5-4 摩耗する、理想/現実
新井は、両腕を鳥のように広げて屋上の外へ飛び出した。
(――――まさか、鳥になって空を! まずい……! このままだと街に!!)
カロの伸ばした手の中、新井は笑みを浮かべている。――――が、次の瞬間。
ドクンッ――――カロにも異様なことが起こったのが分かるほど、新井の表情が乱れる。
「なんで……。変身できない……」
その呟きが届くと、カロは直感した。
(――――魔力切れ)
さっきの頭を押さえた姿も、屋上に来た時にふらついていたのも、魔力切れの症状から来るもの。――――とするならば。
このままでは――――新井は死ぬ。
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変身できず、人間のままで地面に叩き落とされて。人だったかも分からないような肉塊となって、死ぬ。
新井に、死の恐怖が一斉に襲いかかる。
新井は、まるで初めて母親と引き剥がされた赤子のような絶望と不安に一気に引き摺り込まれ、溺れていた。
(え……。もしかして、これで終わり……?)
ここから新しい自分が始まる。ついさっきまでそう思っていたのに、いま目の前には青空が広がっていて、背には地面があった。
(ああ、最悪な人生だったな……。ずっと自分を好きになれなくて、何にもなれなくて、やりたいことも……。告白だってできなかった……)
走馬灯が流れていく。
それは、自分にとっては灰色のコンクリートの壁のように無機質でなんの特徴もないものだった。
真面目にテストを受けて、塾に通って、平均より少しだけ頭が良くって、友達と話して帰って――――でも憧れには手を出さない。
夢も、恋も、勉強でさえ本気になれなかった日々。
「もういいよ、この人生。死んでもいいから。いいから、次こそは――――」
その時、思わずこぼれた涙が、重力に逆らって空へと落ちていく。
そして、新井が瞳をゆっくりと閉じた時だった。
「――――舐めんなよ、てめえッ!!」
そんな声が、死の境界線に届く。――――と、涙の粒が舞い散る中を切り裂いて、
「黙って死なすかよッ! シズクの情報置いてけって、言ってんだろうが!!」
と、カロが飛び込んできた。
「なんで、そこまで――――」
「お前のためじゃねえぞ!」
そう言うと、カロは右手を天に向け、それから、
「シズクのためだ! だから、応えろ!! 《魔蜘蛛古城》ッ!!」
と、地面に向かって振り下ろした。
瞬間――――カロの右腕から1本の糸が伸びると、それはカロたちと地面との間に放射状に広がり、巨大な救護用マットのようになって2人を受け止めた。
「へぶっ!!」
2人はその弾力で跳ね上がる。――――と、直後、《魔蜘蛛古城》は姿を消し、2人は校庭の硬い硬い地面に放り出された。
「いてて……。だが、これで……」
カロは無様に地面に倒れ込むも、むくりと立ち上がるとそう言って、女の子座りでへたり込んでいる新井を、ムチで縛った。
「さあ、シズクの場所を――――」
ようやく、聞き出せる。――――訳ではなかった。
▼ ▼ ▼ ▼
カロは気づけば、真っ暗闇な空間の中にいた。
あたりには何も見えないが、カコーンッ、カコーンッ、と甲高い声が響いている。
おそらく、鳥の鳴き声ではない。
「ここは……」
困惑しながらも、音のする方へと進む。と、そこにいたのは、1人の少女だった。
「……新井さん?」
声をかける。だ、少女は振り向かない。
代わりに少女は、縋り付くような姿勢で木を削っていた。
たぶん、人形を作っているのだと思う。
木で作られて人形は、少女の持つノミとハンマーで何度も削られ、立っていられないほど細くなっていた。
「どうして……。どうして、理想の形にならないの……」
少女は呟く。その姿は、まるで藁人形に釘を打ち、自分自身を呪っているようにも見えた。
カロは、その光景を眺めていた。
「理想の形?」
「みんなやりたいことがあって、そうでなくても輝いていて。私はそうじゃない。私は私が嫌い」
少女の手は、止まらない。あたりには、高い音が響いている。
「じゃあ、何か始めれば?」
「松永くんを好きになった。でも、始まった恋もすぐにあの子に奪われた」
「自分が、理想の形じゃないから?」
「そう」
「……そう。俺もそうだったな。いや、今もそうか」
「でも、あなたは特別じゃない。魔術が使えて」
「そうかな。お前が言ったんだぜ。俺には憧れないって」
「……」
「それに俺からしたら、出来た人だったけどな。あんたは。
料理もできて、勉強も平均以上で、自分の思いのために行動できて」
「……」
「案外そんなもんなんじゃねえの、誰にとっても理想なんてもんは。
みんな自分だけの理想と現実があって、憧れて割り切って。
そこから溢れた人だけが、手を伸ばして……」
「……シズクさんを好きになった時、松永くん相手じゃ敵わないと思わなかった?」
「好き、とは違うんだけど……。でも、まあ……」
カロの頭の中には、
――――彼女のことだがな、特魔に預ける気はないか?
ショッピングモールで、そう尋ねてきた松永の言葉が浮かぶ。
「……悩んだことはあったよ。その時はいろいろあって、そっちの方がいいかもって思ってたし」
「なら、どうして諦めないの?」
「だって、諦めたくない自分は捨てられないだろ」
その時、少女の手が止まる。
「だから、諦めるのを諦めた。ボロボロになっても、全く向いてないって思われても、それがしたいんだから、仕方ねえだろ」
「……辛くない?」
「自分を嫌いなままの方が、辛いね。自分の心だけは、どう足掻いても死ぬまで一緒にいなくちゃいけないんだし」
「ベッドにくるまって、泣いてるだけの自分も?」
「寝れない夜に、散歩する自分もな」
その言葉を、少女がどう受け取ったかは分からない。しかし、カロがそう答えた時だった。――――コウモリの鳴き声のような音が、聞こえてきた。
すると、暗闇の向こうから大量のカラスアゲハがやってきて、それは少女を包んで攫ってしまう。
「まっ――――」
カロが手を伸ばす。と、少女は振り返って、諦めたように笑った。




