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「いつまで寝てるの?」
誰かに責められたような気がして、僕は目が覚めた。ずっと強ばっていたらしく、全身がぼんやりとだるい。ドラムのように激しく跳ねていた心臓が、だんだんと静まっていくのを感じながら、息を吐き出す。首筋がじっとりと汗ばんでいる。最悪の目覚めだ。
「変な夢みた……」
一人、呟いて、僕は身を起こした。そこでまた大きく深呼吸する。全然寝た気がしない。
今すぐ布団へ倒れ込んで二度寝を決め込みたかったが、今日は一限目から授業だ。必修科目だからサボるわけにもいかない。
のろのろと立ち上がって、仕方なく顔を洗う。
最近気にするようになった肌のため、化粧水をたたきこむ。とはいえ肌のケアなんて何も知らない僕は、とりあえず人気ナンバーワンをうたっていたものを適当に買ってきただけだ。だから肌に合っているのかどうかもわからない。
「今度、奈津美にでもきいてみるか」
ぺたぺたと頬を叩いて、僕は鏡に映った自分の顔を見つめる。やっぱり何も変わってないように思える。
しばらく自分とにらめっこをして、馬鹿馬鹿しくなってやめた。肌のキレイさはともかく、髭を剃っておけば清潔さは保てるだろう。シェーバーのスイッチを入れた。
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講堂はすでにいっぱいだった。教壇から離れた席は埋まりつつある。一応ざっと目を通したが、知っている顔はなかった。あそこへ混ざるのは無理そうだ。
「トモ!」
明るい声が僕を呼んだ。声の方を探して頭を振ると 、真ん中辺りの列で手を振る友人が見えた。
僕は彼の隣へ体を滑り込ませる。助かった。隣の啓介はニヤニヤしている。
「寝坊か? ひょっとして昨夜は……」
「違うからな。殴るぞ」
拳を顔の前へ持ってくると、啓介は悪い悪い、と謝った。それでもそのニヤニヤは引っ込まない。
僕が本当に殴ってやろうかと思っていると、啓介の向こうからまたも友人の顔がのぞいた。
「でも、本当に危なかったですよっ。この授業って、一回でも遅刻するとレポートじゃないですか。トモさんレポート苦手だから、落としちゃうかもしれないですよね?」
可愛らしい声で容赦ないことを言う彼女は、里佳子さんだ。名字で呼ぶとすねるので、名前にさん付け。最初は気恥しかったけど、もう慣れた。
「まぁ、そんなに厳しい課題は出されないらしいけどな。トモも本気出せばいけるよ。な?」
「何で遅刻前提なんだよ。間に合ったんだからいいだろ」
「例えばの話だって。怒んなよ」
啓介は僕の肩を叩いて笑った。僕としては笑い話にならない。この授業は必修科目、四年生の僕が落としたら取り返しがつかないのだ。三年生の里佳子さんは別として。啓介だって条件は同じだけど、しっかりしているから遅刻なんてしない。規則正しい彼の生活リズムがうらやましい。
里佳子さんはにこにこしている。
「私は心配ですね。トモさん、この間もギリギリでしたよね?」
僕は言葉に詰まる。確かに、こうしてギリギリで授業に来るのは初めてじゃない。早起きが苦手なのは、子供の頃から変わらない。ついダラダラしてしまうのだ。
「トモは夜にいろいろ考えちまうのさ……なぁ?」
まるで海外映画みたいに、啓介はやれやれと肩をすくめてみせた。僕は今度こそ肘で脇腹をついてやった。
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二限目を終えて、僕と啓介は食堂へと向かった。本キャンパスの一階にある、構内で最も広くて安い学生食堂だ。里佳子さんは二限目は別授業だから、この曜日の昼休みはいつも男二人になる。
僕がいつもの日替わり定食を持って席へ戻ると、圭介は弁当を広げているところだった。
「おっ、今日は生姜焼きか。美味そうじゃん」
顔を上げて笑う啓介の向かいへ座り、僕は彼の手元を見た。スーパーやドラッグストアのチラシと、メモ用紙が重なっている。
「今日も買い出しか? 荷物持ち手伝おうか」
「たくさん買わないから大丈夫。サンキューな」
いただきます、と手を合わせて、啓介は箸を持った。僕も小さくいただきますを呟く。
実家の中ならまだしも、外でいただきますを言うのはちょっと恥ずかしい。だから僕は今まで外ではやっていなかったのだけれど、啓介が当たり前のようにやっているのを見て、何だか罪悪感が芽生えてしまった。彼と一緒の時は、だから小さくやることにしている。
啓介は見た目はチャラチャラしているけれど、真面目でしっかりした奴だ。年の離れた弟がいて、一緒に住んでいるらしい。料理も洗濯も掃除もできる。本人はそんな暇ないと言っているが、きっとモテるだろう。
「今日のゼミだけどさ。お前の中間発表だろ?」
「あんまり進んでないんだけどな。一応書いたは書いたんだけど」
「おーおー、大丈夫か? そろそろジェントル伊丹が怒るかもしれないぞ」
啓介は悪戯っぽく笑う。ジェントル伊丹というのは、ゼミ生の間でこっそり使っている教授のあだ名だ。教授の立ち振る舞いがいかにも英国紳士といった様子なので、ふざけてつけたのだ。勿論本人は知らないはずだが、バレたところで怒りはしないだろうと思う。温厚なのだ。
だから僕のゼミ課題は中途半端だけれど、まぁそんなに怒られないだろうと踏んでいるのだ。
「あくまで中間発表だし、まぁ平気だろ」
「どうかなぁ。なんか最近ピリピリしてるだろ、ジェントル。特に男子への当たりがキツくないか?」
「もう四年生なんだから当然だろ」
「その四年生のトモ君は、適当に課題やってるんだろうが」
またも僕は言葉に詰まった。墓穴を掘ってしまった気分だ。ごまかすようにご飯を多めに頬張った。
「三年生が入ってきたからかねぇ。いつもより気取ってる感じがするんだよな」
「気取ってるってお前」
啓介の言葉にモヤモヤしたものを感じて、僕は少し非難するように彼を見た。啓介はいつの間にか弁当を完食して、チラシとにらめっこしている。
「張り切ってるだけだろ」
「いやぁ、なんかなぁ。女子にカッコつけたいってのは、まぁわかるんだけどさ。やたらとお菓子とか配ってるし」
「レディファーストってやつだろ、それが」
「あのなぁ、レディファーストってそういうのじゃないからな。ありゃファーストじゃなくて、最早贔屓って言うの」
何だか今日の啓介はやたらと突っかかる。僕は伊丹のことを頼れる教授だと思っているから、彼のことを悪く言われるのは嫌だった。啓介のことだって嫌いじゃないから、余計にだ。
でも本気で怒ったら啓介との関係が悪くなると思って、僕は少しおどけてみせた。今朝の啓介のように。
「なんだよ、嫉妬してるのか? 後輩に気になる女子でもいるか」
「違うっての」
啓介はムッとした顔をしてから、僕のおどけたような様子を見て笑った。
「なんか変だなって、思ってるだけ。ジェントルも結構わかりやすくええ格好しいなのかもな」
チャイムが鳴る前に、僕らは食堂を出た。三限目は空きコマなので、図書館でそれぞれ課題をやろうということになった。僕の進んでいない課題を心配されたのかもしれない。啓介のさりげなくフォローしてくれるところは、やっぱりモテるだろうなと思う。僕じゃ多分、ここまで自然にこなせないだろう。
静かな空間で資料に向かい、何行かレポートを進めたところで僕は力尽きた。啓介には悪いが、眠気には勝てない。諦めも肝心だと思う。
僕は潔く白旗をあげて、机へ突っ伏した。