夜風と安い醸造酒
その夜。宿の天井を見つめながら、マチオ──健二は寝返りを打った。
疲労はある。体は重い。だが、眠気はどこにもなかった。
村の静けさが、かえって思考をかき乱す。
「……散歩でもするか」
草鞋を履き、扉を静かに閉める。
月は高く、石畳を仄かに照らしていた。
──ふと、広場の外れにある一軒の屋敷に目が留まる。
漆喰の壁と木製の門扉。村の中では群を抜いて立派な造り。
恐らく、上級の騎士が住まう場所なのだろう。
その前に──一人の男が腰かけていた。
「……あ」
月明かりに照らされた金髪と、見覚えのある巨躯。
それは、昼に拳を交えたサー・ウィリアムだった。
ベンチに座り、陶器のカップを傾けている。
マチオは足を止めた。
逃げてもよかった。気まずさを避けるのは簡単だ。
だが、なぜかそのまま通り過ぎる気にはなれなかった。
「……夜風が気持ちいいな」
「……お前か」
ウィリアムが、横目でこちらを見た。
目の周囲は腫れている。鼻筋には包帯が巻かれ、痛々しい。
「まだ怒ってんのか?」
「いや……怒ってたのは俺の方だ。お前は、正しかった」
そう言って、彼は隣の席を軽く叩いた。
「飲むか? 弱い酒だが、まあ、気分には合う」
マチオは少しだけ微笑んで、隣に座った。
カップを受け取り、くいと口に含む。
穀物酒のような風味。薄いが、悪くない。
しばし、沈黙があった。
「……強かったな。お前」
「鍛えてるからな」
「違う。鍛えてる奴は他にもいる。だが、お前の動きは……理に適っていた。無駄がなかった」
ウィリアムは俯き、手元の酒を見つめた。
「……教えてくれないか。その“技”を」
マチオは少し目を細める。
決闘で敗れた相手に頭を下げるのは、相当な覚悟がいる。
まして、ウィリアムのような男には。
「構わんよ。ただし、真面目にやるならな」
「もちろんだ」
そして、彼はぽつりと呟いた。
「……俺は、田舎育ちでな。貴族の端くれとはいえ、礼儀やマナーってやつが、どうにも分からん」
「それで、宴会でのあれか」
「悪かった。食べ方が汚ねぇってのは、よく言われる」
マチオは軽く息を吐き、カップを傾ける。
「素直でいいじゃねえか。俺も昔、飯の食い方が汚いって女にぶん殴られたことがある」
「……ははっ。お前もか」
二人の間に、微かな笑いが生まれる。
夜は静かだった。
虫の声と、木々のざわめきと、男たちの小さな会話だけが、村に溶けていく。
──騎士と異邦人。
それは、拳から始まった奇妙な縁だった。
だが、心根に正しさを持つ者同士、酒の場で交わる言葉には嘘がなかった。
マチオは、ウィリアムの目を見て頷いた。
「明日、村の広場でやろう。基礎から、ちゃんと教える」
「……ああ。よろしく頼む」
月が、二人の肩に静かに降っていた。