのだ。


深夜のタクシーは高すぎる。

歩いて帰るには遠すぎる。


仕方なく、西川駅に向かった。


午前零時を過ぎていた。

駅構内には誰もいなかった。


私は恐る恐るエスカレーターに近づいた。

エスカレーターは静かに動いていた。

異常は見当たらない。


私は深呼吸をして、エスカレーターに乗った。


今度は何も起こらなかった。

正常に地下一階に到着し、そのまま地上に出ることができた。

足音も声も聞こえなかった。


私はほっとした。

もう大丈夫なのかもしれない。


しかし、翌日の夜、再び同じことが起きた。

エスカレーターで地下二階に戻され、足音と声に囲まれた。


私は理解した。

これは終わらない。

あの人たちは、まだそこにいる。


エスカレーターを上ろうとして、上がれずにいる。

そして、同じようにエスカレーターを使おうとする人を見つけると、一緒に引き戻してしまう。


一人では寂しいから。


一人では怖いから。


私は今でも、西川駅を使っている。


毎晩、エスカレーターの前で立ち止まる。


上がれるかもしれない、という期待と、戻されるかもしれない、という不安を抱きながら。


そして時々、エスカレーターの中で、あの声を聞く。


「一緒に...」


「上がりたい...」


「助けて...」


私は答える代わりに、階段を使う。


でも、階段でも足音が聞こえることがある。

私の後ろを、誰かがついてくる。

見えない誰かが、私と一緒に上がろうとしている。


それでも、私は歩き続ける。


他に選択肢はないから。


そして、彼らも歩き続けている。


上がることのできない階段を、永遠に。


【完】

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