◆エルウィン
「シャーロット、大好き。大きくなったら結婚しよう」
そう告げると、シャーロットは恥ずかしそうに笑みを浮かべて、頷いた。このときシャーロットと僕は十二歳。僕はシャーロットの側にずっといたいと思っているけど、シャーロットはまだそこまでの気持ちはなかった。家族のように過ごしてきたから、嫌われていないと言うだけで。だから、シャーロットが僕のことを好きになってくれるように、頑張った。
それも徐々に実り、二人で将来の夢を語って。毎日がとても楽しかった。
人生の一番いい思い出はデュランド公爵家の後継に選ばれる前までだった。
どうしてあの頃の気持ちを持ち続けられなかったのだろう。
◆
シャーロットと出会ったのは、七歳の時、母の再婚相手のオーモンド子爵に誘われてメネル子爵家に行った時だった。メネル子爵家の領地には海があり、貿易が盛んに行われていた。シャーロットの両親は領地経営よりも商売の方が楽しいようで、子供たちを祖父母に預けて海外へ飛びまわっていた。
メネル子爵とオーモンド子爵は学友で、商売も一緒にしているため、家族ぐるみの付き合いをしていた。
そんなところに連れて行かれても、と思っていたものの拒否することもできず、メネル子爵の家族と引き合わされた。子供は僕と同じぐらいの女の子と、それから双子の男の子の三人。彼らの目が僕に向けられて、思わず義父の後ろに隠れた。
「こんにちは。今日は息子を連れてきたんだ」
オーモンド子爵は優しい笑顔で、僕をシャーロットたちの前に押し出した。シャーロットは僕を見ると、びっくりしたように目を丸くした。でもすぐに、満面の笑みを浮かべた。
「私、シャーロットよ。こっちが弟たち」
「エルウィンだよ。よろしくね」
人見知りがあって、すぐに仲良くなれると思っていなかった。でも、双子たちは僕の遠慮がちな態度は気にならないようで、すぐに手を引っ張られた。
「エルウィン、遊びに行こう」
「最近、いい場所を見つけたんだ」
双子たちはそう言いながら、僕を引っ張っていく。二人のあまりの強引さにビックリした。だけど彼らには悪意はなく、楽しいから一緒にしようという気持ちに溢れていた。
双子たちと一緒に港町を駆け回り、屋敷の奥にある小高い丘に行っては、落ち葉や綺麗な石を探して遊んだ。最初のうちは、二人のあとをついて回るだけだったけど、半年も経つとすっかりメネル子爵家の子供たちに馴染んでいった。
そのうち、オーモンド子爵家に戻ることが徐々になくなり、メネル子爵家には僕の個室が与えられた。客室ではなくて、双子の部屋の隣だ。居場所ができたことが嬉しくて、双子たちとは年中一緒にいた。
「元気にしていたか? お土産を買ってきたぞ」
メネル子爵が久しぶりに国外から戻ってきた。僕を見ても、特に驚くことなく、大きな手で頭を撫でる。
「エルウィンも随分と大きくなったな。ほら、土産だ」
目の前に差し出されたのは微妙な置物。こっちを見て驚いた顔をしている木彫りの人形だ。
「……ありがとう」
「現地にしか売っていないお守りだそうだ。欲しかったら他の種類も」
これ以上はいらないけど断っていいのかわからずにいると、シャーロットと目が合った。その目は受け取らなくていいと伝えていて、僕は頷いた。すぐにシャーロットはメネル子爵の腕を引っ張る。
「お父様、今回はどんなところに行ってきたの?」
シャーロットは国外のことが気になるようで、メネル子爵夫妻によく旅の話を強請っていた。そのうち、図書室に入り浸り始めたので、僕も一緒に図書室に行くようになった。
メネル子爵家の図書室は国外から集めた本がたくさん置いてあった。その中で、挿絵が沢山ある本を選んで二人で覗き込む。見たこともない文字が並んでいて、説明がよくわからない。それでも挿絵を見るだけでわくわくした。
「何が書いてあるのかしら? エルウィン、わかる?」
「全然、わからない」
二人で顔を見合わせ、ページをめくっては、困ったように首をかしげる。
「そうだわ、お父様に家庭教師をお願いしましょう!」
「僕も一緒に習ってもいい?」
「大丈夫じゃない? エルウィン、すっかりうちの子だし」
そうして、語学の勉強が始まった。最初は大変だったけれど、シャーロットとわからないところを話し合ったり、先生に聞いたりして、楽しく時間を過ごした。
十二歳の誕生日を過ぎたころから、シャーロットはため息が増えた。しばらく様子を見ていたけど、ふとした瞬間にため息をつく。
「どうしたの?」
突然声をかけられて、シャーロットは驚いた顔をした。そして僕を見てから、ため息をついた。
「これからどうしようかと思って」
「これからって、将来のこと? シャーロットなら結婚とかじゃないの?」
「うーん、多分お見合いはしないと思う。ずっとメネル家は恋愛結婚だから」
「へえ」
「だから、結婚以外でやりたいことを見つけなさいって。でもね、急に好きなことをしてもいいと言われても」
シャーロットはそうため息をつく。僕はそんなシャーロットの隣に座った。
「シャーロットは国外に行くんでしょう?」
「えっ、国外? どうして?」
シャーロットが驚くので、そのことに僕が驚いてしまった。
「だって、いつもおじさんたちが帰ってくるたびに、他の国の話を強請っていただろう? 語学だって勉強しているし」
理由を言えば、シャーロットはなるほど、と納得する。
「そうね、言われてみればいつもお父様たちに強請っているかも」
「国外に行きたいわけじゃなかったの?」
「そこまでの気持ちはなかったわ」
好奇心だけであれほど語学の勉強をしていたのか。その方がびっくりだ。
「国外に行きたいのはエルウィンじゃないの?」
「僕? そうだね。シャーロットと一緒なら行ってもいいかな。楽しそうだし」
「……エルウィンは将来どうしようと思っているの? そろそろ考えろとか言われない?」
僕はオーモンド子爵家と血のつながりがないから、将来については自分で決めなくてはいけない。まだこれから何になるかはわからないけど、これだけ語学を勉強したのだからシャーロットの両親のように外に出てもいいと思っている。
「僕はオーモンド子爵家の血筋じゃないからね。継ぐものもないから……それこそ、好き勝手に生きろって感じだと思う」
「そうなの?」
「そうじゃなかったら、ずっとメネル子爵家にいない」
「それもそうね」
シャーロットはその雑な説明で納得した。
「将来の話だけど、一つだけ決めていることがある」
「ん? なあに?」
「シャーロット、大好き。大きくなったら結婚しよう」
「結婚……?」
「そう。ずっと一緒にいたい」
真剣な目をして伝えれば、シャーロットの顔が真っ赤になった。
「え、え? 本当に?」
「うん。本当」
「どうして、突然そんなことを」
「急にじゃないよ。シャーロットは可愛いし、きっとすぐに婚約の申し込み来ると思うから」
「そんなことないわよ」
何故か、シャーロットの表情がすんとなった。このままではあやふやにされてしまう。じっと彼女を見つめた。
「僕が嫌い?」
「そういう言い方、ずるいわ」
「じゃあ、言い方、変える」
僕はシャーロットの手をぎゅっと握った。ほんの少しだけ、僕よりも視線が低い。初めて会ったときは僕よりも大きかった。その変化を嬉しく思う。
「大人になったら、結婚してください」
「は、はい」
シャーロットは真っ赤になったまま、頷いた。それが嬉しくて、僕はすぐにシャーロットの婚約を義父にお願いして整えた。
婚約して五年、幸せだった。来年になったら、結婚してそして二人でメネル子爵夫妻と一緒に国外を回って、とこれからのことを話し合っていた。
そんな時に、実父が僕に会いに来た。
「エルウィン、お前が私の後継者だ」
「は? 意味が分からないんだけど」
「お前の籍はデュランド公爵に戻す。戻る準備をしておくように」
僕の意見なんて、聞く意味がないかのように進んでいく。母上は泣いているばかりで、役に立たない。そもそも母上が離婚できたのは、僕の後継者としての権利を残すことに同意したからだ。デュランド公爵は再婚したものの、子供に恵まれなかったらしい。仕方がないこととはいえ、納得は出来なかった。
「――シャーロットとの婚約継続してもいいなら、デュランド公爵家に行ってもいい」
強い意志で睨みつければ、デュランド公爵は驚いた顔をした。
「シャーロット? メネル子爵家の娘か」
公爵家と子爵家。身分の差は大きい。デュランド公爵が否と言えば、すぐに壊れてしまうぐらいの婚約だ。それでも、譲りたくなかった。
「ふうむ。いいだろう」
「え? 本当に?」
「なんだ、お前が言い出したことだろう? ただし、ちゃんと彼女を守れよ」
「もちろん」
力強く頷いた。でもこの時僕はわかっていなかったんだ。どれほど上位貴族の世界が陰湿であるかを。
◆
僕が王太子殿下と初めて顔を合わせたのは、デュランド公爵家の後継として王都にやってきたばかりのことだった。それまでに最低限のマナーを叩きこまれていたが、王太子殿下との面会となると、緊張でどうにかなりそうだった。通された部屋には、王太子殿下とその婚約者が待っていた。
「ようこそ」
柔らかな表情で迎えてくれたのは、王太子殿下だ。息が詰まるような威圧感に、僕はガチガチに緊張しながら、習ったように挨拶をする
「お初にお目にかかります。デュランド公爵の第一子エルウィンです」
「うん、よろしく。君、デュランド公爵にそっくりだね」
僕は視線を感じ、どう反応すべきか迷っていると、王太子殿下が隣の令嬢に目を向けた。
「彼女はマーガレット。私の婚約者だよ」
「よろしくね。ふうん、いいじゃない。きっとお似合いだわ」
マーガレット様がよくわからないことを言う。思わず首をかしげてしまった。
「君に紹介したい令嬢がいるんだよ。マーガレットの親戚なんだが、とても可憐で将来の公爵夫人に相応しい」
「……申し訳ありませんが、僕には婚約者がいます」
初対面で、婚約者を紹介されるとは思っていなかった。思わず口にしてしまうと、王太子殿下は肩をすくめた。
「たかが地方の子爵令嬢だろう?すぐにでも婚約を破棄すればいい」
王太子殿下の言い方に唖然とした。その言葉に驚き、何も言えなくなった。王太子殿下が僕に口出しする理由がわからない。側近は務まらないということだった。断りの言葉を探している僕に、彼は僕の手を取って目を合わせた。
「君は語学が得意だそうだな。その能力を私のために使ってもらえないか?」
たったそれだけの言葉なのに、胸が熱くなった。認められたことに嬉しさを感じ、僕は毎日王宮に通うようになった。最初の緊張も徐々に快感に変わり、王太子殿下や貴族たちと気さくに会話を交わすようになった。
笑いながら杯を交わし、王太子殿下のご機嫌を伺い、他の貴族と肩を並べて語り合う。気取った言葉も、華やかな衣装も、今ではむしろ心地よい。
シャーロットのことを考える時間は次第に減っていき、彼女からの手紙も積み上がるばかりだった。
「また、時間があるときに」と思っていたが、その“時間”は一向に訪れなかった。
ある日、王太子殿下が側近たちと交流している場で、笑いながら言った。
「シャーロット嬢は、まだ君にすがっているのか? 少しは自立してもらわねばな」
シャーロットは子爵家の令嬢だから、どうしても高位貴族たちとの振る舞いには差があった。もちろん、義母上がしっかりと教育してくれて、マナーや立ち振る舞いは随分と良くなったけれど、それでも育ちが出るものだ。王太子殿下やマーガレット様が求めるレベルには、どうしても届かない。
せめて、もっと社交的だったら、きっと可愛がられたのだろう。でも、シャーロットはどちらかというと、興味のあることしか覚えられない性格で、幅広い話題に付いていけるタイプではなかった。
「彼女も努力しているのですが」
「努力がすべて実るわけじゃないからね。エルウィンだってわかっているだろう? 彼女ではデュランド公爵夫人としては能力が足りない。早いうちに手を離してあげることも、優しさじゃないかな」
王太子殿下と僕のやり取りに、皆が笑った。僕も、一緒になって微笑んだ。
皆が笑い、僕も微笑んだ。しかし、その時何かを失っていることに気づきながらも、それを否定することができなかった。シャーロットの不器用さは、あの場では“恥”だった。
「王太子殿下はどの令嬢がエルウィンにお似合いだと思いますか?」
側にいた誰かがそんな問いかけをする。
「リリス嬢がいいんじゃないか? 彼女、健気にエルウィンのことをずっと見つめているだろう?」
リリス嬢は一番最初に婚約したらどうかと勧められた令嬢だ。マーガレット様はリリス嬢を僕の隣に据えようとして、夜会や観劇のたびに僕を彼女に引き合わせてきた。だからかもしれない。いつの間にか、リリス嬢とシャーロットを比べることが増えていた。リリス嬢は生まれた時から王都に住む伯爵家の令嬢で、立ち振る舞いや仕草においても洗練されていた。そのせいだろうか。今まで好ましいと思っていたシャーロットの仕草が野暮ったく思えてくる。
でもだからといって、シャーロットと婚約破棄するつもりはなかった。彼女はいつだって僕を支えてくれるから。今さらその手を離すことなんてできなかった。
◆
義母上にも時間を取るように言われているのに、王太子殿下の都合で何度か駄目になっている。そのことを気にしながらも、シャーロットと話し合う時間が取れない日々が続いた。
顔を合わせるたびにシャーロットのことを注意してきた義母上が何も言ってこなくなったことが気になっていた。義母上が解決してしまったのか、シャーロットが一人で抱え込んでいるのか。そろそろシャーロットの話を聞かなくてはいけない、と仕事をしつつ思う。
「そうだ。エルウィン。明日、ソールズベリー伯爵と面会してくれ」
王太子殿下は書類から顔を上げると、エルウィンに告げた。その一言に、僕は書類の整理していた手を止め、顔を上げた。
「ソールズベリー伯爵ですか?」
その名を頭の中で繰り返すが、状況が掴めなかった。ソールズベリー伯爵と言えば、確かマーガレット様の親戚だ。そして、マーガレット様はよくその娘、リリス嬢を連れて歩いている。最近、気づけばリリス嬢との会話が増えていたことを思い出す。
「お前の縁談だ」
「縁談? 僕にはシャーロットが」
一瞬、冗談だろうと思って笑ってやり過ごそうとした。しかし王太子殿下の表情には、冗談やからかいの気配は微塵も感じられなかった。嫌な予感が胸に広がる。すると、王太子殿下は楽しげに続ける。
「すでにエルウィンの婚約は破棄されている。すぐに処理してもらったから、エルウィンは自由の身だ」
「嘘だろう?」
すぐにその言葉を信じられなくて、思わず呟いてしまう。
婚約破棄? シャーロットとの婚約が、こんなにも突然に破棄されたというのか?
「これで、エルウィンも相応しい令嬢を妻にできるな。子爵令嬢が公爵家の跡取りの婚約者になるなんて、そもそも間違いだったんだ」
「どういうことでしょう? 僕はシャーロットと別れるつもりなんて」
言葉が喉に詰まり、息がしにくくなる。あまりにも突然すぎて、納得できなかった。確かにシャーロットは王太子殿下から見れば、足りないことが多い令嬢かもしれない。でも、僕の結婚に口を出す権利が、王太子殿下にあるとは思えなかった。
「エルウィンの優しさは美点だが、切り捨てる勇気も必要だ。彼女では私の側近の妻としては不十分なんだ。もっと有益な令嬢でないと」
王太子殿下の言葉に内心、呻いた。子爵令嬢に過ぎないシャーロットが、王太子殿下にとって目障りだったのは理解できる。第二王子と常に比較される立場で、劣る人間を側に置くことを許せなかったのだろう。第二王子の側には、選りすぐりの人材しかいない。だからこそ、シャーロットには王太子殿下に認められるように、もっと頑張ってほしかった。
ぐっと拳を握りしめ、深く息を吐く。僕は書類整理を素早く終わらせた。
「帰ります」
そう告げると、王太子殿下が反応する前に、すぐに立ち上がった。
「帰る?」
「ええ。どういうことなのか、確認しないと」
王太子殿下が何を言おうとも、シャーロットとの婚約はデュランド公爵家の問題だ。今すぐ父上に確認しなければならない。急いで帰り支度をする。
「何だ、嬉しくないのか? まあ、確認して気がすむなら、行ってくればいい。どちらにしろ、婚約は破棄されている」
王太子殿下は少し不愉快そうに顔をしかめたが、それでも許可を出した。その言い方に、初めて反発心を覚える。だが、反論しても意味がないと思い、挨拶をして部屋を出ようとした。
手がドアに触れる寸前に、ドアが勢いよく開かれた。マーガレット様が騒々しく部屋に入ってくる。
「ああ、エルウィン! 丁度、良かった」
そのあまりにも不作法な態度に、つい苛立ちを感じたが、その感情をすぐに隠す。
「リリスを連れてきたのよ。新しい婚約者と少しでも早く交流した方がいいと思って」
マーガレット様は、意気揚々とそう告げた。何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
リリス嬢が僕の新しい婚約者? ああ、そう言えば王太子が面会のことを言っていたことを思い出す。
リリス嬢は、マーガレット様に促されて一歩前に出た。その姿勢には、どこか計算されたような気配が感じられた。彼女の唇にはふわりと微笑みが浮かんでいる。
「エルウィン様」
その声は、柔らかく、ほんのり甘えた響きを帯びていた。目の前に立つリリス嬢の瞳には、欲望とも言える何かが宿っている。彼女が僕に向ける視線の先にあるのは、無言の期待だ。まだ正式に申し込まれていないのに、すでに婚約者気取りのリリス嬢に苛立ちを感じる。
その期待に満ちた眼差しを無視し、内心の感情を押し隠して、マーガレット様に挨拶をする。
「急いでいるので、申し訳ありません」
「え? エルウィン、どこに行くの? リリスと話してからでもいいじゃない」
マーガレット様の問いには答えず、僕は部屋を後にした。その背後で、リリス嬢の鋭い眼差しが、まるで僕の背中に食い込んでくるように感じられた。
◇
屋敷に到着すると、玄関で家令が静かに待っていた。
「エルウィン様、お帰りなさいませ。旦那様がお呼びです」
家令の声はいつも通り冷静で落ち着いていたが、視線にほんのわずかな緊張が見えたような気がした。その緊張を不思議に感じながら、頷く。
「ああ。では、着替えてから行こう」
いつものように自分の部屋へ向かおうとしたが、家令の返答に驚いた。
「いいえ、そのままで結構でございます」
予想外の返事だった。家令は僕のことを気にすることなく、淡々と続ける。
「旦那様はすぐにお会いになりたいとのことです」
僕は眉をひそめたが、すぐに頷き、家令に案内されて父の執務室へ向かう。屋敷内は静まり返り、足音だけが無駄に響く。長い廊下を通り過ぎ、家令がノックしてから扉を開けると、そこには相変わらず机に向かう父上の姿があった。いつもと変わらないはずなのに、部屋の空気は妙に重く、喉が渇く。
「ただいま帰りました」
「ああ、珍しく早い時間に戻ってきたのだな」
父上は書類から顔を上げることなく、淡々と答える。彼の言葉に、僕は少し戸惑いながらも、そのままソファに腰を下ろした。
家令が静かにお茶を運んできて、僕の前に置いた。居心地の悪い沈黙の中、僕はお茶をゆっくりと飲む。温かいお茶の香りが、少しだけ心を落ち着けてくれるような気がした。半分ほど飲んだところで、父上がようやく立ち上がった。
「待たせてすまなかったな。さて、これからのことを話そうか」
シャーロットとの婚約破棄のことではなく、今後のことを言われて驚いた。父上はシャーロットについて、何も説明しないつもりなのだろうか。
「待ってください。その前に、シャーロットと婚約破棄になった理由を教えてください」
慌てて単刀直入に聞くと、父上は片眉を上げた。
「わかっているだろう? シャーロット嬢はお前のために頑張る意味を見失ってしまったんだ」
「途中で放り投げるなんて」
思わず口に出した言葉に、父上がすぐに反応した。
「お前がそれを言うのか? シャーロット嬢は十分に義務を果たしていた」
「確かにシャーロットは努力していたけれど、彼女は王太子殿下やマーガレット様との交流がうまくいかなかった。そして、二人の要求にも応えられなかった」
シャーロットが上位貴族の仲間入りを果たすのは並大抵のことではなかった。義母上の教育を受け、懸命に努力していたが、それだけでは足りなかった。
「だから、王太子殿下を優先したのか?」
静かに問われて、言葉が詰まる。父上の目がじっと僕を見据える。その強い視線に息を呑んだ。
「それは」
「何度も約束を反故にしたそうだな。一度や二度ではないと聞いている」
「王太子殿下の命令で、仕方なかった」
そうだ。王太子殿下の命令だから、僕は従った。シャーロットよりも優先されるべきだと思っている。しかし、なぜか父上の顔を見て、はっきりとそう言えない自分がいた。
「話し合いの日に必ず時間を取るよう言っておいたのに、マーガレット嬢を連れてこの屋敷に来たのはなぜだ?」
「あの日は、王太子殿下に頼まれて、護衛代わりに」
「それでお前は従ったのか?」
父上は呆れた様子でため息をついた。
「ですから、きちんと断りに戻ったではありませんか」
「エルウィン」
突然、父上の声が厳しく響く。自然と背筋が伸びる。
「何も考えずに、随分と王太子に従っているようだな。まるで、忠犬だ」
「⋯⋯僕は王太子殿下の側近ですから」
忠犬という言葉には嫌な響きがあるが、忠誠心が強いのは間違いない。強く頷くと、父上は僕をまるで何か異質なものを見るような目で見た。
「嫌味も通じないか。エルウィン、側近というのは唯々諾々として従う者ではない。そこから間違っている」
父上はそう言うと、しばらく黙り込んだ。何を考えているのか、その表情からはうかがい知れない。自分が間違っていたのではないかとひしひしと感じながら、その沈黙に耐えた。
「多少のすれ違いや思い違いならば、もう一度やり直す機会を与えようと思っていた。だが、お前は随分と王太子にいいようにされているように見える」
「そんなことは」
「では、今回の婚約破棄がどういう結果を引き起こすか、理解しているか?」
シャーロットが耐えられなかっただけではないのか。僕の婚約破棄は多少の醜聞になるだろうが、一か月もすれば忘れ去られてしまう程度のはずだ。
「王太子は、自分が気に入らない貴族を権力で追い込む性質があると見なされるだろう。しかも、他国の王族と繋がりを持つメネル子爵家だ。社交界では、どんなに有用な貴族であっても、気分次第で排除されると受け取られるはずだ」
「そんな」
背筋がひやりとした。僕とシャーロットの婚約破棄がそんな風に受け止められるなんて、考えてもいなかった。
「しかも、お前の婚約者にはソールズベリー伯爵の娘をあてがいたかったようだな」
「……先ほど、その話を聞きました」
「何の力もない家の娘を我が公爵家の嫁にね。それこそ、不相応だ」
父上は鼻で笑う。僕は思わず反論した。
「ソールズベリー伯爵家はマーガレット様の親戚です。縁を繋いでおくのは悪いことでは」
「本気で言っているのか? ソールズベリー伯爵家は政治的にも外交的にも何の力も持たない家だ。どこが我が公爵家の利益に繋がる? ただのお荷物だ」
静かに追及されて、言葉に詰まった。マーガレット様との縁ができる、それ以外の利点が思いつかなかった。それでも何か言わないと、必死に頭を働かせる。しかし、何も思い付かなかったため、つい不用意な質問をしてしまった。
「……シャーロットがデュランド公爵家に相応しいのですか?」
「もちろんだ。確かに社交を苦手としているが、それは経験を積めば何とかなることだ。彼女の素晴らしいところは、デュランド公爵家としての利点を考えられる頭だ」
その予想以上の高評価に、僕は目を見開いた。父上はため息をつく。
「本当に興味がなかったのだな。シャーロット嬢は他の派閥の令嬢と懇意にし、国外の貴族との仲立ちをしてくれていた。彼女を通して、新しく縁を繋いだ家も多い」
その話を聞いて、僕は体から力が抜けた。最後に一緒に参加した夜会で、彼女が紹介したいと言っていたことを思い出す。結局王太子殿下に呼び出されて、次の機会にと後回しにしてしまったのだ。一つ思い当たると、次から次へと思い出される。シャーロットとの約束は、婚約者としての交流だけが目的ではなかった。中には、紹介したい人がいると言った内容も多かったことに気づく。
「自分たちの浅い考えで、デュランド公爵家の婚約を壊したのだ。その代償は本人に払ってもらう」
「代……償?」
「そうだ。デュランド公爵家は王太子の後ろ盾にはならない」
信じられない気持ちで、僕は目を見開いた。王太子殿下の大きな後ろ盾はデュランド公爵家だけだ。国王陛下の側近であるデュランド公爵がいるから、第一王子は王太子の椅子に座っていられる。
「そんな、なんで」
「デュランド公爵家としては陛下のお子であれば、どちらが王太子になってもかまわなかった。だから、陛下の要請に従って後見を決めた。しかし、こうしてデュランド公爵家に正当な理由もなく干渉してくるのであれば、話は変わる」
その後、父上はさらに説明を続けたが、僕の頭には全く入ってこなかった。
◇
王太子殿下はすぐにその地位を剥奪されて王子に戻り、ある国の女王の王配として婿入りした。当然、王子を諫めることなく、同調したマーガレット様は婚約破棄され、修道院へ入れられた。
そして僕は。
デュランド公爵領で、静かに暮らしている。最低限の衣食住は保証されているが、一人、部屋に籠り、領地の書類仕事をしている。
シャーロットに会いたい。
何度かそう思ったけれども、誰も彼女がどこにいるのか、いま何をしているのかを教えてくれない。
目を閉じれば、幼い頃を思い出す。
母上の、再婚相手の家族と馴染めず、一人きりだった僕を拾い上げてくれたシャーロット。彼女は自分のやりたいことを見つけ、キラキラした目で、いつも僕の手を引いて歩いていた。
そんな彼女の側にいたいと思っていたのに。
どこで間違ったのか、どこだったら引き返せたのか。王太子殿下の側近にならずに断ればよかったのか、それともシャーロットを庇い続けたらよかったのか。
もしくは後継者に選ばれた時にシャーロットを手放せばよかったのか。
いつまでも後悔だけがぐるぐると頭の中を巡っていた。
Fin.