猪肉のような男
潮の香りが、じっとりと肌にまとわりつく。
冷たい海風が吹き抜けるたび、肥えた身体の表面が僅かに粟立った。
健二は防波堤の端に立ち、無言で海を見下ろしていた。
町は遠く、光も届かない。夜の海は、口を開けた獣のように静かで、黒く、冷ややかだった。
この高さから飛び込めば、おそらく浮かぶ暇もない。
胸に突き立てた鉈が、それを確かなものにしてくれるだろう。
「……ほんと、使えねぇな、俺」
ぽつりと呟く声は、自嘲というより呆れに近かった。
健二の体格は、百キロ近い肉付きに加え、現役時代の筋肉が未だ色濃く残っていた。
腹も出ていないし、鈍ってもいない。
猪に似ている、と昔は笑われた。今となっては、それすら懐かしい。
商売は鳴かず飛ばず、仲間は離れ、金もない。
人間関係の綻びを繕う気力も、今の彼には残されていなかった。
せめて、何かに役立ちたい。せめて──この肉体くらい、誰かの糧になれば。
「……ああ、そうだな。どうせなら、食えるもんにしといてくれよ」
誰に言うでもない言葉を残し、彼は鉈の柄を握り直した。
刃先が、分厚い胸筋に押し当てられる。躊躇いはない。
深呼吸一つ。夜風が鼻腔を抜け、冷気と共に肺へと満ちる。
次の瞬間、刃が肉を割き、健二の身体は──闇の中へと落ちていった。
それが、終わりのはずだった。
石畳が冷たい。
背中に伝う感触が、健二を現実へと引き戻した。
息苦しさも痛みもない。視界を開けば、灰色の空と古びた尖塔が目に飛び込んできた。
「……え?」
彼はがばりと上体を起こす。
周囲には、中世の町並みのような建物が整然と並んでいた。
石造りの街路、木製の看板、教会のような建物。どれも、彼の知る風景ではない。
「死んだはずじゃ……」
胸元を見た。血はない。鉈も消えていた。
代わりに、異様なほど整った黒の衣服が身に纏われている。布地は厚く、肩から腰までをしっかりと包んでいる。
まるで舞台衣装のようだ。滑稽なほど似合っていない。
健二は足元を確かめるように立ち上がる。
その時、石畳の向こうから鐘の音が響いた。
不気味に、異様に、長く鳴り響く鐘の音。
それに導かれるように、健二はふらりと歩き出す。
音の元は、眼前の教会だった。
広い扉が、ゆっくりと開いていく。誰も触れていないのに。
内部は薄暗く、光はステンドグラスから差し込むだけだった。
しかし、その奥にいた「何か」は、あまりにも鮮明に存在していた。
「──やっと、起きたのね。お肉ちゃん」
声が、健二の神経を逆撫でする。
女の声。
甘やかで、乾いていて、どこか上から見下ろすような響きがあった。
玉座のような椅子に腰かけていた女は、あまりにも作り物めいていた。
豊かな金髪、白い肌、そして大きく裂けた笑み。
服は神殿の巫女のような形をしていたが、露出が多く、明らかに俗っぽい。
「誰だ」
健二が言うと、女は嬉しそうに手を叩いた。
「わたし? あなたのご主人様になるはずだった女神様よ。ほら、もっと敬意を払って?」
「……気色悪いな」
女神と名乗るそれは、面白がるように笑った。
「怒った? 怒った? じゃあ、テストしよっか♡」
次の瞬間、教会の床が歪む。
石畳が盛り上がり、形を変え、鎧を着た騎士のような石像がいくつも現れた。
剣を構え、健二へと向かってくる。
「なんだ、これは……」
健二は足を引いた。が、反射的に体が動く。
一本目の石剣を外し、足払いで崩す。
二体目の腕を取り、極めて砕き、三体目には膝を蹴り込む。
身体が軽い。
いや、むしろ本来の力が出ている。
十数体の石像が相手だったが、息が上がる前に全て地に伏せさせた。
「……ふぅ。まるでスパーだな」
息を吐くと、女神が退屈そうに髪をいじっていた。
「まあまあ。少しは楽しませてくれるかと思ったけど……下手ね。あたしを楽しませるには、百体くらい倒さなきゃダメだったわ」
その口ぶりが気に食わなかった。
「なら──殺すしかねぇか」
健二の動きは速かった。
残った石剣を拾い、女神の胸元に向かって投げる。
しかし、刃は届く寸前で空気に吸われた。
「──残念。はい、転送」
女神が指を鳴らした刹那、健二の視界が反転する。
重力も、時間も、肉体すら歪むような感覚。
次に目を開けた時、彼は森の中に立っていた。
深い森。土の匂い。鳥の声。
そこには、神も聖堂もなく──ただ、異界の気配だけがあった。