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朝稽古 夜バイト

翌朝。まだ空が明るくなりきらぬうちに、村の広場には鳥のさえずりと、砂利を踏む足音だけが響いていた。


「ふぅ……重い身体だな。意外と筋肉の密度は高いが、動かし方がなってない」


健二――この村では「マチオ」と名乗る男は、騎士サー・ウィリアムの突進を横に捌きながら、彼の姿勢を指摘した。


「ジャブだ。まずは顔を守りながら、肩と足で距離を測る。腕だけで打つな、全身で相手を計れ」


「……こ、こうか?」


ウィリアムは額に汗を浮かべながら、ぎこちないフォームで拳を突き出す。その拳は遅く、重く、まるで鍛冶屋のハンマーのようだったが、致命的な欠点はその遅さと読みやすさにあった。


「違う。それじゃ野球の投球だ。拳を戻すことを忘れるな、打ったらすぐ引け。じゃないとカウンターを喰らう」


マチオが模範を示すと、ウィリアムは目を丸くしてうなずく。


その様子を、少し離れた場所から見つめていた少女がいた。腰まで届く銀髪をひとつに結わえ、紺色のワンピースに身を包んだ少女――リーファだった。


「あなた、昨日の……見物か?」


「いいえ。長老に許しをもらって来ました。私も混ぜてください」


細い腕に似合わぬ毅然とした態度で、リーファは言った。どうやら健二の動きに強い興味を抱いたらしい。


「マチオ、構わぬか?」


「構わん。いや、むしろ歓迎だ。見様見真似でやってみろ」


少女は即座に構えを真似、軽くジャブを突いた。その動きに健二は驚いた。無駄な力がなく、肩と腰がしなやかに連動していた。


「……おいウィリアム、お前よりセンスあるぞ」


「うぐ……」


「リーファ、何か格闘技やってたか?」


「いえ、学問と少しの舞踊だけです。でも動きを覚えるのは得意かもしれません」


そう言ってはにかむリーファに、健二は苦笑しながらもう一度構えをとった。


こうして、騎士と少女を弟子にした「マチオ」の朝稽古は、村に小さな変化をもたらし始めた。



それからというもの、健二――否、「マチオ」の朝は決まって早かった。


「腰が高い! ウィリアム、お前は馬じゃない。もっと低く、四つ足の野獣になったつもりで」


「は、はいッ!」


村の広場で、今日もマチオの声が響いていた。剣ではなく拳と膝で戦うその格闘術は、村人たちには新鮮で、奇妙で、そしてどこか神秘的にすら映った。


最初はウィリアムとリーファだけだったが、今や漁師、農夫、果ては酪農の娘までが稽古を見に来るようになった。希望者には基礎の構えと簡単な受け身を教え、健二は誰に対しても手を抜かず、笑わず、真面目に向き合った。


「力を振るう前に、まず倒れ方を知れ。怪我をしないことが、生き延びる技術の第一歩だ」


その教えは、戦い方ではなく「生き延び方」を伝えるものだった。


夜になれば、マチオの姿はバルドの店にあった。厨房の奥、湯気と香草の匂いが立ち込める小さな空間。彼はまるで魔術師のように、手早く刃を走らせていた。


「……すごい……また骨に一切身が残ってない……」


「こんな締め方見たことないぞ……」


バルドと店の従業員たちは、最初、ただ呆然とその様子を見ていた。


先日、マチオが厨房を借りて一匹の川魚を捌いてみせた際、その技術は村人の常識を軽々と凌駕していた。神経締め、三枚おろし、熱湯で皮を剥き、塩で臭みを抜き、出汁を取る。どれも彼にとっては「当たり前」のことだったが、バルドには「異邦の技」と映った。


「マチオ……お前、料理人だったのか?」


「いや。ただの食いしん坊だ。日本って国で、少しやってただけだよ」


「じゃあ、俺の店の“師匠”になってくれ。厨房もくれてやる。好きに使え。弟子も集めよう」


唐突だったが、バルドの目は真剣だった。


少しの逡巡ののち、健二はゆっくりとうなずいた。


「……いいぜ。代わりに、ここで俺も食わせてもらう」


「ふははっ、もちろんだとも! むしろ頼む!」


こうして、マチオの一日は「朝は稽古、夜は厨房」という、忙しくも穏やかな日々へと移り変わっていった。格闘術と料理――どちらも戦うために必要な技術だと、彼はどこかで感じていた。


かつて己の肉体を投げ捨てようとした男は、今や見知らぬ村で「生きるための技術」を教える師匠となっていた。


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