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◆シャーロット

 ああ、もういいかもしれない。


 とある侯爵家の広々とした会場。豪奢なシャンデリアの灯りが煌めき、金箔の装飾が施された柱が美しい天井画を支えるように伸びている。軽やかな音楽が響き渡り、ダンスを楽しむ人々の笑い声が空間を彩っていた。


 その華やかなダンスホールの一角に、婚約者であるエルウィンの姿がある。彼は王太子殿下の婚約者、マーガレット様と軽やかに踊り、時折、目を合わせては楽しげに笑い合っていた。


 彼の眼差しはマーガレット様だけに注がれ、わたしへ向けられることはない。もしかしたら、わたしが一緒に来ていることすら忘れているのか、あるいは気づいていても優先順位が低く、放っておかれているのか。


 エルウィンがデュランド公爵家の後継者となってから、一年半。夜会にはわたしを同伴するようになったが、たいていの場合、わたしは放置される。


 今夜も、主催者に挨拶を済ませた直後に、王太子殿下の側近がわざわざ彼を迎えに来た。王太子殿下はマーガレット様をとても大切にしており、護衛代わりにエルウィンを傍に置くことが多いのだ。


 だからこうして、エルウィンと共に出席していても、わたしは一人、壁際に立っている。子爵家の娘であるわたしには高位貴族の友人もおらず、話し相手もいない。まるでガラス越しに華やかな世界を見ているような心地で視線をさまよわせながら、今日はいつまで待てばいいのだろうと、憂鬱な気持ちを持て余していた。


「メネル子爵令嬢」


 壁際で所在なげに立っていると、ふいに声をかけられた。顔を向けると、そこには王太子殿下が立っていた。慌てて膝を折り、頭を下げる。


「ああ、いいよ、畏まらなくて。いつも申し訳ないと思っていて、今日は声をかけさせてもらったんだ」


 許可を得て顔を上げると、王太子殿下は美しい笑みを浮かべていた。だがその笑みに、どこか冷ややかなものを感じ取ってしまう。圧倒的な存在感に思わず怯んでしまったが、この場で不安を悟られるわけにはいかない。無理に笑みを作る。


「マーガレットがエルウィンを気に入っていてね。彼なら護衛も文官の役割も果たせるから」

「それは……とても光栄なお話ですわ」


 婚約者が未来の王太子夫妻に気に入られていることは、確かに名誉なことに違いない。ただ、その距離感には疑問だけども。


「……エルウィンには社交界を牽引できるほどの令嬢と一緒に、私を支えてもらいたいんだ。君が王子妃の側近に相応しければ良かったんだろうけれど……まあ、大目に見てくれ。今日もこの後、打ち合わせがあってね。馬車を用意させるから、君は先に帰って構わないよ」


 その何気ない一言が、鋭く胸に突き刺さる。唇を噛みしめ、目の奥に溜まった涙を必死に堪えた。息を呑むと、胸がぎゅっと締めつけられるように痛む。口を開けば、きっと余計なことを言ってしまう。だからただ、深く頭を下げるだけだった。


 王太子殿下は、わたしが反論しなかったのがつまらなかったのか、鼻を鳴らしてその場を去っていった。彼の姿が完全に見えなくなるまで、わたしは頭を下げたまま、その場に立ち尽くした。


 本当にもう、無理かもしれない。


 王太子殿下に「相応しくない」と断言され、エルウィンはその王太子殿下の命令で、常にマーガレット様の傍にいる。護衛として、必要とされているのだと思えば、納得すべきなのだろう。


 それでも、素直に受け入れることができなかった。エルウィンは、わたしが抱える孤独や不安に気づいていない。気づいてほしいと、何度も心の中で叫んできたけれど、その声が届くことはきっと、これからもないのだろう。


 王太子殿下が用意した馬車に乗り込む。家門の紋も入っていない、まるで身分を隠すためのような馬車は、わたしの立場を示すために用意されたのだと思えてならなかった。


 王太子殿下は、わたしがエルウィンの婚約者であることを快く思っていない。今夜は、そのことをいつも以上に強く感じた。


「本当に、もう無理……」


 さきほど心の中で呟いた言葉を、今度は声に出した。途端に、涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。


 知らず知らずのうちに押し殺してきた感情が、声に出したことで一気に溢れ出したようだった。いつもは心の奥に押し込めている気持ちを声に出してしまったことで、何かを決定的に変えてしまった気がする。


 エルウィンは、わたしの置かれた状況を理解していない。仮に相談しても、困った顔をして「努力してほしい」と言うだけだろう。わたしはエルウィンが大好きで、デュランド公爵家の後継者となった彼を支えたかった。


 だけど、何も気づかないふりをして、彼のために頑張り続けることに耐えられない。


「そうだわ、婚約を破棄しましょう」


 きっとエルウィンも、王太子殿下も、わたしがこの状況に耐え続けることなど望んでいないのだから。


◇◇◇


「シャーロット、大好き。大きくなったら結婚しよう」


 彼が無邪気な笑顔でそう言ったのは、もう遠い昔のこと。わたしとエルウィンが初めて出会ったのは、七歳のときだった。


 エルウィンはオーモンド子爵家の息子、わたしはメネル子爵家の娘。お互いの父親が商売相手で、以前から交流があった。同い年だったこともあり、すぐに気が合って仲良くなった。


 どちらも子爵家で、比較的自由に育てられていた。わたしの家は貿易商で、両親はいつも国外を飛び回って忙しくしていた。弟や妹たちもいたので、エルウィンがわたしの家に出入りすることに抵抗はなかったと思う。


 エルウィンはオーモンド子爵家の息子だったが、実は母親の連れ子であり、他の子どもたちとは少し距離があった。そんな彼と、出会った日から一緒に遊び、いろいろなことを学んできた。


 わたしは長女だったけど、跡継ぎは弟と決まっていたため、政略結婚を強いられることはなく、「好きなことをしていい」と言われて育った。両親のように国外で働くことに憧れ、語学を熱心に学ぶようになった。


 いつも我が家に来ていたエルウィンもその影響を受け、わたしに引っ張られるように語学の勉強を始めた。そして、やがては一緒にあちこちを旅しようと話すようになっていた。


 だから、十二歳のときに彼との婚約の話が持ち上がったのは、ごく自然な流れだった。エルウィンはオーモンド子爵家の血筋ではなかったため、継ぐものはなく、わたしも爵位など気にしていなかったからこそ、夢はさらに広がっていった。


 順調に交際しながら、将来についてさまざまな夢を語り合った。それが実現しないなどとは、少しも思っていなかった。


 そして、十七歳になり、いよいよ結婚の準備を始めようという頃。

 エルウィンが、デュランド公爵家の後継に選ばれた。


 エルウィンの母はかつてデュランド公爵と結婚しており、彼はその実の息子だった。離婚後、公爵は再婚したが、子どもには恵まれなかったという。


 突如として持ち上がった後継問題に、エルウィンは大いに抵抗したが、相手は公爵家。抗いきれるものではなく、手続きは淡々と進んでいった。


 そんな中で、彼が望んだのは「わたしとの婚約の継続」だった。当初、エルウィンには婚約者候補の令嬢が何人かいたようだが、エルウィンのわたしへの思いを知って、それくらいの願いなら、と許された。


 けれど、わたしたちはデュランド公爵家について何も知らなかった。代々王家の側近を務める一族であり、エルウィンにもその役割が期待されていたのだ。国外を旅したいという夢があった彼は、語学にも文化にも通じており、それが王太子の目に留まるのは、時間の問題だった。


 そう、あの頃からだったと思う。わたしたちの間に距離が生まれはじめたのは。


 事前に取り付けた約束は守られることなく、会える時間も次第に減っていった。わたしは嫁ぐ準備のために、公爵家で教育を受けていたというのに、最後に彼とゆっくり話したのがいつだったかも、もう思い出せない。


 デュランド公爵夫人も、これはいけないと感じたのか、エルウィンに注意をしてくれていた。でもそれでも、王太子の要望を断ることはできなかった。幸いなことに、公爵家の人々はわたしに気を遣ってくれており、それがせめてもの救いだった。


 けれど、もうその優しさに甘えてはいられない。エルウィンのそばにいて、自分が幸せになる未来が見えなくなっている。あれほど一緒にいれば幸せだと思っていたのに、いまはその道が、もう消えてしまったように感じる。


 馬車が止まった。

 わたしは無言で馬車を降り、そのまま何事もなかったかのように、馬車は屋敷を離れていった。


「おかえりなさいませ、お嬢さま」


 家令が出迎えてくれた。その目には、明らかに心配の色が浮かんでいる。わたしは無理に笑みを作って、尋ねた。


「今日、お父さまはいらっしゃるかしら?」

「はい、戻っておられます」

「そう。では、お話があるから取り次いでもらえるかしら?」

「かしこまりました」


 ずっと悩んでいた。でも、もしかしたらという期待も捨てきれなかった。けれど、それを待っているだけではもう駄目なのだ。


 わたしは覚悟を決めた。


◇◇◇

 

「シャーロットが婚約破棄したい気持ちはわかった」


 今までのことを言葉を選びながらお父さまに伝えた。お父さまは口を挟まず、最後まで聞いてから小さく頷いた。ちゃんと伝えられたことに、ほっとする。


「では」

「お前の気持ちを伝えたところで、すぐに解消とはならないだろう」


 もともと二人の婚約継続は、エルウィンの希望によるものが大きい。メネル子爵家の気持ちは伝えられても、そこから物事が順調に進むことはまず難しい。


「ですが、きっとエルウィンも望んでいると思うのです」


 垣間見た華やかな高位貴族の生活。


 メネル子爵家も経済的には豊かではあるが、それでも気後れするほどに世界が違った。エルウィンはこれからあの華やかな世界で生きていく人だ。彼はその世界に馴染もうと必死に頑張っている。わたしはというと、いつまで経っても馴染むことができずにいた。


 人の目を気にして過ごす時間はとても苦痛で、窮屈さしか感じられない。以前のようにエルウィンと未来を語り合えるなら、また違うのかもしれない。でも、今、一番遠い人がエルウィンだ。


「シャーロット、ちゃんと彼と話し合ってからだ。それでも難しいようだったら、その時改めて婚約破棄を申し込もう」


 こちらから婚約破棄を申し出ることになれば、きっとメネル子爵家にとってとんでもない負担となる。それでもいいと言ってくれたことに、申し訳なさと少しの情けなさ、そして最後には安堵の気持ちが押し寄せてきた。


 そのわずかな気持ちの揺れを感じ取ったのか、お父さまは優しい笑みを浮かべた。


「お父さま、上手くできなくてごめんなさい」

「お前は私たちの自慢の娘だ。自信を持ちなさい」

「……ありがとう。でも、今さら話し合うなんて」

「エルウィンと話し合うのが難しいのなら、まずはデュランド公爵夫人に相談してみよう。もしかしたら、シャーロットの悩みを解決してくれるかもしれない」


 確かに、突然婚約解消を切り出すよりはいいかもしれない。自分の気持ちばかりを優先して、すっぽりと抜け落ちていた。デュランド公爵夫人はとても優しく親切な人だから、頭ごなしに否定はしないだろう。


 ちょうど明日はデュランド公爵夫人の指導がある日だ。どんな反応をされるのか不安だけれど、相談することを決意した。


◇◇◇

 

 デュランド公爵夫人はエルウィンにとって義母となる人。


 だからといって、エルウィンに対してよそよそしいわけでもなく、嫁ぐわたしにもとても親切にしてくれていた。教育と称し、週に何度かはデュランド公爵家に行くことになっていたけど、難しい勉強ばかりではなく、流行りのドレスや観劇、新しいスイーツなど、女性の社交に欠かせない情報を得るためだと言って色々と連れ出してくれた。


 うちは子爵家の中でも裕福ではあったが、それでもその幅の広さには学ぶべきことが多かった。特にわたしは、興味があることしかしてこなかったため、流行りのドレスや化粧方法などには疎い。デュランド公爵夫人はわたしが十分に楽しめるよう工夫して、自然に興味を引いてくれた。


 そんなデュランド公爵夫人に相談するのはとても勇気のいることだった。デュランド公爵家にとって、わたしは望まれた婚約者ではないからだ。できる限り「いい子」でいたかったし、エルウィンとの関係が順調であれば、多少は同世代の貴族令嬢たちと打ち解けられなくても時間が解決してくれるだろうと、そんなふうに思われていたかった。


 でも、デュランド公爵夫人はわかっていたのだろう。

 デュランド公爵家のサロンで待っていたデュランド公爵夫人を見て、そう思った。どうやって切り出そうかと悩んでいた自分が、少し恥ずかしくなり、肩からすとんと力が抜けた。

 

「いらっしゃい、シャーロット。今日は二人で色々とお話しましょう」


 穏やかな笑みを向けられ、思わず涙がこみ上げてきた。この方をいずれ「お義母さま」と呼びたかった。そんな気持ちがこみ上げ、喉に詰まる。


「あの、わたし」

「わかっているわ。よく我慢したわね。いつ相談してくるかと、ずっと待っていたの」


 そうだ、この人は筆頭公爵家の夫人だ。知らないことなど、何もない。知られてしまっている気まずさはあったが、それでも全部一から説明する必要がないことは、とても救いだった。自分で自分の辛さを言葉にするには、心を整理する時間が足りなかった。


 勧められた椅子に座ると、すぐにお茶が用意された。いつもなら、どこの産地のお茶であるのか、その製造方法は何かという勉強も兼ねている。だけど、今日は違った。わたしの大好きな甘い果実の香りがするお茶が出されたからだ。


 一口お茶を飲み、気持ちを落ち着けると、婚約破棄を決断するまでの自分の気持ちを話した。デュランド公爵夫人は静かに耳を傾けている。


「シャーロットの気持ちはよくわかるの。わたしも男爵家の出だから」

「そうだったのですか?」

「ええ。管理能力を買われて後妻になったのよ。だから、わたしも最初はとても苦労したわ」


 デュランド公爵夫人は懐かしそうに目を細める。すべてとは言わないが、どれほど大変であったのか、少しは理解できる。しかもデュランド公爵夫人は、誰もが認める社交界の重鎮だ。そこにたどり着くまで、どれほどの努力をしてきたのだろう。挫折してしまうわたしとは違うのだ。


「……申し訳ございません」

「いいのよ。あなたと違って、わたしの場合は夫が理解があったから。それにしても、あんなにも頼りない子になるなんて」

「エルウィンは必死に馴染もうとしているのだと思います」


 エルウィンがわたしを気にしなくなったのは、意地悪だからではないと思う。ただ単純に、デュランド公爵家の跡取りとして頑張っていて、余裕がないだけだ。彼がわたしを嫌いになって放置しているわけではないと信じている。わたしも同じように頑張れればよかったのだけど。


 自分の情けなさを噛みしめながら、ゆっくりとお茶を飲んだ。


「それで、婚約破棄してどうするの?」

「⋯⋯国外にいこうかと」


 この国に居続けることは難しい。両親は最大限守ってくれるだろうが、我が家は子爵家だ。様々な噂がささやかれるだろう。


 脳裏には、マーガレット様の姿が浮かんだ。彼女は王太子の婚約者であるにもかかわらず、エルウィンに変な執着を見せている。


 彼女だけがそうであれば、文句も言いやすいが、王太子が許容しているところがある。それがエルウィンを側に置きたいがための行動なのか、もしくはわたしを追い込むためにわざとそうしているのかはわからない。


 ただわかるのは、王太子とその婚約者はわたしが次期デュランド公爵夫人になることを許せないということだ。


「何かしたいことがあるのかしら?」

「ええ。気になる国を訪れて、新しい物を探しながら、その土地の文化や人々に触れていきたいのです」


 幼い時に、色々な国に行って新しいことを見つけようと約束をした。現実をよく知りもしないで、二人で夢を語り合った。


 二人でどこの国に行ってみたいか、あれこれ話しながら、必要な語学を学んでいた。もちろん、夢を夢で終わらせないために、二人で努力してきたつもりだ。懐かしく思い出し、微笑む。


 どうしてあのままでいられなかったのだろう。


「そういえば、あの子も語学と他国文化は堪能だったわね。きっと二人で色々と学んだのね」


 興味津々といった様子で、デュランド公爵夫人は色々と聞いてくる。エルウィンがデュランド公爵家の後継者に選ばれた後、こうして昔のことを話すのは初めてかもしれない。


 こうして、ずっと目標にしていた夢を話し始めると、懐かしさとともに、どうしてあの気持ちを忘れてしまったのかと悔やまれる。わたしもいっぱいいっぱいで、自分を見失っていたのかもしれない。


「⋯⋯婚約破棄したら、幼い時からの夢を叶えようと思います」

「そう。素敵ね。応援したいわ」

「では」


 婚約破棄に同意してくれるのだろうかと、期待を込めてデュランド公爵夫人を見つめる。


「その前に、一度だけエルウィンとお話しなさい。そして、どうしても未来が交わることがないのなら、わたくしが後押しするわ」

「ありがとうございます」


 最後にエルウィンと話し合う。それはお父さまにも言われていたことだ。後悔しないようにとの配慮だと、ありがたく受け取った。


◇◇◇


 エルウィンを交えて話し合う日、デュランド公爵家に行くと、困ったような何とも言えない顔をしたデュランド公爵夫人が迎えてくれた。


「実は今日も王太子殿下に呼ばれてしまって。すぐに帰ってくると思うわ」


 彼女はため息をつきながら言った。こんな日に呼び出さなくてもいいのに、とでも思っているのだろう。


「わかりました。待ちます」

「ごめんなさいね。さあ、お茶を用意しましょう」


 他愛もないことを話しているうちに、家令からエルウィンが戻ってきたと伝えられた。


「ようやく戻ってきたわね。行きましょうか」


 デュランド公爵夫人と共に玄関ホールまでエルウィンを出迎えに行った。デュランド公爵夫人の後ろについて玄関ホールに向かう。エルウィンの姿を見てほっとしたが、すぐに足が止まった。


「それが答えなのね」


 エルウィンはマーガレット様ともう一人、見知らぬ令嬢を連れてきていた。彼は困ったような顔をする。


「王太子殿下から代わりを頼まれてしまったんだ。でも義母上に今日は絶対に時間を取れと言われていたから……ちょっとだけ時間を作ってもらった」

「ごきげんよう。それで用事は何ですの?  友人とも約束しているし、観劇の時間も変えられないから、さっさと済ませて頂きたいわ」


 まるで二人が恋人のように寄り添っている。マーガレット様は、わたしの我儘が悪いかのように告げる。デュランド公爵夫人はため息をついた。


「ああ、これはもう無理ね。いいわ、エルウィンは仕事に戻りなさい。シャーロットとの話し合いはわたくしがします」

「義母上、しかし」

「あなたが大切なものを見失ってしまうとは思っていなかったわ。デュランド公爵家の跡取りとしてどうかと思うけれど、それはこちらの話ね。それに、自分の立場を理解していない女を連れてくるなんて、もう一度教育をした方がいいかもしれないわ」

「何ですって?」

 

 マーガレット様がむっとした顔をする。


「いずれ王太子妃になる令嬢の振る舞いではないと言っているのよ。そんなことも分からないのかしら?」


 デュランド公爵夫人は目を細めて薄く笑う。マーガレット様は王太子殿下の婚約者ではあるが、伯爵家の出身だ。年齢やタイミングが良かったことで結ばれたと聞いていた。


 だから、確かに王太子殿下の婚約者ではあるが、デュランド公爵夫人の方が立場は上だ。その上、王太子殿下はデュランド公爵家の後ろ盾があるからその地位を手に入れていた。異母弟である第二王子の方が王としての資質があるのではないかと社交界では囁かれている。それを抑えるために、デュランド公爵家が後ろ盾になっているのだ。


 その割には、エルウィンの婚約者であるわたしにはひどい扱いをしている。


 わたしが耐えに耐えて、本当に結婚した後、どうするつもりだったのだろうか。エルウィンがいるから大丈夫だと思っていたのかしら。


 確かにわたしは子爵家の娘だけど、他国との結びつきが強い子爵家だ。結婚後にこのような扱いをするようであれば、両親だって黙ってはいない。


「エルウィン! 行くわよ」

「しかし……」


 マーガレット様が足を踏み鳴らしながら、玄関に向かう。エルウィンはわたしをちらちらと気にしているが、マーガレット様に断ることはしない。


「また後で話し合おう」


 そんな一言だけを残して行ってしまった。彼の後ろ姿を見送り、息を吐いた。


 もうわたしの好きだったエルウィンはどこにもいないことだけがわかった。

 

◇◇◇


 婚約破棄の手続きはエルウィン抜きで進められた。デュランド公爵が呼び出したにも関わらず、王太子殿下の横槍で、エルウィンは来られなくなってしまったからだ。さすがのデュランド公爵も呆れた顔をしていた。


「シャーロット、すまないね。絶対に来いと言っておいたのに、欠席とは」

「いえ」

「私は君が娘になることを楽しみにしていたのだ。こんなことになるとは残念でならない」


 その一言で、デュランド公爵に認められていたのだと胸が熱くなる。喜びと、これからは会うこともないという現実に言葉が詰まった。


「それにしても……エルウィンにはがっかりした。だが、それ以上に王太子も駄目だな」


 デュランド公爵の言葉はどういうことか分からなかった。ただ、エルウィンだけでなく、王太子殿下も何かしらの責任を取らせるのだろう。何せ、筆頭公爵家の婚約を潰したのだ。わたしが子爵家の娘だからよいという話ではない。それでも、これ以上はわたしに関係ないところで進んでいくのだろう。


 わたしは婚約破棄の書類にサインをしてすぐに国を離れた。わたしとしては白紙、もしくは解消でもよかったのだけど、責任の所在を明確にするということでデュランド公爵が破棄を選んだ。この国に残るなら、今後のことを考えて破棄にはしなかっただろうが、わたしがすぐに国を離れると告げていたので、その形となった。


 そのおかげで、デュランド公爵家からはとてつもない金額の慰謝料を貰い、それはわたしの財産となった。贅沢に暮らしても、死ぬまで使いきれないほどの金額。これだけお金があれば、生活していくのに何の不安もない。デュランド公爵の心遣いに感謝するばかりだ。


 その上、デュランド公爵とは別に、デュランド公爵夫人は隣国に渡るわたしに仕事を紹介してくれた。彼女はわたしの語学力を見込み、薬物研究の学者であるグレンの研究助手としてわたしを推薦してくれたのだ。


 グレンはデュランド公爵夫人の遠縁の伯爵家の長男で、薬物研究をしている。元々、伯爵家の跡取りだったが、研究をしたいからと弟に譲った変わり者だ。どんな人だろうと、不安に思いながら会いに行った。


 初めて会った時、グレンは冷静かつ理知的で、少し無愛想な印象を受けた。だけど、わたしの語学力を確認すると、素直に驚きの表情を見せた。そして、問題なく助手として雇ってもらえることになった。


 それから三年。

 わたしはグレンの研究に必要な他国から取り寄せた学術書の翻訳をしていた。


 他国の言葉で書かれた論文を読み、正しく理解し、そこから母国語に翻訳する。薬草や薬の知識がなかったわたしは最初から躓いた。グレンが自信をなくすわたしに寄り添い、わかりやすく教えてくれたおかげで、二年ほど経った頃、ようやく一冊の翻訳が終わった。


 その頃には専門的なことも、基礎ならば理解できるようになっていた。日々、新しい知識を仕入れ、翻訳していく。グレンの研究仲間がそれを知って、大量の専門書を持ってきたときには遠い目になったが。


 この国に来た頃を懐かしく思い出しながら、手に持った手紙をくるくると弄ぶ。封を切るかどうか悩んでいるうちに、現実逃避をしてしまっていた。


「シャーロット」


 名前を呼ばれて顔を上げれば、グレンが目の前にいた。驚いて瞬けば、彼はため息をつく。


「何度か呼んだのだが。具合が悪いのか?」

「まあ、ごめんなさい。ちょっとぼんやりしてしまって」

「ぼんやり? 君が?」


 驚いたような顔をしていたが、わたしの手元にある手紙を見て眉を顰めた。


「原因はその手紙か?」

「わかる?」


 手紙の主はエルウィンだった。どうやってここを突き止めたのか分からないが、婚約破棄からすでに三年。なぜか、この手紙が届いた。


「中は読んだのか?」

「いいえ。読むかどうか悩んでいたの」

「つい最近、馴染みの商人から聞いた話なんだが」


 グレンは唐突に噂話をし始める。この手紙とのつながりがよくわからず、首をかしげた。


「シャーロットの祖国の第一王子殿下、婚約者が代わったそうだ」

「え?」

「同盟国の女王らしい」

「同盟国の……どういうこと?」


 同盟国の女王と聞いて、記憶を探る。だけど、該当する女王は何人かいて、すでに子供もいる人ばかりだ。年齢が釣り合わないので、もしかして、次代の女王なのかもしれない。


 釈然としないけど、そんなことを考えていると、グレンが面白そうに追加情報を教えてくれる。


「お相手は今年、四十歳になる女王だそうだ」

「え?」


 それはきっと予定していた未来ではなかったはず。廃太子にして、母親と同世代の女王のもとに婿入りするなどあり得ない。ふと、婚約破棄をした時のデュランド公爵の言葉を思い出した。もしかしたら、という予感はある。だがそれは予感なだけで、確定ではない。


 モヤモヤはまだある。

 王太子殿下の婚約者、マーガレット様はどうなったのだろうか。


 マーガレット様はエルウィンを気に入って、いつも護衛代わりに指名していた。そして、王太子殿下はマーガレット様の希望を叶えるようにしてわたしを近づけないようにしていた。あの二人は一体何がしたかったのだろう。本当に子爵家の娘であるわたしが気に入らないだけだったのだろうか。今さらながら、そのことが気になってくる。


 考え込んでいると、眉間にそっと指が置かれた。


「しわがすごい。そんなに考えてしまうのなら、手紙、読んでみたら? もしかしたら知りたいことが書いてあるかもしれない」

「ううん、これは返送するわ。今のわたしには必要ないもの」

「本当にそれでいいのか?」


 グレンはわたしがどれほどエルウィンとの未来を夢見ていたのかを知っている。彼は傷心のわたしをずっと支えてくれた人。だからこそ、不安もあるのだろう。こうしてエルウィンから手紙が届いたことで、わたしがエルウィンの元に戻ってしまうのではないかと。


 そんな心配、いらないのに。エルウィンとは最後の話し合いはできなかったけれども、この三年、少しずつ彼のことは思い出に変わっていた。今では幼い恋を可愛らしかったと懐かしく思うだけ。


「ええ。だって、わたしは今、グレンとの未来を歩みたい」


 手放すことになった初恋は、グレンがいたから緩やかに思い出に変わっていった。寂しさにどうしようもなくなった日にはカフェに誘ってくれた。


 冷たいようで案外こまやかな心遣いを見せるグレン。彼はわたしの中で次第に大きくなっていた。だから、彼の唐突にも思えるプロポーズに、迷うことなく頷くことができた。

 

 ゆっくりと立ち上がると、彼の前に立つ。


「それに、明後日はもう結婚式よ。今さら、やめたいなんて言わせないわ」

「それは僕のセリフだろう。本当にいいんだね?」


 グレンはわたしの体に緩く腕を回した。強く抱きしめてもらいたいのに、こうして少しゆとりを持たせるところが憎らしい。


 だから、わたしから彼の首に腕を回して引き寄せた。


「愛しているわ、グレン」

「僕もだ」


 グレンはようやく安心したような気の抜けた笑みを見せた。ちょっとつま先立ちになれば、彼の顔がゆっくりと降りてくる。


 触れるだけの優しいキス。

 彼がどれほどわたしを大切に思ってくれるのか、その触れ方でわかってしまう。


「もっと、ちゃんとしたキスをして?」

「あー、それはお預けだ。結婚式まで待つんだろう?」

「ちょっとだけ、大人のキスをしてくれたらいいのに」

「そういう無茶を言うんじゃない。どれだけ僕の自制心を試すつもりなんだ」


 グレンのボヤキに、面白くなってしまった。きゅっと彼の体に自分の腕を巻きつけた。

 

 エルウィンと別れた後、夢を一人で叶えると決めたけれど、グレンならわたしと一緒に歩んでくれる、そんな確かな思いがあった。


Fin.

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