魔物の影
落ちている。
健二はその事実を、視界に映る森の緑で知った。
重力がねじれる。空が回る。次の瞬間──背中から地面へと叩きつけられた。
「──っ、くそ……!」
激痛が走る。とくに右の肩。位置がおかしい。脱臼だ。
擦り傷も無数にある。手足は血と泥にまみれていた。
立ち上がることもできず、彼はそのまま地に伏せた。
痛みと衝撃に呻きながら、ふと口にした。
「ヒール……!」
何かが起こると信じていた。RPGのように。
だが、身体に変化はなかった。光も、力も、癒しもない。
「やっぱ、そう上手くはいかねぇか……」
森は静かだった。鳥の声、葉の揺れる音、時折遠くで響く獣の唸り。
それらが、健二の「人間としての知識と常識」が通じない世界を告げていた。
彼は、黙って右肩を壁に打ち付けた。
「ゴキン」と音を立て、外れた関節を嵌め直す。
「……よし」
吐く息が熱い。だが、骨の位置は戻った。少なくとも動く。
それからの二日は、完全な孤立と沈黙の時間だった。
森に生える植物は、どれも見たことのない形をしていた。
紫に染まった広葉。光を放つような茸。毒の匂いを感じる赤い実。
健二は一切それらに触れず、水を探した。
やがて、小さな川を見つけた。
流れは緩やかで、水は澄んでいる。
彼は持ち歩いていたナイフで枝を切り、即席の湯沸かし器を作る。
煮沸。
冷却。
それを繰り返し、水分を確保する。
食糧は無い。空腹はあった。
それでも健二は、何も食べようとはしなかった。
「死なない」が「死ぬよりはマシ」だった。
彼の表情は、終始無表情で無音。
ただひたすら、生き延びるという意志のみが、その身体を動かしていた。
三日目の朝、風が変わった。
鳥が鳴かない。空気が重い。
彼は地面に膝をつき、痕跡を探す。
──あった。
足跡。
小さく、軽く、爪の跡がある。人間ではない。
さらに、折れた枝。舐めたような木の幹。薄い尿の匂い。
健二は瞬時に判断し、木へと登った。
高く、静かに。獣に気づかれぬように。
枝を伝い、葉の陰に身を隠す。
やがて──現れた。
灰緑色の肌。尖った耳。矮躯。
腰には骨でできた短剣。獣の皮を身にまとっている。
ゴブリン。三体。
鼻を利かせ、声を出さずに歩いていた。
人を狩る獣のように、静かに、確実に、健二の痕跡を辿っている。
(気づかれたな……)
健二はじっと動かない。
呼吸を殺し、風と木と同化するように。
──この森では、彼だけが人間だった。
そして、狩られる側であることも確かだった。