ギル様(侯爵の長男)
その男は、店の雰囲気を一瞬で凍りつかせた。
「おい、お前。酒が遅いぞ。田舎の女はこれだから……」
バルドの店内で、重たげな声とともに木製の椅子が軋む。
痩せぎすで顔色の悪い大男が、卓に肘を突いてふんぞり返っていた。金糸の刺繍が施されたマントは高貴を装っていたが、その態度は獣よりも下劣だった。
彼の名はギルバート・ハワード。
大貴族ランドルフ・ハワード侯爵の長男であり、父の権威を傘に着て育った、いわば“貴族の腐肉”だった。
ギルは数人の従者を連れていた。彼らもまた主に倣って店内で無礼を働き、酒壺を倒し、女給に手を出そうとし――
「……おい」
厨房の奥で包丁を拭いていた健二が、静かに立ち上がった。
「ギル……って言ったか」
「……なんだ貴様。厨房の下働きが貴族に――」
言葉を終える前に、ギルの身体が浮いた。
健二が無言で彼の髪を掴み、首根っこを引きずるように店外へと連れ出していた。
「なっ、お、おい……っ!? 貴族に、何を――っ!?」
広場は夜風に静まり返っていた。村人たちが、何事かと家の隙間から顔を出す。
「決闘だ」
健二が低く、短く言った。
「ここには“決闘での示し合わせ”があるんだろ?」
ギルが体勢を立て直す前に、健二は彼を背負い投げた。
「ぐぅっ……!」
地面に叩きつけられ、呻くギル。
「立て」
「て、貴様、俺はハワード家の……」
「立てって言ってんだろ」
再び投げ飛ばされる。今度は受け身も取れず、肘を打ったのか、呻き声が響いた。
「い……痛い、痛いッ、やめろ……!」
立ち上がったギルに、健二は軽く張り手を入れた。ぐらりと揺れる痩躯。
そして――
「ふっ……!」
三度、鮮やかな腰投げ。地面が揺れた。
ギルの肩が、変な音を立てた。
「ぐ……ぎ、ゃ……! がっ……肩、肩が……外れたぁあああっ!」
広場にギルの泣き叫ぶ声が響き渡る。村人の誰かが、口を押えて笑いを堪えていた。
健二は腕を組みながら、彼を見下ろした。
「……お前みたいな奴を“野放し”にしてるから、田舎の女が迷惑するんだよ」
村の者たちが静かに拍手した。誰かが「いいぞ、マチオ」と呟く。
ギルの従者たちは呆気に取られ、近寄れずにいた。
「肩は後で治してやる。……痛い思いは、まだマシな方なんだぜ?」
そう言い捨てて、健二は店へと戻っていった。夜の風が吹き抜ける広場に、ギルのすすり泣きだけが残された。




