旅立ちと緋爪蟹
春も深まったある朝。健二とリーファは、再びランドルフ侯爵の屋敷を訪れていた。
旅立ちの報告と、これまでの感謝を伝えるためである。
応接室で出迎えたランドルフは、健二の申し出に静かに耳を傾け、やがて笑みを浮かべた。
「……まったく、君たちには驚かされてばかりだ。リューンか。いい選択だ。あそこは荒れているが、腕の立つ者が集まる場所でもある」
「強い奴がいると聞いてます。ちょっと勝負してみたくて」
健二が率直に言うと、侯爵は愉快そうに笑い、ひとつの書類と馬の手綱を差し出した。
「ではこれを。旅の無事を祈ろう。一頭だけだが、うちの馬をくれてやる。名は“アデル”だ。気性は荒いが、足は速いぞ」
リーファが感動で目を潤ませながら「ありがとうございます」と頭を下げると、侯爵は柔らかく頷いた。
「それと──困ったときは、いつでも戻って来なさい。君たちはもう、我が家の客人などではない。家族のようなものだ」
その言葉に、健二もまた頭を下げた。だが彼の瞳には、既に旅の先を見据える光が宿っていた。
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馬アデルを駆り、道中を順調に進む二人。
夕暮れが近づく頃、目的の宿「緋爪亭」へとたどり着く。
そこは港町と交易路の交差点にある、小さな漁師町の料理宿だった。
だが、その評判は高い。
「うわ……蟹の匂いだ」
「絶対うまい」
リーファと健二は、鼻をくすぐる香ばしい磯の香りに吸い寄せられるように、暖簾をくぐった。
宿の名物──緋爪蟹のボイルと炭焼き。
カリッと焼かれた殻から、滴る黄金の蟹味噌。
塩ゆでにした小ぶりな蟹は甘味が強く、健二は箸を止める暇もない。
「……うまい。これは反則」
「健二、五杯目だよ……?」
「いや、まだいける。こういうのは胃じゃなくて魂で食うんだ」
大皿の山が空になる頃には、宿の女将が目を丸くしていた。
「こんなに蟹食べた人初めて見たよ……」
「……ところで、これ、小さいのだと安いって聞いたんですけど、本当ですか?」
「ええ、小ぶりのは市場で手に入りやすいわよ。料理に使うにはちょうどいいの。ドリアやグラタン、パスタなんかにねぇ……」
その瞬間、健二の目が光った。
「……覚えたぞ」
「え?」
「魔導士で食えなくなっても、これで生きていける。『緋爪亭式・蟹ドリア屋』で大繁盛……うん、悪くない」
真顔で未来の自営業を語り始めた健二に、リーファは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……なんでそういう時だけ現実的なの?」
「生き残るためだよ。戦場よりこっちの方が過酷な時もあるからな」
冗談めかして言ったその目には、本気と余裕の入り混じった光があった。
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この一泊は、二人にとって旅の良き滑り出しとなった。
明日には、かの街──リューンに到着する。
新たな剣との出会いを胸に、彼らはまた馬を走らせるのであった。




